新世界の海は、残酷なまでに美しい。
ガラス細工のように煌めくドレスローザの海を、九歳のクーフラン・アルバーンは、冷たい鉄格子の隙間から見つめていた。地下監獄の湿った空気が、幼い肌をじっとりと濡らす。
「アル、お腹空いてない? これ、私の分あげる」
小さな、まだ8歳にしかならない妹のミナが、泥のついた小さな干し肉を差し出してくる。アルバーンは優しく微笑み、その細い手を押し戻した。
「俺は大丈夫だ、ミナ。お前が食べろ。兄ちゃんだからな、体力はあるんだ」
「嘘。アル、さっきからずっとお腹鳴ってるもん。……私、アルが死んじゃうの嫌だよ」
ミナの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。アルバーンはその涙を小さな指先でそっと拭い、妹の頭を優しく撫でた。
「死なないさ。俺たちのアルベルト先生が、今上(地上)で戦ってくれてる。先生が勝てば、みんなでまたあの花の咲く孤児院へ帰れるんだ。だから、お前はしっかり食べて体力をつけておくんだぞ」
嘘だった。腹は鳴り、喉は渇きで焼けるようだった。
つい数日前まで、彼らは陽の光が降り注ぐ孤児院にいたはずだった。リク王家が自費で運営し、親のない子供たちを温かく包み込んでいた場所。そこには、いつも優しい笑顔で聖書を読んでくれる院長のアルベルト先生がいて、たくさんの弟や妹たちの笑い声が絶えなかった。彼らはアルバーンのことを、親しみを込めて「アル」と呼んでいた。
だが、悪夢は一夜にして訪れた。
リク王が狂ったように街を焼き、人々を襲ったという狂気の夜。燃え盛る炎の中、現れたのは、不敵な笑みを浮かべたピンクの羽織の男――ドンキホーテ・ドフラミンゴだった。
ドレスローザの「新たな王」となった男の配下たちは、彼らを擁護しようとした孤児院を容赦なく踏みにじった。
連れてこられたのは、コリーダコロシアムの地下深く。
湿った苔と、乾いた血の匂いが充満する囚人用の檻の中だった。
「い、一千勝……?」
院長のアルベルトが、絶望の声を上げたのは、その翌日のことだった。檻の前に立ったドンキホーテファミリーの雑兵が、紙切れを放り投げながら鼻で笑った。
『そうだ。このコロシアムで罪人として一千勝を挙げれば、その汚いガキどもの命は保証してやる。だがな、一度の敗北ではない。若様の慈悲だ、十回負けるごとに、ガキの首を一つずつ飛ばしてやる。戦うのを拒めばその時点で全員皆殺しだ』
「そんな……無茶だ! 私はともかく、子供たちまで……! 彼らは何も悪くない!」
アルベルト先生は武人ではなかった。ただの心優しい教職者だった。
それでも、子供たちを守るために、彼は古い剣を握ってリングへと上がっていった。
アルバーンは、檻の隙間からその背中を見た。それが、先生を見た最後だった。
地響きのような歓声が、はるか頭上から響いてくる。
数分も経たないうちに、無造作に放り込まれたのは、全身をズタズタに切り裂かれ、息絶えたアルベルト先生の遺体だった。
「いやぁあああ! 先生! 先生ッ!」
子供たちの悲鳴が地下の闇に響き渡る。
アルバーンは動けなかった。足が震え、視界が恐怖で歪む。
これが、ドレスローザの新しい現実だった。誰も助けてくれない。残されたのは、血を求める観客の叫びと、命を弄ぶ悪魔たちの笑い声だけ。
『おい、次の残党はどいつだ? まさか、もう終わりじゃねえだろうな?』
見張りの男が、鉄格子を剣の柄でガンガンと叩く。
檻の中の子供たちは、恐怖で互いに抱き合い、ガタガタと震えていた。
アルバーンは、自分の拳を見た。九歳の、まだ小さな手。
だが、彼がここで動かなければ、ミナも、他の弟妹たちも、全員殺される。
「……俺が、行く」
「アル!? だめよ、行かないで!」
ミナが泣きながら彼のシャツの裾を掴む。アルバーンはその手をそっと解き、まっすぐに前を見据えた。
「先生は、俺たちを守ろうとしてくれた。今度は、俺の番だ。俺が、お前たちを絶対に守る」
その目に宿ったのは、九歳のものとは思えない、燃え盛るような意志の光だった。
武器置き場に転がっていたのは、子供の身の丈を遥かに超える、重く、長い一本の槍だった。剣闘士といえば剣と盾が基本だが、アルバーンはその長槍を両手で掴み取った。
「重い……」
ずっしりとした鉄の質量が、両腕にのしかかる。しかし、引きずるわけにはいかない。
彼は奥歯を噛み締め、槍を肩に担ぐようにして、光の射す地上への階段を上り始めた。
頭上の扉が開いた瞬間、爆音のような歓声と、刺すような太陽の光が、九歳の少年の全身を打ち据えた。
『さあ! 本日の第ニ試合だ! 先ほど散った男に続き、登場したのは……なんと、孤児院の生き残りのガキだぁー! 名前はアルバーン! 年齢はわずか九歳!』
わぁああああ、と地響きが轟く。
しかし、その歓声には一切の慈悲はなかった。
「死んじまえ!」
「ガキが来る場所じゃねえ!」
観客席から投げつけられるのは、罵詈雑言とゴミだった。
アルバーンの頬に、腐ったトマトが当たって潰れる。赤い汁が血のように流れ落ちた。
『対するは、コロシアムの剣闘士! “首斬り”のガインだぁー!』
前方から現れたのは、巨大な斧を担いだ、熊のような大男だった。
男はアルバーンを見下ろし、下品な黄ばんだ歯を見せて笑った。
「おいおい、ファミリーも人使いが荒いぜ。なぁ、ボウズ。苦しまずに死にたきゃ、そこに首を差し出しな」
アルバーンは何も答えなかった。ただ、全身の力を振り絞り、身の丈の倍はある長槍を、男に向けて構えた。
「……殺させない。俺は、勝たなきゃいけないんだ」
「生意気なガキが!」
ガインの巨体が動き、巨大な斧が風を切って振り下ろされる。
それが、アルバーンという少年の、地獄のような十年の始まりだった。