異世界から来た少女を拾ったら追跡者に狙われました 作:たけのこ教徒
朝は、いつも早い。
まだ日も昇りきらない薄暗い時間に、オレは自然と目を覚ました。
枕元の時計を見る。
時刻は、いつもとほとんど変わらない。
昨日は普段より遅くまで起きていたはずなのに、身体に染みついた習慣というのは妙なものだ。
布団から起き上がり、軽く目をこする。
家の中はまだ静かだった。
いや、耳を澄ませると、階下から微かに物音が聞こえてくる。
包丁がまな板へ当たる、規則的な音。
母さんはもう起きているらしい。
棚からジャージを引っ張り出して着替える。
寝癖のついた金髪を手で適当にかき上げ、部屋を出た。
廊下へ出ると、向かいにある客間の襖が目に入る。
その向こうでは、昨日連れて帰ってきたレイチェルと、灰色のキツネみたいな動物が眠っているはずだ。
「……」
一瞬だけ立ち止まる。
昨日まで、この部屋を意識することなんてほとんどなかった。
客が来た時に使うくらいで、普段は空いている。
それが今日から、知らない女の子の部屋になった。
「変な感じだな」
小さく呟き、階段を下りる。
キッチンでは、エプロン姿の母さんが朝食の支度をしていた。
味噌汁の鍋から湯気が上がっている。
「あ、起きた?」
「ん。おはよ」
軽く返事をしながら、冷蔵庫から水を取り出す。
「昨日遅かったのに、いつも通りね」
「勝手に目が覚める」
「若いのにお爺ちゃんみたい」
「朝早いだけでそう言うなよ」
コップへ水を注ぎ、一気に飲み干す。
「走ってくる」
「はいはい。朝ごはんまでには戻ってきなさいよ」
「分かってる」
「雨上がりだから、滑らないようにね」
「おう」
玄関へ向かい、ランニングシューズを履く。
ドアを開けた瞬間。
ひやりとした空気が頬を撫でた。
昨夜まで降っていた雨は、もう上がっている。
空にはまだ重たい雲が残っていたが、東の端は少しだけ白み始めていた。
雨上がりの匂いがする。
湿った土。
濡れたアスファルト。
冷たい風。
「……さて」
軽く首を回す。
肩を動かし、身体をほぐす。
それから、いつもの道へ向かって走り出した。
タッ、タッ、と一定のリズムで地面を蹴る。
朝の住宅街は、まだ眠っていた。
新聞配達のバイクが、低い音を立てながら通り過ぎる。
遠くの大通りから、車が走る音が聞こえてくる。
濡れた屋根。
閉じたカーテン。
誰もいない交差点で、信号機だけが律儀に色を変えている。
こうして走っていると、頭の中が少しずつ整理されていく。
昨日のことも。
自然と思い出した。
傘を誰かに持っていかれたこと。
雨の中で倒れていた女の子。
銀色がかった、背中まで伸びる灰色の髪。
見たことのない服。
ぬいぐるみみたいな、謎の生き物。
レイチェル・ラディーナ。それが、あの子の名前だった。
「……変なことになったな」
呼吸を乱さない程度の声で呟く。
普通なら、警察や病院へ任せるべきだったのかもしれない。
でも、あのまま雨の中へ置いてくることなんてできなかった。
家へ連れて帰ったこと自体は、後悔していない。
気になることは多い。
レイチェルが何を隠しているのか。
どうしてあんな場所で倒れていたのか。
あの灰色の生き物は何なのか。
風呂場で口にしていた『魔力』という言葉。
「……魔力、ねえ」
聞き間違いだと思いたい。
けれど、レイチェルの服装も、あの生き物も。
何となく、普通の事情では説明がつかない気がしていた。
だからといって、無理に聞き出すつもりもない。
母さんの言う通り、本人が話せるようになるまで待てばいい。
そんなことを考えながら走っていると、昨日レイチェルが小さく笑った顔を思い出した。
食事中に箸を使うのに何度も失敗して。
それでも三度目で魚をつまめた時、少しだけ嬉しそうにしていた。
それが妙に印象に残った。
そして――少しだけ。
