契約戦争─列強国ムーの悲哀─ 作:ヘッショ!
今回からムーを舞台にし、内戦に至るまでの物語を描いていきたいと思います。
中央歴1642年4月22日
神聖ミリシアル帝国 国際都市カルトアルパス。
世界最高峰の文明国を自負する帝国の有するカルトアルパスは、この世界有数の国際都市として開かれていた。
毎年、この街の一角に建つ国際会議殿では先進11カ国会議が行われていた。この日もその慣習に習い、各国から要人を集めて国際会談が開かれていた。
楕円形に整えられた長大な会議卓。その中央には、今回の協議対象となる第二文明圏の地図が広げられている。
地図上では、かつてレイフォル国と記されていた地域が、すでに別の色で塗り潰されていた。
そこに書かれている名称は、レイフォル州。
グラ・バルカス帝国がレイフォルを占領し、自国領への編入を宣言して以降、帝国政府が公式に使用している行政区分だった。
もっとも、日本も神聖ミリシアル帝国も、その編入を正式に承認していない。
レイフォルの旧政府は消滅し、帝国軍が現地を完全に支配している。それでも軍事占領の事実と、国際的に主権を認めることは別問題だった。
その曖昧さこそが、今日の会議の議題であった。
「では、議題を確認いたします」
主催国を代表し、神聖ミリシアル帝国外務大臣ペラスクが、卓上に置かれた書類へ視線を落とした。
年齢を感じさせる落ち着いた声だったが、その眉間には朝から消えない皺が刻まれている。
「本日の主要議題は、レイフォル州──」
その呼称を口にした瞬間、日本側の席で井上がわずかに顔を上げた。
ペラスクは一瞬だけ言葉を止めた。
「……失礼、旧レイフォル領における港湾、鉱山、鉄道ならびに周辺海域の通商権についてです」
言い直した途端、今度はグラ・バルカス側のダラスが露骨に鼻を鳴らした。
ペラスクは聞こえなかったふりをし、言葉を続ける。
「加えて、同地域からムー連邦および第二文明圏諸国へ接続する輸送網の利用条件、外国企業の参入規定、ならびに軍民両用品の輸出管理について協議します」
会議卓の一方には、日本国外務省の近藤と井上の二人。
向かいには、グラ・バルカス帝国から派遣されたゲスタ、シエリア、ダラスの三名。
その間に座るムー連邦代表オーディクスは、すでに何度目か分からないほど眼鏡の位置を直していた。
ムーは第二文明圏最大の工業国である。
レイフォルから伸びる鉱物資源と輸送路は、ムー経済にとって極めて重要だった。それだけに、どちらか一方へ肩入れすることもできない。
日本との交易は、ムーへ精密機械、電子技術、高性能な工作機械をもたらしている。
一方のグラ・バルカス帝国は、巨大な資本と大量生産能力を背景に、ムー各地へ工場、鉄道、鉱山設備を建設していた。
どちらかを敵に回せば、ムーの工業はただでは済まない。
そして、当の日本とグラ・バルカス帝国は、互いにそのことをよく理解していた。
「まず、我が国の立場を改めて申し上げる」
グラ・バルカス側の中央に座るゲスタが口を開いた。
三名の代表団における責任者である。
軍人を思わせる硬質な顔立ちをしていたが、語調は抑制されていた。
「レイフォル州は、現在、帝国の法と行政の下にある。治安は帝国軍が維持し、破壊された鉄道、港湾、鉱山は帝国の資金と人員によって再建された」
ゲスタは地図上の沿岸部を指し示した。
「したがって、同州における経済活動は、グラ・バルカス帝国の国内法に従う。それが我々の基本的な立場です。外国企業の進出自体を拒むものではない。ただし、帝国政府の許可と、相応の使用料を必要とする」
「国内法、ですか」
日本側の近藤が静かに問い返した。
「我が国は、旧レイフォル領の帝国編入を承認しておりません。従いまして、貴国が一方的に定めた法規を国際的権利の根拠とすることには同意できません」
「現地を統治しているのは帝国だ」
ゲスタは即座に返した。
「港を修復したのも、鉄道を復旧したのも、鉱山労働者を保護しているのも帝国だ。統治の責任を負わない国が、その成果だけを利用しようとするのは不合理ではないか」
「統治と領有は同義ではありません」
井上が資料を開いた。
「また、レイフォルからムーへ接続する鉄道の一部については、占領以前に複数国の資本が投入されています。貴国が占領したという理由だけで、既存の契約や債権まで消滅するわけではありません」
