ぼっち・ざ・ろっく! B-Side Tracks 作:たこ焼き 龍月
閉店の作業は、いつも静けさから始まる。
最後の客を見送ったあとのSTARRYは、フロアの熱気だけが名残のように残っていて、椅子を持ち上げるたびに床がわずかに軋んだ。伊地知星歌はステージ前のマイクスタンドを畳みながら、今夜のライブを思い返していた。トリを務めたバンドは、序盤こそ硬さが目立ったが、後半に入るとようやく音がまとまり始めた。悪くない出来だった。そう思えるだけで、今日一日の疲れが少しだけ軽くなる気がした。
ステージに残った微かな残響が、まだ耳の奥にこびりついているような気がする。ドラムの最後の一打ち、ボーカルの掠れた声。ああいう瞬間を積み重ねていくことでしか、バンドというものは強くなれないのだと、星歌は改めて思う。フロアに漂う熱の名残が、まだ完全には冷めきっていなかった。
客を送り出す際、今夜のトリのボーカルが深々と頭を下げていったのを、星歌は思い出していた。緊張で声が上ずっていたのは最初の一曲だけで、あとは自分たちの音を取り戻していた。ああいう瞬間に立ち会えることが、この仕事を続けている理由のひとつなのかもしれない。虹夏が学校から戻ったら、今夜の出来をどう伝えようか。そんなことをぼんやり考えながら、星歌は最後のスタンドを壁際に寄せた。
カウンターの隅には、あの段ボール箱がまだ置かれている。
朝から続いた騒動のことを思い出すと、星歌は小さく息を吐いた。片付けるつもりで開けた棚から、結局片付けきれなかったものが山ほど出てきた一日だった。瓶とピックと靴下と、そしてエプロンのポケットに入ったままのメモ。営業中は考える余裕がなかったが、こうして店が静まり返ると、その存在感がやけに大きくなってくる。
星歌はエプロンの上からポケットに触れた。
紙の感触は、朝と変わらずそこにあった。
しゃがみ込んでマイクケーブルを束ねていたPAさんが、顔を上げずに口を開いた。
「店長、今夜のバンド、悪くなかったですね」
「ああ。後半はちゃんと客の顔見て弾いてた」
「最初は硬かったですけど」
「誰でも最初はそうだろうが」
帰り際、常連のギター少年がカウンターに寄って、今夜の感想を伝えてくれた。トリのバンドの音がどんどん良くなっていくのが分かって鳥肌が立った、と早口で語る様子に、星歌は珍しく口元を緩めた。
「また来ます!」
「ああ、待ってる」
短いやり取りを交わして、少年は満足そうにフロアを出ていった。ああいう反応をもらえる夜は、片付けの疲れも少しだけ軽くなる。星歌はドアの向こうを見送りながら、小さく息を吐いた。
短いやり取りのあと、フロアには機材を片付ける音だけが響いた。ケーブルを巻く手つき、スタンドを畳む金属音、そのどれもが今夜の営業が終わったことを静かに告げている。星歌はステージの端に腰を下ろし、少しだけ肩の力を抜いた。
こういう時間が、実は嫌いではなかった。
客がいなくなったフロアで、片付けの音だけを聞きながら座っている数分間。誰かに何かを求められることもなく、ただ体を休めていられる。だが今夜は、その静けさの中にどうしても意識が箱の方へ向いてしまう自分がいた。
「店長」
PAさんの声に、星歌は顔を上げた。
「今日の分の写真、もう見返しました」
「見返さなくていいんだよ、そんなもん」
「面白かったので」
「面白がってんじゃねえよ」
軽く睨んでみせたが、PAさんの表情はいつも通り平坦なままだった。感情の起伏がほとんどないその横顔を見ていると、怒る気力すら削がれてくる。
「特に気に入ってるのは、廣井さんが靴下を掲げてる一枚です」
「あれのどこがいいんだよ」
「表情です。あんなに真剣な廣井さん、なかなか見られないので」
「真剣に靴下の話してんじゃねえよ、あいつは」
「配信のネタにしようか迷ってます」
「お前の配信、廣井の靴下の話まで出すつもりかよ」
「顔は映さないので大丈夫です」
