俺は普段、ちゃんと人間らしい生活リズムで生活している。
朝七時に起きて、飯を食い、学校へ行き、帰って勉強し、夜には一瞬だけ布団に入る。そんなふうに、必要の無いことを定刻通りに繰り返す。俺の一日は、ほとんど宗教的な儀式に近い。
一度、実験したことがある。何もせず、部屋の隅でただボーッとしてみたのだ。飯も食わず、風呂も入らず、ただ壁を見る。普通の人間なら三十分で退屈に発狂するところだが、俺は丸一日いけた。苦痛が無いし空腹も無い。なんなら眠気も無い。時間が砂のようにさらさらと流れていくのを、ただ眺めていられる。
いられて、しまう。
これはまずい、と俺の中の暗記された人間性が警報を鳴らした。この状態が快適だと認めた瞬間、俺はたぶん、置物になる。百年後も同じ壁を見ている俺が容易に想像できた。やはり儀式は続けるべきである。中身が無くても、形が俺を人間側に係留してくれる。
ただ、睡眠が消えたこと自体は、正直かなり得だった。
一日八時間。人生の三分の一。それが丸ごと自由時間になったのだ。夜中の静かな時間に赤本を進め、積んでいた本を崩し、映画を観る。世界で俺だけが持つ、誰にも邪魔されない八時間。不老不死の恩恵がトイレ不要に続き夜更かしし放題なのは相変わらずスケールが小さいな。
そんな夜更かしの最中、ふと気になって、隣の光に聞いてみた。
「そういえばさ。あんた、どこから来たの」
『どこ?』
「出身地というか。住んでる場所というか。宇宙の果てとか、高次元とか、そういうの」
『……「どこ」とか、無いよ?』
「え?」
『どこっていうのは、場所がある存在の考え方でしょ。私は場所より先にいるから。あなたの世界のどこかに私がいるんじゃなくて、私の中にあなたの世界のどこが全部あるの』
「……なるほど?」
ぶっちゃけ全くなるほどではなかった。何を言ってるのか一ミリも分からない。もう少し聞いてみたら、地図の上に住む人間が、地図帳そのものに住所を聞いたようなものらしい。それでもよく分からないが、まあ、そういうものなのだろう。俺は理解を放棄する速度だけは上がった。上位存在との交際において最も重要なスキルは、たぶん諦めの早さなのだ。
ついでに、前から気になっていたことも聞いてみることにした。
「人型にはなれないの?」
いつも隣に浮かんでいるのは、目を閉じても見える光、としか言いようのない何かだ。会話は成立しているが、絵面としてはずっと男子高校生と発光体。せっかく惚れられているのだから、相手に顔があってもいいのではないか、という素朴な発想だった。
『なれるよ』
彼女は、少し弾んだ気配で言った。
『やってみる? 私も、ちゃんとあなたの隣に立ってみたかったの』
「お、じゃあ頼んで──」
世界が、消えた。
それは、比喩ではない。部屋の照明が落ちたのではなく、視界という概念ごと闇に塗り潰された。上下が消えた。俺は落ちているのか、浮かんでいるのか、それとも静止しているのか、判定する基準そのものが無い。地面も、空気も、音も、方角も無い。無い、だけがある。
人間は五感を全部取り上げられると、自分の輪郭すら怪しくなるらしい。
その闇の中で。
何かが、俺の手を握った。
手、だと思う。指の数は五本で、大きさは俺より少し小さくて、形は確かに人の手だった。ただ、温度が無かった。冷たいのでも温かいのでもなく、温度という項目が存在しない、みたいな感じだ。硬さも柔らかさも、どこか計算されたような無機質な感触。
『……えへへ。手、繋いじゃった』
闇の中心から、嬉しそうな声だけが響いた。
状況を整理しよう。彼女は人型になった。おそらく、なれてはいる。この手がその証拠だ。ただし、彼女が世界の内側に形として降りてきた瞬間、その格の重さに世界のほうが耐えられなかった。光も空間も物理法則も、彼女の存在圧に押し潰されて、まとめて沈黙した。つまり今、世界は終わっている。俺は終わった世界の中で、世界を終わらせた張本人と、初々しく手を繋いでいる。
「……戻して」
『あ』
次の瞬間、俺は自室の椅子に座っていて、窓の外には夜景があり、机の上では時計が普通に秒針を刻んでいた。世界は当然のように再開していた。人類は今夜も、自分たちが数秒間存在ごと停止していたことを知らない。知らないままでいてくれ。
なるほど、これは無理だ。
彼女が人の形をとることと、世界が存続することは、両立しない。デートのハードルが高すぎる。手を繋ぐたびに宇宙が終わるカップルが、かつて存在しただろうか。
ところで、ひとつ確認したいことができた。
「あんたってさ、俺の魂だけが好きなわけ?」
惚れた理由は魂の波長だ。だとすると、この肉体はどうでもいいのか。魂だけ愛でられるなら、極端な話、俺は瓶詰めでもいいことになる。
『ううん』
彼女は、心外だと言わんばかりに即答した。
『その綺麗な魂から構成されてるのが、あなたの身体でしょ? 魂の波長が、ちゃんと指先まで通ってるの。だから身体も好き。というか──』
声が一段階、明るくなった。
『さっき、触れ合えて、すごく嬉しかった!』
そういうものなのか。魂が本体で、肉体はその出力結果、という理屈らしい。イケメンの魂から出力された身体だから丸ごと好き、と。俺の顔面が特にイケメンでないことを考えると、その出力機構には若干の伝送ロスがある気がするが、指摘はしないでおいた。
で、嬉しかった、はいい。それは大変結構だ。ただ。
「あのな。嬉しいのは分かったけど、触れ合うたびに世界が終わるから」
『うん!』
「うん、じゃなくて。頻繁にやるのはやめよう。な?」
『……頻繁じゃなければ、いいの?』
しまった、言質を取られた。
こうして我が家の家訓にスキンシップは世界の終わりを伴うため、計画的に、という一文が追加されたのだった。人類史上誰も必要としなかった家訓なのは言うまでもない。