第一節.500勝
コリーダコロシアムのリングは、今日も生臭い血と、観客たちの狂気的な歓声に包まれていた。
「勝者――! 『黒槍』のアルバーーーーン!!」
実況の絶叫が響き渡る中、砂塵の舞うリングの中央に、一人の少年が立っていた。 いや、もう「少年」と呼ぶには、その背中はあまりにも大きく、逞しく引き締まっていた。
アルバーン・クーフラン、14歳。 あれからさらに2年という歳月を、彼はこの血塗られた打闘場(リング)だけで生き抜いてきた。通算勝率は驚異的な数字に達し、つい先ほど、ついに【通算500勝】という大台を突破した。
彼の持つ黒鉄の槍は、数多の強者の血を吸って黒光りし、その身にまとう「武装色」と「見聞色」の覇気は、すでに新世界の海賊団の幹部クラスと遜色ないレベルにまで洗練されている。 もはや、コリーダコロシアムの常連剣闘士の中に、彼とまともに打ち合える者など存在しなかった。ファミリーが新世界から調達してくるどんな刺客も、今のアルバーンの前には、彼の槍術をさらに鋭く尖らせるための「砥石」でしかなかった。
だが、どれほど強くなろうとも、地下監獄へ戻るアルバーンの足取りが軽くなることはない。
鉄格子の嵌まった重い扉を開け、薄暗い地下の通路を歩く。その奥にある、いつもの「檻」。 そこには、アルバーンが命を懸けて守り抜いてきた、最愛の妹・ミナをはじめとする残された子供たちが待っているはずだった。
「ミナ、みんな、今戻っ――」
声をかけようとしたアルバーンの身体が、不自然に凍りついた。
いつもなら「アルにいちゃん!」と駆け寄ってくる子供たちの姿がない。それどころか、檻の前には、普段の見張りとは明らかに雰囲気が違う、武装したドフラミンゴファミリーの精鋭たちが十数名、銃口を檻の内側に向けて立ち塞がっていた。
そして、その中心にいたのは、大きな粘液を鼻から垂らした不気味な男――最高幹部トレーボルだった。
「べへへへ! 戻ったかい、戻ったかい! 500勝達成、おめでとう、アルバーン! いやぁ、素晴らしい強さだねぇ!」
「……何をしている、トレーボル」
アルバーンの声が、地を這うように低く轟いた。 瞬間、地下通路の空気が一気に重くなる。14歳にして実戦だけで練り上げられたアルバーンの「殺気」が、見張りたちの肌を容赦なくピリピリと刺した。下っ端の兵士たちが、恐怖で小さく悲鳴を上げそうになる。
だが、トレーボルはニチャニチャとした薄汚い笑みを崩さず、檻の奥を指差した。
「おいおい、そんな怖い顔をするんじゃないよぉ。お前がそんな態度を取るとさぁ、この可愛くて薄汚いガキどもの首が、一瞬で『ポロッ』と落ちちゃうかもしれないぜぇ?」
檻の奥。そこには、縄で縛られ、猿ぐつわを噛まされたミナたちが、涙を流しながら床に転がされていた。子供たちの背後には、抜身の刀を首筋に当てた兵士たちが立っている。
「ミナ……っ!」
アルバーンが怒りで一歩を踏み出し、拳を漆黒に染め上げた。
「動くなァ!!」
トレーボルが鋭く叫ぶ。粘液の触手が、ミナの細い首にまとわりつく。
「一歩でも動いてみろ、この場で全員肉塊にしてやるぜ! べへへ、お前がどれだけ素早くても、俺の手が動く方が先か、お前の槍が届くのが先か、試してみるかい!?」
「……っ」
アルバーンは、踏み出そうとした足を止めるしかなかった。奥歯がミリミリと軋み、口の中に鉄の味が広がる。
第二節.脅迫
「何が目的だ……」
アルバーンは覇気を抑え、声を震わせながら問いかけた。
「一千勝すれば、全員自由にする。それが、お前たちの『若』の言葉だったはずだ」
「べへへ! 約束は生きてるさ、生きてる生きてる! ドフィは嘘はつかないよぉ!」
トレーボルは身をよじって笑いながら、一枚の鍵を見せびらかした。
「ただねぇ、お前が強くなりすぎたんだよ。ガキどもと同じ檻にいちゃあ、お前がいつ『欲』を出して脱獄を企てるか分かったもんじゃない。……だからさ、お前には今日から、別室へ移動してもらう」
「別室……?」
「そう、お前一人だけの特別な檻さ! 光も届かない、誰もいない、最高に居心地のいい場所だよ。これからは試合の時だけ外に出してやる」
それがファミリーの狙いだった。アルバーンから精神的な支えである子供たちを物理的に引き離し、孤独によってその心を摩耗させること。
「断る、と言ったら?」
アルバーンの目がギラリと光る。
「断るなら、今ここでこのガキどもを全員殺す。それだけさァ!」
トレーボルは平然と言い放った。
「お前は強い。俺たち最高幹部が束になっても、今のお前を無傷で捕らえるのは難しいかもしれないねぇ。だけどさぁ……お前が俺たちと戦っている間に、このガキどもは確実に全員死ぬ。お前が勝とうが負けようが、このガキどもは一人も残らない。……さあ、どうするんだい?アルにいちゃん?」
