第一節:悔恨
狂乱と怒号が渦巻くコロシアムの喧噪から遠く離れた王宮の一室、スートの間。 豪奢な部屋の重厚な柱には、太い鉄の鎖によって固く縛りつけられた老人の姿があった。かつてドレスローザを平和と愛をもって治めていた名君、リク・ドルド3世である。
眼下に広がる街並みは、一見すれば花と情熱にあふれた平和そのものの風景に見える。だが、その裏でどれほど多くの国民が血を流し、存在を消され、虐げられているかを、老王は痛いほど知っていた。
「……レベッカ……」
乾いた唇から、漏れ出すように孫娘の名が零れ落ちる。
10年前のあの惨劇の日。ドフラミンゴの糸によって身体を操られ、自らの手で愛する国民たちを斬り倒させられた絶望。そして、最愛の娘スカーレットを殺され、幼いレベッカ一人に「幻の王女」という名の残酷な見世物と過酷な運命を背負わせてしまったこと。
自分は王でありながら、たった一人の孫娘すら守ってやることができなかった。今もなお、あの子は命を賭けてコロシアムの冷たい石畳の上で剣を振るっている。そう思うたびに、胸を焼き尽くすような痛みがリク王を苛んだ。
そして、老王の脳裏にはもう一人、決して忘れることのできない青年の顔が浮かんでいた。
「……アルバーン……。君にも……何と詫びればよいのか……」
重い鎖を軋ませ、リク王は深く目を閉じた。
クーフラン・アルバーン。10年間、コリーダコロシアムで死線を潜り抜け、「囚人剣闘士」として殺戮の矢面に立たされ続けてきた若者。彼は、リク王にとってかつての無二の親友であり、王室にとってもかけがえのない恩人であった男の忘れ形見であった。
「アルベルト……。私はお前の残した宝物すら、救い出すことができなかった……」
かつて、ドレスローザがドフラミンゴに奪われるよりも昔のことだ。 当時のドレスローザは平和ではあったものの、貧困ゆえに幼い我が子を手放さざるを得ない親たちが存在するという社会問題を抱えていた。
その惨状に誰よりも心を痛め、立ち上がったのが学者であり教育者でもあったアルベルトであった。 彼はスカーレットやヴィオラの幼少期の教師を務めるほど思慮深く、子供たちを心から愛する男であった。
『リク王様、貧しさは人の心を狂わせます。されど生まれた子供たちに罪はありません。彼らが温かいものを食べ、知識を蓄え、胸を張って生きられる居場所を私に創らせてください…!』
そう言って頭を下げたアルベルトの志に、リク王は深く心を打たれた。 リク王は自費で惜しみない援助を行い、そうして設立されたのが、後にアルバーンやミナたちが身を寄せ合うことになる「あの孤児院」であった。
アルベルトは身寄りのない子供たちを我が子のように愛し、育て上げた。だが、10年前のドフラミンゴ襲撃の際、孤児院を守ろうとしたアルベルトは子供たち共々捕らえられ、そして、アルバーンはコロシアムの奴隷へと落とされたのだ。
「私に力があれば……。私がドフラミンゴの陰謀を見破っていれば……君たちがそのような過酷な運命に巻き込まれることはなかったのだ……」
己の無力さを呪い、血を吐くような悔恨に身を焦がす老王。
絞り出すようなリク王の呟きは、虚しく部屋の壁に反響するだけだった。
第二節:祈り
王宮でリク王が悔恨の涙を流していた頃。 コロシアムの真下に広がる暗く不気味な巨大空間――地下幹部塔と地下取引所では、人間の尊厳を奪われた者たちの悲鳴が絶え間なく響いていた。
そこは、シュガーの『ホビホビの実』の能力によっておもちゃに変えられた人々が、死ぬまで不休で働かされる地獄のような場所であった。おもちゃにされた瞬間、世界中の誰の記憶からもその存在が消し去られる。家族も、愛する人も、自分という人間が存在したことすら忘れてしまうという、死以上の残酷な呪い。
その過酷な労働環境の中で、木製の関節をギチギチと軋ませながら、重い荷物を運ぶ一頭の小さな木馬のおもちゃがあった。
――ミナ