「そういう問題じゃねえだろ」
やり取りの落ち着きどころが見えないまま、星歌はこめかみを押さえた。PAさんが休みの日に何かしらの配信をやっているらしいことは知っていたが、その中身を詳しく尋ねたことはまだない。踏み込めば、また涼しい顔でかわされるだけだと分かっているからだった。それでも、いつかその話をきちんと聞いてみるのも悪くないと、星歌はふと思った。
呆れ混じりに返しながらも、星歌は口元がわずかに緩むのを感じていた。今日一日の騒動を思い出すと、腹立たしさよりも先に、どこか間の抜けた可笑しさが込み上げてくる。PAさんはその変化を見逃さなかったのか、小さく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。星歌はもう一度息を吐き、話を切り上げるように立ち上がった。
カウンターの中に戻り、レジの締め作業に取りかかる。伝票の束を数えながら、視線はやはり隅の箱へと吸い寄せられていった。
数字を打ち終えたところで、星歌はふとポケットからメモを取り出した。
誰もいない今なら、確かめてもいいのかもしれない。そんな考えが一瞬だけ頭をよぎる。折り目のついた紙をそっと開きかけて、しかし指先はそこで止まった。読んでしまえば、簡単には戻れない気がする。きくり本人の口から聞くべきことを、勝手に覗き見るような真似はしたくなかった。
結局、星歌は紙を開かないまま、また丁寧に折りたたんだ。ポケットに戻す手つきは、朝よりも幾分か慎重になっていた。
考えてみれば、今日一日、自分は何度もこの紙の扱いに迷い続けている。捨てるつもりで箱に放り込み、途中で拾い上げ、読もうとして読まず、返すと決めたはずが今もまだ手元にある。きくりの図々しさに振り回されているだけのつもりが、いつの間にか自分自身もこの紙一枚に振り回されているようだった。星歌は小さく苦笑し、ポケットの上から一度だけ手のひらで押さえた。
裏口の扉が開いたのは、ちょうどそのときだった。
「先輩」
声は、いつもより落ち着いていた。振り返ると、廣井きくりが立っていた。今夜は紙コップを持っていない。目元の赤みもいつもより薄く、足取りも思ったよりしっかりしている。
「珍しいな、素面か」
「素面じゃないけど、そこそこ」
きくりはそう言いながら、カウンターにゆっくりと近づいてきた。志麻に絞られた直後だと聞いていたが、その割には表情が柔らかい。星歌は伝票を脇に置き、腕を組んだ。
「志麻さんとこは終わったのか」
「うん。めちゃくちゃ怒られたけど、ちゃんと謝ってきた」
「珍しいこともあるもんだな」
「アタシだって反省するときはするんだぞー」
拗ねたように唇を尖らせながらも、いつものような大げさな身振りはなかった。星歌はその落差にわずかな違和感を覚えたが、口には出さずにおいた。今夜のきくりは、どこか用件を切り出す前の間を測っているように見えた。
むくれた口調の奥に、普段とは違う真剣さが滲んでいる。きくりは箱の前まで来ると、蓋にそっと手を置いた。中を覗くわけでもなく、ただ表面を撫でるようにしている。
「これ、まだ全部あるんだ」
「言ったろうが。全部は捨てねえって」
箱の縁に置かれたきくりの指先が、蓋の木目をゆっくりとなぞる。その仕草は、朝の図々しい取り返し方とはまるで違う、静かなものだった。
「うん。ありがと」
短い礼だったが、いつもの図々しさとは違う響きがあった。星歌はその変化に気づきながらも、あえて何も言わずにいた。長い付き合いの中で、こういう時のきくりに余計な言葉をかけない方がいいことは、経験で分かっている。
きくりは箱から目を離し、今度はまっすぐに星歌を見た。
「先輩、あのメモ」
「ん」
「まだ持ってる?」
問われて、星歌はエプロンのポケットに手をやった。折りたたまれた紙の感触が、指先に伝わってくる。今朝からずっとそこにあった重みが、急に意味を持ち始めたような気がした。
