契約戦争─列強国ムーの悲哀─ 作:ヘッショ!
中央歴1642年6月6日
オタハイト特別行政区 中央業務街
その日の朝、ムー連邦最大手の新聞各紙は、ほぼ同じ内容の記事を一面に掲載していた。
──日本企業による大規模贈賄疑惑。
──オタハイト東部再開発事業、入札審査に不正か。
──行政官、議員、審査委員へ秘密資金。
記事の根拠とされたのは、匿名の告発者から複数の報道機関へ送付された一冊の報告書だった。
表紙には、日本の海外産業支援機関を思わせる名称が記され、内部には送金記録、会食記録、関係者名簿、暗号化された通信文の写しが収められていた。
内容は具体的だった。
日本企業が落札したオタハイト東部再開発事業。
工作機械工場、通信設備工場、物流拠点、発電施設、技術者養成所を含む巨大事業である。
本来、最終審査ではグラ・バルカス系企業が優勢だったはずなのだ。
建設費は安く、雇用予定者数も多く、工期も日本側より短く、周辺鉄道の整備まで一括して請け負う条件を提示していた。
だが最終的に落札したのは、日本企業だった。
当時、オタハイト行政当局は、日本側が提案した高度な技術移転、労働者教育、安全基準、将来的な税収を評価したと説明していた。
新たに出回った報告書は、その説明を真っ向から否定していた。
審査委員への現金供与。議員の親族に対する日本企業への就職斡旋。日本留学費用の肩代わり。特別行政区高官へ提供された高級車など。
そして、入札結果が決まる数週間前に行われた、日本側工作員と行政官の秘密会合。
それらは、疑う余地がないほど精密に記録されていた。
精密すぎるがゆえに、誰もが信じた。
しかし、日本企業としてはその様な不正が行われた覚えは一切ない。
「契約を撤回せよ!」
「不正入札を認めろ!」
午後8時を過ぎたころ、日本企業連合オタハイト支部の前には、千人を超える群衆が集まっていた。
支部ビルは、中央業務街を走る大通りに面していた。
鉄骨と硝子を多用した十二階建ての建物で、複数の日本企業、法律事務所、貿易会社、技術支援団体が入居している。
正面玄関前には広い歩道と車寄せがあり、その向こうを路面電車が走っていた。
普段なら会社員や買い物客で賑わう通りだった。
その日は、グラ・バルカス系企業の旗と、入札のやり直しを求める横断幕で埋め尽くされていた。
抗議活動の中心となったのは、落札を逃したグラ・バルカスのカルスライン社の労働者たちだった。
帝国人だけではない。
工場建設に携わる予定だったムー人労働者、下請け企業の社員、失業者、親グラ・バルカス派の市民団体も加わっている。
彼らの多くは、落札結果によって職を失ったと考えていた。
報告書が事実なら、自分たちの雇用は、日本の金とムーの政治家によって奪われたことになる。
「責任者を出せ!」
「審査をやり直せ!」
「日本企業はムーから出ていけ!」
罵声が硝子張りのビルへぶつかる。
その群衆の前列には、グラ・バルカス企業の警備員が並んでいた。濃灰色の制服、革製の装具、腰には拳銃を所持している。
一部の者は上着の下に短機関銃を吊り、外から見えないよう脇へ抱えていた。
企業側は、抗議参加者の安全確保と秩序維持のためだと説明している。
だが日本側から見れば、武装集団が社員のいるビルを包囲しているのと変わらない。
そのため、日本企業も警備員を増員していた。
正面玄関の内側には、現地採用の警備員と日本系民間警備会社の要員が配置されている。彼らも拳銃を携帯し、受付カウンターの裏や警備室には短機関銃が準備されていた。
もっとも、どちらの側も初めから撃ち合うつもりはない。
グラ・バルカス側の目的は、日本企業へ圧力をかけ、入札を凍結させることだった。
日本側の目的は、社員と書類を守り、ムー警察が群衆を解散させるまで持ちこたえることだった。
双方とも、自分たちが武装しているのは相手が武装しているからだと考えていた。
そしてムー連邦警察は、その間に薄い人垣を作っていた。
「前へ出ないでください!」
拡声器を持った警察官が繰り返す。
「ここから先は企業敷地です! 代表者五名を除き、立ち入りを認めません!」
「警察は日本人の犬か!」
群衆から怒声が返る。
「不正をしたのは日本だぞ!」
「我々の仕事を返せ!」
空き瓶が投げ込まれ、警察の盾に当たった。警察官たちは盾を構え直したが、警棒を抜こうとはしない。
その群衆の前にグラ・バルカス企業の警備員がいる。強制排除を試みれば、外国企業の武装要員と直接衝突する可能性があった。
現場指揮官には、発砲はもちろん、警備員の拘束についても上層部の許可が必要だと命じられていた。
警察は治安を維持するために派遣された。
