異世界から来た少女を拾ったら追跡者に狙われました 作:たけのこ教徒
第一話 はじまりの前夜
レイチェルとミィルが家で暮らすようになって、数週間が経った。
最初の頃、レイチェルは何をするにも遠慮していた。
食事が終われば、誰よりも早く立ち上がって、
「何かお手伝いします」
と言う。
そのくせ、母さんから皿を運ぶよう頼まれると、落とさないよう両手でしっかり持ち、足元を確かめながらゆっくり歩いていた。
見ているこっちが心配になるくらい慎重だった。
洗濯物を畳む時もそうだ。
母さんが見本として一枚畳むと、角の重なり方まで確認しながら、同じ形にしようと何度もやり直す。
「そこまできっちりしなくても大丈夫よ」
母さんが笑っても、
「でも、お借りしているものですから」
と、真剣な顔で答えていた。
親父に話しかけられた時は、さらに分かりやすい。
仕事から帰ってきた親父が、
「今日は何をしていたんだい?」
と何気なく聞いただけで、レイチェルは背筋をぴんと伸ばす。
「本日はトーコさんと一緒に、お料理と洗濯のお手伝いをさせていただきました」
まるで報告書を読み上げるみたいな返事だ。
親父も最初は戸惑っていたが、今では慣れたらしい。
「そんなに固くならなくていいよ」
と毎回言っている。
けれど、最近は少しずつ変わってきた。
食器棚の場所も覚え、母さんが何か言う前に皿を片づける。
朝は一緒に味噌汁を作り、母さんがネギを切っている横で、レイチェルが豆腐を崩さないよう慎重に鍋へ入れている。
「これは、こっちですよね?」
「そうそう。もう私が教えなくても大丈夫そうね」
そう褒められると、レイチェルは少し照れたように笑う。
親父がニュースを見ている時も、以前のように少し離れた場所で黙って座っていることはなくなった。
「ケンジさん、この人は何をしている人ですか?」
「この人は政治家だな」
「せいじか……?」
「国の決まりを作ったり、どう運営するかを話し合ったりする人だよ」
「王様とは違うんですか?」
「王様は日本にはいないんだ」
そんな質問から始まり、親父が帰宅したばかりだというのに、長い説明をすることも増えた。
親父は説明好きだから、むしろ楽しそうだった。
ミィルもすっかり馴染んでいる。
見た目だけなら、灰色の小さなマスコットみたいな生き物だ。
近所を歩けば、子供たちに見つかる。
「ミィルちゃんだ!」
「触ってもいい?」
本人――いや、本獣は外では喋れないふりをしているため、逃げもせず、尻尾をぱたぱたと揺らしている。
頭や背中を撫でられている間は愛想よく振る舞っているが、家へ戻った途端。
「今日の子、耳を引っ張ろうとしたのよ!」
と文句を言う。
「でも、パンもらってただろ」
「それとこれとは別よ」
そんなやり取りも、もう珍しくなくなった。
少しずつ。本当に少しずつだけど。
レイチェルとミィルがいる生活は、獅童家の日常になり始めていた。
そんな日々の中。
学校側との話し合いや、当面通学するための手続きが、ようやく一通り終わった。
母さんがどんな手を使ったのかは知らない。
聞いても、
「知り合いに相談しただけよ」
と笑うばかりだった。
年齢や、向こうの世界で受けてきた教育を照らし合わせた結果。
レイチェルは、オレと同じ中高一貫校の中等部二年へ入ることになった。
オレは高等部二年。
学年も校舎も違う。
それでも、同じ学校なら何かあった時に動きやすい。
そして、明日がその初登校だった。
◇◆◇
夕食を終えた後。
リビングには、少し妙な緊張感があった。
親父はソファへ座っている。
母さんは何度も廊下の方を見ている。
オレはテレビを眺めていたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。
別に大したことじゃない。
レイチェルが制服を着て見せる。
それだけだ。
なのに、家族全員で待っているせいか、妙に大きな行事みたいになっている。
「……えっと」
廊下の向こうから、レイチェルの声がした。
「入っても、大丈夫ですか?」
「もちろんよ」
母さんがすぐに答える。
「早く見せて」
少しして、リビングの扉が、ゆっくりと開いた。
入ってきたレイチェルは、うちの学校の制服を着ていた。
白い襟のセーラー服。
濃い色のスカート。
胸元には、少し歪んだ三角タイ。
銀がかった灰色の髪は、いつもより丁寧に整えられていた。
普段着や家の中で着ている柔らかい服装とは、随分と印象が違う。
少し大人びて見える。
でも、緊張して両手でスカートの端を押さえているところは、いつものレイチェルだった。
