孤高の黒槍   作:特性 Suisui

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7.蹂躙

第一節:虚無の一戦

 

 ドレスローザの空は、呪わしいほどに青く澄み渡っていた。 しかし、太陽の光が燦燦と焼き付くすように照らすコリーダコロシアムのリングは、数万人もの観客が放つ熱気と、むせ返るような血の臭いに満たされていた。

 

ドオォォォォン!! ドオォォォォン!!

 

 地鳴りのような太鼓の音が、観客席の足元を激しく揺らす。今日という日は、この血塗られた打闘場の歴史において、二度と訪れないかもしれない「狂気の記念日」だった。

 

「さあ! お集まりの紳士淑女の皆様、そして全世界の血に飢えたギャンブラーどもォ!! ついに、ついにこの瞬間がやってまいりましたァーーー!!」

 

 中央の実況席に陣取る実況の声が、拡声電伝虫を通じてコロシアム全体に割れんばかりに響き渡る。

 

「5年前! わずか9歳でこの地獄のリングに放り込まれ、死肉をすすり、泥を噛み、這いつくばりながらも立ち上がり続けた一人の少年がいた! ある時は巨人の一撃に骨を砕かれ、またある時は暗殺者の猛毒に五感を奪われながらも、彼の手にある黒鉄の槍だけは、決して折れることがなかったァ!!」

 

 観客席から、地響きのような大歓声と、それ以上にすさまじい罵声と怒号が巻き起こる。

 

「通算戦績、九百九十九勝!! あと一勝! たったの一勝を積み上げれば、前人未到の『一千勝』に到達する! 我らがコリーダコロシアムが誇る最強の奴隷剣闘士……『黒槍』アルバーーーーン!!」

 

ガギギギギギギ……ッ!!

 

 東側の鉄格子の扉が、重苦しい音を立てて跳ね上がった。 暗闇の向こうから、一人の少年がゆっくりと歩を進めてくる。 クーフラン・アルバーン。十四歳。 その肉体は、二年前の少年の面影を完全に失っていた。過酷な労働と、時として一日数試合という狂気的な興行によって鍛え上げられた四肢は、まるで黒鉄のワイヤーを編み込んだかのように引き締まっている。上半身には、数え切れないほどの刀傷、銃創、そして打撃によって歪んだ骨の痕が、無数に刻み込まれていた。

 

 彼の手には、いつもと変わらぬ、刃こぼれだらけの黒鉄の槍。 しかし、その槍先は、アルバーンが放つ禍々しいまでの精神力――「武装色の覇気」によって、鈍い漆黒の光を宿していた。

 

(あと、一勝……)

 

 アルバーンの瞳には、冷徹な、しかし底なしの飢餓感を孕んだ光が宿っていた。 ホビホビの実の能力によって、彼の脳内からは「孤児院の弟や妹たち」の記憶が、その存在ごと完全に消去されている。彼がなぜ5年間もこの地獄で戦い続け、五十回以上も無惨に敗北しながら立ち上がってきたのか、その本当の理由はもう彼自身にも分からなかった。

 ただ、ねじ曲げられた記憶の隙間を埋めるように、彼の脳裏には一つの「偽りの歴史」が強固に定着していた。

 

『かつて自分を育ててくれた孤児院の先生、リク王家を慕う高潔な人。その先生をこのコロシアムで惨殺され、自分も奴隷としてここに放り込まれた。一千勝を挙げれば、ほかの6人の弟妹も一緒にこの国から自由になることができる。しかし、自分は敗北し続けてしまい、家族は全員殺されてしまう。残されたのはドフラミンゴへの復讐心のみ』

 

その憎悪だけが彼のこころで燃え続ける。

 

「そしてェーーー!!」 実況の声が、さらに一段と高く跳ね上がる。 「この記念すべき一千勝目の大一番! 『一千勝すれば自由の身にする』という、我が国最高の慈悲を直々に授けるため! そして、この生意気な復讐鬼に本物の『絶望』を教えるために、リングへ降り立ってくださったのは――ドレスローザの偉大なる真の王! 王下七武海、ドンキホーテ・ドフラミンゴ様だァァァーーー!!」

 

ドオォォォォン!!