しかし実際には、双方の間に立ち、どちらからも攻撃されないよう祈るしかなかった。
ビル四階の会議室では、日本企業側の担当者が窓越しに抗議活動を見下ろしていた。
「報告書の出所はまだ分からないのか」
「確認中です。ただ、記載された送金口座の一部は実在します」
「一部は、ということは?」
「別案件で使われた企業口座です。金額と送金先が書き換えられています」
「なら偽造だと発表すればいい」
「問題は、会食記録と人名の多くが本物だという点です」
担当者は机上の報告書をめくった。
「全面的な偽造だと言い切れば、実際にあった接待や政治家との会合まで調査されます」
室内に沈黙が落ちる。日本企業としては、違法な贈賄は行っていない。身に覚えがない。少なくとも、入札結果を買収するような工作はなかった。
だが、日本企業がムーの政治家や行政官と私的な関係を築いていたこと自体は事実だった。
食事会、視察旅行、留学支援、技術交流。
法的には問題がないものもあれば、詳しく調べられたくないものもある。偽造と見られる文書は、その曖昧な部分へ巧妙に食い込んでいた。
「正面の連中は?」
「グラ・バルカス東方建設工業の警備部門です。短機関銃を持っている者も確認されています」
「警察は何をしている」
「行政区政府から、刺激するなと命令されているようです」
窓の下で、新たな怒号が上がった。群衆が一歩前へ押し出し、警察の盾列が揺れる。
ビルの警備責任者が無線機へ手を伸ばした。
「全員へ。正面玄関を閉鎖。社員を窓際から離せ。地下駐車場への経路を確保しろ」
『了解』
「武器の使用は、こちらが明確な攻撃を受けた場合に限る。警告なしに撃つな」
命令を伝えながら、警備責任者は自分の言葉がひどく頼りないものに感じられた。
明確な攻撃が起きた時、その判断を、誰が、どの瞬間に下すのか。
これもまた曖昧なままだった。
夜の9時半頃。
グラ・バルカス企業側の代表者が、警察の案内でビル正面へ進んだ。
男は抗議文を手にし、入口の向こうに立つ日本側警備員へ叫んだ。
「我々は日本企業の責任者との面会を要求する!」
「代表者の身元確認が終わるまで待ってください!」
「朝から同じことを言っているぞ! 責任者は逃げるつもりか!」
群衆が呼応する。
「出てこい!」
「卑怯者!」
「契約を返せ!」
警察官が腕を広げ、代表者を制止した。
「これ以上は進まないでください!」
「我々は話し合いを求めているだけだ!」
「武装した警備員を下がらせてください!」
「日本側にも警備員がいるではないか!」
それは事実だった。
硝子扉の向こうにいる日本系警備員の腰には拳銃があり、その背後では短機関銃を持った要員が半身を隠している。
互いの姿が硝子越しにはっきり見えた。
グラ・バルカス側の警備員が前へ出て、日本側警備員が手を腰へ近づける。
警察官が両者の間へ割って入った。
「武器から手を離せ!」
その声と同時だった。
乾いた音が、一発だけ響いた。
大通りを走る路面電車の鐘でも、車両の排気音でもない。明らかな銃声だった。
その途端、誰かが倒れた。群衆の前列にいたグラ・バルカス企業の警備員だった。
男は胸元を押さえ、驚いたように数歩よろめくと、石畳へ崩れ落ちた。
一瞬、誰も動かなかった。
次の瞬間、ビル正面の硝子が砕けた。
内側にいた日本側警備員の肩から血が噴き出す。
「撃たれた!」
誰かが叫んだ。
「日本人が撃ったぞ!」
「外から発砲!」
「伏せろ!」
グラ・バルカス側の警備員が拳銃を抜いた。日本側も同時に武器を構えるが、警察官が両手を上げる。
「待て! 撃つな!」
最初に誰が応射したのかは、後になっても分からなかった。
拳銃の発砲音が連続する。ビルの硝子へ白い亀裂が走り、玄関前の石柱から破片が飛び散った。
日本側警備員が受付カウンターや柱の陰へ倒れ込み、拳銃を撃ち返す。
グラ・バルカス側は道路脇の車両や花壇へ身を隠した。群衆が悲鳴を上げ、一斉に逃げ始める。
逃げる者と伏せる者がぶつかり、何人もが路上へ倒れた。
「短機関銃だ!」
ビル内から声が上がる。
日本系PMCの要員が、警備室から短機関銃を取り出した。
銃床を肩へ当て、割れた硝子の隙間から外へ銃口を向ける。
「正面、武装員!」
「撃つな、警察がいる!」
「右から回り込んでくる!」
短い連射。
弾丸が停車中の自動車へ当たり、車体に穴を開ける。
グラ・バルカス警備員が車輪の陰へ身を伏せ、同じく短機関銃を抜いた。
「ビル二階!」
「窓を抑えろ!」
彼らも撃ち返す。
弾丸が二階の窓を横切り、事務机や壁を砕いた。社員たちは床へ伏せ、机の下へ潜り込む。
警報が鳴り響き、防火扉が閉まり始めた。
正面玄関では、ムー警察が完全に戦闘の間へ取り残されていた。
「撃つな! 我々は警察だ!」
