ぼっち・ざ・ろっく! B-Side Tracks 作:たこ焼き 龍月
開店から、すでに三時間近くが過ぎていた。
フロアには数組の客がまばらに腰を下ろし、今夜のライブを待つ緩やかな空気が満ちている。天井の照明はいつも通りの温かいオレンジ色に戻り、朝の埃っぽさはもうどこにも残っていなかった。木目のカウンターには磨き上げたばかりの艶があって、指先で触れるとまだ微かに乾いた木の匂いがする。伊地知星歌はその内側で伝票を整理しながら、時折その手を止めて隅に置かれた段ボール箱へ目をやった。
結局、あの箱はまだそこにある。
捨てると決めたはずだったのに、開店準備の慌ただしさに紛れて後回しにしてしまった。それだけのことのはずなのに、視線が箱に吸い寄せられるたび、なぜか小さな苛立ちが胸の奥で燻る。星歌はペンを置き、小さく息を吐いた。
考えてみれば、片付けるという行為そのものが厄介なのかもしれない。物を捨てるだけなら簡単だ。だが目の前にあるのは、きくりの手癖の悪さと、その裏に張り付いた不器用な愛着だった。捨てる決断をするたびに、その愛着の分量まで一緒に測らされているような気がしてくる。星歌はそんなことを考えながら、輪ゴムで伝票をまとめる手を動かし続けた。手を動かしている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
今夜はSICK HACKの出番はない。それなのに廣井きくりは、相変わらずこの店の周りをうろついていた。用もないのに顔を出す癖は、今に始まったことではない。むしろ用があるときの方が珍しいくらいだった。新宿FOLTにも自分の居場所があるはずなのに、なぜか下北沢に足が向く。その理由を、星歌はあえて深く考えないようにしてきた。
深く考えたところで、答えはきっと単純なものだろう。ここに来れば誰かが構ってくれると、きくりはどこかで分かっているのだ。追い返す素振りを見せながらも、結局は最後まで面倒を見てしまう自分自身の態度が、その甘えを助長しているのかもしれない。分かっていて改めないのだから、性質が悪いのはどちらも同じだった。
カウンターの向こうから、PAさんが機材ケースを抱えて戻ってくる。表情はいつも通り平坦で、忙しなさの気配は感じられない。
「店長、モニターの調整終わりました」
「ああ、悪いな」
「今夜のバンドの音源チェック、もう少し後で大丈夫ですか」
「客の入りを見てからでいい」
短いやり取りを交わした後、PAさんはカウンターの端に置かれた箱へちらりと視線を落とした。それから何も言わずに機材ケースを抱え直し、ステージの方へ戻っていく。その背中を見送りながら、星歌は朝のやり取りをまだ根に持たれているのだろうかと考えた。考えたところで、答えの出るはずもない相手だった。
思えば、この店に居着いているのはきくりだけではない。PAさんもまた、誰よりも長い時間をこの空間で過ごしている。感情の起伏をほとんど表に出さないその横顔を、星歌はもう何年も見続けてきた。二人の存在の重さを比べたことはなかったが、どちらもこの店にとって欠かせないことだけは間違いなかった。星歌はそんなことを考えながら、伝票の束を輪ゴムでまとめる。
伝票の合間に、常連客が一人カウンターへ近づいてきた。若いギター少年で、以前の対バンで結束バンドの演奏を見て以来、足繁く通ってくれている客だった。星歌は普段の仏頂面を少しだけ和らげ、簡単な世間話に応じる。今日のライブの出演順を尋ねられ、答えながらちらりと壁の貼り紙へ目をやった。今夜のトリはまだ経験の浅いバンドで、緊張しているだろうことは容易に想像がついた。誰しも最初は上手くいかない。自分にもそういう時期があったことを、星歌はふと思い出した。