「持ってる。捨ててねえよ」
「見た?」
直球の問いに、星歌は一瞬言葉に詰まった。フロアの照明が、二人の間に落ちる沈黙をやけに際立たせている。少し離れた場所で、PAさんがケーブルを巻く手を止めていることに、星歌は気づいていた。見ていないふりをして、確実に聞いているのだろう。
「全部は読んでねえ」
「全部は、って」
「字が汚くて読めなかったんだよ、最初は」
言い訳めいた口調になったことに、星歌自身も気づいていた。きくりは何も言わずに、じっとこちらを見つめている。その視線から逃げるように、星歌はポケットからメモを取り出した。
折りたたまれた紙を、カウンターの上にそっと置く。
「返す。お前のもんだろ」
「……うん」
きくりは手を伸ばしかけて、途中で止めた。紙に触れる直前、指先がわずかに震えているように見えた。星歌はその様子を黙って見守った。急かすつもりはなかった。
「先輩は、どこまで読んだの」
声が、少しだけ掠れていた。星歌は腕を組んだまま、視線を紙の上に落とす。
「消しかけの一行の下に、別の字が重なってたのは見た」
「……それだけ?」
「それだけだ。名前らしきものが書いてあるのは分かったけど、誰の名前かまでは追わなかった」
嘘ではなかった。読もうと思えば読めただろう。だが指がその手前で止まった理由を、星歌自身もうまく説明できずにいた。
きくりはしばらく黙り込んだあと、ゆっくりと紙を手に取った。広げようとはせず、両手で包むようにして胸の前に持ってくる。
「これ、書きかけの曲の歌詞なんだ」
「知ってる。前にも言ってたな」
「本当は、もっと前に完成させるはずだったんだけど」
言葉を選ぶような間があった。星歌は口を挟まずに待った。フロアの向こうで、PAさんが完全に手を止めているのが視界の端に見えた。夜の静けさが、いつもより深く店内に満ちているように感じられた。
「アタシ、初めてステージに立ったとき、めちゃくちゃ怖かったんだ」
「聞いたことある。酒飲んで上がったんだろ」
「うん。友達もろくにいなかったし、誰も見てないところで死にたいくらい緊張してた」
「志麻さんとも、まだそんなに仲良くなかった頃か」
「うん。志麻とちゃんと組むようになったの、その少しあとだから。あのピック、覚えてる? 最初のバンドの日に使ってたやつ」
「箱にあったやつだろ。すり減ってたな」
「あれ握りしめてないと、指が震えて弦を押さえられなかったんだ」
きくりは自分の手のひらを見つめながら、当時を思い出すように目を細めた。星歌はその横顔をじっと見つめた。今の図々しさからは想像もつかない姿だったが、不思議と違和感はなかった。誰にでも、そういう時期があったはずだ。
自分にも似たような日があった。まだギターを抱えて右も左も分からなかった頃、ステージ袖で足がすくんで動けなくなったことがある。誰かに背中を押されなければ、あの一歩は踏み出せなかったかもしれない。星歌はその記憶の輪郭をなぞりながら、目の前のきくりに重ねていた。
乾いた口調で語られる過去は、いつもの間延びした話し方とは違っていた。星歌はカウンターに肘をつき、黙って続きを待つ。
「そのとき、たまたま楽屋の隅で声かけてくれた人がいたんだ。まだ売れてないギタリストで、いつも一人で機材の手入れしてる人だった」
「……それが」
「うん。細かいことは覚えてない。ただ、なんか一言だけ、ちゃんと言われたのは覚えてる」
きくりはそこで一度言葉を切り、紙をぎゅっと握りしめた。
「『下手でもいいから、最後まで弾け』って」
その一言に、星歌の記憶の底で何かが小さく反応した。だがそれをすぐに言葉にはできず、ただ黙って先を促した。
「それがずっと頭に残っててさ。あの人の名前、ちゃんと聞かなかったんだよね」
きくりは一度視線を落とし、紙の折り目を指でなぞった。