 

 西側のゲートが爆風とともに開き、ピンクの羽毛コートを羽織った巨大な影が、悠然とリングへと歩を進めてきた。 ドフラミンゴ。その顔には、トレードマークである不敵な笑みが浮かんでおり、サングラスの奥にある視線は、アルバーンを人間ではなく、ただの「興味深い玩具」として捉えていた。

 

「フッフッフッ……。よくここまで生き延びたな、アルバーン。あのガキが、まさか九百九十九回も死線を越えてくるとはなァ」

 

 ドフラミンゴが両手を広げると、彼から放たれる圧倒的な威圧感――「覇王色の覇気」が、目に見えない衝撃波となって打闘場を吹き抜けた。リングを囲むプールの水面が激しく波立ち、観客席の何人かが、そのプレッシャーだけで白目を剥いて気絶していく。

 

 しかし、アルバーンは一歩も退かなかった。 彼は自らの「見聞色の覇気」を極限まで研ぎ澄まし、ドフラミンゴという怪物の存在感を、その肌で、脳内で、冷徹に観察していた。

 

「ドフラミンゴ……」

 

 アルバーンは黒槍の柄を限界まで強く握り締め、武装色の黒い膜を槍全体に押し広げた。

 

「お前を殺して、俺はここを出る。この一勝で、すべてを終わらせる」

「フッフッフッ! いいねぇ、その眼だ! 憎悪で爛れたそのツラが見たかった! さあ、お前の一千勝の価値を、俺に証明してみせろ、ガキがァ!!」

 

ガチィィィン!!

 

 試合開始のゴングが鳴り響いた瞬間、十四歳の修羅と、新世界の魔王の戦いが幕を開けた。

 

 

 

第二節:猛攻

 

「ッ!!」

 

 アルバーンが動いた。その踏み込みは、かつてコロシアムで戦った無敗の槍使いギルバートの足捌きを完全に盗み、さらに自身の筋力で音速の領域まで引き上げたものだった。 打闘場の石床が、アルバーンの踏み込みの衝撃でクモの巣状にひび割れる。 一瞬でドフラミンゴの懐へと潜り込んだアルバーンは、黒鉄の槍を電閃のごとく突き出した。

 

シュガァァァン!!

 

 空気が爆音を立てて裂け、鋭利な漆黒の穂先がドフラミンゴの眉間へと肉薄する。常人の目には、槍が突き出されたことすら認識できないほどの超高速の一撃。

しかし。

 

ガキィィィン!!

 

 激しい金属音が打闘場に響き渡り、凄まじい火花が散った。 ドフラミンゴは、一歩も動いていなかった。彼の顔面のわずか数センチ手前。空気中に張り巡らされた、目に見えないほどに細く、そして鋼鉄をも断ち切る硬度を持った「糸の壁」が、アルバーンの全力の突きを完璧に受け止めていたのだ。

 

「フッフッ、速いな。だが、直線的すぎる」

「……まだだ!」

 

 アルバーンは突きが止められることを予期していたかのように、即座に槍を引き抜くと、今度は槍の柄を軸にして、猛烈な横薙ぎの一撃を放った。 その動きには、かつて魚人族の重戦士から盗んだ『魚人空手』の体重移動が組み込まれていた。打闘場を囲む空気そのものを味方につけ、打撃の衝撃を面として拡散させる一撃。

 

「死ねえ!!」

 

ドゴォォォン!!

 

 ドフラミンゴの脇腹に向けて放たれた槍の側面が、再び目に見えない糸の障壁によって阻まれる。しかし、アルバーンの放った魚人空手の衝撃は、糸の隙間をすり抜けてドフラミンゴの身体へと伝わった。

 

「お……?」

 

 ドフラミンゴの身体が、わずかに数センチだけ後方へと揺らいだ。 サングラスの奥の目が、面白そうに細められる。

 

「なるほど、衝撃を浸透させる技術か。囚人どもから盗んだ小技の割には、上出来じゃねえか」

「はぁぁぁぁ!!」

 

 アルバーンはドフラミンゴの言葉に耳を貸さず、攻撃の手を緩めない。ここから、彼の 「簒奪の才能」が本領を発揮する。 5年間で二百以上の戦いを経て、対戦相手の命とともに奪い去ってきた数々の戦闘技術。それが、今この瞬間に、一つの巨大な「奔流」となってドフラミンゴへと襲いかかった。