5年前、ドンキホーテファミリーの悪辣な『お祝い』によっておもちゃに変えられて以来、彼女はこの地下施設で過酷な労働を強いられ続けていた。
「ハッ……ハッ……」
木製の脚は欠け落ち、胴体には無数の亀裂が走り、いつ砕け散ってもおかしくない廃棄寸前の状態であった。どれほど身体が壊れかけても、シュガーの「契約」によって命令に逆らうことは許されず、修繕すらされることなく使い潰されていく。
暗闇と絶望の中、ミナが心の拠り所にしていたのは、おもちゃに変わってもなお消えなかった兄・アルバーンの面影だけであった。
――アル……。助けて、アル……。
どれほど心の中で叫んでも、その声が地上へ届くことはない。自分が消えた後、アルバーンがミナという妹の存在すら忘れ、コロシアムで血を流し続けていることも知っていた。それでも、兄の名を心の中で呼び続けることだけが、壊れかけた精神を繋ぎ止める唯一の術であった。
しかしもう限界だった。今日にも身体が完全に砕け散り、ゴミとして捨てられるだろう。ミナが諦めかけたその時であった。
ドカァァァンッ。
地下幹部塔の方向から、耳をつんざくような爆音と悲鳴が巻き起こった。
「うあぁぁぁっ。小人共が襲撃してきたぞっ!」
「シュガー様を狙っているっ!防げっ!」
騒然となる地下施設。作業の手を止めざるを得なくなったおもちゃたちの視線の先で、小人族――トンタッタ族の戦士たちが、命を懸けてドンキホーテファミリーの兵士たちへ立ち向かっていた。
そして、その激闘の中心で、恐怖に打ち震え、鼻血と汗に塗れながらも必死に黒カブトを構えている一人の男の姿があった。
麦わらの一味『狙撃手』 ウソップ
トンタッタ族から「ヒーロー」と仰がれ、己の恐怖心を押し殺してシュガーを倒すための『SOP作戦』に全てを賭けて臨む男、ウソップである。
ボロボロの木馬のおもちゃ――ミナが心の中で涙を流す。
ドレスローザを覆う暗黒の支配に対し、本気で抗い、血を流して戦ってくれている者たちが目の前にいる。おもちゃとして絶望の中に捨て置かれていた者たちに、10年ぶりに差し込んだ小さな、だが確かな「希望」の光。
声を出して叫ぶことすらできないミナであったが、契約の隙間を縫うように、胸の前で壊れかけた木の手を強く握り締め、心の中で叫んだ。
――お願い……。お願い、負けないで……っ!。
――あたしたちを……この嘘だらけの地獄から、救い出して……っ!。
アルバーンが地上でコロシアムの死闘を繰り広げているその真下で、ミナやオモチャたちの切なる祈りが、命を懸けて戦うウソップたちの背中へと注がれていた。
第三節:悪魔の世界の終わり
地下幹部塔の最奥。悲壮な覚悟で挑んだトンタッタ族の戦士たちとウソップであったが、ドンキホーテファミリー最高幹部トレーボルの圧倒的な『ベタベタの実』の能力と、シュガーの冷酷な手の前に、次々と叩きのめされていった。
「べっへっへ! 哀れな虫ケラどもだねぇ」
「この毒入りの『偽ブドウ』、あなたが食べて死になさい」
トレーボルが不気味に粘つく笑みを浮かべ、ウソップの口へ容赦なく激辛グレープをねじ込む。絶望に目を閉じるトンタッタ族と、ボロボロの木馬の姿で祈りを捧げていたミナ。
次の瞬間――世界を揺るがす『奇跡』が起きた。
「ぎぃぃぃやあああああああぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
ウソップの喉から飛び出したのは、人間のものとは思えぬ悲鳴と、目玉と舌が飛び出さんばかりの凄惨極まる変顔であった。世界最高の激辛タバスコの威力が、ウソップの全身を駆け巡り、その表情はこの世の悪夢そのものへと変貌する。
「きゃぁぁあああああっ!!!!!」
その恐ろしい形相を、目と鼻の先で正面から直視してしまったシュガーが人生初の絶叫を発する。
白目を剥き、泡を吹いて倒れ込んだシュガーは、ついに意識を失った。
最悪の事態にトレーボルがドフラミンゴのいる王宮へと連絡を入れる。
「ドフィィィ~~~!すまねぇぇ~~~~!!シュガーがぁぁ~~~~~!!」
