異世界から来た少女を拾ったら追跡者に狙われました 作:たけのこ教徒
朝食を終えた頃には、空は気持ちよく晴れていた。
白米に味噌汁。焼き鮭に卵焼き。
いつもと変わらない朝食。
だけど、今日はどこか家の空気が違う。
レイチェルの初登校の日だからだ。
「忘れ物ない?」
母さんが優しく聞く。
「だ、大丈夫だと思います」
制服姿のレイチェルが少し緊張した表情で答えた。
昨日より制服には慣れて見える。
それでも、どこか落ち着かない様子だった。
「『思います』じゃなくて、ちゃんと確認しなさい」
「は、はい」
慌てて鞄を開ける。
教科書。
筆箱。
ノート。
ハンカチ。
母さんと一緒に何度も確認した持ち物を、一つ一つ指差しながら見直している。
その様子を、新聞を読んでいた親父が目を細めた。
「初登校だからな」
「転校初日でもあるし」
オレも湯飲みを置きながら言う。
レイチェルは照れくさそうに笑った。
「……はい」
そんな何気ない朝食を終え、みんなで玄関を出る。
春の朝の空気は少しひんやりしていて気持ちいい。
門扉を開けたところで――
「ちょっと待った!」
母さんが元気よく声を上げた。
手にはスマホ。
嫌な予感しかしない。
「……なんだ?」
「記念写真!」
「は?」
すると親父が腕時計を確認しながら笑った。
「写真だけは撮ってから行く」
「会社、大丈夫なの?」
母さんが聞く。
「ああ」
親父はスーツの袖を軽く直しながら頷く。
「少しくらい余裕を見て出るようにしてある」
そしてレイチェルへ視線を向けた。
「初登校だからな。見送らないわけにはいかないだろ」
レイチェルは目を丸くする。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げた。
「よーし、まずはレイチェルちゃん一人!」
「え? あ、はい」
門扉の前へ立つレイチェル。
朝日に照らされた真新しいセーラー服。
銀がかった灰色の髪が風に揺れる。
「かわいいわねぇ」
母さんは嬉しそうにスマホを構えた。
カシャ。
カシャ。
角度を変えながら何枚も撮る。
「ちょ、ちょっと多くないですか?」
「いいのいいの。初登校なんだから」
「似合ってるぞ」
親父も穏やかに笑う。
「ありがとうございます」
レイチェルは少し照れながら微笑んだ。
「次はミィルも一緒!」
母さんに言われ、レイチェルは足元のミィルを抱き上げる。
ミィルはおとなしく腕の中へ収まった。
外では喋れない。
だから動物らしくじっとしている……いや。
尻尾だけはぶんぶん揺れていた。
「ふふっ、かわいい」
母さんが笑う。
カシャ。
カシャ。
「うん! これはいい!」
撮った写真を見ながら満足そうに頷く。
親父も覗き込み、
「いい写真だな」
と笑った。
レイチェルも安心したように微笑んでいる。
そして。
「最後!」
母さんがオレを見る。
「正護」
「嫌な予感しかしねぇ」
「レイチェルちゃんの隣」
「なんでだよ」
「いいから」
「いや――」
「いいから」
笑顔なのに逆らえない。
仕方なくレイチェルの隣へ立つ……近い。
レイチェルも同じことを思っているらしく、姿勢が妙にいい。
二人とも固まっていた。
「はい、笑ってー!」
カシャ。
母さんは画面を確認し、一瞬黙った。
そして。
「あはははは!」
盛大に吹き出した。
「なんだよ」
「二人とも顔が硬すぎ!」
オレとレイチェルは顔を見合わせる。
「……」
「……」
親父も写真を覗き込み、
「証明写真か?」
と真顔で言った。
母さんが吹き出す。
「そうそう!」
「そんなにか?」
「そんなによ」
即答だった。
レイチェルは耳まで真っ赤になっていた。
「でも」
母さんがもう一度写真を見る。
「これはこれで好きよ」
「え?」
「二人らしくていいじゃない」
親父も頷く。
「自然でいい」