卑劣。だが、これ以上ないほどに確実な脅迫だった。 アルバーンがどれほど新世界の怪物へと成長しようとも、彼が戦う理由は最初から最後まで「この子供たちの命」なのだ。そこを人質に取られている限り、彼に拒否権など最初から存在しない。
アルバーンは、ゆっくりと槍を床に置いた。拳の黒い覇気が、静かに消えていく。
「……分かった。大人しく従う。だから、その子たちには手を出すな」
「アル!!」
猿ぐつわを外されたミナが、泣き叫びながら鉄格子にすがりついた。
「嫌だ! 行かないで! 私たちのために、もうこれ以上傷つかないで……!」
アルバーンは、ミナの前にゆっくりと膝をついた。鉄格子越しに、血と砂に汚れた自らの手を伸ばし、ミナの涙に濡れた頬をそっと拭う。
「泣くな、ミナ。大丈夫だ」
アルバーンの声は、トレーボルたちに向けたものとは一転して、驚くほど優しかった。
「500勝まで来たんだ。あと半分……あと半分だけ勝てば、本当に全部終わる。約束する。俺は絶対に負けない。どれだけ離されても、どんな地獄に落とされても、俺は必ずお前たちの元に戻ってくる。だから……待っていてくれ」
「アルっ……!」
「アルにいちゃん‥‥っ!」
それが、アルバーンが家族と交わした、最後の「本物の約束」だった。
兵士たちに荒々しく引き立てられ、アルバーンは暗い通路の奥へと消えていく。ミナたちの泣き叫ぶ声が、遠く、遠くなっていくのを、彼は引き裂かれるような思いで聞き続けていた。
第三節.違和感
アルバーンが連れて行かれたのは、地下監獄のさらに下、コリーダコロシアムの最深部にある「隔離独房」だった。 窓はなく、ネズミの鳴き声すら届かない、完全な静寂と漆黒。 そこに、アルバーンはただ一人、鎖で繋がれて放り込まれた。
「……必ず、戻る」
暗闇の中で、アルバーンはそれだけを呟き、精神を研ぎ澄ませた。 家族と引き離された孤独は重かったが、彼の心は折れていなかった。むしろ、「一刻も早く一千勝を達成して全員を救い出す」という執念は、以前よりも何倍も激しく燃え上がっていた。
それから、さらに過酷な日々が始まった。 食事はこれまでの半分に減らされ、水は泥が混じったものしか与えられない。試合の直前まで目隠しをされ、リングに引っ張り出されては、飢えと渇きの中でただ命を奪い合う。
それでも、アルバーンは勝ち続けた。 510勝。 520勝。 530勝。
どんな嫌がらせも、どんな凶悪な対戦相手も、彼の槍を止めることはできない。勝つたびに、彼は暗闇の独房に戻り、壁に見えない傷をつけて勝ち数を数えた。
だが――【550勝】を過ぎたある夜、最初の「奇妙な違和感」がアルバーンを襲った。
独房の床に座り込み、いつものように檻に残してきた子供たちの顔を思い出そうとした時のことだ。
「……あれ?」
アルバーンの口から、困惑の声が漏れた。 子供たちの顔。いつも自分を「アルにいちゃん」と呼んで慕ってくれた、あの愛おしい弟や妹たちの姿。
(一人……足りない……?)
確かに、あの檻にはミナを含めて、たくさんの家族がいたはずだった。かつて自分の弱さのせいで失ってしまった6人のことは、今でも血の涙が出るほど鮮明に覚えている。 だが、今あの檻の中に残されているはずの子供たちの人数を数えようとすると、どうしても計算が合わない。記憶のなかの「誰か」の顔が、まるで水に濡れた絵の具のように、不自然に滲んで思い出せないのだ。
(誰だ? 俺は、誰の顔を忘れている……?)
必死に記憶を掘り起こそうとするが、考えれば考えるほど、頭の奥に鋭い激痛が走る。 戦いの疲労のせいか、あるいは、この暗闇に長く居すぎたための精神の失調か。
「クソッ……! 早く、一勝でも多く勝ち進まなきゃならないのに……!」
アルバーンは己の頭を壁に打ち付け、雑念を払うように目を閉じた。 これが、ファミリーが仕掛けた「真の地獄」の産声であることに、この時のアルバーンはまだ、気づく由もなかった。
第四節.消えゆく愛、肥大する復讐心
さらに時は流れ、アルバーンは【700勝】を突破した。 この頃になると、アルバーンの心象風景は、以前とは全く異なるものに変貌していた。
「おい、アルバーン。次の試合だ、立て」
見張りの冷酷な声に応じ、アルバーンは機械的に立ち上がる。 その瞳からは、かつて宿っていた「優しさ」や「哀愁」が完全に消え失せ、ただ凍りつくような冷徹さと、どす黒い怨念だけが渦巻いていた。
頭の中の記憶が、狂っている。
(俺は……何のために戦っている?)
