異世界から来た少女を拾ったら追跡者に狙われました 作:たけのこ教徒
浴室には、わたしの知らないものがたくさんあった。
壁から出ている銀色の管。
ひねるだけで出てくるお湯。
頭の上から雨のように水を降らせる道具。
魔法陣も魔石も見当たらない。
なのに、すぐに温かいお湯が出る。
「これが、お父様の世界……」
お父様が話してくれたことを思い出す。
この世界には魔法がない。
その代わりに、機械というものが人々の生活を支えている。
お湯を出す。
部屋を明るくする。
遠くの人と話す。
それらを、魔力なしで行う。
実際に目にすると、不思議だった。
湯船へ身体を沈める。
冷えていた身体が、ゆっくり温まっていく。
思わず息が漏れた。
「気持ちいい……」
身体は安心している。
けれど、心は落ち着かなかった。
ショーゴさん。
トーコさん。
二人とも優しかった。
何も知らないわたしを助けてくれた。
だからこそ。
黙ったままでいいのだろうか。
ガルシアがこちらへ来ている可能性がある。
わたしたちを見つければ、連れ戻そうとする。
ガルシアは無関係な人を進んで傷つけるような人ではない。
けれど、命令を果たすためなら力を使う。
わたしがここにいることで、ショーゴさんたちが危険に巻き込まれるかもしれない。
「話した方がいいのかな……」
異世界から来た。
ゲートを使って家出した。
追ってきた人がいる。
そんな話を、信じてもらえるとは思えない。
それに、もし信じてもらえたとしてもここから追い出されるかもしれない。
そう考えてしまった自分が嫌だった。
助けてもらったのに。
迷惑を掛けるかもしれないのに。
追い出されたくないと思っている。
「どうしたらいいの、ミィル……」
けれど、ミィルはまだ眠っている。
わたしが決めなければいけない。
お湯から上がり、用意されていた新しい浴衣を着る。
さっきより、少しだけ上手に着られた。
廊下へ出ると、食べ物の匂いがした。
空腹を思い出す。
匂いを頼りに歩くと、広い部屋へ着いた。
中央にテーブル。
壁際には、大きな黒い板のようなもの。
その横には、棚や写真が置かれている。
ショーゴさんが、湯呑みを持って座っていた。
トーコさんは台所で料理をしている。
「お風呂、どうだった?」
トーコさんが聞く。
「すごかったです」
「すごかった?」
「何もないのに、お湯が出ました」
わたしが答えると、ショーゴさんが不思議そうな顔をした。
トーコさんは少しだけ目を細めた。
「そうね。便利でしょう」
「はい」
「座って。もうすぐできるから」
わたしはショーゴさんの向かいへ座った。
沈黙が落ちる。
何か話さないといけない。
でも、何を話せばいいか分からない。
ショーゴさんも同じなのか、湯呑みを見ている。
「日本は初めてか?」
ショーゴさんが聞いた。
わたしは少し迷ってから頷いた。
「はい」
「旅行か?」
「……そんな感じです」
家出です、とは言えなかった。
「家族は?」
胸が痛んだ。
「います」
「連絡できないのか?」
「今は、できません」
嘘ではない。
ゲートが壊れているなら、連絡する方法もない。
「そっか」
ショーゴさんは、それ以上聞かなかった。
トーコさんと同じ。
聞こうと思えば、もっと聞けるはずなのに。
わたしが答えたくないと分かると、それ以上踏み込まない。
優しさなのだろうか。
それとも、何かを疑っているのだろうか。
玄関の方から音がした。
「ただいま」
男の人の声。
「おかえりなさい」
トーコさんが返事をする。
少しして、黒い服を着た男の人が入ってきた。
ショーゴさんと少し似ている。
髪の色と、目元。
「おかえり」
「正護。ただいま」
男の人はネクタイを緩めながら、わたしを見た。
「ああ。君が、倒れていた子か」
わたしは慌てて立ち上がる。
「レイチェル・ラディーナです。助けていただいて、ありがとうございます」
「私は獅童賢司。正護の父親だ」
ケンジさんは、わたしへ頭を下げた。
「もう身体は大丈夫かい?」
「はい」
「ならよかった」
もっと驚かれると思った。
家へ帰ったら、知らない女の子がいる。
普通なら困るはず。
けれど、ケンジさんは上着を脱ぎ、いつものことのように席へ座った。
「あなた、着替えてきたら?」
「そうするよ」
トーコさんに言われ、ケンジさんは部屋を出る。
ショーゴさんが小さく呟いた。
「親父も普通だな……」
「何か言った?」