退屈じゃなくなったと思っている自分がいる。
「……何考えてんだか」
走り続けるうちに、空は少しずつ明るくなっていた。
雲の切れ間から、淡い朝の光が差し込む。
いつもの折り返し地点で方向を変え、家へ戻る。
門の前へ着く頃には、身体がすっかり温まっていた。
玄関を開ける。
「ただいま」
「おかえり」
キッチンから母さんの声が返ってくる。
シューズを脱ぎ、浴室へ向かう。
シャワーで汗を流してから、髪をタオルで拭く。
昨日着ていた学ランは、まだ完全には乾いていなかった。
仕方なく、部屋に行き予備の詰襟へ袖を通す。
鏡の前で襟を整え、鞄を持って階下へ戻った。
リビングダイニングへ入ると、父さんがテーブルで新聞を読んでいた。
昨日の夜と変わらない、いつもの朝だ。
「おはよう」
「おはよう、正護」
新聞から顔を上げ、軽く挨拶を返す。
その向こうのキッチンには、母さんだけではなくレイチェルも立っていた。
「あ……」
レイチェルがこちらに気づく。
昨日と同じ浴衣姿。
長い髪は後ろで緩く束ねられている。
母さんの隣で、出来上がった料理を小皿へ盛りつけていた。
「……おはようございます、ショーゴさん」
「おはよう。レイチェル」
昨日より顔色は良さそうだ。
「身体はもう大丈夫なのか?」
「……はい。昨日よりずっと楽です」
「無理すんなよ」
「……大丈夫です。トーコさんのお手伝いをしているだけなので」
「レイチェルちゃん、すごく助かってるのよ」
母さんが横から言う。
「お皿を並べてもらってるの」
「……これくらいしかできませんから」
「何もしなくてもいいって言ったんだけどね」
レイチェルは少し困ったように笑う。
客として何もせず座っていることに、落ち着かなかったんだろう。
テーブルの端を見る。
灰色の生き物――ミィルは、小さな座布団の上で丸くなっていた。
昨日はずっと眠っていたが、今は目を開けている。
オレと目が合う。
「お前も起きたのか?」
声を掛けると、ミィルは長い耳をぴくりと動かした。
それから。
「くるる」
小さく喉を鳴らす。
「朝ごはんできたわよ」
母さんの声で、全員が席へ着く。
今日の朝食は。白米。ネギの入った味噌汁。焼き鮭。卵焼き。ひじきの煮物。
いつもの朝食。
ただ、テーブルに座る人数が、一人と一匹増えていた。
「いただきます」
オレが手を合わせる。
父さんと母さんも続く。
向かいに座ったレイチェルが、少し遅れてオレたちの真似をした。
「……いただきます」
昨日より、発音が自然になっている気がする。
ミィルの前には、塩気を抑えた焼き魚と、細かく切った野菜が置かれていた。
母さんが用意したらしい。
ミィルは匂いを嗅いでから、小さく口をつける。
気に入ったのか、尻尾がゆっくり揺れ始めた。
「食べられるみたいね」
母さんが満足そうに言う。
「何の動物か分からないのに、普通に魚食わせていいのか?」
「昨日から様子を見てるけど、雑食みたいよ」
「分かるのかよ」
「何となく」
母さんの『何となく』は、昔から妙な説得力があるから大丈夫だろう。
オレも味噌汁を一口飲む。
いつもの味だ。
少しだけ身体が温まる。
レイチェルは箸を使い、卵焼きをつまもうとしていた。
昨日よりは慣れている。
けれど、あと少しのところで滑り落ちた。
「……」
誰にも見られていないふりをして、もう一度挑戦する。
今度は成功した。
レイチェルが少しだけ嬉しそうな顔をする。
オレは何も言わず、鮭へ箸を伸ばした。
「正護」
母さんが味噌汁を飲みながら聞いてくる。
「今日、帰りは何時になりそう?」
「昨日と同じくらいだな」
「部活?」
「その助っ人。バスケ部の練習試合」
「バイトは?」
「今日はない」
「そう」
母さんは頷き、それからレイチェルへ視線を向けた。
「レイチェルちゃんは、今日はゆっくりしてなさいね」
「でも、何かお手伝いを――」
「十分してもらってるわ」
