第一節:虚像
ドレスローザの陽光は、地下には届かない。 コリーダ・コロシアムの地下深くには、 常に湿った砂の匂いと、誰かの流した血が凝固した鉄錆の臭気が淀んでいる。
その日、地下独房のエリアを管轄する見張り兵たちの機嫌は、珍しく良かった。ドフラミンゴファミリーの幹部から臨時の配給があったらしく、廊下の詰所からは下品な笑い声とダイスを振る音が響いていた。 そのおかげで、囚人たちにはわずか十分ほどの「洗面・水浴び」の時間が増やされた。、冷たい地下水を浴びられるだけでも、この地獄においては破格の恩赦と言えた。
「アル、見て。あそこに……何かあるよ」
濡れた桃髪を絞りながら、レベッカが、ある個所を指差した。 普段は戦士たちの試合前に武器を選ぶ武器庫として使われている空間、その中心に一体の巨大な銅像が佇んでいた。
それは、一本の太い剣を地面に突き立て、堂々と胸を張る剣闘士の姿を模した青銅の像だった。 全身に無数の傷跡が刻まれ、マントの裾は戦火に揺れるように波打っている。 地下のわずかな松明の光を浴びて、鈍く、だが厳かに光るその足元には、古びたプレートが嵌め込まれていた。
『三千戦無敗の剣闘士――キュロス』
レベッカはその銅像の足元を見上げ、大きな瞳を細めた。彼女の記憶の中にある「父親」の姿は、ホビホビの実の呪いによって完全に消し去られている。だからこそ、彼女は、その伝説の男の姿に、実の親の面影を探すように見入ってしまった。
「三千回も戦って、一度も負けなかったなんて……本当にそんな人がいたのかな。私の本当のお父さんも……こういう、誰も傷つけない、強くて優しい人だったのかな……」
レベッカの呟きは、少女特有の無垢な憧れに満ちていた。 だが、その言葉が空気にとけるよりも早く、隣に立っていた少年の冷徹な声が、彼女の幻想を切り裂いた。
「……嘘っぱちだろ、そんなもの」
アルバーンだった。 長い黒髪の隙間から覗く切れ長の瞳が、青銅の像を底冷えのするような視線で見下ろしている。彼の右手には、いつもの黒槍ではなく、ただの洗面用の木桶が握られていたが、その指先は白くなるほど強く木枠を軋ませていた。
「アル? 嘘っぱちって……そんな、ここにちゃんと名前も書いてあるし……」
「言葉通りの意味だ、レベッカ」
アルは歩みを止めず、吐き捨てるように言った。その声のトーンは低く、工程を省かない冷酷さがあった。
「三千戦無敗の英雄だ? 誰も傷つけない高潔な戦士だ? だったら、そいつは、今どこでなにしてやがるんだ?」
アルの脳裏に、不意に九歳のあの日の光景が鮮明に、あまりにも鮮烈にフラッシュバックした。
かつて、身寄りのない自分を引き取り、実の親以上に優しく育ててくれた、アルベルト先生。先生は、いつもリク王を深く慕い、その教えを誇りに思っていた。
『ドレスローザは、愛と平和の国だ。リク王様という素晴らしい王様が、戦いを禁じてくださっているからね。武器を持たなくても、私たちはこうして手を繋いで生きていけるんだよ』
その言葉を、九歳のアルバーンは本気で信じていた。この国は優しく、自分たちはリク王という慈悲深い王に守られているのだと。 だが、あの最悪の夜、すべては裏切られた。
空から降ってきたのは、情熱の炎ではなく、街を焼き尽くす虐殺の業火だった。操られたリク王軍の兵士たちが叫び声を上げ、逃げ惑う人々に刃を振るう。先生は狂乱する街の中で、それでもリク王を信じ、暴徒と化した兵士たちを止めようと必死に両腕を広げていた。 だが、そんな敬虔な教育者に向けられたのは、容赦のない暴力と、新しき王――ドフラミンゴの冷笑だった。
リク王を慕う者への見せしめとして、先生はアルバーンとほかの子供たち共にこのコリーダ・コロシアムの地下へと引きずられてきた。そして、連行されたまさにその初日。ドフラミンゴファミリーの部下が、彼の胸を容赦なく切り裂き襤褸屑とかした体を牢に投げ込まれた時の、あの乾いた音。
アルは、泣いた。声を枯らし、涙が血に変わるのではないかと思うほどに泣き叫んだ。 心の中で、何度も、何度も、ドレスローザの『英雄』の名前を呼んだ。この国を守る強い誰かがいるなら、リク王が信じた最強の戦士がいるなら、今すぐこの鉄格子を叩き割り、自分たちを救ってくれと、指の爪が剥がれて血が滲むほどに床を掻きむしりながら祈り続けた。