「いや、何でもない」
しばらくして、テーブルに料理が並んだ。
白いご飯。
野菜の入ったスープ。
焼いた魚。
卵を巻いたもの。
見たことのない料理ばかり。
でも、とてもいい匂いがする。
「食べられそうなものだけでいいからね」
トーコさんに言われる。
「いただきます」
三人が同時に手を合わせた。
わたしも慌てて真似をする。
「いただきます」
箸という道具を使うらしい。
二本の細い棒。
お父様から教わったことはある。
けれど、実際に使うのは初めてだった。
魚をつまもうとして、落とす。
もう一度挑戦する。
また落とす。
隣でショーゴさんが見ている。
恥ずかしい。
「フォーク出そうか?」
トーコさんが聞く。
「大丈夫です」
意地になって魚をつまむ。
三度目で、ようやく持ち上がった。
口へ運ぶ。
「おいしい……」
「よかった」
トーコさんが笑う。
温かい食事。
家族の会話。
食器が触れる音。
それを聞いていると、自分の家を思い出した。
お母様。
お祖父様。
城の使用人たち。
今頃、わたしがいないことに気づいている。
心配している。
お祖父様は怒っているだろう。
わたしは箸を持つ手を止めた。
「どうした?」
ショーゴさんに聞かれる。
「口に合わなかった?」
「違います。とてもおいしいです」
わたしはもう一度、魚を口へ運んだ。
今は、今だけは。
温かいご飯を食べてもいいと思いたかった。
◇◆◇
夕食が終わり、レイチェルは客間へ戻った。
疲れているらしい。
倒れていたんだから当然だ。
オレはリビングでお茶を飲んでいた。
親父は風呂。
母さんは食器を片づけている。
「それで」
母さんが言った。
「レイチェルちゃん、しばらくうちに置くことにしたから」
「……は?」
湯呑みを置く。
「今、なんて?」
「聞こえたでしょう」
「いや、聞こえたけど。いつ決まったんだよ」
「さっき」
「さっきって」
「あなたがお風呂に入ってる間」
「本人と話したのか?」
「全部は聞いてないわ。でも、今すぐ帰る場所がないみたい」
「だからって、うちに?」
「他に行くところもないでしょう」
「警察は?」
「警察に連れていったら、あの子はちゃんと事情を説明できると思う?」
答えられない。
レイチェルは何かを隠している。
それはオレにも分かった。
言葉の問題だけではない。
変な動物。
普通ではない。
「親父には相談したのか?」
「するわよ」
「まだしてないのか」
「反対しないでしょう」
母さんは自信満々だった。
「母さんが決めたら、親父は反対できないだけじゃないか?」
「何か言った?」
「何も」
母さんは布巾で手を拭き、オレの向かいへ座った。
「正護は嫌?」
「嫌っていうか……」
急な話だ。
知らない外国人の少女が、今日から家に住む。
しかも、事情は何も分からない。
普通なら、反対するべきなのかもしれない。
けれど、雨の中で倒れていたレイチェルを思い出す。
あのまま放っておくことはできなかった。
連れて帰ったのはオレだ。
途中で投げ出すのは、もっと違う気がする。
「……別に、いいよ」
「そう」
「でも、何かあった時はちゃんと話してもらうからな」
「それはレイチェルちゃんが話せるようになってからね」
「母さん、何か分かってる?」
「何が?」
「いや」
母さんは笑っている。
それ以上聞いても、答えない顔だ。
親父が風呂から戻ってきた。
髪をタオルで拭きながら、冷蔵庫から水を出す。
「賢司さん」
母さんが呼ぶ。
「レイチェルちゃん、しばらくうちで預かるから」
父さんは水を飲みながら、一度だけ瞬きをした。
「そうか」
「それだけか?」
思わず聞いてしまった。
父さんはコップを置く。
「灯子がそう決めたなら、事情があるんだろう」
「普通、もう少し驚かないか?」
「驚いてるよ」
「見えないよ」
「何となく、そうなる気がしただけさ」
「何だよ、それ」
父さんは椅子へ座った。
「正護はどう思ってる?」
「オレ?」
「助けたのは正護だろう」
少し考える。
「途中で放り出すのは嫌だからな」
「なら決まりだな」
父さんはあっさり言った。
「困っているなら、落ち着くまでいればいい」
母さんが満足そうに頷く。
こうして。
ほとんど本人の知らないところで、レイチェルがうちに住むことが決まった。
◇◆◇
「やっとしゃべれるわ」
夜。
客間で一人、布団に座っていると。
膝の上にいたミィルが、突然そう言った。