客が席へ戻っていくのを見送り、星歌は再び伝票へ視線を落とす。あの頃の自分がどんな顔でステージに立っていたのか、正直なところもう鮮明には思い出せない。それでも、誰かに支えられていたことだけは覚えている。今、この店を回している自分もまた、誰かに支えられているのだろう。考えても答えの出ない問いを頭の隅に押しやり、星歌は残りの伝票を片付け始めた。窓の外を見れば、夕方に近づく光が少しずつ橙色を濃くしている。
その手が止まったのは、裏口の扉が勢いよく開いた瞬間だった。
「先輩大変だ!!」
いつものふらついた足取りとは違う、妙に切迫した声だった。星歌は顔を上げ、眉をひそめる。
「今度は何だよ」
「エフェクターの設定メモがない! 今夜のうちに整理しとくつもりだったやつ!」
「今夜お前の出番はねえだろうが」
「出番はないけど、明日の朝一でスタジオ入るんだよ! 志麻からもさっき電話で急かされたばっかりで、あのメモがないと音作りを一から思い出さなきゃなんないんだって!」
まくし立てるように言いながら、きくりはカウンターの下の箱へまっすぐに突進した。星歌が止める間もなく蓋を開け、中身を勢いよくかき回し始める。
「これじゃない……これも違う……」
最初に引っ張り出されたのは、丸めた古いライブのフライヤーだった。皺だらけになった紙面を一瞥して、きくりはすぐさま床に放り出す。続いて出てきたのは、色の褪せたギターストラップの端切れだったが、それも一秒と見ずに脇へ置かれた。三つ目に出てきたのは、小さな布製のお守りだった。房の部分がすっかりほつれていて、どこの神社のものかも刺繍の文字から読み取れない。きくりは一瞬だけ手を止め、それを握りしめた。
「これは初ライブの日に持ってたやつだ」
「今探してんのはエフェクターのメモだろうが」
「わかってる。わかってるけど、懐かしくて」
そう言いながらも、きくりはお守りを名残惜しそうに眺めた後、結局それも床へ置いて次を探し始めた。星歌はそのやり取りに小さく息を吐きながらも、口出しはしなかった。
初ライブ、という一言が引っかかった。きくりが緊張のあまり酒に手を伸ばし、そのまま今の泥酔癖が始まったという噂を、星歌は昔誰かから聞いたことがある。友達もろくにいなかった頃の話だと、本人の口から直接聞いたわけではない。それでも、あのお守りが握られていた指先の強さを見ていると、噂が案外的外れではない気がしてくる。今の図々しさの裏に、そういう頼りなさが張り付いていることを、星歌は知らないふりを続けてきた。知ったところで、態度を変えるつもりもなかったが、それでも見過ごせない部分があるのも確かだった。四つ目に出てきたのは、輪ゴムでまとめられた古いセットリストの束で、日付を確かめる余裕もなくまた床に転がされる。
「おい、床に散らかすんじゃねえ」
「今それどころじゃないんだぞー」
星歌は散らばっていく紙の山を横目に、額を押さえた。片付けたはずの棚が、また新たな戦場に変わりつつある。箱を抱えたまま床にしゃがみ込むきくりの周りには、瞬く間に紙くずの小山ができあがっていく。通りかかった客が物珍しそうにその様子を眺めていたが、星歌は会釈だけで誤魔化し、視線を箱へと戻した。せめて営業中だけは大人しくしてほしいという願いは、この様子ではとても叶いそうになかった。箱の中身は瓶とピック、片方だけの靴下、そして丸められた紙くずが数枚残っているだけだった。きくりの手が最後の紙くずへと伸びる。
「あ、あった!」
歓声とともに引っ張り出されたのは、くしゃくしゃに丸められた小さな紙切れだった。きくりはそれを両手で広げ、目を凝らす。
だが、その表情はすぐに固まった。
紙面には、判読できるような文字がほとんど残っていない。よく見ればそれはコンビニのレシートで、日付も印字も半分以上擦れて消えていた。エフェクターの設定らしきものなど、どこにも書かれていない。
「……あれ」
「あれ、じゃねえよ」
星歌の声が、地の底から響くように低くなった。
「テメェ、さっきから思い出だ何だと大騒ぎしといて、中身がただのレシートかよ」