 ある時は、ミンク族の戦士から盗んだ、獣のような変則的なステップと敏捷性。アルバーンの身体は、リングの上を滑るようにしてドフラミンゴの死角へと回り込む。 またある時は、新世界の高額賞金稼ぎが使っていた『双刃流』の軌道。槍の両端、穂先と石突を交互に突き出すことで、まるで二人の戦士が同時に攻め立てているかのような、連続的な錯覚を作り出す。

 

「ハアアアア!!」

シュシュシュシュシュシュッ!!

 

 漆黒の槍先が、何十、何百という残像となってドフラミンゴの全身を襲う。ドフラミンゴは、自らの指先をピアノを弾くように動かし、目に見えない糸を操ってその猛攻をことごとく弾いていった。

 

キィン、カァン、ガガガガガッ!!

 

 打闘場の中央で、火花がドーム状に広がる。観客たちは、十四歳の奴隷が「王下七武海」を相手に、これほどまでの攻防を繰り広げている姿に、声を失って見入っていた。

 

(……見えてきた)

 

 アルバーンの見聞色の覇気が、ドフラミンゴの動きの「癖」を捉え始めていた。 どれほど完璧な能力者であっても、糸を放出する瞬間、指先を動かす瞬間に、必ず微かな覇気の「揺らぎ」が生じる。アルバーンはその一瞬の隙を見逃さなかった。

 

「ここォーーー!!」

 

 アルバーンは全体重を槍に乗せ、巨漢の斧使いから盗んだ『巨人の一撃』の理合をもって、ドフラミンゴの防御壁の最も薄い一点へと、槍を真っ直ぐに振り下ろした。

 

ドグァァァン!!

 

 凄まじい衝撃波がリングを走り、ドフラミンゴの糸の壁が、ついに派手に引き裂かれた。 黒鉄の槍先が、ドフラミンゴのピンクの羽毛コートを切り裂き、その下の胸元へと到達する――。

 

 

 

第三節:隔絶

 

「届いたァーーー!!」

 

 観客席の誰かが叫んだ。 しかし、アルバーンの見聞色は、勝利ではなく「最悪の危険」を察知していた。

 

「フッ……。本当に大したガキだ。だがな、アルバーン」

 

 ドフラミンゴの胸元に突き立てられたはずの槍先は、彼の皮膚に触れる直前で、完全に静止していた。 ドフラミンゴが自身の胸元の筋肉に「武装色の覇気」を極限まで集中させ、アルバーンの槍を肉体そのもので受け止めていたのだ。彼の肌は、まるで漆黒の鏡のように鈍く光っていた。アルバーンの覇気よりも、遥かに濃く、遥かに分厚い、本物の「新世界の覇気」。

 

「お前が泥水の中で磨いてきた技術は、所詮『井の中の蛙』の範疇を出ねえんだよ」

 

 ドフラミンゴの指先が、不自然な角度で跳ね上がる。

 

「『五色糸』!!」

「……っ!?」

 

 アルバーンは見聞色でその軌跡を察知し、咄嗟に槍の柄を身体の前に戻して防御の姿勢をとった。しかし、放たれた五本の糸は、アルバーンの黒鉄の槍をも容易に切り刻むほどの鋭利さと速度を持っていた。

 

バリィィィン!!

 

 アルバーンが三年間愛用し、自身の覇気で補強し続けてきた黒鉄の槍の柄に、深い亀裂が入る。同時に、糸の放つ凄まじい衝撃波がアルバーンの胸元を直撃した。

 

「がはっ……!!」

 

 アルバーンの体が、まるで木の葉のように後方へと吹き飛ばされた。彼はリングの石床を数十メートルも激しく転がり、地面に背中から激しく激突した。 ゴホッ、と口から大量の鮮血が吐き出され、リングの上が赤く染まる。

 

「アルバーンが、吹き飛ばされたァーーー!! やはり王の力は絶対! 『檻の死神』といえども、ドフラミンゴ様の前には赤子同然かァー!?」

 

 実況の声に、観客たちが再びサディスティックな歓声を上げる。

 