「その日から、なんとなく音楽を続けられた気がする。上手くいかないことの方が多かったけど、あの一言だけは、ずっとどこかに引っかかってた」
「それが今の曲に関係あるのか」
「うん。ちゃんと形にしたくて。中途半端なまま放っておくの、なんか違う気がして」
言葉を選びながら話すきくりの姿は、いつもの緩んだ表情とは違っていた。星歌は黙って耳を傾けながら、記憶の底を探るように視線を宙へ泳がせる。何年も前のことだ。楽屋裏で声をかけた相手が誰だったか、正直なところ確信は持てなかった。それでも、あの頃の自分ならそういう言葉をかけそうだという実感だけは、確かにあった。
「でも、なんとなく分かる気がしたんだ。この店に来るようになってから」
きくりの視線が、まっすぐに星歌へ向けられた。
「ーー先輩だったんじゃないかって」
フロアが、ふっと静かになった。時計の秒針の音までも聞こえるような沈黙が落ちる。星歌は口を開こうとして、すぐには言葉が出てこなかった。当時のことを鮮明に覚えているわけではない。だが、そういう場面が確かにあったような気もした。
「……覚えてねえよ、そんな昔のこと」
絞り出した声は、思ったより弱々しかった。実際には、断片的な記憶がいくつか胸の奥をよぎっていた。まだ客の少ない楽屋、緊張で青ざめた誰かの横顔。声をかけたのが本当にきくりだったのか、それとも別の誰かだったのか。確かめる術はもうない。だが確かめないままでいることが、案外悪くないようにも思えた。
きくりは小さく笑った。
「だよねー。先輩、当時から誰にでもあんな感じだったろうし」
「誰にでもって、失礼だな」
「褒めてるんだって」
軽い口調に戻ったきくりは、握っていた紙をようやく広げた。目を落として、しばらく黙って文字を追う。星歌はその横顔を見つめながら、自分の中に湧いた妙な感情の名前を探していた。
照れくささなのか、それとも懐かしさなのか。あるいはその両方なのか。答えは、すぐには出そうになかった。
「続き、書けそうか」
問いかけると、きくりは紙から顔を上げた。
「うん。多分、書ける」
「多分かよ」
「今度こそ、ちゃんと最後まで」
星歌はふと気になって、紙の端に目を落とした。
「さっき、名前らしきものが書いてあったって言ったろ。あれ、誰の名前なんだよ」
きくりは一瞬だけ言葉に詰まり、それから照れ隠しのように笑った。
「秘密」
「また秘密かよ」
「本当に秘密。でも、ヒントだけ言うと、人の名前じゃないかもしれない」
「意味わかんねえよ、それ」
「星歌ちゃんの名前って、星の歌って書くだろ。それが、ちょうど歌詞に合う言葉だったんだよ」
思いがけない答えに、星歌は一瞬言葉を失った。自分の名前が、まさかそんな形で歌詞の中に紛れ込んでいるとは考えたこともなかった。からかわれているのか、それとも本当のことなのか、判断がつかないまま、星歌は小さく咳払いをした。
「……そういうことは、先に言えよ」
「言ったら意味なくなるじゃん」
悪びれもせず笑うきくりに、星歌はそれ以上何も言えなくなった。
その言葉には、いつもの適当さとは違う芯があった。星歌は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。言葉を重ねるより、黙って見守る方がいいと分かっていたからだ。
きくりはメモを丁寧に折りたたみ直し、胸ポケットへとしまった。ピックの隣に収まったそれを、指先で軽く押さえる仕草が印象的だった。
「先輩」
「今度は何だよ」
「ありがと。ちゃんと持っててくれて」
「……別に、お前のために取っといたわけじゃねえよ」
「わかってる。それでも、ありがと」
素直な言葉に、星歌はどう返せばいいか分からなくなった。誤魔化すようにカウンターの伝票を取り上げ、意味もなく整え直す。その様子を見ていたPAさんが、ようやく口を開いた。
「店長、今のシーン、少し撮ってもよかったですか」
「駄目に決まってんだろ」
「もう撮りました」