ダラスの眉が大きく動いた。
「まだそんな紙切れの話をしているのか」
低い声だったが、会議室にははっきり響いた。
「ダラス」
ゲスタが制する。
しかしダラスは構わず、卓上の資料を指で叩いた。
「旧レイフォル政府は我が国へ不当な要求をし、結果として軍は敗れ、王宮は消滅し、役人は今では帝国の法に従っている。存在しない政府と結んだ契約を持ち出し、帝国が復旧した鉄道を使わせろとは、随分と都合のよい理屈だ」
近藤は表情を変えなかった。
「それは、軍事力によって奪ったものは、すべて奪った側の所有物になるという意味でしょうか」
「事実を述べている」
ダラスの声が一段高くなる。
「貴国は何もしていないではないか! 帝国軍が山賊を排除し、治安を維持し、荒廃した港を再建した後になって現れ、自由貿易だの国際協調だのと──」
その言葉が、不自然なところで途切れた。
卓の下から鈍い音がし、ダラスの肩がわずかに跳ねた。
隣に座るシエリアは、何事もなかったかのような涼しい顔で資料へ目を落とす。
「失礼しました」
シエリアが静かに言った。
「……我が代表団として申し上げたいのは、復旧費用を負担した帝国には、正当な優先権があるということです」
ダラスは何か言いたげに彼女を睨んだが、シエリアは一瞥すら返さない。
ゲスタは小さく息を吐き、再び近藤へ向き直った。
「言葉はともかく、主張の要点は同じです。帝国はレイフォル州へ莫大な資金を投入した。我々が建設した施設へ、日本企業が無条件に参入することは認められない」
「無条件の参入を要求しているわけではありません」
近藤は答えた。
「透明性のある入札制度と、特定国の企業を排除しない公平な市場を求めています」
「帝国領内の入札制度を、なぜ日本が決めるのですか」
シエリアが尋ねた。
「決めるとは申し上げていません。ただし、貴国の企業と資本関係を持つ会社のみが落札できる制度を、公平な競争とは呼べません」
「日本企業が落札する制度なら公平で、帝国企業が落札する制度なら不公平というわけですか」
「そのようなことは──」
「では、ムー国内で日本企業が行っていることは何なのです」
シエリアは近藤の返答を待たず、オーディクスへ顔を向けた。
「日本企業はムー連邦へ進出して以降、精密機械、通信、車両、航空産業で急速にシェアを拡大しています。日本政府の融資、日本製設備の購入条件、日本人技術者による運営。これは自由競争なのでしょうか」
突然矛先を向けられ、オーディクスは小さく咳払いした。
「ムー連邦といたしましては、日本、グラ・バルカス両国からの投資を歓迎しております。ただし、我が国の法令と労働基準を尊重していただくことが前提です」
「その通りです」
近藤が同意した。
「日本企業はムー連邦法に従い、現地雇用と技術移転を進めています」
「技術移転?」
ダラスが再び口を挟んだ。
「中枢部品は日本から輸入し、ムー人には組み立てだけをさせている工場が、技術移転を名乗るのか」
「少なくとも、低賃金を利用して旧式製品を大量生産させるだけの工場よりは、ムーの将来に貢献しています」
井上の言葉に、今度はゲスタの目つきが変わった。
「今の発言は、帝国企業を指したものと理解してよろしいか」
「一般論です」
「随分と対象の分かりやすい一般論だ」
ダラスが吐き捨てる。場の空気がいっそう凍りついた。
オーディクスは両者の火花を一身に受け、結果として両手をわずかに上げ、説得を試みようとせざる得なかった。
「皆様、どうか議題をレイフォルの通商権へ戻していただきたい。ムー国内における企業活動については、我が国政府が──」
「ならば、ムー政府が決めればよい」
ダラスが言った。
「どの鉄道を使い、どの企業へ鉱石を売るのか。日本と帝国のどちらが、ムーに必要とされているのかをな」
「それはムー連邦が主権に基づいて判断する問題です」
近藤が語気を強める。
「貴国企業の投資額や外圧によって決められるものではありません」
「外圧を用いたのはそっちもだろう!」
ダラスが卓を叩いた。
「我々がレイフォルを統治しているという現実を認めず、遠く離れた国が勝手な原則を押しつけ、それでよく主権を口にできるものだ!」
「ダラス!」
再び卓の下で鈍い音がする。今度は明らかに、シエリアが彼の脛を蹴りつけていた。
