第一節: 頑固者
コロシアムの地下、薄暗く湿った控え室。 試合の熱気が嘘のように静まり返った室内で、レベッカは壁に背を預け、苦悶の表情を浮かべ、浅い息を繰り返していた。
「くっ……うぅ……」
レベッカに打ち込まれた劇毒は『紫蜂』を倒した今もなお、彼女の身体を蝕み続けていた。麻痺と灼熱のような痛みが全身の神経を苛み、指一本動かすことすらままならない。
「……動くな。毒が回る」
冷たい声とともに、アルバーンがレベッカの前に腰を下ろした。 その手には、倒した『紫蜂』の筆頭刺客ガラの懐から力ずくで奪い取った小さなガラス瓶――黒い液体が入った解毒剤が握られていた。
「あ、アル……それ……」
「あの刺客の首領から奪った解毒剤だ」
アルバーンは小瓶の栓を抜き、容赦なくレベッカの口元へ押し当てた。苦い薬液が喉を通ると同時に、全身を焼き尽くすようだった痛みが、波が引くように急速に和らいでいく。
「ふぅ……っ、はぁ……! 楽に、なった……」
荒い息を整えながら、レベッカは感極まった瞳で青年を見上げた。
「ありがとう、アル。また……助けてもらっちゃったね」
「どういたしまして。……人には傷ついてほしくないだの、無茶は止めろだの言うくせに自分はこの様か?」
アルバーンは素っ気なく言い捨てると、レベッカの肩や腕の傷口に、医務室から取ってきた布を巻きつけ始めた。手つきは乱暴に見えて、傷口を刺激しないよう驚くほど慎重で柔らかい。
「……『不殺』なんて、やっぱり割に合わない。今日だって、俺が来なければお前は首を撥ねられていた」
「……うん。でもね、私……兵隊さんやお母さんとの約束を破って生き残るくらいなら、死んだ方がマシなの」
まっすぐな瞳でそう語るレベッカに、アルバーンは小さく息を吐いた。
「……ハァ、頑固な奴だな。……まあいい。約束したからな。お前がそのままでいる限り、俺がその無茶に付き合ってやる」
そのぶっきらぼうな言葉に、レベッカの頬が緩む。数年間、絶望の地獄の中で生きてきた二人だけの、誰も踏み込めない固い絆がそこにあった。
第二節:『メラメラの実』
その翌朝――ドレスローザ全土に、文字通り「天を揺るがす」衝撃が駆け抜けた。
王宮のドフラミンゴが発令した特別大会。 優勝賞品は――能力者が死したことで世界に再び現れた自然系の悪魔の実、「メラメラの実」
「あの黒槍アルバーンや、無敗の女剣闘士レベッカだけじゃねぇ! 新世界中の名だたる海賊や暗殺者、王国の重鎮どもが、このドレスローザに集まってくるぞ……!」
熱狂と欲望が街全体を包み込んでいく。控え室の影でその告知紙を見つめていたアルバーンは、冷ややかな視線を走らせていた。
(……ドフラミンゴ。昨日の見世物で高まった観客の不満を逸らし、同時に世界中の強豪を集めて俺たちをまとめて押し潰すハラか)
同じ頃、グリーンビット地下『トンタッタ王国』では、小人のトンタッタ族たちが歓声を上げていた。
「隊長! 出来たれす! ついに出来上がったれすー!!」
トンタッタの技師たちが大切そうに抱え上げた一つの「小さな粒」。一見すると何の変哲もないブドウだが、世界一辛い調味料『タタババ』で作られた渾身の偽ブドウだ。
「これが……オモチャの呪いを振り撒く元凶、ドンキホーテファミリー特別幹部シュガーを絶倒させる切り札か」
片足の兵隊――かつてドレスローザ最強の剣闘士と呼ばれた男、キュロスは、固い決意を秘めてその小さな粒を見つめていた。
第三節:ぐちゃぐちゃな心
だがその数日後、世界経済新聞の特別号外が空から降り注ぎ、再びドレスローザに、世界に激震が走った。
『ドフラミンゴ、七武海脱退! およびドレスローザ王位を放棄!』
「う……うそ……うそでしょ……!?」
控え室の窓から号外を拾い上げたレベッカの瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。 10年間、国中から蔑まれ、傷つけられても耐え続けていた16歳の少女が、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
「終わったんだ……! 本当に終わったんだね……っ! これで……これでようやく、兵隊さんと一緒に暮らせる……! アルと一緒に、生きてこの地獄を抜け出せたんだ……!!」
レベッカはしわくちゃに曲がった号外を胸に強く抱きしめ、しゃがみ込んで号泣した。 生きてリングを降りられる。誰も殺さずに済んだ。大好きな兵隊さんと、そしてずっとコロシアムで一緒に生きてくれたアルバーンと共に、普通の平和な日常をおくることができる――少女の心は、10年ぶりに訪れた純粋な救いと歓喜で満たされていた。
……だが、その横で、アルバーンはただ、唖然として立ち尽くしていた。
「……王位を……放棄……?」
紙面を見つめるアルバーンの脳裏を、嵐のような感情が渦巻く。
(……抜け出せる? 俺たちが……本当に、この泥沼の地獄から……?)