――だが、誰も来なかった。
救いの手など、この世界にはどこにも存在しなかった。 じいさんの死体はゴミのように処理され、九歳のアルバーンの手には、生き残るために握らざるを得なかった一本の槍だけが残された。
「もし、そのキュロスって男が本当にいたなら、なぜ六年前、この国がドフラミンゴに奪われるのを指をくわえて見てたんだ?」
アルの言葉は、レベッカではなく、青銅の像の胸元に突き刺すように放たれた。
「何で、先生がリク王を信じて兵隊を止めようとした時、そいつは助けに来なかった? なぜ、先生がこのコロシアムで切られた時、そいつの無敗の剣は、先生の胸を裂く刃を弾き飛ばさなかったんだよ。リク王を慕っていた人が殺され、そのリク王の一族のお前がここに囚われてる。これが、現実だろ」
「それは……」
レベッカは言葉に詰まった。彼女自身もまた、母親を亡くした被害者であり、その問いに対する答えを持ち合わせてはいなかった。
「英雄なんてものはな」
アルは歩き出し、銅像に背を向けた。
「弱者が勝手に作り出したただの幻だ。『誰かが救ってくれるかもしれない』なんていう甘い期待を持つから、人は自分の力で戦うことを忘れる。俺はそんな幻は信じない。信じられるのは、自分の暴力だけだ」
アルの背中は、十五歳のものとは思えないほどに頑なで、孤独だった。 レベッカは洗面桶を抱えたまま、冷たい青銅の像と、その像を激しく拒絶した少年の背中を、ただ交互に見つめることしかできなかった。
第二節:無言の慟哭
その日の深夜。 地下独房エリアは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 時足、遠くの房から囚人たちの苦痛に満ちたうめき声や、鎖の擦れる音が聞こえるだけの、死の静寂。
カチャ、カチャ、カチャ……。
不自然に規則正しい、だが軽快な金属音が、薄暗い通路の奥から響いてきた。 片足のブリキの兵隊さんだった。 彼は、いつものように見張りの目を盗み、影から影へと飛び移るようにして、アルとレベッカが収容されている「同じ一つの檻」の前へと辿り着いた。
「レベッカ、アルバーンくん。起きているかい?」
兵隊さんは、ブリキの口をパタパタと動かしながら、極力小さな声で呼びかけた。
アルは壁に背を預け、長い前髪で目を隠したまま微動だにしない。完全に寝入っているかのように見えた。 一方、レベッカは毛布の中からすぐに顔を上げ、裸足のまま冷たい床を走って鉄格子へと駆け寄った。
「兵隊さん! 来てくれたんだね」
レベッカの顔には、昼間のどんよりとした曇り空のような切なさが、まだ残っていた。
「どうしたんだ、レベッカ。そんなに悲しい顔をして。今日のご飯が少なかったのかな? それとも、またファミリーの奴らに意地悪をされたのかい?」
兵隊さんは、オモチャの腕を大きく振って、彼女を元気づけようとした。そのひょうきんな動きの裏には、レベッカを何よりも大切に想う、狂おしいほどの愛情が隠されている。
「ううん、違うの。ご飯のせいじゃないの……」
レベッカは鉄格子を握りしめ、額を冷たい鉄の棒に押し付けた。
「あのね、兵隊さん。今日ね、洗面場に行くときに、ここにある『キュロスの銅像』を見たの」
「……!」
兵隊さんのブリキの身体が、一瞬だけ硬直した。ペイントされただけの丸い目が、闇の中で微かに見開かれたような錯覚を覚える。
「私、、私の本当のお父さんがそのキュロスって人みたいに強くて優しい人だったらいいな、って思ったんだけど……。アルがね、すごく怒った目で、あんなの嘘っぱちだって言ったの」
レベッカは、昼間のアルの言葉を、一言一言思い出すように紡いでいった。
「『リク王様をずっと信じてた人が殺された時、英雄は助けに来てくれなかった』って……。アルの先生は、リク王様をすごく慕ってたんだって。アルは、ずっと怒ってるの。でもね、兵隊さん。私、アルの横顔を見てたら、なんだか胸が痛くなっちゃって。アルは、怒ってるんじゃなくて……きっと子供の時に、誰かに助けてほしかったんだと思うの。大切な人を、助けてほしかったんだよね……」
ガシャン……!!