「ミィル!」
わたしは両手でミィルを抱き上げた。
「起きたの? 大丈夫?」
「なんとかね。魔力を使いすぎたみたい」
「よかった……」
「ちょっと、また苦しい」
腕の力を緩める。
ミィルはわたしの膝へ戻り、大きく伸びをした。
「ここは?」
「お父様がいた世界だよ」
「それは見れば分かるわ。誰の家?」
「ショーゴさんのお家。雨の中で倒れていたわたしたちを助けてくれたの」
「ショーゴ?」
「男の子。わたしより少し年上」
「他には?」
「お母さんのトーコさんと、お父さんのケンジさん」
「どうして名前を全部知ってるのよ?」
「自己紹介したから」
「あなた、事情まで話したんじゃないでしょうね?」
「話してないよ」
ミィルは安心したように息を吐いた。
「それがいいわ。今は何も分からないもの」
「でも、ずっと隠しておくわけにはいかないよ」
「分かってる。せめて、ガルシアがこちらへ来ているのか確認してから」
ガルシア。その名前を聞くと、胸が重くなる。
「ゲート、どうなったと思う?」
「分からないわ」
ミィルが真剣な声で答える。
「最後に大きな衝撃があった。ガルシアの攻撃が中枢に当たった可能性が高い」
「帰れる?」
「今すぐは無理かもしれない」
「そんな……」
「まだ壊れたと決まったわけじゃないわ」
ミィルがわたしの腕へ前足を置く。
「それより、トーコという人」
「トーコさんがどうしたの?」
「わたしたちに気づいているかもしれない」
「何を?」
「普通じゃないってことよ」
思い当たる。
トーコさんは、わたしの服やミィルを見ても驚かなかった。
事情を話せないと言っても、無理に聞かなかった。
わたしを見る目が、何かを確かめているように感じた。
「どうして分かったの?」
「眠っていたけど、少しだけ意識はあったの。あの人、わたしの額をずっと見てた」
カーバンクルの額には宝石がある。
ただの動物ではないと気づいても不思議ではない。
「でも、悪い人じゃないよ」
「それは分かるわ」
ミィルは部屋を見回した。
「濡れた身体を拭いてくれたし、暖かいところへ寝かせてくれた。少なくとも、今すぐ警戒する必要はなさそう」
「ショーゴさんも、優しいよ」
「ずいぶん信用してるのね」
「助けてくれたから」
「助けてくれた人が全員いい人とは限らないわよ」
「ミィルは疑いすぎ」
「あなたが信用しすぎなの」
いつものやり取り。
それだけで、少し安心した。
ミィルは布団の上へ座る。
「人前では、わたしはしゃべらないわよ」
「どうして?」
「普通の動物がしゃべったら騒ぎになるでしょ」
「ミィルは普通の動物じゃないよ?」
「この世界の人には同じよ。キツネか何かのふりをしておくわ」
「ミィル、キツネって言うと怒るのに」
「今は仕方ないの」
ミィルは少し不満そうに尻尾を動かした。
「鳴き声はどうするの?」
「適当に鳴くわ」
「キツネの鳴き方、知ってる?」
「……知らない」
「わたしも知らない」
二人で顔を見合わせる。
少しだけ、おかしくなった。
わたしは声を抑えて笑う。
ミィルも、仕方なさそうに笑った。
「明日からどうしよう」
笑いが収まった後、わたしは聞いた。
「まずは身体を休める。それからゲートとガルシアのことを調べる」
「わたし、この家にいてもいいのかな……」
「何も言われてないの?」
「トーコさんが、しばらくここにいていいって」
「本当に?」
「うん」
ミィルは驚いた顔をする。
「事情も分からない相手を?」
「ショーゴさんのお父さんも、いいって言ってくれた」
「変わった家族ね」
「優しい家族だよ」
「だからこそ、巻き込みたくないわ」
「分かってる」
わたしは布団の端を握る。
帰る方法を見つける。
ガルシアより先に。
そして、この家族へ迷惑を掛ける前に帰る。
そう決めるべきなのだと思う。
なのに、温かい食事。優しい声。
ショーゴさんの不器用な話し方。
もう少しだけ、ここにいたいと思ってしまった。
「早く帰る方法を見つけないとね」
「そうね」
ミィルが答える。
わたしは部屋の灯りを消し、布団へ入った。
ミィルが隣で丸くなる。
窓の外では、まだ雨が降っている。
知らない世界。
知らない家。
知らない人たち。
不安は消えない。
それでも。
わたしは目を閉じる前に、小さく呟いた。
「おやすみなさい」
この家の誰にも聞こえない声で。
今日、わたしたちを助けてくれた人たちへ。
初めての挨拶をした。