「ち、違う。これじゃない。もっと別のがあるはず」
きくりは慌てて箱の中を再びかき回し始めた。だが出てくるのは瓶とピック、そして片方だけの靴下ばかりで、肝心のメモらしきものは見当たらない。焦りが顔に出るにつれ、動きはますます雑になっていった。
「先輩、もしかしてもう捨てちゃった?」
「捨ててねえよ、まだ全部そこにあるだろうが」
「じゃあどこ行ったんだよあの紙……」
箱の底を探る手が止まる。きくりはしばらく黙り込んだ後、力なくその場にしゃがみ込んだ。
「思い出したくないけど、思い出した」
「何をだよ」
「あの設定メモ、多分このレシートと一緒に、酔っ払って丸めて捨てちゃったやつだ……」
告白めいた呟きに、フロアの空気が一瞬止まった。星歌はこめかみに手を当て、深く長い息を吐き出す。あれほど必死に探し回っていた本人が、結局は自分の失態を思い出しただけだったという事実に、怒りを通り越して呆れが先に立った。
「じゃあ最初からねえんだよそんなもん」
「ないね」
「じゃあ何でアタシの箱ひっくり返してんだよ! 床も片付けろ!」
「片付けるって言っても、これどこにしまえばいいんだよ」
「知るか、元あった場所に決まってんだろうが」
「元あった場所がもう覚えてないんだぞー」
開き直ったような返事に、星歌のこめかみに青筋が浮かぶ。売り言葉に買い言葉で交わされるやり取りは、もう何度目になるか分からなかった。声を荒げた瞬間、少し離れた場所からくぐもった音が聞こえた。
視線を向けると、PAさんが口元を手で覆い、肩を小刻みに震わせていた。抑えようとしているのは明らかだったが、限界だったのだろう。次の瞬間、堪えきれない笑い声が漏れる。
「ぷっ……」
珍しく感情の乗った声に、星歌ときくりの視線が同時にそちらへ向いた。PAさんは口元を押さえたままだったが、目元は完全に緩みきっている。
「す、すみません。あまりにも見事な茶番だったので」
「茶番で悪かったな」
星歌の矛先が、今度はまっすぐPAさんへと向いた。
「お前、さっきからずっとスマホ構えてたよな」
「記録ですから」
「見せろ」
「嫌です」
「見せろっつってんだよ」
有無を言わせぬ口調に、PAさんは珍しく気圧されたように視線を泳がせた。それでも数秒の沈黙の後、諦めたように肩を落としてスマートフォンを差し出す。
画面に並んでいたのは、今日一日の一部始終だった。瓶を抱えて涙目になるきくりの写真。靴下を掲げて力説する動画。レシートを握りしめて呆然とする、たった今の姿まで収められている。星歌はその画面を苦々しく眺めながら、ふと指を止めた。
見覚えのある構図の写真が、下の方に並んでいる。
「……これ、いつの写真だ」
映っていたのは、星歌自身だった。開店前、床に落ちた伝票を四つん這いで拾い集めている姿。別の一枚では、事務所の椅子に座ったまま寝落ちしている姿が写っていた。さらにスクロールすると、ライブ後の楽屋で、誰もいないと思って一人泣いている顔にたどり着く。
「三ヶ月前です。結束バンドの、初めてのワンマンが終わった日の」
「なんで撮ってんだよこんなもん」
「記録ですから」
さっきと同じ言葉が、今度はやけに重く響いた。星歌はスクロールする指を止められない。過去に撮られていたのは、その一枚だけではなかった。傘を忘れて雨の中を走る星歌。開店直前にエプロンの紐を結び忘れて慌てる星歌。搬入の荷物につまずいて尻もちをつく寸前の星歌。数えきれないほどの瞬間が、そこには静かに積み重なっていた。
「お前……いつからこんなことしてんだよ」
「入った初日からです」
「初日からかよ」
「店長、意外と隙が多いので」
淡々とした答えに、星歌は言葉を失った。指を止めた画面の一番奥に、見慣れない一枚があった。開店したばかりの頃のSTARRYで、まだ内装も真新しく、椅子の数も今より少ない。カウンターの向こうで、若い星歌が照れくさそうに笑っている。隣には、今よりずっと幼い虹夏の姿もあった。