「……どう、でしょうか」
「似合ってるぞ」
親父が即答した。
「かわいいじゃない」
母さんも満足そうに何度も頷く。
「サイズも問題なさそうね」
「はい。動きやすいです」
レイチェルの足元では、ミィルが尻尾をぶんぶん振っていた。
親父と母さんの前では喋れないから、何も言わない。
それでも、ものすごく嬉しそうなのは伝わってくる。
「セーラー服にしたんだな」
オレが言うと、レイチェルはこくりと頷いた。
「はい。ブレザーも素敵だったんですけど……」
胸元の襟へ、そっと触れる。
「お父様が持っていた本で、似た服を着た学生を見たことがあって」
「一度、着てみたいと思っていました」
「なるほどな」
「うちの学校、ちょっと変わってるよな」
女子はセーラー服かブレザー。
男子も詰襟かブレザー。
好きな方を選べる。
この特殊なシステムから入学を希望する者は少なくない。
「ショーゴさんは、詰襟なんですよね」
「まあな。なんとなくな」
本当は、毎朝ネクタイを結ぶのが面倒だっただけだ。
そのことは言わなくていいだろう。
レイチェルが胸元の三角タイへ手をやる。
「でも、これが少し難しくて……」
言われて見れば、左右の長さが微妙に違う。
結び目も少し斜めになっていた。
「あら、まだ不安?」
母さんが立ち上がり、レイチェルの前へ行く。
「はい。何度か練習したんですけど」
「じゃあ、もう一度やってみましょうか」
「お願いします」
二人で姿見の前へ移動する。
レイチェルが、一度タイをほどく。
「えっと……こう?」
「そこまでは合ってるわ」
「それから、こっちを……」
言いながら結び直す。
けれど、途中で布がねじれた。
「あ」
「惜しい。そこは反対ね」
「反対……」
「そう。こっちを上にして」
母さんが後ろから手元を示す。
「そこへ通して、引っ張りすぎないように整えるの」
「……こうですか?」
「そうそう」
レイチェルが慎重に結び目を整える。
今度は、左右の形もきれいに揃った。
「できた……!」
鏡を見たレイチェルの表情が、ぱっと明るくなる。
たかが制服のタイを結べただけ。
でも、本人にとっては、それもこの世界で生活するための新しい一歩なのだろう。
「上手にできたじゃない」
「ありがとうございます、トーコさん」
「明日の朝も、自分でやってみましょうね」
「はい」
親父が小さく笑う。
「学校で分からなくなったら、友達に聞けばいい」
「友達……」
レイチェルは、その言葉を確かめるように小さく繰り返した。
「明日は早いからな。忘れ物にも気をつけるんだぞ?」
「はい」
真面目に頷く。
その視線が、ふとオレへ向いた。
「ショーゴさんは……どう思いますか?」
「ん?」
「制服……」
胸元のタイへ触れながら、少し不安そうに尋ねる。
「変じゃないですか?」
改めてレイチェルを見る。
変なところなんて、どこにも見当たらない。
むしろ、銀灰色の長い髪にセーラー服がよく似合っている。
そう考えると、ストレートに伝えるのは何か照れくさい。
だから、一瞬だけ迷った。
かといって、飾った言葉なんて思いつかない。
「……似合ってると思うぞ」
自然にそう答えた。
レイチェルは一瞬だけ目を丸くする。
それから、照れくさそうに、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
母さんが、こちらを見ながらにこにこしている。
「なんだよ、その顔」
「別に何も言ってないでしょう?」
「顔が言ってる」
「あら、何を?」
「知らねぇよ」
母さんは余計に楽しそうに笑った。
親父は何も言わず、湯呑みのお茶を飲んでいる。
「学校、楽しみかい?」
親父が尋ねる。
レイチェルは少し考えた。
期待だけではない。
緊張も、不安もあるのだろう。
それでも。
「……はい」
はっきり頷く。
「少し緊張もしています。でも、楽しみです」
「まあ」
オレはソファの背へもたれながら言った。
「下級生にも何人か知り合いがいるから、困った時に頼れるよう話を通しておく」
「え?」
「校舎も違うし、ずっとオレがついて回るわけにもいかないからな」
制服の着方。
体育の着替え。
必要な持ち物。
男子のオレには分からないこともある。
「女子同士じゃなきゃ相談しにくいこともあるだろ」
「……いいんですか?」
「別に」
こういう時くらい、顔が広いのも役に立つ。
「愛衣っていう中等部の後輩がいるから、明日の朝に話してみる」
「アイさん?」
「ああ。ちょっと派手だけど、面倒見はいい」
「派手……」
「見れば分かる」
レイチェルは少し不安そうな顔をした。
