第一節:悪意と盾
コリーダコロシアムの地下独房に訪れる夜は、地上のそれよりも遥かに冷たく、重い。
レベッカの初陣から数週間が経った頃。彼女の「誰も傷つけずにリングアウトさせる」という戦術は、対戦相手である囚人剣闘士たちにとって、これ以上ない「屈辱」として蓄積していた。
ドフラミンゴファミリーの悪意か、あるいは単なる空間の節約か――レベッカは、通算九百九十九勝を誇りながらも瀕死の重傷を負って幽閉されている「死神」と呼ばれる少年、クーフラン・アルバーンと同じ一つの隔離独房に押し込められていた。
ガサリ……。
深夜、見張りの兵士たちが酒を飲んで眠りこけた時間帯。彼らの独房の鉄格子の向こう側から、不穏な足音が近づいてきた。 アルバーンは、冷たい壁に背を預けたまま、即座に目を覚ました。彼の『見聞色の覇気』は、殺意を孕んだ三つの気配が、自分たちの檻の前で立ち止まったのを明確に捉えていた。
「おい……あのクソ生意気なリク一族の小娘、ここだな」
「俺たちを闘魚のプールに落としやがって……。大恥かかせやがったな」
「ただじゃおかねえ。寝首を掻いて、明日の試合に出られねえ身体にしてやる……!」
昼間の試合でレベッカにプールへ叩き落とされた囚人剣闘士たちが、見張りを買収したのか、手製のナイフを握り締めて鉄格子の鍵をこじ開けようとしていた。
「う、うん……?」
同じ檻の隅で、ボロ布の毛布に包まれていたレベッカが身動ぎをし、怯えた声を出す。
「だ、誰……っ!?」
「ひっひっひ、お目覚めかよ、お嬢ちゃん――」
男たちが鍵を開けて檻の中に踏み込もうとした、その瞬間。
「おい」
暗闇の底から、低く、だけど鼓膜に鋭く刺さる少年の一声が響いた。 レベッカの前へと割り込むように、壁際から音もなく立ち上がったアルバーンが立ちはだかる。前髪の隙間から獣のような眼光を放ち、男たちを睨み据えた。
「な、なんだァ? 一緒の檻のガキか。おい、お前はドフラミンゴ様にボコられて瀕死の身だろ。余計な首を突っ込むと――」
「うるさいな。そいつに触るなって、言ってるんだよ」
アルバーンはぶっきらぼうに言い放つと、男たちに向けてスッと右腕を突き出した。彼の腕は、瞬時に漆黒の「武装色の覇気」をまとい、金属のような鈍い光を放つ。
「死にたいなら、一歩前に出ろ。お前らみたいな有象無象、槍がなくても二秒で肉塊にしてやる」
「ひっ……!?」
男たちは息を呑んだ。どれほど怪我を負っていようが、相手は千を超える歴戦を潜り抜けたほどの本物の修羅だ。アルバーンから放たれる、殺伐とした濃密な殺気と覇気のプレッシャーに、男たちの膝がガタガタと震え始める。
「チッ……! 今日はこれくらいにしといてやる! お、覚えてやがれ……! 不気味な奴め……!」
男たちは恐怖に耐えかねて、鍵を開けかけた鉄格子の向こうへと這い傷だらけの体で逃げ去っていった。 静寂が、再び同じ檻の中に戻ってくる。
「アルバーンさん……」
レベッカが後ろから近寄り、震える声で言った。
「ありがとう……助けてくれて」
「うるさい」
アルバーンは腕の覇気を解き、ふいっと顔を背けて元の壁際に座り込んだ。
「あいつらの足音がうるさくて目が覚めただけだ。それに……お前が怪我して、泣き喚かれたら困るからな」
同じ空間の中、アルバーンはフンと鼻を鳴らした。この時、彼は彼女をただ「お前」としか呼びず、二人の間にはまだ冷たく硬い距離感があった。
第二節:ステーキ
それから二日後の夜。地下独房には静寂が戻っていたが、同じ檻の中にレベッカのお腹の「ぐぅ……」という小さな音が虚しく響いた。囚人に与えられるのは、家畜の餌まがいの薄いスープと固いパンだけ。食べ盛りの少女が過酷な試合を生き抜くには、圧倒的に栄養が足りていなかった。
「……はぁ。隣でそんな音を鳴らされると調子が狂う」
アルバーンは呆れたようにため息をつくと、自分が陣取っている檻の奥、ボロ布の影から「何か」を取り出した。それは、昼間の試合中にリングの周囲を泳ぐ闘魚を、彼が自らの槍で突き刺し、見張りの目を盗んで同じ檻の中へ密かに隠し持ってきた「新鮮な闘魚の肉塊」だった。さらに、地下の廃材を加工して作った手製の小さな火鉢と鉄板を取り出す。