盾を掲げた警察官が叫ぶ。
しかし双方とも聞いていない。
一人の巡査が脚を撃たれ、倒れる。別の警察官が彼の襟をつかみ、植え込みの陰へ引き込んだ。
「発砲地点はどこだ!」
「分からない!」
「屋上か!」
「両側から撃たれてる!」
誰も、最初の銃声がどこから放たれたのか確認できなかった。
大通りの向かいにある古い事務所。その三階、看板の陰に隠れた窓から、一人の男が静かに後退していた。
使った狙撃銃は、すでに分解され、鞄へ収められている。
男はムー人労働者と変わらない服装をしていた。
階段を下りながら、胸元の小型送信機を一度だけ押す。
任務完了を伝える合図。
南方のアニュンリールの言葉だった。
彼はグラ・バルカス警備員を撃ち、ほぼ同時に、別の建物へ配置されたもう一人が日本企業ビルへ発砲。
片方だけでは足りない。双方に、自分たちが先に撃たれたと思わせる必要があった。
銃撃戦は、二十分ほど続いた。
双方の主な武器は拳銃と短機関銃であり、遮蔽物も多く、戦闘の規模に比べれば犠牲者は限られた。
それでも、十数名が死亡、または負傷する結果となった。
銃撃戦を終わらせたのは、交渉でも現場警察の説得でもない。
オタハイト駐屯していたムー連邦内務軍の装甲車だった。大通りの両側から装甲車が進入し、武装した兵士が展開する。
「全員、武器を捨てろ!」
「従わない者は拘束するぞ!」
拡声器から命令が響く。
日本側警備員はビル内へ後退し、武器を床へ置いた。グラ・バルカス側の警備員も、負傷者を引きずりながら銃を下ろす。
しかし内務軍は双方の施設へ踏み込まなかった。
日本大使館とグラ・バルカス大使館から、ほぼ同時に連絡が入っていたためである。
日本側は、包囲された邦人の安全を保証するまでビルへの進入を認めないと通告した。グラ・バルカス側は、帝国人警備員の拘束を敵対行為とみなすと警告した。
結果として拘束されたのは、逃げ遅れたムー人抗議者と、現場にいた一部のムー人警備員だけだった。
外国人の武装要員は、それぞれの企業施設や大使館関係車両へ移送された。
同日夜。
日本企業は声明を発表した。
グラ・バルカス系武装集団がビルを包囲し、警備員と社員へ発砲したため、正当防衛として応射した、と。
入札不正を示す報告書は悪質な偽造であり、法的措置を取るとした。
グラ・バルカスのカルスライン社も声明を出した。
平和的な抗議活動に参加していた労働者と警備員に対し、日本系PMCが計画的に発砲した。これは企業警備の範囲を超えた武力行使であり、日本側による証拠隠滅の試みである。
双方とも、自分たちは撃たれた側だと主張したのだ。
そして双方とも、相手が武装していたことを証拠として提示した。
双方とも、自らの警備員が銃を持っていた理由を、相手の存在によって正当化した。
ムー連邦政府は、事件を「オタハイト中央業務区武力衝突事件」と呼び、独立調査委員会の設置を発表。
大統領は国民へ向け、厳しい表情で語った。
「ムー連邦領内における無許可の武力行使は、いかなる国家、企業、組織によるものであっても容認されません。政府は法と秩序を回復し、責任者を厳正に処罰します」
だが、その日のうちに逮捕された日本人警備員も、グラ・バルカス人警備員もいなかった。
押収された外国企業の武器もない。
事件現場はムーの首都だったにも関わらず。
翌朝、オタハイトの新聞は事件を大きく報じた。
ある新聞は、日本企業ビルの割れた窓を一面に載せた。別の新聞は、路上に倒れたグラ・バルカス企業の労働者を掲載した。
親日系紙は「武装包囲から邦人を守った」と書き、親帝国系紙は「日本企業による虐殺」と書いた。
だが、小さな独立系新聞だけは、一面に別の見出しを掲げた。
──外国企業が首都で交戦。
その下には、さらに大きな文字があった。
──ムー政府は、誰を逮捕したのか。
答えは、誰もが知っていた。
この事件以降、日本系企業もグラ・バルカス系企業も、自社施設の警備を強化した。
拳銃だけだった警備員には短機関銃が配られ、短機関銃だけだった部隊は、自動小銃の配備を申請した。
工場の塀は高くなり、監視塔が増え、道路には検問所が設けられた。
輸送車列には装甲車が付き、技術者は武装警護なしでは移動しなくなった。
そしてそこに退役軍人、元警察官、傭兵、密輸業者が集まり始めた。
オタハイトで起きた二十分間の銃撃戦。ムーの人々は後に、この日を別の名前で呼ぶことになる。
──グランドゼロ。
──契約戦争の始まり、と。
外国企業が契約書の権利を、ムーの裁判所ではなく銃によって主張し始めた日。
そしてムー連邦政府が、自国の首都で行われた外国勢力の戦闘を、止めることも裁くこともできないと世界へ示した日だった。