静まり返った通路に、ひときわ大きな金属音が響いた。 兵隊さんが、己のブリキの身体を支えきれず、片足の膝を床に激しく打ち付けたのだ。
「へ、兵隊さん!? 大丈夫?」
レベッカが驚いて声を潜めながら心配する。
「あ、ああ、大丈夫だよ、レベッカ! ちょっとネジが緩んでしまったみたいでね。ハハハ……、オモチャの身体はこれだから困るよ」
兵隊さんは慌てて立ち上がり、いつものようにひょうきんな調子で腕を回してみせた。
だが、そのブリキの胸の奥深くでは、言葉にならないほどの絶望と、血を吐くような慟哭が渦巻いていた。
(クーフラン・アルバーン……!)
少年の言葉は、キュロスにとってこれ以上ない痛烈な刃となって突き刺さっていた。
(すまない……! 本当にすまない、アルバーン君……!)
少年が泣き叫び、リク王を信じたがゆえに先生を殺され、世界のすべてを呪っていたあの日。 自分は、ドフラミンゴの手によってこのような醜いオモチャに変えられていた。国民の全員から自分の存在を忘れ去られ、目の前でリク王を、そしてリク王を信じる無辜の民が蹂躙され、泣き叫んでいるその瞬間に、自分は一本のブリキの足で泥水を這い回ることしかできなかったのだ。
無敗の英雄? 誰も傷つけない剣闘士? 少年の言う通りだ。そんなものは、何の役にも立たないただの飾りだ。現に、自分は最も守るべきだったリク王を、最愛の妻であるスカーレットを、そしてリク王を慕い、この国で懸命に生きていたはずの誠実な人々を、誰一人として救えなかったではないか。
涙の流れないブリキの目から、心の血が溢れ出るような感覚に襲われながら、兵隊は鉄格子の奥の闇を見つめた。 壁に背を預けて座るアルバーンの細い身体。まだ十五歳の子供だ。それなのに、その両手にはすでに、無数の戦いの中で刻まれた、消えないタコと生傷がある。
自分が「キュロス」であると明かすことすらかなわないまま、彼が背負った修羅の傷跡の深さに、キュロスはただ、自身の無力さを呪い、心の中で何度も頭を下げ続けることしかできなかった。
第三節:鍛錬
「おい、オモチャ」
暗闇の中から、低く、冷徹な声が響いた。 寝入っていたはずのアルが、ゆっくりと顔を上げた。前髪の隙間から覗く瞳は、完全に冴え渡っている。どうやら、レベッカとの話の途中で起きたようだった。
「突っ立って泣き真似してんじゃねェよ、ネジ巻き。見張りが来るまで、あと二十分もないぞ。レベッカに教えるんだろ。さっさと始めろ」
アルは壁から背を離し、音もなく立ち上がった。その手には、檻の隅に隠されていた訓練用の短い木剣が握られている。
「あ……ああ! そうだね、アルバーンくん。時間を無駄にしてはいけない!」
兵隊さんはハッとして、自身の感傷を無理やりブリキの奥へと押し込んだ。
レベッカもまた、自分の木剣を手に取り、檻の中央へと進み出る。 こうして、鉄格子の外に立つ一本足のオモチャと、檻の中で牙を研ぐ二人の少年少女による、奇妙で、そしてあまりにも歪な「共同修行」が始まった。
「レベッカ、長剣を構えるんだ。私の教えを忘れてはいけないよ。相手の『呼吸』を読むんだ。戦場においては、刃を力で受け止めてはいけない。相手の剣の軌道を見極め、風の流れと同化するようにして、その威力を外へと受け流す……それが、私の『見切りの極意』だ!」
兵隊さんは鉄格子を掴み、熱を込めて語りかける。そのアドバイスは、かつてコロシアムで三千勝を積み上げた男の、洗練された技術の真髄だった。
レベッカはその言葉に従い、身体の力を抜き、木剣を柔軟に構えた。 だが、彼女が最初のステップを踏み出した瞬間――。
シュッ、という、空気を切り裂く不穏な音が響いた。
アルの身体が、一瞬でブレた。見聞色の覇気を、その若さで発現させているアルの動きは、レベッカの想像を遥かに超える速度だった。 アルの右手が、黒く硬い輝きを帯びる。武装色の覇気によって強化された彼の手刀が、レベッカが構えた木剣の側面に、一切の容赦なく叩きつけられた。
パシィィィィン!!!