その言葉に、レイチェルは少しだけ力を抜いたように笑った。
親父が腕時計へ視線を落とす。
「よし」
「そろそろ俺も行くか」
ビジネスバッグを持ち直し、レイチェルの前へ立つ。
「肩の力を抜いてな」
「……はい」
「分からないことがあったら先生でもショーゴでもいい。遠慮するな」
「はい」
親父は満足そうに頷き、今度はオレを見る。
「正護」
「ん?」
「レイチェルちゃんのこと、頼んだぞ」
「ああ。わかってる」
短く返す。
それだけで十分だった。
親父は安心したように笑う。
「じゃあ行ってくる」
「いってらっしゃい」
母さんとレイチェルの声が重なる。
親父は片手を軽く上げ、そのまま駅の方へ歩いていった。
親父の背中が見えなくなる頃、オレも鞄を肩へ掛ける。
「オレも行くわ」
「もうですか?」
レイチェルが聞いてくる。
「ああ」
オレは頷いた。
「今日は中等部へ寄る」
「中等部?」
「昨日話しただろ?後輩に話を通しとくって」
「話?」
「女子同士じゃなきゃ相談しにくい事もあるだろ」
レイチェルは少し驚いたように目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「別に」
照れくさくて頭を掻く。
すると母さんが笑顔で言った。
「私はレイチェルちゃんを学校まで送るわ」
「え?」
「転校初日なんだから当然でしょ」
母さんは笑う。
「先生にもご挨拶しないといけないし、職員室にも寄るんだから」
「……お願いします」
「任せなさい」
胸を張る母さん。
その姿に思わず苦笑した。
「じゃあ」
オレは門を出る。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
母さんの声。
「いってらっしゃい、ショーゴさん」
レイチェルの声。
数歩歩いて振り返る。
門の前には制服姿のレイチェル。
その隣で笑う母さん。
足元にはミィル。
少し前まで想像もしなかった光景だった。
「じゃあな」
手を軽く上げる。
レイチェルも小さく手を振り返した。
「はい」
「また昼だな」
その一言に、レイチェルの表情がふっと和らぐ。
「……はい」
その返事を聞いてから、オレは学校への道を歩き始めた。
今日から始まる新しい日常。
きっと、昨日までとは少し違う一日になる。
◇◆◇
ショーゴさんの背中が、少しずつ遠ざかっていく。
いつもの学ラン姿。
片手を軽く上げて歩いていく後ろ姿は、どこか頼もしかった。
住宅街の角を曲がり、その姿が見えなくなる。
その瞬間だった。
「……」
胸の奥が、少しだけきゅっと締め付けられる。
昼にはまた会える。
同じ学校の中にいる。
そう分かっているのに。
さっきまで感じていなかった緊張が、一気に押し寄せてきた。
「……緊張してきちゃった」
思わず本音が漏れる。
「今さら?」
隣から、トーコさんが優しく笑った。
「……はい」
小さく頷く。
トーコさんは少しだけ身を屈め、わたしと目線を合わせた。
「大丈夫よ。今日はね、友達を作ろうとか、頑張ろうとか思わなくていいの」
「え?」
「ちゃんと挨拶できたら、それだけで百点」
その言葉を聞いて、胸の力が少しだけ抜けた。
「……はい」
自然と笑みがこぼれる。
「そうそう。その笑顔なら大丈夫」
そう言ってトーコさんも笑った。
その時だった。
「そうだ」
トーコさんが足元を見る。
「ミィルはお留守番ね」
ミィルの耳がぴくりと動いた。
そして――しゅん。
耳が垂れた。
「ごめんね」
わたしはしゃがみ込み、ミィルの頭を優しく撫でる。
「学校には連れて行けないから」
ミィルは何も言わない。
外では喋らない約束だから。
それでも、少しだけ寂しそうに尻尾を揺らした。
「帰ったら、学校のお話いっぱいするね」
その言葉に、ミィルは少し元気を取り戻したように尻尾を振る。
わたしの手へ頬をすり寄せると、一度だけ小さく鳴いた。