胸の奥から湧き上がるのは、かすかな「期待」だった。生きてこの地獄を抜け出せる、レベッカを死なせずに済むという安堵。 だが同時に、冷酷な「猜疑心」が警鐘を鳴らす。あの圧倒的で、狡猾で、悪意の塊のようなドフラミンゴが、何の意味もなく大人しく王位を捨て去るわけがない。
そして何より――胸の真ん中にぽっかりと空いた、凄まじい「虚無感」。
あの日、コリーダコロシアムに連れ去られ、大切な身内を殺され、10年間で2000戦もの地獄を這いずり回ってきた。身に着けた「武」も六式をはじめとする「業」も、覇気も……なにもかも、いつかあの男の首を討ち取るためだけに磨き上げてきた「己の全て」だった。 その「倒すべき敵」が、自分たちのあずかり知らぬ場所で、あっけなく舞台から降りてしまったという事実。
(俺の……この10年間は……俺が積み上げてきたものは……一体何だったんだ……?)
期待、疑念、そして虚無。ぐちゃぐちゃに混ざり合う感情の渦に呑み込まれ、アルバーンは黒槍を握る手すら力を失い、呆然と佇むことしかできなかった。
グリーンビット地下、トンタッタ王国でも、言葉にならないほどの歓喜が爆発していた。
「隊長! 隊長ーーっ! ドフラミンゴが王位を捨てたれす! 僕たちの国が戻ってくるれすーー!!とらわれた仲間たちも、姫様も、みんな帰ってくるれす!!!」
小人たちがぴょんぴょんと飛び跳ね、兵隊さんの周りを踊り回る。
「……そうか……。ついに、ついに……!」
片足の兵隊は、ブリキの目を震わせながら、空を仰いだ。
(スカーレット……レベッカ……! 私たちの10年の苦難は、ついに報われたのだ……! アルバーン君、君がレベッカを守り抜いてくれたおかげだ……!)
国中の至る所で叫喚の声が響き渡る。一方で現体制に虐げられた者たちは歓喜の声をあげ、10年間の暗闇が一瞬で晴れ渡ったかのように、誰もが「奇跡」に右往左往して踊り狂っていた。
第四節:誤報
……だが、その複雑な交差は、あまりにも残酷で、容赦のない悪意によって静まり返る。
街の広場に、白い装束と異様な仮面をつけた三人組――世界最高峰の諜報機関『CP-0(サイファーポール"イージス"ゼロ)』が静かに姿を現したのだ。
「ドレスローザ国民の皆さんに通達します。今朝の報道は……『誤報』です」
仮面の奥からの無機質な声が、電伝虫のスピーカーを通じてドレスローザ全土に虚しく響き渡る。
「ドフラミンゴの七武海辞任、および王位放棄の事実は一切ありません。午前10時、世界政府より正式な訂正が出されます。みなさんは、これまで通りの生活をお送りください」
「…………え?」
レベッカの手から、号外の紙がひらひらと落ちた。 抱きしめていた「未来」が、指の隙間からすり抜けていく。
「ご……誤報……? 嘘だろ……? 頼むから、嘘だと言ってくれぇぇぇっ!!」
コロシアムの牢獄全体が、歓喜の悲鳴から一転、地獄のような絶望の絶叫へと塗りつぶされた。天国から突き落とされた傷だらけの戦士たちが頭を抱えて崩れ落ち、石畳に叩きつけるように泣き叫ぶ。 レベッカもまた、膝から崩れ落ち、言葉にならない絶望の嗚咽を漏らした。
「そん、な……っ、そんなの……あんまりだよ……っ!! 兵隊さんと……アルと……みんなで……生きられると思ったのに……っ!!」
ドフラミンゴは、世界政府の上層部をも動かして世界規模の「狂言」を打ったのだ。この国の民も、囚人たちも――世界中の人間がただ悪意の手の上で踊らされていただけだった。
そして――。
「……そうか」
アルバーンの胸の中に渦巻いていた期待も、疑念も、虚無も、全て一瞬にして消え去った。 呆然としていた青年の瞳に、黒く、深く、凄惨な「殺意の炎」が灯る。
(……何を勘違いしていたんだ。これでは奴の思うつぼじゃないか。……迷う必要なんて、最初からなかったんだ)
ペテンで世界を騙し、この国の人間を、レベッカの涙を踏みにじった悪魔。 アルバーンは震えるレベッカの前にゆっくりと歩み寄ると、黒槍を握り締め、全身から地鳴りのような覇気を放出させた。
「泣くな、レベッカ」
「アル……っ……?」
「言葉も、奇跡も、ハナから存在しない。……あの男の首は、俺の手で叩き落とす」
胸の中のぐちゃぐちゃだった感情は、今、ただ一筋の「ドフラミンゴ討滅」という絶対の意志へと昇華されていた。
『トンタッタ王国』でも、絶望の静寂が広がっていた。小人たちが地面にへたり込み、ボロボロと涙を流している。
「嘘だったれす……僕たち、騙されていたれす……」
だが――その静寂を打ち破ったのは、片足の兵隊だった。
「――全員、泣くのをやめろ!!」
力強い声が地下空間に響き渡った。兵隊さんは片足でしっかりと立ち上がり、自らの銃を高く掲げた。
「あの男は、最初から私たちを人間扱いなどしていない! 嘘とペテンでこの国を支配し、最後の最後まで私たちを弄び続けたのだ! ならば――もう言葉も、奇跡もいらん!」
兵隊さんのブリキの瞳に、赤々と燃え上がるような「激怒」と「決意」の炎が宿る。
「絶望している暇はない! 相手が世界を騙す悪魔なら、私たちは力ずくでその首を獲るまでだ! この虚説は我々への挑戦状!!……『SOP作戦』は本日決行!! 今日を、ドフラミンゴファミリーとの本当の決戦の日とする!!」
「「「おおおおおおおーーーっっ!!!!」」」
どん底の絶望から、トンタッタの戦士たちが地鳴りのような叫びを上げた。 もう二度と騙されはしない。自分たちの手で自由を奪い返す――小人たちの目が、怒りと覚悟の炎で満ちていた。