「……これ、開店した日のか」
「そうです。捨てるには惜しいと思って、ずっと残してました」
からかいの色が消えた声に、星歌は思わず手を止める。怒りをぶつけるべき相手のはずなのに、その平坦な声のせいでどこにも力が入らない。奪い返そうと伸ばした手を、PAさんはひょいと体をずらすだけでかわしてしまう。
「返せ」
「消す約束をしてくれるなら、考えます」
「今すぐ全部消せ」
「それは無理です。データはバックアップも取ってあるので」
「バックアップって、お前……どこに取ってんだよそんなもん」
「秘密です」
即答された一言に、星歌はぐっと言葉を飲み込んだ。これ以上追及したところで、平然とした顔でかわされるだけだということは、長年の付き合いで嫌というほど分かっていた。
しゃがみ込んでいたきくりが、いつの間にか立ち上がってこちらを覗き込んでいた。
「ヒヒ、先輩もやるじゃん」
「お前は黙ってろ」
「見せて見せて、アタシも見たい」
「絶対見せねえ」
スマートフォンを巡って三人の視線が交錯する。星歌はきくりの手を押しのけながら、内心では自分の分が悪いことを痛感していた。怒っているのはこちらのはずなのに、いつの間にか形勢はすっかり逆転してしまっている。
「……取引しないか」
絞り出すように切り出すと、PAさんは小首を傾げた。
「取引、ですか」
「今月の機材発注、お前の希望を優先して通す。だから今日の分だけでも消せ」
「それとこれとは話が別です」
あっさりと切り捨てられ、星歌は言葉を失った。買収が通じない相手だということは分かっていたはずなのに、つい口を突いて出てしまった自分の狼狽ぶりに、さらに苛立ちが募る。
「じゃあ何なら消すんだよ」
「消しません。ただ、見せる相手は選びますので、ご安心ください」
「それ安心する要素どこにあるんだよ」
平坦な声で告げられる度に、星歌の反論はことごとく空を切っていく。きくりは横でその様子を眺めながら、肩を震わせて笑いを堪えていた。
「アタシにも見せてよー」
「廣井さんには見せません」
「なんでアタシだけ除け者なんだよ」
「廣井さんは口が軽いので」
あっさりと切り捨てられ、きくりは大袈裟に肩を落とした。星歌はその様子を横目に見ながら、こんな時ばかり息の合う二人の姿に、いっそう脱力するしかなかった。誰を味方につけたつもりもないのに、いつの間にか一対二の構図が出来上がっている。
「……あのな、PA」
「はい」
「今後撮るなら、一言声かけろ」
「消せとは言わないんですか」
「言っても消さねえだろ、お前」
図星を突かれたのか、PAさんは僅かに視線を逸らした。それが答えだった。星歌は諦めたように箱の縁に手を置き、もう一度深く息を吐く。
「なあ、何のために撮ってんだよ、そもそも」
尋ねると、PAさんはスマートフォンをポケットにしまいながら、いつもと変わらぬ静かな声で答えた。
「面白いからです。それだけです」
「それだけかよ」
「あとは、店長がたまに見せる顔は、店長自身が気づいてないと思うので」
その一言には、からかいとは違う響きが混じっていた。星歌は何か言い返そうとして、結局は言葉を探し出せないまま口を閉じる。フロアの奥から聞こえる客の話し声が、ふいに遠くのもののように感じられた。
「お前、それ趣味の延長かよ」
「趣味と言えば趣味です。休みの日は配信も少しやってますし、記録すること自体は昔から性に合っているので」
「多趣味だな、お前も」
「店長ほどではないと思いますが」
「配信ってお前、何やってんだよそんなもん」
「それはまた別の機会に」
するりとかわされ、星歌はそれ以上踏み込むのをやめた。PAさんの私生活について、これまで深く尋ねたことはほとんどなかった。フロアに立つ姿以外の顔があることを知っていても、それを覗き込もうとは思わなかった自分に、今さらながら気づく。
