翌朝、俺は普通に学校へ行った。
人類が一度消えて戻ってきた翌日に登校する男。字面だけ見ると相当おかしいが、他にやることが無いのだから仕方ない。日常というのは、失って戻ってきても、案外そのまま続けられるものなんだなと思った。俺の感情が平坦だからそう思えるだけかもしれないが。
教室に入ると、友人の佐伯が「よう」と手を挙げた。お前、三日前に一回消えてたんだぞ。とは言わない。言ったところで信じないだろうし、信じられても困るだろう。
「よう」
俺も、普通に返した。
そうして授業が始まって、俺は自分の変化に気づいた。
眠くならない。
五限目の古文、昼食後の日本史。かつては意識を刈り取りに来ていた睡魔の刃が、綺麗さっぱり消えていた。それどころか、集中力が増したのか教師の言葉が一言一句するする頭へ入ってくるではないか。板書を写す手も止まらない。気がつけば俺は、教師の目から見てめちゃくちゃ真面目な生徒に仕上がっていた。恐らく改造の副産物なのだろう。不老不死のついでに集中力まで最適化されたらしい。人体改造のアフターサービスが実に手厚い。
昼休み、弁当は普通に食べた。食べなくてもいい身体だが、食べられないわけではない。母の作った卵焼きは、ちゃんと卵焼きの味がした。美味い、という感情の振れは小さいが、美味いという判定は下る。
ただ、食べながら、排泄はどうなるんだろう、と気になった。
食べなくていい身体が食べた場合、摂取した物質の行き先はどこなのか、消化されるのか。されないなら胃に溜まり続けるのか。割と切実な疑問だったのだが、結論から言うと、何も無かった。何日経っても、何も。食べたものは体内のどこかで綺麗に消えているらしい。質量保存の法則に喧嘩を売る身体になってしまったのだ。
まあ、これは楽でいいな。
不老不死の実感がトイレに行かなくていいなのは我ながらどうかと思うが、日常のスケールで感じられる恩恵というのは、案外こういうところにあるのだろう。
さて、話は変わるが、今は受験期である。
高三の秋。教室の空気は張り詰めていて、休み時間にも単語帳をめくる音がする。俺も一応、赤本を開いた。
『そんなの、しなくて良くない?』
隣に浮かぶ光が、心底不思議そうに言った。
上位存在さんからしてみれば当然の疑問だろう。不老不死で、食う必要も無く、望めば人類ごと世界を作り直せる存在に惚れられている男に、偏差値も志望大学も何の意味も無い。
「いやいや、一応、人間としての……?」
言いかけて、自分でも根拠が薄いことに気づいた。人間としての、何だ。義務? 意地? 惰性?
「……いやまあ、一応ね」
結局そう締めた。だが、この一応、は俺にとって割と重要なのだ。
感情が均され、倫理が暗記物になり、腹も減らず、死にもしない。俺を人間たらしめる要素は、日々目減りしている。そんな俺が受験まで放棄したら、いよいよ社会との接点が消える。学校に行き、卒業し、大学に進む。中身が伴わなくても、人間の形をなぞり続ける。何もしなかったら、俺はたぶん、本当に人間として終わる。器だけでも守らないと、いずれ中身を思い出せなくなる気がするのだ。
だから俺は真面目に赤本を解く。皮肉なことに、改造された脳は受験勉強と相性が抜群だった。
帰宅後、息抜きに対戦ゲームを起動した。
銃を撃ち合う類のやつだ。感情が平坦になっても、ゲームの楽しさ判定は一応残っている。勝てば「勝ったな」と思うし、負ければ「負けたな」と思う。薄味だが、無味ではない。
三戦目、俺は敵のエースにボコボコにされた。リザルト画面、キルデス比は見るも無惨。まあ、こういう日もある。
『……あの人、あなたを負かした』
隣の光の声の温度が、すっと下がった気がした。
『許せない』
「え、ちょっと待」
止める間もなかった。マッチング画面に戻ると、さっきの対戦相手のIDが、フレンド候補にも戦績サイトにも、どこにも存在しなくなっていた。回線落ちどころの話ではない。存在ごと落ちているのだから。
俺はコントローラーを置いて、天井を仰いだ。
何をしてるのだろう、この上位存在は。
画面の向こうには生身の人間がいたはずだ。たぶん、どこかの部屋で、俺と同じようにコントローラーを握って、勝って喜んでいた誰かが。その人物は今、俺に勝ったという理由で宇宙から抹消された。世界最悪のリベンジである。
「……戻して」
『……勝ったのに?』
「うん。戻して」
『はーい』
渋々、という気配と共に、戦績サイトにIDが戻った。画面の向こうでは今ごろ大変なことが起きたのだろうな、と思う。いや、たぶん何も起きていないのだ。消されたことも戻されたことも、本人は知らない。知らないまま、今夜も楽しくゲームをするのだろう。それでいい。世界の危機は認知されないうちに処理されるに限る。
「あのさ。そういうの、やめようね」
俺はなるべく、子供に言い聞かせる口調で言った。人類の存亡が俺の語彙力にかかっている。
『わかってる。わかってるんだけど……あなたのことを思うと、我慢が、できなくなるの』
光が、しゅんと萎んだ。上位存在のくせに、ずいぶんと感情豊かなものだ。時空を捻じ曲げる力と、嫉妬で人を消す短気を併せ持つとは、性能と情緒のバランスが悪すぎる。
と、思っていたら、彼女がむっとした気配で言った。
『感情が無いのなんて、中途半端な存在だけだよ。上に行けば行くほど、感情は濃くなるの。感情こそが存在の格なんだから』
「……ん?」
待ってほしい。中途半端な存在には感情が無い。
それって、感情を削られた俺のことなのでは。
「なあ。感情が無い中途半端な存在って、俺のこと?」
しばしの沈黙。
光が、目に見えて動揺した。波長が乱れているのが、改造された俺の知覚にははっきり分かる。
『ちがっ、違うの! あれはその、一般論で! あなたのは私が安全のために調整しただけで、中途半端とかじゃなくて、むしろあなたの魂は完璧で、波長が本当に綺麗で、だから、その、ごめんなさい、ごめんなさい……!』
めちゃくちゃ謝ってきた。人類を消した時よりも慌てているんじゃないか。俺の機嫌ひとつが、七十億の命より重い天秤。
俺は薄くなった感情の底で、しかし確かに思った。
そんなに好きか。
……好きなんだろうな。人が消えるので、ほどほどにしてほしい。