第一節.999勝目の消滅
「勝者――! 『黒槍』アルバーーーーン!!」
地響きのような大歓声がコリーダコロシアムを揺らし、熱狂した観客たちが一斉に金を賭け直していた。しかし、リングの中央に立つアルバーンには、その声はもう雑音にすら聞こえなかった。 黒鉄の槍を無造作に引きずり、彼はゆっくりと地下へと戻る。
【通算戦績:九百九十九勝】
一千勝まで、あと、たったの一勝。 三年前、絶望のどん底で提示されたあの無茶苦茶な条件に、彼はついに指先をかけようとしていた。
だが、暗黒の独房へと戻り、冷たい床に腰を下ろした瞬間――アルバーンの脳内を、強烈な目眩が襲った。 頭蓋骨を内側からノミで叩き割られるような、激しい頭痛。視界が激しく歪み、彼は苦しげに己の頭を両手で強く抱え込んだ。
(……がはっ、あ、頭が……熱い……!?)
それは、これまでに何度も経験してきた違和感の、最大にして最後の「大波」だった。 脳の奥で、何かがパチンと弾ける音がした。次の瞬間、アルバーンの記憶の底にあった「最後の温もり」が、猛烈な勢いで吸い出され、世界の理ごと消滅していく。
(待て……俺は、何を目標にしていた……? 誰だ、俺は誰のために……?)
必死に、消えゆく記憶の残骸を掴もうと、暗闇の中で手を伸ばす。 ショートヘアの、少し気の強い、けれど誰よりも優しい少女の笑顔が、脳裏をよぎった気がした。自分の防具の紐を締め、いつも無事を祈ってくれていた、あの小さな手のひら。
「……ミ、ナ……?」
その名前を口にした瞬間、記憶は完全に霧散した。 「ミナ」という文字列が何を意味するのか。自分がなぜその音を口にしたのか。それすらも分からなくなる。
同時に、彼の過去の全てが、世界のルールに従って恐ろしい精度で「改竄」されていった。
彼が戦ってきた理由。彼がこの地獄のリングで泥をすすり、五十回以上も無惨に敗北しながら立ち上がってきた理由――「孤児院の家族を救う」という約束。その前提そのものが、彼の脳内から綺麗さっぱり消え去った。
生き残った子供たちは、自分が50敗目を喫したあの瞬間全員殺された。 自分が守るべき弟や妹たちなど、もうこの世界のどこにもいない。
では、なぜ自分はここにいる? なぜ自分はいまだに槍を持ち、一千勝を目指して戦っている?ねじ曲げられた記憶の隙間を埋めるように、頑強な「過去の歴史」が彼の頭の中に定着していく。
「……ドフラ、ミンゴ……っ!」
暗闇の中、アルバーンが目を見開く。その瞳には、もはや一欠片の人間らしい光も残っていなかった。 かつて宿っていた「誰かを守りたい」という温かい祈りは完全に消滅し、そこにあるのは、自らの人生を狂わせ、大切な家族を奪い、自分を家畜のように扱ってきたドレスローザとドンキホーテファミリーへの、狂気的なまでの純粋な憎悪と復讐心だけだった。
彼の手にある黒鉄の槍は、もはや救いの矛ではない。国そのものを突き殺すための、呪いの凶器へと変貌していた。
第二節.もう誰も覚えていない
その頃、王宮の最上階では、ドフラミンゴが満足そうにグラスを傾けていた。
「フッフッフッフッフッ……! 泳がせ続けた甲斐があったな、ディアマンテ。あのガキが、ついに九百九十九勝だ」
彼の傍らには、術者である少女シュガーが、グレープの果実を口に放り込みながら座っていた。彼女の手によって、先ほど地下から引きずり出された一人の「人間の少女」が、小さなオモチャへと変えられたばかりだった。
だが、シュガー自身も、そしてドフラミンゴも、最高幹部たちも、誰もそのことに特別な感情は抱いていなかった。
なぜなら、ホビホビの実の能力が発動した瞬間、ドフラミンゴたちの頭からも「孤児院の生き残った子供たちを人質にしてアルバーンを脅迫していた」という事実そのものが完全に消滅したからだ。
彼らの現在の認識は、アルバーンの改竄された脳内と完全に一致していた。
「ああ、ドフィ。あいつは三年前に孤児院の家族を全員を殺されて以来、ただ俺達への復讐のためだけに、狂犬のように牙を剥き続けてきた」
ディアマンテが、名簿の『クーフラン・アルバーン』のページを見つめながら冷酷に笑う。
「骨を折られようが、どんな猛者をぶつけようが、憎悪だけで生き延びて覇気まで覚醒させやがった。哀れな執念だが……極上の見世物だったな」
「自由(一千勝)という名のゴールを目の前にして、最も希望が膨らんだその瞬間に、すべてをへし折って絶望させてやる。それがこの国のルールだ」