「はぁ……、はぁ……、はぁ……」

 

 アルバーンは長槍を杖のように突きたてながら、かろうじて立ち上がった。 全身の筋肉が悲鳴を上げている。肋骨が数本、今の一撃で確実に折れていた。息をするたびに、胸の奥に刺すような激痛が走る。

 しかし、彼の眼光はまだ死んでいなかった。折れかけた槍を再び握り直し、ドフラミンゴを睨みつける。

 

「ほう、まだ立つか」

 

 ドフラミンゴはゆっくりと歩を進めてくる。その足取りには、一切の焦りも、油断もない。ただの処刑人のそれだった。

 

「お前は、自分が人一倍の才能を持っていると思っているんだろう? 他人の技を盗み、自分のものにする。確かにそれは稀代の才能だ。だがな、アルバーン……世界にはな、どれほど技術を盗もうが、絶対に届かない『天と地の差』ってものが存在するんだ」

 

 ドフラミンゴが、両手を地面へと突き下ろした。

 

「……見せてやるよ。悪魔の力の、その『先』をな」

「『荒浪白糸』!!」

 

 その瞬間、アルバーンの見聞色の視界が、真っ白な絶望で埋め尽くされた。 打闘場の石床、リングを構成する巨大な岩石のすべてが、突如として無数の「白い糸」へと姿を変え始めたのだ。地盤そのものが生き物のようにうねり、巨大な波となってアルバーンへと襲いかかる。

 

「な……んだ、これは……!? 石が……糸に……!?」

 

 アルバーンは驚愕した。彼がこれまでに戦ってきたどの能力者も、こんな芸当は見せなかった。周囲の環境そのものを自分の能力に変える――それが、悪魔の身の能力の「覚醒」の領域であることなど、地下監獄の囚人である彼が知るはずもなかった。

 

「逃げ場はねえぞ、ガキがァ!」

 

 何千、何万という白い糸の槍が、津波となってアルバーンの頭上から降り注ぐ。 アルバーンは死に物狂いで、かつて盗んだあらゆる回避技術を繰り出した。ミンク族の速度で跳躍し、魚人空手の衝撃波で迫り来る糸の波を弾き飛ばそうとする。

しかし、圧倒的な質量の前には、それらの技術も虚しく押し流されていく。

 

 ズブズブズブッ!!

 

「あ、あああァァーーーッ!?」

 

 アルバーンの四肢に、無数の白い糸が突き刺さった。糸は彼の肉体を貫き、その自由を完全に奪う。空中につるし上げられたアルバーンの身体から、血がボタボタと打闘場へと滴り落ちる。

 

 手から、黒鉄の槍が滑り落ち、砂の上に乾いた音を立てて転がった。

 

「終わりだ。お前の『一千勝』という夢の終着点だ」

 

 ドフラミンゴが空中で指を弾く。

 

「『足剃糸』!!」

 

 ドフラミンゴの、覇気をまとった強烈な蹴りが、無防備につるし上げられたアルバーンの脇腹へと叩き込まれた。

 

ドォォォォン!!

「ごはぁっ……!!」

 

 内臓が破裂するような衝撃。アルバーンの身体は、目にもとまらぬ勢いで吹き飛ばされ、リングの隅へと崩れ落ちた。 視界が急激に暗くなっていく。全身の感覚が消え失せ、ただドクドクと流れる自分の血の音だけが、耳の奥で虚しく響いていた。

 完全な、そして絶対的な完敗だった。

 

 

 

第四節:蹂躙

 

「そこまでェーーー!! 勝者、我が国の偉大なる王、ドフラミンゴ様だァーーー!!」

 

 コロシアム全体が、割れんばかりの拍手と歓声に包まれていた。 一千勝という「おとぎ話」の直前で、生意気な奴隷が王の手によって完璧に粉砕される。これこそが、ドレスローザの観客たちが最も愛する「最高の娯楽」の形だった。

 

「ハハハ! 見たかよ、アイツの無様なツラを!」

「一千勝なんて生意気なんだよ! 奴隷は奴隷らしく、一生泥をすすってりゃいいんだ!」

 

