ある日、空におっきな目が現れた。
大学からの帰り道。夕方の空に、雲を突き破って瞳孔と虹彩を備えた目がひとつ浮かんでいたのだ。まるで大きさの見当がつかないほどで、地平線から地平線まで、空のほとんどが目だった。マジでデカすぎてやばい。
街は当然、大騒ぎになった。
交差点にある大型ビジョンが通常放送を打ち切り、「上空の発光体について」という緊急速報を流し始めた。……発光体ね。あれを発光体と呼ぶ現場の苦労がしのばれるな。とはいえ上位存在さんが光なので、他の人たちには本当に発光体に見えているのかもしれない。
SNSのトレンドは一位から十位まで全部あの目で、「集団幻覚」「新型ドローン」「ついに来たか」みたいなのが入り乱れていた。
そんな喧騒の中で、俺だけは別のことを直感していた。
──あれ、俺を見てる。
根拠はある。視線というのは、感じるものだ。教室で誰かに見られている時のあの感覚が、空一面のスケールで俺を貫いていた。あの瞳孔は、この地球の、この交差点の、俺一点にピントを合わせている。
「……なあ、あの浮かんでる目って何?」
隣の光に聞くと、返ってきた気配は今まで聞いたことのない温度のもの。
『……高次元存在』
いつもより声が低い。イライラ……してる?
『あなたを狙ってる』
「狙ってる? 俺を? そりゃなんで……」
『……あなたの魂の波長、綺麗だって言ったでしょ』
彼女は、ものすごく言いにくそうに続けた。
『綺麗なものはね、目立つの。私だけが見つけたんじゃなくて……ずっと前から、他にもあなたに惚れてる連中がいるの。私がちゃんと全部遮断してたのに。あいつ、私の警戒の隙間を縫って降りてきた』
どうやら俺の魂は知らないうちに上位存在界隈でモテていたようだ。
「防御を抜けたってことは、あれ、相当強いんじゃ……」
『強くない! 小賢しいだけ!』
上位存在さんがキレた。声量で世界の空気が少し軋んだ気がした。
『いい? 見てて。すぐ終わらせるから』
──それからのことは正直、正確には語れない。
世界が数回、生まれ変わったと思う。
思うとしか言えないのは、人間の認識で追える出来事ではなかったからだ。凡その断片だけ覚えている。空の色が存在しないはずの色になった。時間が進むのと戻るのを同時にやった。俺の足元の地面が一瞬だけ地面という約束事に戻って、また地面になった。
そして一度だけ、世界のすべてが一点に収縮する感覚があった。
あれは今でもうまく言えない。街も空も、俺自身も、距離という概念ごと針の先ほどの一点に畳み込まれた。潰される痛みは特に無かった。ただ、宇宙全体が息を吸い込むような、あの感覚。たぶんあれが、世界の作り直しの瞬間なのだ。彼女が今まで裏でやってきた戻す、を初めて体感した。とんでもないものを俺は今まで気軽に注文していたらしい。
で、結果として──
『も、もうちょっとくらい、いいじゃない!』
空から声が降ってきた。
説明が難しいのだが、めちゃくちゃ可愛い声だった。空を占める巨大な目から、アニメのマスコットキャラみたいなすっごい萌え声が出ている。
『減るものじゃないでしょ! 見るだけ! 見るだけだから!』
『うるさぁーい! 減るもん!』
『減らないよぉ〜!』
『私のなんだから、邪魔しないで!!』
好き勝手言い合っているが、もちろんそこに俺の意思はどこにも介在していない。
後から聞いた話を総合すると、彼女はとりあえず普通に勝った。戦闘力では圧倒していたのだ。ただし、あの目には残機的なものが並行世界に無限にストックされているのだという。ひとつ潰しても、別の並行世界から同じものが補充される。完全に滅ぼすには無限回勝ち続ける必要があり、それは彼女でもちょっとだけ面倒……とのことだった。
だから最終的には、話し合いで解決した。上の存在たちの紛争解決手段が無限に潰すのが面倒だから交渉なのは、なんというか、世知辛い。
協定の内容は一条のみ。
──遠くから見るだけ。
接近禁止、接触禁止、干渉禁止。観測のみ許可。あの目はそれを泣きながら受け入れて、空から消えた。世界は元に戻り、人類はあの目を覚えていない。トレンドも大型ビジョンも、何事もなかった顔で通常運転に戻っていた。
しかし、俺は色々と噛みしめていた。並行世界というものが実在し、そこに無限の残機を持つ存在がいて、そいつは萌え声で、俺に惚れていて、今後は遠くから俺を見続ける。俺は今後の人生をどこかから萌え声の目に観測されているという前提で送ることになる。風呂はどうなるんだよ。
『チッ』
隣から盛大な舌打ちが聞こえた。上位存在も舌打ちをするのか。それも連続で、チッチッチッと。機嫌の悪さが駄々洩れだ。
『……ずっと見てるつもりなんだあいつ。……ずるい。私だって、ずっと見てるのに……!』
「いや、あんたはずっと隣にいるだろ」
『それはそう』
少しだけ機嫌が直った音がした。うーんちょろい。世界を数回畳んだ直後とは思えないちょろさ。
それにしても、上の存在同士の喧嘩というのは怖いものだ。世界が数回巻き添えで生まれ変わり、俺は一点に収縮し、決着は口喧嘩。スケールの上限と下限が滅茶苦茶すぎる。今後はできれば、痴話喧嘩の舞台に世界を使うのはやめてほしい。
俺の平穏な大学生活は、始まったばかりなのだから。