契約戦争─列強国ムーの悲哀─ 作:ヘッショ!
中央暦1642年5月
経済都市マイカル郊外 グラ・バルカス資本 カルスライン社の工業団地
マイカルの郊外には、帝国の重工業企業「カルスライン」の名を記した高い塀が、幹線道路に沿って数キロメートルにわたり続いていた。
塀の上には有刺鉄線が張られ、一定間隔で監視塔が立っている。
正門にはムー連邦旗と、マイカルが属するカロッシュ共和国旗。その隣に、グラ・バルカス企業旗が掲げられていた。
旗だけを見れば、ここがムーの領土であることに疑いはない。
だが門の前に立つ者たちは、ムーの警察官ではなかった。
灰緑色の制服を着たグラ・バルカス人警備員が、ストック付きの拳銃を胸元に吊り下げ、道路を通過する車両を止めていた。
「停止しろ」
警備員が片手を上げる。すると、一台の小型貨物自動車が急停車した。
運転していたムー人男性は警備員を見て、不安そうに窓を開けた。
「なんですか?」
「身分証を提示しろ。荷台も確認する」
「いやいや、私は工場の人間じゃない。この道を通って向こうの市場へ行くだけだ」
「この道路は企業保安区域に指定された。通過者は全員、身元確認を受ける」
「公道だろう?」
「工場への輸送路でもある」
警備員は運転席へ手を差し入れるようにして、身分証を要求した。
運転手はしばらく抵抗していたが、警備員が背後の監視塔に据えられた狙撃銃を顎で指す。すると、彼は渋々書類を差し出した。
警備員は身分証を受け取り、隣にいたムー人の補助員へ名前を読み上げる。
その様子を、道路脇に停車した警察車両から二人の警察官が見ていた。
カロッシュ共和国警察の制服を着た若い巡査は、堪えきれずに車を降りた。
「おい、何をしている」
彼が近づくと、グラ・バルカス人警備員が顔を向けた。
「保安検査だ」
「ここは企業敷地の外だ。市民の身分証を確認する権限は、お前たちにはない」
巡査は貨物車の運転手へ手を差し出した。
「身分証を返せ」
警備員は応じなかった。
「この道路は工業団地への主要輸送路だ。先月、企業車列が二度襲撃された。爆発物の持ち込みを防ぐため、通行者を確認している」
「治安維持は警察の仕事だ」
「前に警察が守れなかったから、我々が行っている」
その言葉に、巡査の表情が険しくなった。
「もう一度言う。身分証を返せ。検査を続けるなら、不法な職務行為として──」
「巡査」
後ろから上司の声が飛んだ。年長の警部補が警察車両から降りて来て、巡査を止めようと来ていた。
その顔には、怒りではなく疲労が浮かんでいた。
「戻れ」
「しかし、警部補。この者たちは公道上で──」
「企業保安特例区域だ」
警部補は低い声で言った。
「共和国産業保安局から許可が出ている」
「許可ぁ?」
「重要産業施設に接続する道路では、企業警備部門が警察と協力して通行確認を実施できる」
「協力して、でしょう。我々の立ち会いもなく、市民を勝手に止めている」
「書面上は、警察へ連絡したことになっている」
「我々は何も聞いていません!」
若い巡査が声を荒らげる。
グラ・バルカス人警備員は、二人の会話を無表情に聞いていた。
やがて、身分証を運転手へ返す。
「確認は終了した。行ってよい」
貨物車は逃げるように走り去った。
警備員は次の車へ視線を向ける。
「待て。話は終わっていない」
巡査が腕をつかもうとした瞬間、別の警備員が一歩前へ出た。
手に持つストック付きの拳銃が、わずかに巡査の方へ傾いた気がした。
流石に狙いをつけたわけではない。しかし、脅しとしてはそれだけで十分だった。
警部補が若い巡査の肩を強くつかみ、後ろへ引く。
「やめろ」
「警部補!」
「戻れと言っている!」
巡査は納得できない様子だったが、上司の手を振りほどくことはできなかった。
警備員の責任者らしい男が、門の詰所から姿を現した。
「何か問題でしょうか」
丁寧な言葉遣いだった。
「貴社の警備員が、公道上で市民の身分証を確認している」
警部補が答えた。
「共和国政府と締結した保安協定に基づく行為です」
「その協定は、企業施設への侵入を防ぐためのものだ。一般道路を検問所に変えてよいとは書かれていない」
「当該道路を経由して、弊社施設への破壊工作が行われました」
責任者は淡々と答えた。
「従業員と資産の安全を確保するためには、接近経路の確認が必要です。また、この道路の拡張費用と維持費の大半は弊社が負担しています」
「費用を出したからといって、道路が貴社の領土になるわけではない」
「ここが領土だとは申し上げていません。契約上認められた警備措置を実施しているだけです」
責任者は懐から書類を取り出した。
カロッシュ共和国産業保安局の印章が押されている。
警部補は書面を受け取り、短く目を通した。
そこには、外国企業が重要施設周辺で警察を補助すること、緊急時には従業員や通行車両の身元を確認できることが記されていた。