「アルバーンさん、それ……!」
「俺は6年もこの地獄にいるんだぞ。9歳でここに放り込まれてから、リングの周りで襲ってくるあのクソ生意気な闘魚どもなんて、何度も自力で仕留めて、焼いて食ってきたんだよ。生肉のままだと腐るし、まともな飯なんか出ないからな」
アルバーンは檻の隅にある壊れた鉄くずをナイフ代わりに使い、恐ろしいほど手慣れた手つきで闘魚の硬い皮を剥ぎ、切り身にし始めた。至近距離でその鮮やかな手捌きを見つめるレベッカの鼻腔に、新鮮な肉の匂いが届く。
アルバーンは隠し持っていた塩の塊を削って肉に振りかけると、小さな火鉢の上でじっくりと焼き始めた。 ジュー……という小気味いい音とともに、一つの檻の中に、信じられないほど香ばしい肉汁の匂いが満ちていく。
「ほら、焼けたぞ。冷めないうちに食え」
アルバーンは焼き上がった極上のステーキを、同じ檻の中でレベッカの前に差し出した。
レベッカは一口食べると、そのジューシーな旨味に「美味しい……! アルバーンさん、すごい!」と顔を輝かせた。同じ空間でその笑顔を見せられ、アルバーンは気まずそうに視線を外す。
「……フン、体力を戻さなきゃドフラミンゴを殺せないから、いつも作ってるだけだ」
アルバーン自身も、自分の分の肉をガツガツと口に運ぶ。その様子を見て、レベッカは少し寂しそうに微笑んだ。
「ねぇ、アルバーンさん。そんなに強くて、お料理も上手なのに……どうしていつもそんなに怒ってるの? 私、アルバーンさんのこと、まだ何も知らないままだよ。本名も。」
アルバーンは肉を咀嚼する手を止め、前髪の隙間から冷ややかな目を向けた。
「クーフラン・アルバーン。それが俺の名前だ。……怒ってるんじゃない。俺には、ドフラミンゴへの恨みしかないんだよ。俺を育ててくれた先生は、6年前、俺と一緒にこのコロシアムに連行されてきた初日に……、俺の目の前で殺された。俺は、あいつを殺すためだけにしか生きてない」
アルバーンの言葉には、微塵の迷いもなかった。彼にとって、その偽りの記憶こそが絶対の真実だったからだ。レベッカはその壮絶な覚悟に圧倒され、それ以上言葉を続けることができなかった。
第三節:密会
それから数日後の夜、再び地下独房の前に奇妙な気配が現れた。 カチャ、カチャ、カチャ……。 軽快な、だけどどこか不自然な金属音が通路に響く。
アルバーンが鋭い視線を向けると、鉄格子の向こうに立っていたのは、一本のブリキの足で器用に跳ねながら走る、小さなオモチャの兵隊だった。手には何も持っていない。ただ息を切らし、必死に見張りの網をくぐり抜けてきた様子だった。
「レベッカ! 無事か!?」
「兵隊さん……!」
レベッカが嬉しそうに鉄格子へと駆け寄る。
「うん、私は平気! 兵隊さんこそ、見つかったら大変なのに……!」
「レベッカが心配でね。食事はまともに出ているか? 身体に痛むところは……」
オモチャの兵隊は、檻の向こうのレベッカを抱きしめることもできず、もどかしそうに小さなブリキの手を鉄格子の隙間から伸ばしていた。
「おい、オモチャ。密会なら手短にしろよ。見張りがくるまであと五分くらいだ」
檻の奥の暗闇から、アルバーンが冷ややかな声をかける。
兵隊さんはハッとして、レベッカと同じ檻の奥に佇む影に目を向けた。そこには、前髪の隙間から獣のような鋭い眼光を放つ15歳の少年がいた。
「おや……君は?」
兵隊さんが戸惑うと、レベッカが慌てて二人の間を取り持つように言った。
「あ、紹介するね、兵隊さん! この人はクーフラン・アルバーンさん。この前、悪い剣闘士たちから私を守ってくれたの。闘魚の美味しいステーキも焼いてくれたんだよ」
「クーフラン・アルバーン……くん、か」
兵隊さんはブリキの頭を傾げ、鉄格子の向こうの少年をじっと見つめた。まさかレベッカと同じ檻に、これほど強力な覇気を持つ戦士が囚われていたとは知らなかった。
「余計なことを言うな。」
アルバーンはふいっと顔を背けたが、その態度の裏にある、剣闘士としての圧倒的な実力と、どこか歪んだ気配を兵隊は見逃さなかった。
(クーフラン・アルバーン……。まさかあのアルベルト氏の‥‥‥!君までこんなところへ‥‥‥!)