「テメェ……」
脱力した声で言い返した星歌に、きくりが小さく笑い声を漏らした。張り詰めていた空気が、その一言でふっと緩む。星歌は諦めたように肩を落とし、それ以上の追及をやめた。
「まあ、いい。今日のところは見逃してやる」
「今日のところは、ですか」
「次はねえからな」
「毎回同じこと言ってる気がしますけど」
容赦のない指摘に、星歌は言葉に詰まった。きくりが堪えきれずに吹き出し、フロアに小さな笑い声が響く。
少し離れた場所で片付けを続けていたPAさんが、静かに口を挟んだ。
「店長、今の話、聞こえてました」
「聞くなよ、そういうのは」
「歌詞に店長の名前が入ってるって話、面白いですね」
「面白がってんじゃねえ」
「廣井さん、それ本当に完成したら、真っ先に店長に聴かせてあげてください。多分、ここで泣くと思うので」
「泣かねえよ!」
「がはは、PAさんも言うね」
きくりが肩を揺らして笑い、星歌は二人を交互に睨みつけた。だがその視線には、いつものような鋭さはなく、むしろ諦めに近い柔らかさが滲んでいた。三人の間に流れる空気は、朝のそれとは少し違っていた。棘の代わりに、もう少し柔らかいものが混じっている気がした。
きくりは椅子に腰かけると、大きく伸びをした。
「今日は結局、瓶とお守りとフライヤーだけ置いてくことになるのか」
「靴下は揃ったから、それも持ってっていいぞ」
「あ、そうだった」
箱の中から靴下の対を取り出し、きくりは満足げに頷いた。それを丁寧に畳んで小さな袋に入れる。残るのは瓶とセットリストの束、色褪せたストラップの切れ端だけになった。
「これはさすがに置いてっていいよな」
「好きにしろ。捨てはしねえよ」
「うん、それでいい」
星歌は箱を覗き込み、残った品をひとつずつ確かめた。空になった瓶、輪ゴムで束ねられた古いセットリスト、色褪せたギターストラップの切れ端。どれも取り立てて価値のあるものには見えなかったが、こうして並んでいるところを見ると、それぞれの向こうに積み重なった時間があるのだと分かる。SICK HACKが今の形になるまでの道のりを、星歌はその全部を知っているわけではなかった。それでも、断片だけは確かにここに残っていた。
軽い口調に戻ったきくりを見ながら、星歌は箱の蓋をそっと閉じた。今夜のところは、これで十分だという気がした。
片付けを終えたPAさんが、機材ケースを肩にかけて戻ってくる。表情はいつも通り平坦だったが、口元には小さな笑みが残っていた。
「店長、戸締まり終わりました」
「ああ、悪いな」
「今日は、良い記録が撮れました」
「その台詞、いい加減聞き飽きたんだよ」
軽くあしらいながらも、星歌はどこかで納得している自分に気づいていた。この店で起きることのほとんどを、この二人が見届けている。それは煩わしくもあり、同時に少しだけ心強くもあった。
きくりが椅子から立ち上がり、裏口へと歩いていく。途中で一度足を止め、PAさんの方を振り返った。
「PAさん、今日撮った写真、アタシにも一枚くらい送ってよ」
「駄目です」
「なんでだよ、自分のことなのに」
「廣井さんに渡すと、志麻さんに見せて怒られる材料にされそうなので」
「そんなことしないよ、多分」
「多分、ですか」
言い返せなかったのか、きくりは肩をすくめて笑った。それから改めて裏口へ向き直り、振り返ることなく片手だけを軽く上げる。
「じゃ、また来るからな」
「来なくていいんだよ、毎日は」
「来るもん」
あっさりと言い切って、きくりは扉の向こうへ消えていった。その足取りは、来たときよりも少しだけ軽く見えた。
静かになったフロアで、星歌は箱をもう一度カウンターの隅へ押しやった。中身は減ったが、空にはならなかった。それでいいのだと、今は思えた。
照明を落とす前に、星歌はしばらくその場に立ち尽くしていた。PAさんが機材ケースを片付けながら、ふと口を開く。