「行ってくるね」
ミィルは小さく前足を上げる。
まるで「行ってらっしゃい」と言ってくれているみたいだった。
トーコさんも微笑む。
「ちゃんと待っててくれるって」
「……うん」
もう一度だけ頭を撫でて立ち上がる。
ミィルは門扉の前でわたしたちを見送っていた。
何度か振り返るたび、小さな尻尾が左右に揺れている。
わたしも手を振り返した。
◇◆◇
住宅街を歩く。
朝の日差しが暖かい。
ランドセルを背負った小学生。
犬の散歩をしている人。
自転車で駅へ向かう会社員。
この世界では当たり前の朝の景色。
まだ見慣れないけれど、不思議と嫌じゃなかった。
「あら、灯子さん」
向こうから来たジャージ姿の女性が小走りを止める。
「おはようございます」
「おはようございます」
トーコさんが笑顔で返す。
「その子が例の?」
「ええ。今日から学校なの」
女性はわたしを見る。
「転校初日?」
「……はい」
「頑張ってね」
「ありがとうございます」
頭を下げると、女性は嬉しそうに笑った。
「礼儀正しい子ねぇ」
去っていく姿を見送りながら、トーコさんが笑う。
「ちゃんと挨拶できたじゃない」
「……はい」
少しだけ嬉しかった。
その後も、
「あら、灯子さん」
「おはようございます」
何人もの人とすれ違う。
みんな笑顔で声を掛けてくれる。
そのたびに、
「おはようございます」
わたしも少しずつ自然に挨拶ができるようになっていた。
◇◆◇
歩き続けると、大きな校門が見えてきた。
その向こうには、同じ制服を着た生徒たちが次々と歩いている。
友達と笑いながら話す子。
眠そうにあくびをしている子。
走って校舎へ向かう子。
みんな、ごく当たり前のように学校へ入っていく。
わたしは思わず足を止めた。
「……ここが」
「そう」
トーコさんが優しく頷く。
「今日からレイチェルちゃんの学校よ」
胸がどきどきする。
昨日の夜、何度も想像した景色。
でも、本当に目の前にすると、想像よりずっと大きかった。
「行きましょうか」
「……はい」
深呼吸を一つ。
わたしは校門をくぐった。
◇◆◇
校舎へ入る。
廊下には生徒たちの話し声が響いていた。
靴箱。掲示板。
窓から差し込む朝日。
何もかもが初めて見る景色だった。
トーコさんに案内され、職員室の前まで来る。
「ここが職員室よ」
わたしは思わず姿勢を正した。
「そんなに固くならなくても大丈夫」
トーコさんが小さく笑う。
「失礼します」
扉を開ける。
中には先生たちがたくさんいた。
電話が鳴っている。
コピー機が動いている。
パソコンへ向かう先生。
書類を運ぶ先生。
学校という場所が動き始めている。
その空気に、思わず背筋が伸びた。
「お待ちしていました」
柔らかな声が聞こえる。
振り向くと、一人の女性教師が立っていた。
三十代後半くらいだろうか。
優しそうな笑顔が印象的だった。
「レイチェルさんですね」
「は、はい」
慌てて頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくね」
先生は穏やかに笑った。
「では、お母様」
先生がトーコさんへ向き直る。
「あとはお任せください」
「よろしくお願いします」
トーコさんも一礼する。
そして、わたしを見る。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
その一言だけだった。
だけど、不思議と安心できた。
「……はい」
わたしは小さく頷く。
先生の後ろを歩き始める。
廊下を進む。
一歩、また一歩。
やがて、一つの教室の前で先生が足を止めた。
中から、楽しそうな話し声が聞こえてくる。
「ここが、あなたの教室よ」
わたしは鞄の持ち手をぎゅっと握り直した。
胸が高鳴る。
――今日から始まる。
わたしの、新しい学校生活が。