ちなみに、あの世界が終わるスキンシップの後、今後のためにもう少し詳しく話を聞いておいた。
「あのさ、力を抑えて人型になる、とかは無理なの? 出力を絞るというか」
『それがすっごく難しくて……』
彼女は珍しく歯切れが悪かった。
『抑えるって、つまり自分を小さく畳むことでしょ。私、畳んだことないの。ずっと広げっぱなしだったから。あなたたちの世界って、私からすると、その……薄くて細かくて』
「壊れ物ってこと?」
『シャボン玉の表面に絵を描いてって言われてる感じ』
なるほど、結構分かりやすい。多少なりとも難しさは伝わった。
考えてみれば当然かもしれない。彼女が普段やっていることのスケールは、人類の消去と復元、時空の巻き戻し、世界の再構築などである。重機で山を削る作業だ。その重機に対して、ピンセットで折り鶴を折れと言っている。それも一ミリ角の折り紙で。指先が動く前に腕の重みだけで作業台ごと潰れてしまう。
つまり彼女はあれだ。パワー系なのだ。
全知全能っぽい雰囲気を出しているが、実態は出力の桁がおかしいだけのパワー系キャラである。繊細な作業は苦手。感情の制御も苦手。惚れた相手に勝ったゲーマーを反射で消す。俺の中での上位存在さんの解像度が色々な意味で上がっていく感じがある。
──そんなわけで季節は巡り、受験期が過ぎていった。
結論から言うと、俺は大学に合格した。それも、当初の志望より一段上の大学に。
合格発表の日、番号を確認して職員室に報告に行くと、担任は書類を持つ手を止めて「……え?」と言った。失礼な言い方しやがって。
だが無理もない。俺の成績は高二まで、学年の真ん中を漂うその他大勢だった。それが高三の秋から、模試のたびに判定が一段ずつ繰り上がっていったのだ。冬の模試の成績表を見た佐伯には、真顔で聞かれた。
「なあ……カンニングって、模試でやる意味あるか……?」
「別に無いだろ」
「無いよな。じゃあお前、何なの?」
何なの、と言われても困る。とりあえず「危機感?」とだけ答えておいた。嘘ではない。人間性への危機感である。
誤解の無いように言っておくと、これは改造チートで無双した、という話ではない。俺が真面目に机に向かい始めたのは高三の秋だ。いくら集中力が上がり、眠気が消え、一日八時間の追加時間を得ても積み上げが足りなすぎた。理解力だって、脳の燃費が良くなっただけで中身の性能まで別人になったわけではない。最高峰の大学の一番上、とはいかなかったのはそういうことだ。改造された身体で、届く範囲にしか届かなかった。それでも世間的には十分すぎるほどとんでもない結果である。
合格を報告すると、両親は泣いた。
母は俺の合格通知を両手で持って何度も読み返しながら泣き、父は「そうか」とだけ言って風呂場でこっそり泣いていた。息子の成績が急に伸びて、志望を上げて受かった。親として泣くのに十分な出来事なのだろう。
良かったね。
──と、思った。思ってから、気づいた。
良かったね、じゃないだろ。お前の親だぞ。
俺は泣いている母を、ガラス越しの風景みたいに眺めていたのだ。この人たちは一度、俺の隣の光に消された。俺は「暇だから」という理由で戻してもらった。その人たちが今、俺のために泣いている。心が動くべき場面の一覧があるなら、間違いなく上位に載る場面なのに、俺の内側では小波がひとつ立っただけ。嬉しい、が、遠い。他人の家の慶事を新聞で読んだような距離がある。
自分の人生に対して、変に他人行儀になってしまった。
俺はせめて、と思い、口に出して「ありがとう」と言った。感情が薄いなら、形だけでも打つ。儀式には効果がある……はずだ。母はもっと泣いた。効果はあったらしい、俺以外には。
『すごい、すごい! やっぱりあなたの魂は完璧!』
一方、隣の光は全力ではしゃいでいた。
『私、鼻が高い!』
「いや、鼻無いじゃん」
『気持ちの話!』
人類を気分で消す存在が彼氏(仮)の大学合格を我が事のように喜んでいる。宇宙規模の力の使い道として正しいのかは知らないが、まあ、両親の涙より彼女のはしゃぎ声のほうが、俺にはわずかに近くに聞こえた。それが良いことなのかは、考えないことにした。
──ところで、ひとつ未解決の謎がある。
受験勉強の話に戻るが、深夜に俺が机に向かっていると、彼女は時々気を利かせてくれた。
『はい。夜食』
そう言って、机の上にそれは現れる。
とにかく黒い。光を吸っているのか、影が実体化したのか、輪郭がぐにゃぐにゃと絶えず変形していて、皿に載っているのに皿との接地面が曖昧で、直視すると目の焦点が合わない。この世に存在する食べ物の、どのカテゴリにも属さない何か。
「……これは?」
『食べて食べて。勉強、頑張ってるから』
好意なのは分かるので、食べた。愛情の込もった差し入れを残す度胸は、感情が薄くなった今の俺にも無い。
味は無かった。
文字通り無いのだ。舌の上に確かに何かがのっていて、噛むと噛めて、飲み込むと消える。その全工程において味覚が一度も仕事をしなかった。食感も有るとしか言いようがない。温度はもちろん無い。あの闇の中で握った手と同じだ。彼女の作るものには、どうも質感が実装されていないらしい。
そして俺が完食すると、彼女は毎回ものすごく満足そうにするのだった。
『えへへ。完食〜』
それが定期的に出された。週に二、三回。受験が終わるまで、ずっと。
あれは一体何だったんだろうな。
聞けば教えてくれるのだろうが、聞いた結果、今度はもっと変な説明をされて理解を諦めるのが目に見えている。それに、ピンセットで折り鶴を折れないような彼女が、彼女なりに一生懸命手料理を振舞おうとした結果があの黒い何かなのだとしたら。
味の無い夜食を、俺は意外と嫌いじゃなかったのだ。
だから謎は、謎のままにしておく。