ドフラミンゴはサングラスの奥の目を細め、邪悪に笑った。
「自分が俺達への復讐のために積み上げた一千勝が、ただの砂の城だったと思い知らせてやる。楽しみだなぁ、フッフッフッフッフッ!」
王宮に響き渡る悪魔たちの笑い声。 彼らは「完璧にアルバーンを絶望させる計画」を企てているつもりだった。しかし、彼ら自身もまた、悪魔の実の呪いによって「本当の過去」を奪われ、記憶を変えられている操り人形に過ぎないのだ。
本当の悲劇を知っているのは――世界中でただ一人、地下の暗い交易港で、小さなオモチャの身体に作り替えられ、重い荷物を運びながら「アル……」と声にならない涙を流している、かつてミナと呼ばれた、木馬のオモチャだけだった。
第三節.新たな囚人
999勝目を挙げてから、数日が過ぎた。 ファミリーは、アルバーンの一千勝目という「最大の記念試合」に向けて、大々的な興行の準備を進めており、そのためアルバーンは長めの休息(という名の放置)を独房で強いられていた。
復讐心だけで呼吸するアルバーンは、暗闇の中でただじっと、武装色の覇気を槍に馴染ませるだけの時間を過ごしていた。
そんなある日。 隔離独房の重い鉄扉が、ガギギと不快な音を立てて開いた。
「おい、ガキ。今日から同室だ。若様の慈悲で、話し相手を用意してやったぞ」
見張りの兵士が、せせら笑いながら一人の小柄な影を独房の床へと突き飛ばした。 バタン、と再び扉が閉まり、独房は再び完全な暗闇へと戻る。
アルバーンはピクリとも動かず、見聞色の覇気だけでその「影」の気配を察知した。 入ってきたのは、明らかに戦闘経験の浅い、まだ幼さの残る少女だった。彼女は冷たい床の上で身を縮め、恐怖で小さく震えている。
「……」
暗闇の中、アルバーンは何も発さなかった。 彼の見聞色の覇気は、その少女がまとっている特異な波長――かつて「アルベルト先生」が命を懸けて慕っていた、あの呪われたリク一族の気配を捉えていた。
少女はビクッと身体を跳ね上げ、暗闇の奥にいるアルバーンの体を見上げようとした。
「あ……あなたは……?」
「‥‥‥アルバーン」
彼は感情の失せた声で応じる。
「お前は……なぜここにいる。リク一族の生き残り」
少女は、自身の正体を一瞬で見抜かれたことに恐怖しながらも、溢れ出そうとする涙を必死に堪え、震える声で名乗った。
「私は……レベッカ。ドフラミンゴに……国を奪われて、兵隊さんに守られて生きてきたのだけど……捕まって、ここに……」
レベッカ。それが彼女の名だった。 アルバーンは暗闇の中で、その名を頭の中で反芻した。
彼の歪められた記憶によれば、リク王家こそが、自分の保護者が命を捧げた対象であり、ドレスローザの真の王であるはずだった。しかし、今のアルバーンにあるのは「王家への忠誠」などという綺麗な感情ではない。あるのは、その王家を巻き込んで自分を地獄へ叩き落とした、この国全体への昏い、狂気的なまでの憎悪だけだ。
「‥‥。」
アルバーンは、漆黒の槍の穂先を床に突き立てた。コン、と硬い音が独房に響く。
「ここはコリーダコロシアム。死ぬまで出られない地獄だ。……お前に、人を殺す覚悟はあんのか」
レベッカは、アルバーンの身体から放たれる、圧倒的な殺気と覇気の重圧に息を呑んだ。目の前にいるのは、自分とそう年齢の変わらない少年のはずなのに、その存在感は、これまでに見たどんな戦士よりも巨大で、そして圧倒的に『孤独』だった。
「私は……誰も傷つけたくない。傷つけないで、勝ってみせるって、兵隊さんと約束したから……っ!」
レベッカのその言葉を聞いた瞬間、アルバーンの胸の奥が、ほんのわずかに、疼くように痛んだ。 誰も死なせない。そんな生温い綺麗事が、この地獄で通用するはずがない。かつての自分も、そんな甘い幻想を抱いていたような――いや、そんなはずはない。俺の過去は、敗北と血に塗れた復讐の歴史だけだ。
「……無理だな」
アルバーンは冷たく突き放すように言い、それ以上、レベッカに言葉をかけるのをやめた。
しかし、すべてを失い、復讐の人形と化したアルバーンと、誰も傷つけない戦いを誓う少女レベッカ。 お互いに、ホビホビの呪いによって「大切な片足の兵隊」や「孤児院の家族」の記憶を消され、奪われた者同士。 このドレスローザの最深部で交わった二人の歪な運命が、ファミリーの描いた「シナリオ」を、少しずつ、けれど確実に狂わせていく始まりになるとは、王宮の悪魔たちも、そして二人の少年少女も、まだ知る由はなかった。