「店長、廣井さんの曲、完成したら聴いてみたいですね」
「珍しいこと言うな、お前が」
「音楽の話ですから。それに、今日みたいな顔をする廣井さんの曲なら、ちゃんと聴く価値があると思います」
からかいの色のない声だった。星歌はカウンターに肘をつき、フロアの奥を見つめる。
「あいつ、ああ見えて頑固なとこあるからな。完成させるまで、意外と長引くかもしれねえぞ」
「待ちます。この店なら、いつでも歌えますし」
「そうだな」
短く応じながら、星歌はふと思う。この店を作った理由のひとつは、誰かが安心して音を鳴らせる場所を用意することだった。虹夏のためであり、いずれ集まってくるはずの誰かのためでもあった。きくりのような図々しい客人がいつまでも居座り続けるのも、案外その延長線上にあるのかもしれない。
短く応じた声には、いつもの棘がなかった。PAさんはそれ以上何も言わず、ケーブルを丁寧にまとめ始める。二人の間に流れる沈黙は、朝のそれとは違って、どこか落ち着いたものだった。
「店長」
「今度は何だよ」
「今日の写真、いつか店に飾りませんか。廣井さんが本気で歌詞書いてる顔、なかなか撮れないので」
「絶対に却下だ」
即答すると、PAさんは小さく肩をすくめた。それ以上食い下がる様子はなく、機材ケースを提げたまま出口へ向かっていく。
一人残った星歌は、カウンターに寄りかかり、静まり返った店内を見渡した。椅子は整然と並び、照明は落とされる寸前の温かい色をまだ保っている。段ボール箱は隅に置かれたまま、次に誰かの手で開けられる日を待っていた。
窓の外を、電車の音がかすかに通り過ぎていく。下北沢の夜はまだ終わらない。閉店した店の外では、他の店の看板明かりや若者たちの話し声が、扉一枚隔てた向こうから滲むように届いていた。星歌はレジの鍵を確かめ、最後にもう一度フロア全体を見渡す。夜が更けていくのに合わせて、店の中の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していくようだった。
朝、この棚を開けたときのことを思い出す。埃の匂いと、色褪せた一升瓶。あのときは、片付けなければならない厄介事が増えただけだと思っていた。まさかその中身のひとつが、こんな形で自分のところへ返ってくるとは、想像もしていなかった。人と人との間に積み重なるものは、片付けようとしても簡単には消えてくれない。厄介であると同時に、それはきっと悪いことばかりではないのだろう。
開店前にこの棚を開けたときは、面倒事が増えるとしか思っていなかった。それが一日の終わりには、こんな形で収まるとは想像もしていなかった。人の忘れ物というのは、案外そういうものなのかもしれない。捨てるつもりで向き合って、結局は捨てられずに終わる。星歌はそんなことを考えながら、箱の蓋を指先で軽く叩いた。
虹夏が学校からここへ戻ってくるのは、もう少し先になるだろう。今夜のことを話したら、きっと目を輝かせて聞きたがるはずだ。あのバンドの成長のことも、きくりの歌詞のことも、細かいところまで説明するつもりはなかったが、それでも少しくらいは伝えてやりたい気がした。
今日という一日が、思っていたよりずっと長く感じられた。片付けるつもりが片付かず、捨てるつもりが捨てられず、それでも何かがひとつ、確かに前へ進んだ気がする。星歌はエプロンを外しながら、小さく息を吐いた。
「……次は、もうちょっと素直に渡してやるか」
誰に言うでもなく呟いた声は、静かなフロアに溶けて消えた。
明日もまた、この店のどこかから誰かの忘れ物が出てくるのだろう。そのたびに片付けようとして、結局は片付けきれずに終わるのかもしれない。それでも構わないと、今の星歌は思えた。この店には、そういうものが積み重なっていく余地があってもいい。
照明が一段落ち、STARRYの一日が静かに幕を閉じていく。箱はまだそこにある。それでいいと、星歌は思った。