「……はい」
「必要な物も揃えないといけないし、午後から一緒に買い物へ行きましょうか」
「買い物……」
レイチェルの目が少し明るくなる。
この世界へ来てから、まだ家の外をまともに見ていない。
興味があるんだろう。
「はい。お願いします」
「決まりね」
父さんが新聞を畳む。
「灯子さん」
「何?」
「学校のことはどうするんだ?」
その一言で。
レイチェルとオレが同時に動きを止めた。
「「あ」」
オレとレイチェルが小さく声を漏らす。
そういえば、レイチェルがしばらくこの家に住むとして、年齢的には学校へ通っていてもおかしくない。
「そうねえ」
母さんは、今気づいたという顔をした。
昨日あれだけ勢いよく預かると決めておいて、そこまでは考えていなかったらしい。まあ、オレもだけど。
朝食を食べ終える頃には、窓の外はすっかり明るくなっていた。
「私が何とかしてみるわ」
「何とかって」
「何とかは何とかよ」
「それで何とかなるのか?」
「してみせるわ」
母さんは妙に自信満々だった。
レイチェルが申し訳なさそうに俯く。
「すみません。わたしのために……」
「気にしなくていいの」
母さんはすぐに答えた。
「面倒を見るって決めたからには、途中で放り出したりしないわ」
「でも……」
「頼られるの、嫌いじゃないのよ」
穏やかな声。
レイチェルは何かを言おうとして。
結局、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
父さんは再び新聞を開く。
「必要なことがあれば言ってくれ。会社の帰りに何か買ってくるくらいならできる」
「あなたはまず、今日は牛乳を買ってきて」
「ああ、分かった」
日常的な会話。
その中へ、レイチェルの存在が当たり前みたいに混ざり始めている。
まだ昨日会ったばかりなのに。
不思議な家だと思う。
まあ、オレも含めてだけど。
「ごちそうさま」
箸を置き、湯呑みのお茶を飲み干す。
「はい、お粗末さま」
母さんが答える。
レイチェルも慌てて手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
オレは椅子から立ち上がり、通学鞄を手に取る。
「じゃあ、先に出る」
「もう行くの?」
「ホームルーム前に寄るところあるから」
昨日なくなった傘が戻っているか、昇降口で確認するつもりだった。
玄関へ向かう。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
母さんの声。
「気をつけてな」
父さんは新聞を読みながら片手を上げる。
少し遅れて。
「……いってらっしゃい」
レイチェルの声が聞こえた。
振り返る。
レイチェルは、まだ少し遠慮がちに笑っていた。
家族でもない。友人と呼べるほど、お互いを知らない。
それでも、誰かに『いってらっしゃい』と言われるのは、悪くなかった。
「おう。行って来る」
短く返す。
足元には、ミィルもついてきていた。
「お前も見送りか?」
しゃがみ込み、頭へ手を伸ばす。
ミィルは一瞬だけ身構えた。
けれど逃げずに、オレの手を受け入れる。
柔らかい毛。
撫でると、耳が少しだけ伏せられた。
「本当に何なんだろうな、お前」
「くるる」
ミィルは目を細め喉を鳴らし、オレの腕に頭を擦りつける。
立ち上がり、玄関のドアを開ける。
雨上がりの空気が入り込んできた。
昨日とは違い。
空は少しずつ晴れ始めている。
「じゃあな」
「はい」
レイチェルが答える。
「また後で」
「……はい。また後で」
玄関を出る。
背後でドアが静かに閉まった。
昨日までと同じ登校時間。同じ道。
なのに、家の中には、銀灰色の髪をした少女と、正体不明の生き物がいる。
「……本当に、変なことになったな」
そう呟きながら、オレは学校へ向かって歩き始めた。