 観客席からの冷酷な笑い声が、遠のいていく意識の中でアルバーンの鼓膜を叩く。

ピクリとも動かないアルバーンの前に、ドフラミンゴが悠然と歩み寄ってきた。彼は、血の海の中に横たわるアルバーンの髪を乱暴に掴み上げ、その顔を無理やり持ち上げた。

 

「……はぁ、はぁ……、殺、せ……」

 

 アルバーンは、口から血の泡を吹きながらも、サングラスの奥のドフラミンゴの目を、なおも親の仇を見るような憎悪の目で睨みつけた。

 

「一千勝は……届かなかった……。俺の、負けだ……。……殺せ……!」

「フフフ、殺す? 勘違いするな、アルバーン」

 

 ドフラミンゴは、哀れむような、しかし底意地の悪い笑みを浮かべ、アルバーンの耳元で囁いた。

 

「お前はな……最初から『一千勝』に届くはずがなかったんだよ」

「……何だと……?」

「お前が頭の中で大事そうに抱えている『一千勝すれば自由の身にする』というあの約束だがな。あれは、お前が『無敗』で一千勝を達成した場合の話だ。……お前、過去に何回負けた? 五十回か? 六十回か? フフフ、一度でも敗北を知った奴隷に、本物の自由を与えるわけがねえだろうが」

「な……っ……!?」

 

 アルバーンの脳裏に、強烈な衝撃が走った。 彼の歪められた記憶の底から、過去に自分が打闘場の砂の上で這いつくばり、無惨に敗北してきた数々の光景が、おぞましい精度で蘇ってくる。

 

(そうだ……俺は、何度も、何度も負けていた……。無敗じゃ……ない……)

 

 最初から、ドフラミンゴに彼を解放するつもりなど毛頭なかったのだ。すべては、この少年により過酷な戦いを強いるため、そしてより強い「復讐鬼」へと育て上げて観客を楽しませるための、ただの甘いエサに過ぎなかった。

 アルバーンが5年間、血反吐を吐きながら積み上げてきた九百九十九の白星は、最初から何の意味もない「砂の城」だったのだ。

 

「お前の人生は、最初から俺の手のひらの上だ。あのリク王家をバカみたいに慕う男も、このリングで死んだとき、お前と全く同じ絶望のツラをしていたぜ? フッフッフッ!」

「ドフラ、ミンゴ……お前、は……ッ!!」

 

 アルバーンは残された最後の力を振り絞り、ドフラミンゴの首元へと手を伸ばそうとしたが、指先一つ動かすことすらできなかった。

 

「だが、お前のその『強さ』と『執念』だけは、新世界の海でも十分に通用する価値がある」

 

 ドフラミンゴは身をかがめ、悪魔の誘いを囁いた。

 

「アルバーン。俺の部下になれ。ドンキホーテファミリーの『猟犬』として、俺のためにその槍を振るい忠誠を誓うなら……この地下監獄から解放し、ファミリーの幹部としての地位と、日の当たる場所を与えてやる。俺達への復讐などという下らねえ幻想は捨てて、俺の犬として生きろ」

 

 すべてを失い、誇りをも剥ぎ取られた十四歳の少年に突きつけられた、最悪の二者択一。 部下になれば、この暗黒の地下からは出られる。自由ではないが、奴隷として消費されるだけの生活からは脱却できる。

 しかし、アルバーンの中の「黒き槍」は、まだ折れていなかった。 自分のすべてを奪い、自分を家畜のように弄び、そして大切な保護者を殺したこの男に、魂を売ることなど、死んでもできるはずがなかった。

 

「……断、る……」

 

 アルバーンは、口内に溜まった血混じりの唾を、ドフラミンゴの高級な靴に向けて、弱々しく吐き出した。

 

「俺は……お前の犬には……ならない。いつか必ず……お前のその首を……俺の槍で、突き殺す……ッ!!」

 

 ドフラミンゴの顔から、一瞬で笑みが消え失せた。 サングラスの奥の目が、氷のように冷たく冴え渡る。

 

「……そうか。ならお前は、永遠に地下の闇で腐り果てろ」

 

 ドフラミンゴは乱暴にアルバーンの髪を離し、床へと叩きつけた。

 

「ディアマンテ、こいつを独房へ戻せ。……死ぬまで奴隷だ。気が変わったらいつでも連れてこい。」

「わかった。ドフィ‥‥。」

 

 通路の奥から現れたファミリーの兵士たちが、ぐったりとしたアルバーンの両腕を掴み、引きずっていく。彼の愛用していた黒鉄の槍は、リングの上に、持ち主を失った遺物のように取り残されていた。

 

 

 

第五節:暗い部屋

 

ガギギギギ……ッ、バタン!!