手痛い一撃を喰らったダラスは、顔を歪めながら渋々席へ戻る。両者の緊張は、今のでより一層深まってしまった。
その間、ペラスクは額を指で押さえていた。
「本会議は、各国の国力を競う場所ではありません」
外務大臣としての威厳を保とうとしていたが、その声にも疲労が滲んでいた。
「神聖ミリシアル帝国としては、旧レイフォル領における現状を、直ちに帝国の恒久的主権として認めることはできません。しかし同時に、グラ・バルカス帝国が現地の行政と復旧を担っている事実も無視できない」
「つまり、何も決めないということですか」
ゲスタが問う。
「暫定的な共同管理制度を提案しています」
ペラスクは卓上の文書を持ち上げた。
「港湾および主要鉄道の利用について国際監督委員会を設置し、利用料の一部を現地復興へ充てる。鉱山権益については既存契約を調査したうえで再配分する。グラ・バルカス帝国には統治実績に応じた優先枠を認めます」
「断る」
ゲスタの返答は早かった。
「帝国の州を、外国の委員会に管理させる理由はない」
「レイフォル州という呼称そのものを、我々は認めていません」
近藤が言う。
「認める必要はない」
ゲスタは近藤を正面から見据えた。
「帝国領である事実は、貴国の承認によって成立しているのではない」
「それでは国際会議の意味がありません」
「帝国の領土を切り分けることが国際会議ならば、最初から出席する意味などなかった」
その言葉により、会議室の空気が急激に冷え込んだ。
氷点下まで下がったのではないかと思った途端、オーディクスは左右を見て、これはマズイと確信した。
彼は慌てて席を立ち上がる。
「ゲスタ代表、どうか再考を。レイフォルからムーへ至る輸送網が不安定になれば、損失を受けるのは帝国企業だけではありません。ムーの工場も、第二文明圏全体の市場も──」
「だからこそ、帝国との二国間協議で決めればよいのです」
シエリアが答えた。
「日本やミリシアルを介在させる必要はありません」
「それは、ムー連邦を孤立させた交渉を求めているように聞こえますが?」
井上が言った。
「いいえ。ムーを対等な国家として扱っているのです」
シエリアの声は冷静だった。
「むしろ日本は、ムーが自国の意思で帝国との関係を選ぶことを恐れているのではありませんか」
「その帝国との関係とやらが、軍事占領された土地を経由するものでなければ、我々もここまで問題にはしていません」
近藤も引かなかった。
「またそれか!」
ついにダラスが立ち上がった。
「敗れた国をいつまで国家として扱うつもりだ! レイフォルは負けた! 帝国に刃を向け、敗れ、州になった! それだけのことだ!」
近藤の声が低くなる。
「その論理を認めれば、より強い国は、どの国の主権も踏みにじれることになります」
「強国が秩序を作るのは当然だ!」
「それは秩序ではありません。恫喝です」
「貴様ら日本人は──!」
ダラスが身を乗り出した瞬間、三度目の蹴りが入った。
今度はシエリアも隠そうとしなかった。
「座りなさい、ダラス」
「だが、こいつらは──」
「座わりなさい」
笑みすら浮かべていないシエリアの横顔を見て、ダラスは渋々腰を下ろした。
しかし、すでに会議は外交交渉と呼べる状態ではない。一触即発だった。
「日本は、第二文明圏を自国製品の市場にしたいだけだ!」
ダラスが座ったまま怒鳴る。
「帝国が築いた道路へただ乗りし、ムーの工場を日本規格で縛り、最後にはすべてを日本から買わせるつもりだろう!」
「貴国こそ、工場と鉄道を口実に駐留権と治外法権を要求しているではありませんか!」
これには耐えきれず、今まで冷静さを装っていた井上がついに声を上げた。
「井上、やめろ!」
「どの口が! 貴様らも警備員に武器を持たせておいて、これこそ治外法権だろ!」
「ムー政府の認可を受けた範囲です!」
「帝国企業も同じだ!」
「やめろ」
「重機関銃や装甲車まで警備用だと言い張るつもりですか!」
「日本は軍用通信機器を売っているだろう!」
「ムー軍の要請に基づく正規の輸出です!」
怒号が会議室を往来した。
書記官たちは追いつけず、各国の随員も立ち上がり、その場を制しようとした。ヒートアップするダラスと井上を、どうにか羽交締めにして引き離す。
その間、ペラスクが何度も静粛を求めたが、その声はもはや誰にも届かない。