「きゃあ!?」
乾いた打撃音が檻の中に響き渡り、レベッカの右手から木剣が激しく弾き飛ばされた。木剣は鉄格子に当たり、カラカラと音を立てて床を転がっていく。
「甘い。レベッカ」
アルは手刀を収め、息一つ乱さずに冷たく言い放った。
「あいつの言う『風の流れ』なんていう抽象的な綺麗事、戦場じゃ何の意味も持たねェよ。そんな不確かなものに頼ってたら、ディアマンテら幹部クラスや、本物の人殺し連中には、一瞬で間合いを詰められて首を跳ねられるぞ」
「う……うぐ……」
レベッカは指が痺れた右手を押さえながら、悔しそうにアルを見上げた。
「いいか、重心を下げろ。お前の足捌きは、綺麗だけど軽すぎる。相手の攻撃を『受け流す』ってことは、自分の軸が絶対にブレないっていう前提があって初めて成立するんだ」
アルは床に転がった木剣を、自分の足の甲で器用に跳ね上げ、レベッカの手元へと蹴り戻した。
「それから、目で見るな、耳で聞くな。見聞色で捉えるのは、風なんかじゃない。相手の『気配』『筋肉の収縮と弛緩』だ。人間が動く直前、必ず肉体のどこかに不自然なブレが生じる。右足を踏み出す前には、必ず左の背筋が緊張する。その『肉体の真実』だけを覇気で読み取れ。綺麗事じゃ人は守れない。生き残るために必要なのは、圧倒的な実戦の合理性だけだ」
アルの指導は、泥臭く、冷酷で、だがどこまでも確実だった。 それは、じいさんを失い、九歳から死線ばかりをくぐり抜けてきた彼が、自らの血と肉を代償にして掴み取った『生き残るための戦術』だった。
「アルバーンくん……!」
鉄格子の外で、兵隊さんは言葉を失っていた。 少年の言うことは、あまりにも荒々しく、そして「正しい」のだ。綺麗事だけでは、この地獄のコロシアムで生き残ることはできない。それを、この十五歳の少年は誰よりも深く理解し、実践していた。
レベッカは、送られてきた木剣を再び強く握りしめた。アルの冷たい言葉の裏にある、自分を死なせたくないという強烈なまでの執念を感じ取り、彼女の瞳に再び強い光が宿る。
「……うん。もう一度、お願い!」
「来るなら、本気で来い。次も受け損なったら、その手首を叩き折るぞ」
アルの容赦のない言葉と共に、暗闇の中での特訓はさらにその熱量を増していった。
第四節:大人
「レベッカ、左だ! アルバーン君の踏み込みを見ろ! 重心を意識して、彼の速度に喰らいつくんだ!」
兵隊さんが外から、声を枯らして激を飛ばす。
修行が佳境に入った時、アルは自ら手本を見せるため、短い木剣を構え直した。
「レベッカ、俺が今から、お前の言う『不殺』とやらに付き合ってやる。刃を交わさず、相手の意識だけを刈り取る足運びだ。よく見ておけ」
アルの足が、床の砂を静かに捉えた。 次の瞬間、彼の身体は、驚くべき軌道で檻の中を滑るように動いた。それは、どの剣術の流派にも属さない、完全に型を無視した戦い方だった。だが、無駄な動きが一切排除され、地面の反発力を最小限の労力で推進力に変える、驚異的な身体能力に裏打ちされた体術。
(……! この少年の身のこなし……!)
鉄格子を掴んでいた兵隊さんのブリキの手が、ガタガタと震え出した。
型はない。洗練された美しさもない。 だが、生き残るため、そして目の前の敵を確実に屠るためだけに研ぎ澄まされたその泥臭い体術は、兵隊さん――キュロスにとって、あまりにも強い既視感を伴っていた。
(酷似している……。かつて、私がリク王様に出会う前、誰も信じられずに、ただ暴力と憎悪の赴くままに人を傷つけ、ドレスローザのスラムで暴れ回っていた……あの、最悪だった少年時代の私の動きに、あまりにも似すぎている……!)