問題は、「周辺」と「緊急時」の範囲がどこにも明記されていないことだった。
「この文書を発行した担当者と話をさせてもらう」
「もちろんです。正式な照会を提出してください」
「それまで検問を中止しろ」
「施設保安上の理由から、応じられません」
「命令だ」
「共和国政府と弊社の契約は、現場警察官の判断だけでは停止できません」
責任者は穏やかな口調を崩さなかった。
「不服がある場合は、産業保安局を通じて申し立ててください」
その態度には、目の前の警察官を恐れる様子がまるでなかった。
警察が自分たちを逮捕できないと、最初から知っている者の態度だった。
警部補も、それを理解している。ここで強引に警備員を排除すれば、グラ・バルカス企業との外交問題になる。
企業側が工場を停止すれば、数万人の労働者が職をう。トラックや貨物列車が止まれば、マイカルの製鉄所や造船所も影響を受けるだろう。
共和国政府は責任を警察へ押しつけ、事態が拡大すれば、今度は現場の独断だったと説明するかもしれない。
だからこそ、警部補は書類を責任者へ返した。
「市民へ武器を向けるな」
「我々は一度も銃口を向けていません」
「そう見えれば同じことだ」
「誤解を招かないよう注意します」
責任者は形式的に一礼すると、警備員たちへ検査の再開を指示した。
次の車両が止められる。運転手が窓を開け、身分証を差し出す。もはや警察官がそばにいることを気にする者はいなかった。
「なぜ止めないんです」
警察車両へ戻りながら、若い巡査が尋ねた。
「違法でしょう。あいつらが何を言おうと、ここはムーです」
「分かっている」
「なら──」
「分かっていても、命令がなければ動けない」
「市民を守るのが我々の仕事です」
「工場が止まって失業者が出ても、同じことを言えるか」
「それは我々の責任ではないでしょう」
「上はそう考えていない」
警部補は運転席へ乗り込んだ。
若い巡査は、なおも検問を続ける外国人警備員を振り返った。
ここはムーの公道だ。そして相手はムーの警察官である。
それでも、この場所で最も強い権限を持っているのは、外国企業の警備責任者だった。
「じゃあ、我々は何のためにいるんです」
巡査の問いに、警部補は答えなかった。
警察車両が走り去った後も、検問は続いていた。
一方で、日本系工業区でも似たような変化が起きていた。
日本企業の警備会社は、当初、工場敷地内の巡回だけを担当していた。
だがグラ・バルカスと同じく技術者への脅迫や部品輸送車の襲撃が相次ぐと、警備範囲は社員寮、倉庫、鉄道駅へ拡大された。
警備員は携帯端末で従業員の身分を確認し、許可証を持たない者の立ち入りを拒否した。
流石に日本側は、グラ・バルカス企業ほど露骨に公道を封鎖しなかった。
代わりに、工場周辺の土地や道路管理会社を買収し、民有地であることを理由に通行を制限した。
警備員は丁寧な言葉を使い、検査の理由を説明し、苦情の連絡先まで用意した。
しかし結果は同じだ。
ムー人が、自国の都市を歩くために、外国企業が発行した許可証を求められる事に不満を持つ人々が増えて来た。
日本企業はムーの法令に従っていると主張した。
グラ・バルカス企業も契約に従っていると主張した。
そしてどちらも、ムー政府から承認を得ていた。
承認を与えた政治家は、企業が撤退した場合の失業者数を示し、警察は外交問題を恐れて退き、軍は重要産業保護を理由に企業の輸送路の方を警備した。
そして少しずつ、工場の塀の外まで企業の権限が広がっていった。
最初は敷地内、次に社員寮、次に倉庫、次に貨物駅、やがて周辺道路と住宅区画に。
企業警備隊は、単に工場を守る者ではなくなった。
人を止め、身分を確認し、荷物を調べ、拘束し、追放する。
治安機関が持つべき権限を、契約を根拠に行使するようになった。
それでもムー政府は、主権を失っているとは認めなかった。何故なら外国企業はムー法の下で活動しているからだ。
警備権は政府の許可によって与えられている。工場も道路も、最終的にはムー領内にある。
だから法的には、何も失っていない。
だが市民が警察ではなく企業警備員へ身分証を見せ、警察官がそれを止められないのであれば、国旗がどこに掲げられているかなど、もはや大した意味を持たなかった。
マイカルの工業地帯には、目に見えない国境が増え続けていた。
日本系、グラ・バルカス系、構成国の管理区域。
地図上では、すべてムー連邦の領土である。しかし現実には、門を守る者が法を決めていた。
やがてムーの人々は、自分たちの国で起きている異変を、一つの短い言葉で表すようになる。
──骨抜き。
国土を奪われたわけではない。
それでも国家の内部から、自ら決める力だけが抜き取られていた。
残されたのは、外国の契約を執行し、外国の工場を守り、外国企業が作った雇用を失わないよう祈る政府だった。