オーディクスは、目の前で交わされる非難を黙って聞くしかなかった。
日本は、ムーをグラ・バルカスの経済圏へ渡すまいとしている。
グラ・バルカス帝国も、日本に奪われつつある市場と影響力を守ろうとしている。
神聖ミリシアル帝国は、両国のどちらかが第二文明圏を独占することを恐れている。
そして、誰もがムーの主権を尊重すると口にしているが、実際にはその言葉の裏で、ムーの鉄道、港、工場、鉱山、軍隊が、自国の影響下に入ることを望んでいた。
オーディクスの胃が、重く締めつけられる。ムーは、第二文明圏最大の工業国だ。列強の一角でもある。そして世界有数の機械文明国家でもあった。
そう呼ばれてきた大国のムーが、今では大国同士の言い争いの間で、どちらを選ぶのか迫られている。
「──もう結構だ」
不意に、ゲスタの声が響いた。
大声ではない。それでも怒鳴り合っていた者たちは、次第に口を閉ざしていく。ゲスタは卓上の書類を整え、静かに立ち上がる。
「帝国の立場は十分に説明した。しかし、日本政府も神聖ミリシアル帝国も、レイフォル州に対する帝国の主権を認める意思がない」
「だからこそ、協議を──」
ペラスクの言葉を、ゲスタは片手で制した。
「協議とは、双方が譲歩できる範囲を探るものだろう。帝国の領土を国際管理下へ置けという要求は、譲歩ではない。主権の放棄だ」
シエリアも資料を閉じた。
ダラスは、待っていたとばかりに椅子を引く。
「我々は退席します」
ゲスタが宣言した。
「本会議で提示された案は、帝国に対する不当な内政干渉であり、レイフォル州における帝国臣民と企業の正当な権利を侵害するものだ」
「退席すれば、何も解決しませんよ?」
近藤が言った。
「解決を拒んだのは、我々ではない」
ゲスタはそう返し、日本代表団を見た。
「貴国は、自由貿易という言葉を使いながら、帝国が築いた市場へ入り込もうとしている。だが、覚えておくことだ。投資とは、数字だけではない。鉄道を敷いた者、港を守った者、血を流した者には、それに見合う権利がある」
「その血が、誰のものだったのかも忘れないことですね」
ようやく落ち着いた井上が、スーツを直しながらそう答えた。
再びダラスが何かを言おうとしたが、シエリアが先に彼の腕をつかんだ。
三人は随員を伴い、会議室の出口へ向かう。扉の前に差し掛かった時、ゲスタが一度だけ振り返った。
「そうだ。ムー連邦代表にも申し上げておく」
オーディクスが顔を上げる。
「帝国は、ムーとの友好関係を重視しています。しかし、我々との協力を続けながら、日本にも同じ権益を与え、両国を競わせ続けることが、永遠に可能だとは考えない方がよい」
警告とも、最後通牒とも取れる言葉だった。
「ムーの選択が、ムー自身によってなされることを願っている」
そう言い残し、ゲスタは扉の向こうへ消えた。シエリアが続き、最後にダラスが日本側を睨みつけながら退出する。
重い扉が閉じた。
会議室に残ったのは、気まずい沈黙だけだった。
ペラスクは椅子の背へ深く身体を預け、疲れ切ったように息を吐いた。
「……これでは会議ではないな。宣戦布告の前口上では?」
「まだ戦争ではないでしょう」
近藤が答える。
その声には、自分へ言い聞かせるような響きがあった。
「グラ・バルカス帝国も、日本と正面から争う利益はないはずです」
「軍事的には、そうでしょうが……」
ペラスクは地図を見下ろした。
「だが、経済と権益を巡る戦いは、すでに始まっている気がします」
地図の中央にはムー連邦があった。
日本とグラ・バルカス帝国、そして神聖ミリシアル帝国。三つの大国の影が、その国へ向かって伸びている。
オーディクスは、レイフォル州からムーへ走る鉄道線をじっと見つめていた。
その線は、地図の上では細い一本の黒線にすぎない。
だが現実には、鉱石と石油、機械、兵器、そして数え切れないほどの人間の生活を運んでいる。
窓の外には、神聖ミリシアル帝国の白い街並みが広がっていた。船が行き交い、人々が港町を歩く様は、まさしく平和そのものだった。
だが遠く離れた第二文明圏では、この日交わされた怒号が、やがて工場の門を閉ざし、企業警備員へ銃を持たせ、ムーの街路を戦場へ変えることになる。
その最初の亀裂は、まだ誰の目にも、小さな外交上の対立としか映っていなかった……