「まあ、いい。でも次からは一言かけろよ」
「善処します」
その返事が本気なのかどうか、星歌には判断がつかなかった。それでもこれ以上追及したところで、これまでと同じように涼しい顔でかわされるだけだろう。星歌は諦めのため息をつき、話を打ち切った。
「そういえば、店長」
「今度は何だよ」
「さっき、アンプの裏で靴下の片方を見つけました」
差し出されたのは、色褪せた片方の靴下だった。棚から出てきたものと色も柄もそっくりに見える。星歌はそれを受け取り、箱の中の靴下と並べてみた。
「マジか」
声を上げたのはきくりだった。ひったくるように受け取ると、二つを揃えて確かめる。ぴったり合った対に、きくりの顔がぱっと輝いた。
「やっぱりどこかで元気にやってたんだぞー」
「アンプの裏で何が元気にやってただよ」
「知らない。でも、また揃ったからいいの」
悪びれもせず笑うきくりに、星歌はもう何も言う気力が残っていなかった。ただ靴下の片割れがこんな形で見つかったことに、少しだけ気が抜ける。朝方感じていた妙な予感が、こんなところで的中するとは思っていなかった。
時計の針は、開店直後よりもさらに進んでいる。今夜の仕込みが本格的に始まる時間が近づいていた。星歌は箱の中身をもう一度見渡し、深く息を吐いた。瓶、ピック、揃った靴下、床に散らばったフライヤーとストラップの切れ端、お守りとセットリストの束。メモだけは、まだエプロンのポケットの中にある。
「……もう好きにしろ」
「え、いいの?」
「箱はそこに置いとく。全部は捨てねえ。その代わり、これ以上増やすな」
念を押すように言うと、きくりは満足げに頷いた。それから箱の中に手を伸ばし、迷わずピックだけを選んで胸ポケットにしまう。瓶も靴下も、結局は箱の中に残されたままだった。
「ピックだけでいいのかよ」
「うん。これがあれば十分」
あっさりとした答えに、星歌は拍子抜けしたような顔になった。あれほどの騒ぎを起こしておいて、最後に選ぶのはすり減った小さな一枚だけらしい。
「わかんねえやつだな、お前は」
「先輩も大概わかんないぞー」
軽口を叩き合いながらも、その声にはもう朝方のような棘は残っていなかった。長い付き合いの中で積み重なってきた気安さが、言葉の端々ににじんでいる。
「あとの瓶とか靴下とか、ほんとに置いてっていいのかよ」
「うん。先輩が持っててくれるなら、それでいい」
きくりはそう言って、胸ポケットの上からピックの感触を確かめるように軽く叩いた。持ち帰るものを一つに絞ったのは、案外本人なりのけじめだったのかもしれない。星歌はそれ以上追及せず、ただ小さく頷いた。
きくりは椅子から立ち上がると、ふらつく足取りのままカウンターに片手をついた。
「じゃ、アタシは志麻に電話して謝ってくる。メモ、結局見つかりませんでしたって」
「怒られんぞ、それ」
「怒られ慣れてるから平気」
悪びれもせず笑うと、きくりは裏口へと歩いていった。数分もしないうちに、扉の向こうから抑えた怒鳴り声が漏れ聞こえてくる。志麻の声だとすぐに分かった。きくりが「ごめんって、ごめんってばー」と弱々しく謝る声が続き、それからしばらくして、拗ねたような足取りで戻ってきた。
「怒られたか」
「めちゃくちゃ怒られた。明日の朝、一時間早く来いって」
「自業自得だろうが」
「わかってるよー。志麻の説教、長いんだよなー」
「聞く耳持てば済む話だろうが」
肩を落とすきくりを見ながら、星歌はふと、志麻がどんな顔で電話を受けたのかを想像して、口の端がわずかに緩むのを感じた。苦労している人間はどこにでもいる。自分だけではないと思えることが、こんな些細な瞬間にも小さな慰めになった。
PAさんはスマートフォンをポケットにしまい、何事もなかったかのようにミキサー卓の前へ戻っていった。フェーダーの位置を確かめ、キャノンケーブルの接続を一本ずつ点検していく手つきは、いつもと変わらず正確だった。だがその口元には、まだ小さな笑みが残っている。