「兵隊さん、もう行って! 見張りが来ちゃう!」
レベッカの急かす声に、兵隊さんは我に返った。
「ああ、また来るよ、レベッカ! アルバーンくん、レベッカを……よろしく頼む!」
ブリキの兵隊は、再び音を立てないように闇の中へと跳ね、消えていった。
第四節:心眼
そのまた数週間後、レベッカにとって最大の危機が訪れた。 連勝を重ねる彼女の「不殺の剣舞」を面白く思わない最高幹部ディアマンテの差し金により、彼女は次の試合で、極悪非道な戦術を使う「目潰しの暗殺者」とマッチングさせられたのだ。
試合中、レベッカは相手が放った特殊な毒煙幕を正面から浴びてしまい、両目の視界を完全に奪われてしまった。
「あ、ああ……! 何も見えない……!」
リングの上で、目隠しをされたように立ち尽くすレベッカ。観客席からは「殺せ!」「終わりだ!」という残酷な声が響く。相手の剣闘士は、視力を失った少女をじわじわと痛めつけようと、ニヤニヤしながら足音を消して近づいていく。
同じ檻の中から連れ出され、すぐ近くの控え室の檻からそれを見ていたアルバーンは、思わず鉄格子を激しく掴んだ。ガシャァン!と鎖が鳴る。
「バカが……! だから言ったんだ、綺麗事じゃ生き残れないって……!」
しかし、アルバーンはそこで叫ぶのをやめた。彼は自らの『見聞色の覇気』を極限まで広げ、リング上のレベッカの「気配」に全神経を集中させた。ここで叫べば、見張りにレベッカの動揺が伝わるだけだ。アルバーンは、自分の見聞色の波長を、レベッカの精神へと直接ぶつけるようにして、心の中で鋭く、激しく念じた。
(目に頼るな!!)
届くはずのない、だけど毎日同じ檻の中で何度も交わした少年のぶっきらぼうな声。それが、窮地に立たされたレベッカの脳裏に、あの狭い空間でアルバーンが放っていた「圧倒的な覇気の気配」の記憶とともにフラッシュバックした。
(お前はいつも、相手の重心を見て避けてただろ!? 目が見えなくなったなら、耳で, 肌で、空気の揺らぎを感じろ! 相手の『殺気の形』を頭の中で描くんだよ!!)
リングの上で、レベッカの動きがピタリと止まった。 彼女は深く息を吸い込み、両目を静かに閉じた。 その瞬間、彼女の周囲の世界が、色彩を失う代わりに「音と気配の波動」として再構築され始めた。十年間、兵隊さんと暗闇の中で繰リ広げた特訓の記憶。あるいは同じ檻の闇の中で、修羅のような覇気を放ちながらも自分を守ってくれた少年の存在感が、彼女の眠っていた『見聞色の覇気』を急速に呼び覚ましたのだ。
シュッ……!
暗殺者の放った不意打ちの突き。 レベッカは、それを完全に「見ずに」かわした。首をわずかに傾げるだけで、刃の風圧を避けたのだ。
「な、何ぃ!?」
ザッ、ザッ、ザッ! レベッカの動きが変わった。視力を失っているはずの彼女は、まるで背中に目がついているかのように、相手の連続攻撃をすべて紙一重でかわし、受け流していく。その動きは、初陣の時よりも遥かに洗練され、無駄が削ぎ落とされていた。
「……。マジであいつ、バケモノみたいなセンスしてんな」
控え室の檻から見ていたアルバーンは、その光景に、前髪の隙間からニヤリと小さな笑みを浮かべた。 彼女の見聞色の覇気は、この極限状態において、完全に覚醒したのだ。
「これで……終わり!」
レベッカは、相手が放った渾身の大振りの一撃を長剣の腹で綺麗に受け流すと、その勢いのまま相手の背中をポン、と押し出した。
ドボォォォン!!