 

 重い鉄製の扉が不快な音を立てて閉まり、鍵が何重にもかけられる音が響いた。アルバーンの身体は、冷たい隔離独房の床へと、まるでゴミのように放り込まれた。

 

「う……あ……っ……」

 

 激しく床へ叩きつけられた衝撃で、アルバーンの口から掠れたうめき声が漏れる。 全身の骨は至る所が砕け、武装色の覇気も、見聞色の覇気も、完全に底を突いていた。肉体は限界を超えてボロボロであり、指先一つ動かすことすらできない。

 何よりも、彼を支えていた「一千勝」という希望が、完全にへし折られたことによる精神的な虚脱感が、彼の魂を暗闇の底へと引きずり込んでいた。

 

(俺は……何のために……戦ってきたんだ……。何も……残っていない……)

 

 自由への約束も、強さへの過信も、すべてはドフラミンゴという悪魔が作った精巧な悪夢に過ぎなかった。彼に残されたのは、ただ永遠に続く、光の届かない暗黒の幽閉生活だけ。

 その時だった。 完全な暗闇に包まれた独房の奥から、微かな、しかし慌てたような足音が近づいてきた。

 

「あ……アルバーン、さん……!? アルバーンさんなの!?」

 

 怯えた、けれど自分を心から心配する少女の声。レベッカだった。 彼女は、数日前にこの独房に放り込まれて以来、アルバーンが一千勝目の決戦に向かうのを見送っていた。そして今、あまりにも凄惨な姿になって戻ってきた少年の姿に、息を呑んだ。

 レベッカは咄嗟に駆け寄り、冷たい床の上に倒れるアルバーンの身体を、自らの小さな手で必死に抱き起こそうとした。

 

「ひどい……! なんて酷いことを……! 体中、傷だらけじゃない……! しっかりして、アルバーンさん!」

 

 ポロポロと、レベッカの目から溢れ出た涙が、アルバーンの血に汚れた頬にぽつりと落ちた。 その涙の温かさに、アルバーンの意識が、かろうじて現世へと繋ぎ止められる。

 

「……おま、え……」

 

 アルバーンは、血を吐きながらも、昏い闘志を宿した掠れた声で呟いた。

 

「お前、は……なんで、泣く……。俺の、負けだ……。一千勝は……ただの、嘘だった……。俺には……もう、何も……」

「そんなこと、どうでもいいわ!」

 

 レベッカはアルバーンの身体を強く抱き締めながら、泣き叫んだ。

 

「死なないで……! お願いだから、死なないで! 私はもう、誰も死ぬところなんて見たくないの……っ!」

 

 すべてを失った。 自分が勝つたびに、世界から消し去られていった「本当の家族」の記憶も、彼にはもうない。 世界でただ一人、地下の交易港でオモチャに変えられた妹のミナだけが、本当の「アル」を覚えて涙を流しているという残酷な真実を、この檻の二人は誰も知らない。

 

 しかし、すべてをへし折られ、未来を閉ざされた十四歳の少年の胸の奥で、ドレスローザへの、ドフラミンゴへの、決して消えることのない底なしの「憎悪」の残り火が、再びパチパチと静かに音を立てて燃え上がり始めていた。

 

「……そうだ……俺は……まだ、死なない……」

 

 暗闇の中、血に塗れたアルバーンの瞳が、かすかに、しかし怪しく光った。 前人未到の一千勝に破れ、永遠の幽閉を言い渡された黒き修羅。しかし、この最深部の檻から、ドレスローザの国そのものを揺るがす、真の「復讐の物語」が、静かに始まるのだった。

 

 




補足
仮に無敗で一千勝したとしても、ドフラミンゴは約束を守る気はないと思います。

神が人間(奴隷)との口約束なんて守るわけがない。約束とは対等な者同士で行われるものなのですから。
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