「怖い人ではないぞ」
「本当ですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「大丈夫だって」
オレがそう言うと。
レイチェルは、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます、ショーゴさん」
「おう」
母さんが壁の時計を見る。
「さて」
手を叩く。
「明日は早いんだから、そろそろ休みなさい」
「はい」
「制服は脱いだら、ちゃんとハンガーへ掛けるのよ」
「分かりました」
「ミィルも夜更かししちゃ駄目よ」
呼ばれたミィルは、何も言わず前足を一度上げた。
たぶん、返事のつもりだ。
レイチェルは制服の裾を少し気にしながら、自分の部屋へ戻っていく。
ミィルも、その後ろをとてとてと追いかけた。
リビングの扉が閉まる直前。
ミィルがこちらを振り返り、尻尾を一度だけ振る。
まるで、明日のことは任せなさい。
そう言っているみたいだった。
◇◆◇
部屋へ戻って。
わたしは制服からパジャマへ着替えた。
脱いだセーラー服を丁寧に畳もうとして。
途中で手を止める。
明日、また着る服だ。
トーコさんから教わった通り、ハンガーへ掛けた方がいい。
襟や袖に変なしわがつかないよう、慎重に形を整える。
スカートも別のハンガーへ掛けた。
壁際で、制服が静かに揺れる。
しばらくわたしは、その場から動けなかった。
明日になれば。
あの制服を着て。
わたしは学校へ行く。
知らない教室。
知らない授業。
知らない人たち。
友達ができるかもしれない。
今まで知らなかった景色を見られるかもしれない。
お父様とお母様が、幼い頃から話してくれた外の世界を。
今度は、自分の目で見て、自分の足で歩くことができる。
胸の奥が、少し熱くなった。
けれど。
同時に。
故郷のことを思い出す。
お母様たちは、今もわたしを捜しているだろう。
お祖父様も、きっと怒っているだろう。
ガルシアも、この世界のどこかにいる。
帰る方法は、まだ分からない。
そのことを考えると、胸が痛んだ。
それでも、明日を楽しみに思う気持ちまで、嘘にはできなかった。
「楽しみ?」
ベッドの上で丸くなっていたミィルが、小さな声で聞いてきた。
「……うん」
「不安じゃなくて?」
「少しは」
ベッドへ入り、布団を膝まで掛ける。
視線は、まだ制服へ向いたままだった。
「ちゃんと授業についていけるかな、とか」
「友達ができるかな、とか」
「変なことを言って、怪しまれないかな、とか」
「最後のは特に気をつけなさい」
ミィルが真剣な声で言う。
「魔法とか異世界とか、絶対に口へ出しちゃ駄目よ」
「分かってるよ」
「今日も車を見て、竜車より速いって言いそうになったでしょ」
「……少しだけ」
「少しでも駄目」
「気をつけます」
反省して答えると、ミィルは満足そうに頷いた。
「ならよろしい」
「でも」
わたしは布団の端を握る。
「不安より、楽しみの方が大きいかな」
「そう」
ミィルの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「昔からそうなんだから」
「……そうかな?」
「そうよ。思い立ったら止まらない」
「外の世界へ行きたいって言い始めた時も」
「ゲートを勝手に使おうとした時も」
「それは……」
言い返せない。
「ちょっと反省してる」
「ちょっと?」
「……ちゃんと反省してる」
「本当に?」
「……本当です」
ミィルはわたしの顔をじっと見る。
やがて。
「まあ、いいわ」
尻尾をゆっくり揺らした。
「明日は私もついていければよかったんだけど」
「学校には連れていけないからね」
「鞄の中なら」
「ずっと隠れてるの、嫌でしょ?」
「それは嫌ね」
即答だった。
思わず笑う。
「家で待ってて」
「……何かあったら、すぐショーゴを頼りなさい」
「ショーゴさんは高等部だよ?」
「同じ学校にはいるんでしょ?」
「うん」
「なら大丈夫」
ミィルはそう言うと、枕元へ移動して丸くなった。
わたしは布団を肩まで引き上げる。
「さ、もう寝ましょ?」
「うん」
枕元の灯りを消す。
部屋が暗くなる。
窓から入る淡い月明かりに。
ハンガーへ掛かった制服が、ぼんやりと浮かんで見えた。
「おやすみ、ミィル」
「おやすみ、レイチェル」
目を閉じる。
新しい場所。
新しい人たち。
新しい一日。
眠りに落ちる直前。
わたしは、あの制服を着て校門をくぐる自分を想像した。
まだ顔も知らない誰かへ。
少し緊張しながら。
「おはよう」
そう声を掛ける、明日の自分を。