「勝者……レベッカァァァーーー!! 視界を奪われながらも、またしても一人も傷つけずに完全勝利だァーーー!!」
どよめくコロシアム。 リングの上で、レベッカは息を切りながらも、控え室の檻がある方向へと、正確に顔を向けた。彼女の目はまだ見えていないはずなのに、その視線は、真っ直ぐにアルバーンを捉えているようだった。
第五節:名前
その日の夜、二人が戻された一つの地下独房には、激しい雨の音が届いていた。地上で降る雨水が、地下の排水溝を伝って、二人が背を預ける壁を冷たく濡らしている。
視力の戻ったレベッカは、檻の隅で膝を抱えていた。昼間の死闘の恐怖と興奮が冷め、身体が微かに震えている。
アルバーンは、少し離れた場所からそんな彼女の様子をじっと見つめていたが、やがてため息をつき、自分の羽織っていたボロ切れのような上着を脱ぐと、レベッカの肩へと無造作にかぶせた。
バサッ。
「……えっ?」
レベッカが驚いて見上げる。すぐ隣に、彼の顔があった。
「寒いだろ。貸してやるよ。風邪でも引かれたら、今度は俺にも移るかもしれねぇだろ」
アルバーンはレベッカの隣に腰を下ろし、体育座りをして膝に顎を乗せたまま、ぶっきらぼうに言った。同じ檻だからこそ、お互いの肩が触れ合いそうなほど近い。
レベッカは、そのゴワゴワとした、だけど彼の体温が残る上着をそっと引き寄せた。驚くほど温かかった。
「ねぇ、アルバーンさん」
「……何だよ」
「今日の試合のときね、なんだかあなたの声が聞こえた気がしたの。『目に頼るな』って」
アルバーンは一瞬だけ目を見開いたが、すぐにフンと鼻を鳴らした。
「幻聴じゃねえの? 俺がそんな優しいこと言うわけないだろ。お前が勝手に、俺の覇気の気配に当てられて覚醒しただけだよ」
「そうかな……。でも、嬉しかったよ」
レベッカは上着に深くくるまりながら、彼の方へと少し身体を寄せた。
「私ね、あなたに死んでほしくないの」
レベッカが静かに言った。
「ドフラミンゴへの復讐なんて、忘れてほしい。……生きて、いつか一緒に、この地獄の外に出よう?」
アルバーンは、その言葉を聞いて、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。 彼の頭の中にある「先生の遺言」は、ドフラミンゴを殺せと叫んでいる。だけど、同じ檻の中にいる少女の温もりと、今日彼女が見せた「誰も傷つけない強さ」は、彼の壊れた魂に別の選択肢を提示しているようだった。
シュガーの能力によって消し去られた、孤児院の家族の面影。アルバーンはそれを無意識のうちにレベッカに重ね、彼女を『守るべきもの』として認識し始めていた。
「……名前、長くて呼びにくいだろ」
アルバーンは、暗闇の天井を見つめたまま、照れ隠しを混ぜた低い声で唐突に切り出した。
「……『アル』でいいよ。昔、そう呼ばれてたから」
レベッカは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「うん! じゃあ私は、アルって呼ぶね。私のことも……『お前』じゃなくて、『ベッカ』って呼んで」
「……なんか変。勝手に変な愛称に縮めたりしねぇよ。レベッカ」
アルはぶっきらぼうに遮り、初めて彼女の名前を呼んだ。
「ふふ、そっか。でも、やっと名前で呼んでくれたね」
アルはそっぽを向いたが、その耳の端が、暗闇の中でほんの少しだけ赤くなっていた。
「……俺はあいつを、ドフラミンゴを絶対に殺す。……だけど」
アルは壁に頭を軽く預け、小さく呟いた。
「レベッカがここにいる間……まぁ、隣で盾くらいにはなってやるよ。お前、危なっかしくて見てられないから」
「……ありがとう。頼りにしてるね、私の死神さん」
冷たい一つの檻の暗闇の中。 二人の距離は、物理的にも、精神的にも、確かに少しだけ近づいていた。 復讐のために全てを捨てるはずだった15歳の修羅の心に、レベッカという名の小さな『錨』が、静かに下ろされた瞬間だった。
補足
原作でレベッカをいじめてたスパルタン等の意地悪剣闘士は、アルバーンによって八つ裂きにされてます。あんな健気で良い子をいじめるんだから仕方ないよね。