「…シュガーがどうしたんだ?」
「シュガーが…気絶しちまったぁぁ!!!」
「‥‥‥‥‥‥オイ、何の冗談だ!!!」
ドフラミンゴの顔から笑みが消える。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……っ。
次の瞬間、ドレスローザ全土を揺るがす不気味な衝撃波が駆け抜けた。シュガーの意識が途切れたことで、10年間にわたってこの国を縛り続けていた『ホビホビの実』の契約と呪いが、一瞬にして瓦解したのである。
「あ……足が……手があぁぁぁっ」
地下取引所で重い荷物を運んでいた木馬の身体が、まばゆい光とともに組み換わっていく。ひび割れた木製の関節は柔らかい皮膚へ、小さな四つ足はしなやかな少女の足へと戻り、ミナは5年ぶりに『人間』としての身体を取り戻した。
「……私……もどった……? 戻った!……戻ったぁぁぁ!!!」
ミナの瞳から溢れ出す涙。そしてそれと同時に、交易所で酷使されていたオモチャたちも光とともに元の姿へと戻っていく。そしてその状況はドレスローザ中へと波及していく。
国中の至る所で、抱きかかえられていた可愛いドールが、兵士のオモチャが、くるみ割り人形が、ありとあらゆる生きたオモチャの姿が変わる。十年かけて増やしてきたドンキホーテファミリーの下僕たちが人間へと戻っていく。ドレスローザ全体が大パニックへと陥った。
「うあぁぁぁぁぁっ!オモチャが人間に変わったぞっ!」
「思い出……した……。私のお父さんだぁぁぁっ!」
「やったぁぁぁ!!!」
「私の人形が、知らないおじさんに!!」
「オモチャが人になっていくぅぅぅ!!!」
各地の拠点で、ドンキホーテファミリーの下っ端兵士たちが凄惨な蒼白で右往左往し、伝令の叫びが響き渡る。王宮は非常事態の連絡が相次いでなり始め、その勢いは止まらない。
「こちら東のセビア!!港作業のおもちゃたちが突然海賊に!!」
「こちらアカシア!!おもちゃたちが旧ドレスローザの兵士に!!」
「各国要人!政府の役人!猛獣に!!」
「ドフラミンゴに……俺たちは10年間も騙されていたんだぁぁぁっ」
「ぶっ殺してやる!!」
「ドフラミンゴは悪魔だ!!!」
悲鳴、歓喜の叫び、そして長年騙され続けていた国民たちの激怒の咆哮が、街全体を飲み込んでいく。ドフラミンゴが十年かけて作り上げていた「完璧な悪魔の世界」が、たった一瞬で完全崩壊する。
そして、その混乱の波はコリーダコロシアムにも容赦なく押し寄せていた。
「なっ……なんだぁぁぁっ!?観客のオモチャたちが、オモチャたちが、次々と人間や巨大な獣に変貌していくぅぅぅっ!!」
ギャッツの混乱した実況が響き渡る中、観客席は一瞬にして血で血を洗う大暴動の渦へと叩き落とされた。
「ドフラミンゴぉぉ!許さんぞドンキホーテファミリーっ!」
ファミリーを讃えていた狂乱の観客が、一転してドンキホーテファミリー幹部たちへの猛烈な憎悪の群衆へと変わる。
「まさかシュガーGA!?馬鹿な!?の『G』っ!」
「シュガーが誰かにやられたんだイーン!!」
「トレーボルの奴、しくじったのか!!」
ディアマンテの顔から余裕が完全に吹き飛び、冷や汗が吹き出す。ラオGもマッハバイスも、予想だにしなかった事態に言葉を、動揺を隠せない。
空中に浮遊していたマッハバイスもまた、地上や観客席の激変に目を奪われ、空中での無防備な体勢のまま固まっていた。
いまだ余裕を見せていた幹部たちが同時に露わにした、壊滅的な「隙」。
サボとバルトロメオという二人の猛者が、その千載一遇の好機を見逃すはずがなかった。
「ハハッ!戦いの最中に、とんでもねぇ隙を見せたべなブタ野郎っ!」
バルトロメオが凶悪な笑みを浮かべ、両手の指を瞬時に交差させる。空中で狼狽していたマッハバイスの真上に、透明な『バリア』を出現させ、それを巨大なハンマーのように一気に振り下ろした。
「バリアビリティっ!『バリバリのギガントハンマー!!』」
ドガァァァンッ!!!