キュロスもまた、かつては「持たざる者」であり、世界への復讐心だけで拳を振るう孤児同然の不良だったのだ。目の前のアルバーンが見せる、命を削るようなサバイバルのステップ。それは、かつての自分自身の「暗黒期」の残影そのものであり、この歪んだ国が産み落としてしまった、哀しき戦士の宿命の形だった。
しかし、驚愕していたのは兵隊さんだけではなかった。
「チッ……」
不意に、アルがステップを止め、木剣を床に突き立てた。 彼の肩は激しく上下しており、その切れ長の瞳は、鉄格子の外の兵隊さんを、射殺さんばかりの鋭さで睨みつけていた。
「おい……オモチャ。お前、何なんだよ」
「え……? 何のことだい、アルバーンくん」
兵隊さんは、突然向けられた少年の敵意に、ブリキの声を上ずらせた。
「すっとぼけるな」
アルは一歩、また一歩と鉄格子へと近づき、兵隊さんの丸い目の前にその顔を近づけた。
「お前、さっき俺がレベッカの懐に潜り込もうとした瞬間、『右に跳べ』って言ったろ。なんでお前、俺が今のステップの瞬間、わずかに左膝の古傷を庇って、右側の踏み込みが甘くなるのが分かったんだ?」
「それは……私はただ、君の体勢が少し崩れたように見えたから……」
「嘘を言うな。ただのネジ巻き人形が、現役の囚人剣闘士の肉体の欠陥を、的確に見抜けるわけがねェだろ」
アルの細い指先が、鉄格子を強く圧迫する。
アルが本当に苛立っていたのは、自分の弱点を見抜かれたことではなかった。 そのブリキの人形から、絶え間なく放たれている『打算のない、純粋な心配と、あまりにも深い父性』の気配――それそのものが、アルを激しく動揺させていたのだ。
先生が死んでから、この六年間。 アルにそんな温かい眼差しを向ける大人なんて、この世界には一人もいなかった。 コロシアムの興行主も、ドフラミンゴファミリーの大人たちも、全員が自分を「便利な道具」か「血を流して客を喜ばせる見世物」としてしか見ていなかった。強くなければ価値がない。負ければ死ぬだけ。それが、アルにとっての「大人の世界」の絶対的なルールだった。
なのに、この見ず知らずの、正体不明のオモチャは、なぜ自分に対しても、まるで我が子や年の離れた弟を案じるような、深い慈愛の気配を向けてくるのか。 その「大人の温もり」に触れるたび、アルが必死に硬く閉ざしてきた修羅の心が、無意識のうちに激しく揺さぶられてしまう。まるで、かつて先生が自分を大きな背中で守ってくれていた時の、あの絶対的な安心感を思い出してしまうのだ。それが、どうしようもなく怖くて、調子が狂って、苛立たしかった。
「……まぁいい。お前の正体なんて、どうでもいい」
アルはフイと顔を背け、鉄格子から離れた。
「お前がただのオモチャだろうが、なんだろうが、俺には関係ねェよ。ただ……レベッカを強くするっていう目的だけは、俺と一致してるみたいだからな。それ以上の詮索はしてやらねェ」
アルはぶっきらぼうに言い放ち、自分の壁際の定位置へと戻り、ドサリと腰を下ろした。
「レベッカ、今日はもう終わりだ。さっさと寝ろ。明日もサボったり、訓練で手を抜いたりしたら、次は本当に手首を叩き折るからな」
「うん……。怒ってばっかりだけど、ありがと、アル。……それから、兵隊さんも、本当にありがとう」
レベッカは汗を拭い、木剣を大事に檻の隅に置くと、ボロ布の毛布へと潜り込んだ。二人の大切な人がくれた、全く異なる、けれどどちらも自分を生かすために注がれた温かい教え。それを胸に抱きながら、少女はすぐに穏やかな寝息を立て始めた。
鉄格子の外で、静かに立ち尽くす「名前を奪われた父親」。 引いて檻の奥で、前髪の隙間からオモチャの背中を、複雑な眼差しで見つめ続ける「大人を信じられない少年」。
交わるはずのない二人の宿命が、レベッカという一人の少女の成長を通じて、ドレスローザの最も深い闇の中で、静かに、そして確かにシンクロし始めていた。英雄の幻影に裏切られた少年は、今、目の前にあるブリキの背中に、失ったはずの「大人の背中」を無意識に重ね合わせていた。