「PAさん、まだ写真消してないでしょ」
「消しません」
「即答かよ」
「今日のは特によく撮れているので」
振り返ることなく告げられた一言に、星歌は反論する気力すら湧いてこなかった。今日という日は、しばらく記憶の奥にしまわれることになりそうだった。次にきくりが同じような騒ぎを起こしたとき、あるいは星歌が油断して隙を見せたとき、この一日はきっと格好の材料として引っ張り出されるだろう。そのことを、PAさん自身がいちばんよく分かっていた。
星歌は床に散らかったフライヤーとストラップの切れ端、お守りとセットリストの束を拾い上げ、箱の中へ戻す。中身を整理し終えると、蓋を軽く閉じてカウンターの隅へ押しやった。片付けきれなかった品々はまだそこに残っているが、今はそれでいいと自分に言い聞かせる。開店前のあの緊張感はもうどこにもなく、ただ夜の仕込みへと続く、いつも通りの時間が流れ始めていた。
フロアの照明が、夜の色へと少しずつ切り替わっていく。開店から続いていた午後の空気が、ゆっくりと夜の営業へと姿を変えようとしていた。カウンターの向こうでは客が少しずつ増え始め、今夜のライブを待つざわめきが厚みを増していく。段ボール箱は隅に残ったまま、次にまた誰かの手で開けられる日を待っていた。
星歌はその箱に一瞬だけ視線を落とし、それから前を向いた。エプロンのポケットの中で、あのメモの感触がまだ指先に残っている。中身を確かめるつもりはなかった。今はまだ、それでいいと思えた。
この店を作ったとき、自分は誰かの居場所になればいいと思っていた。妹のために、そしていつか集まってくるはずの誰かのために。きくりのように図々しく居座る客人がいて、PAさんのように黙って全部を見ている裏方がいて、それでも成り立っているのだから、案外悪くない場所になったのかもしれない。星歌はそんなことを思いながら、小さく息をついた。
結局のところ、自分はこの店に集まってくる人間たちの誰一人として、本当の意味で突き放したことがないのかもしれない。星歌はそんなことを思いながら、箱の蓋にもう一度そっと手を置いた。捨てられずにいるのは、きくりの私物だけではない気がした。棚の奥にしまい込まれたまま、今日ようやく日の目を見たあの品々のように、自分自身の中にも簡単には手放せないものがいくつも眠っているのだろう。
裏口の方から、控えめなチューニングの音が漏れ聞こえてきた。今夜のトリを務めるバンドが、そろそろ楽屋入りしたらしい。弦を一本ずつ確かめる硬い響きに、微かな緊張が滲んでいる。星歌はその音に耳を澄ませながら、自分にできることは大して多くないと分かっていた。ただ場を整え、灯りを絶やさず、彼らが戻ってこられる場所を守ること。それだけで十分だった。
フロアの照明が完全に夜の色へと変わり、開店直後の淡い光はもうどこにも見当たらない。窓の外を歩く人々のシルエットが、ガラス越しに滲んで流れていく。PAさんはミキサー卓の前で最後の音量チェックを終え、小さく頷いた。
「店長、準備できました」
「ああ」
短い返事を返し、星歌は箱の置かれた隅を一瞥する。片付けきれなかった中身は、明日また誰かの手で開けられるまで、そこで静かに眠り続けるのだろう。それでいいと、今は思えた。
明日の朝、きくりは一時間早く志麻に呼び出される。そのついでにまたこの店へ寄るかもしれないし、寄らないかもしれない。どちらにせよ、この箱が完全に空になる日はしばらく訪れないだろうという予感が、星歌の中で確信に近い形を取り始めていた。それを面倒だと思う気持ちと、案外悪くないと思う気持ちが、同じ重さで胸の中に収まっている。
「さて」
小さく呟き、星歌はカウンターの奥へと足を向ける。今夜も、いつも通りの一日が始まろうとしていた。