「グボァッ!? な、なにイィィィン……っ!?」
無警戒だった頭上から突如叩きつけられたバリアの巨塊に押し潰され、マッハバイスは受身すら取れぬままリングの石畳へと激突。数千トンの自重とバリアの衝撃をそのまま全身に食らい、激しい煙を上げて即死同然に失神した。
時を同じくして、動揺で足を止めていたラオGの懐へ、影のように滑り込んだ男がいた。 『ルーシー』ことサボである。
「どこを見てやがる」
「……っ!?」
ハッと我に返り、慌てて拳を構え直そうとしたラオGだったが、すでに遅すぎた。 サボの指先はすでに龍の爪の形に硬化し、武装色の覇気を纏ってラオGの胸元へ突き立てられていた。
「竜爪拳――『竜の咆哮』!!」
ゴキィッ、ズドォォーーンッ!!
「グガァぁぁぁぁぁぁっ!?」
衝撃波がラオGの背中から突き抜け、リングの石畳を砕き割る。動揺して覇気での防御すら間に合わなかったラオGは、大量の血を吐きながら崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「ラ……ラオGっ!? バイスッ!?」
リングの中心でアルバーンと交戦していたディアマンテが、あまりの出来事に目を剥き、額から冷や汗を流す。
動揺による一瞬の隙を突かれ、幹部二人があっけなく撃沈。デリンジャーも既にアルバーンによって返り討ちにされ撃沈している。 かつて向かう所敵なしを誇ったコロシアムの幹部陣は、混乱の隙を完璧に突いたサボとバルトロメオ、そしてアルバーンによって、全滅状態へと追い込まれた。
だが、その狂騒と大混乱の渦中で、二人の人物だけが時間の止まった世界にいた。
レベッカは剣を落とし、その場に崩れ落ちるように膝をついていた。
「……お父様……!私にはお父様が!!」
溢れ出す涙が石畳を濡らす。自身の父親の存在を思い出し、レベッカの胸が感極まる。
「お父様……。お父様ぁぁぁっ!」
レベッカが胸の前でこぶしを握り、子供のように声を上げて泣き崩れる。
そして、その隣に立つアルバーンもまた、立ち尽くしていた。
脳裏を激しく殴りつけるような記憶の奔流。共に生きてきた孤児院の弟妹達の笑顔。自分に人としての心を教えてくれた恩師――アルベルトの優しい手。自分を「アル兄ちゃん」と呼び、孤児院で仲良く平和に過ごした記憶。そして、コロシアムの地獄の中で、家族全員で支え合った小さくも温かい思い出。
(‥‥‥アルベルト先生‥‥‥、ミナ‥‥‥、イスカ‥‥‥、ジョン‥‥‥、アン‥‥‥、リアーナ‥‥‥、ライ‥‥‥、マクス‥‥‥、ロイ‥‥‥、ジョゼット‥‥‥、ユウリ‥‥‥クリス‥‥‥、クレア‥‥‥、マリュー‥‥‥、レクター‥‥‥、エレン‥‥‥、ランド‥‥‥)
自分の家族の名前を、かつて自分の弱さのせいで死なせてしまった者も含めて、一人一人、噛みしめるように心で唱える。
自分が何のために戦い、誰のために生き抜いてきたのか。 失われていた記憶のピースが全て嵌まり込んだ瞬間、アルバーンは全身の血が凍りつくような衝撃と、己の無力さに対する凄まじい怒りに身を震わせた。
(俺は‥‥‥、いったい、何をしていたんだ‥‥‥。なぜ、あの子たちを忘れていたんだ‥‥‥!)
黒槍を握る拳が、血管が浮き出るほど強く固まる。
アルバーンはゆっくりと俯き、深く陰を落とした顔から静かに殺気を滲ませた。
その顔には、己の無力を呪う悔恨と、元凶であるドフラミンゴへの果てのない憎悪が浮かんでいた。