かつて、彼には命を懸けて守りたい「家族」がいたはずだった。孤児院の子供たち。あの狭い檻の中で、互いの体温だけを頼りに生き延びていた、大切な存在。 だが、今のアルバーンの記憶の中に残っている「家族」は、ミナを含めて、ほんの数人だけだった。
「残りの奴らはどうした?」と自問しても、答えは出ない。最初からそんな人間は存在しなかったかのように、記憶のピースが綺麗に消滅しているのだ。 勝てば勝つほど、ゴールに近づけば近づくほど、彼を支えていたはずの「愛」が、一人、また一人と消えていく。
(いや……違う。俺が戦うのは、この地獄を終わらせるためだ)
愛する者の記憶が消え、心にぽっかりと空いた巨大な空白。その空白を埋めるようにして、彼の中で異常なまでに肥大化していったのが、ドレスローザという国への憎悪、そしてドフラミンゴファミリーへの狂気的な復讐心だった。
「俺たちをこの地獄に落とした奴らを、絶対に許さない」
「ドフラミンゴの首を撥ね、この腐ったコロシアムを灰にしてやる」
守るべきものの記憶を失った修羅は、純粋な「復讐の化身」へと作り替えられていく。 魚人空手の衝撃、巨人の怪力、ミンク族の敏捷、それらすべてを完全に我が物としたアルバーンの槍術は、もはや美しいとすら言えるほどの「純粋な暴力」へと昇華していた。
第五節.悪魔のアソビ
その頃、王宮のテラスでは、ドフラミンゴが手元の映像電伝虫が映し出すアルバーンの戦闘風景を見て、満足そうに喉を鳴らしていた。
「フッフッフッフッフッ……! 素晴らしい。実に見事な変貌ぶりじゃねえか、ディアマンテ」
ドフラミンゴの傍らには、術者である少女――シュガーが、グレープの果実を口に放り込みながら座っていた。
「あの槍のガキ、もうすぐ800勝だって。でも、あいつの檻のガキどもは、もう半分以上が私の能力で『オモチャ』に変えられて、地下の交易港で働かされてるよ。あいつ、自分の家族がオモチャに変えられるたびに、その子の記憶を綺麗さっぱり忘れていくの。滑稽だよね」
シュガーのホビホビの実の能力。それは、人間をオモチャに変えるだけでなく、「その人間に関するすべての記憶を、世界中の人々の頭から消し去る」という悪魔の呪い。
アルバーンがリングで50勝を挙げるごとに、ファミリーは「お祝い」と称して、隔離された檻から子供を一人引きずり出し、シュガーの能力でオモチャに変えていたのだ。 アルバーンは、自分が勝つたびに、自分が救いたかったはずの家族を自らの手で(間接的に)世界から消滅させていた。勝てば勝つほど、救うべき対象が消えていくという、究極の矛盾。
「あいつの今の原動力は、俺たちへの『復讐心』だけだ」
ディアマンテが、冷酷な笑みを浮かべる。
「自分が何のために戦い始めたのかも忘れ、ただ目の前の敵を殺し、俺たちの首を狙うことだけを考えて槍を振るっている。哀れなものだな。一千勝に達したその時、あいつの守りたかったものは、この世界に一人も残っていないというのに」
「フッフッフッ、それでいい」
ドフラミンゴはサングラスの奥の目を細め、邪悪に笑った。
「愛やつながりといった生温い感情で動くガキは、いつか限界が来る。だが、純粋な『憎悪』と『強さへの執念』だけで動くモンスターは、どこまでも強くなる。一千勝のその瞬間、すべてを思い知らせて絶望の底に叩き落としてやる。その時、あのガキがどんな顔をするか……今から楽しみで仕方がねえなァ、フッフッフッフッフッ!」
王宮に響き渡る悪魔たちの笑い声。 その遥か下、暗黒の独房の中で、アルバーンはただ一人、漆黒に染まった槍を握り締め、ギラギラとした復讐の炎を瞳に宿していた。
すでに、彼の記憶の中に残る「家族」は、ミナを含めてあとわずか。 孤児院という場所の風景すらも霞み始め、彼の中にあるのは、ただドフラミンゴへの殺意のみ。
一千勝という名の「終着点」に向けて、黒き修羅は、自らの魂を削りながら走り続ける。
補足
・ミナ
彼女はもともと事業に失敗し、破産してしまった商家の娘でした。当時赤子だった彼女は、借金で育てる余裕の無くなった両親によって孤児院に預けられました。
アルバーンに次いで年上の長女的存在で、アルバーンと同じ時期に孤児院に預けられたため、孤児院では最も仲のいい兄妹でした。