大学生活の四年間はあっという間だった。
たまにスキンシップで世界が消えて、たまに空や海や夢の中に他の存在が来て、それ以外は、まあ……平和だったはずだ。はずだ、と留保がつくのは、俺の平和の基準がとっくに壊れているからである。世界が消える頻度をたまにで済ませる男の証言に、証拠能力は無いに等しい。
そして俺は、大学院に進んだ。
理由は明快で、人類に役立つ研究がしたかったからだ。感情の薄い俺がそんな殊勝な動機を、と思われるかもしれないが、むしろ逆だ。俺は人類に借りがある。一度消されて、俺の「暇だから」で戻ってきてもらった借りが。それに、これも例の儀式の延長だった。人間の役に立つことをしている限り、俺は人間側の存在でいられる。そういう理屈で、俺は自分を人類に係留し続けていた。
研究は……うまくいった。というか、うまくいきすぎた。
眠らない脳に加えて切れない集中、無限の深夜。受験期と違って、今度は時間の積み上げが十分にあった。学部の四年と院の年月をまるごと注ぎ込んだ結果、俺は素直に言って、すごく頭が良くなった。国際誌に論文が通り、学会で名前が知られ、若手の有望株などと呼ばれた。エネルギー変換効率に関する、基礎理論の研究だった。うまく使えば世界中の発電と輸送のコストを桁で下げられる。人類の役に立つ。そのはず、だった。
私生活の話もしておこう。
俺は誰とも付き合わなかったし、結婚もしなかった。
何度か、院の同期に食事に誘われたことはある。悪い気はしなかった──たぶん。だが俺は全部断った。理由は二つ。ひとつは単純で、俺は人を幸せにできない。感情の薄い不老不死と添い遂げる人生は、相手にとって緩やかな不幸だ。俺は歳を取らない。相手だけが老いて、死ぬ。その一部始終を、俺は小波ひとつで見送ることになる。
もうひとつの理由は言うまでもない。ゲームで俺に勝っただけの人間を消す彼女が、俺の隣に立つ人間を放っておくとは思えなかった。これは俺なりの人類保護である。
『……別に、いいのに』
一度、彼女がぽつりと言ったことがある。
『あなたが選ぶなら、私、我慢する』
「嘘つけ」
『……三日くらいなら』
三日。人一人の寿命の見積もりがなんと三日。やはり俺の判断は正しかったようだ。
で、それからが問題。
俺の論文から、兵器が作られた。
基礎理論というのは、包丁と同じだ。料理にも使えるし、人も刺せる。俺の理論は発電コストを桁で下げると同時に、エネルギーを一点に叩き込む効率も桁で上げた。最初にそれを形にしたのは、大国の軍需企業だった。次に、それを盗んだのがとある独裁国家。
その独裁国家が、一線を越えた。隣国の都市がひとつ、新型兵器の実験場にされたのだ。近隣の大国が報復と称して介入し、その介入のやり方がさらにまずく、同盟網が将棋倒しに作動した。歴史の教科書で読んだ流れが、そのまま通信速度だけ百年分速くなって再生されてしまった。
そう、世界大戦になったのだ。
まさかの、俺が原因で。
一応、原因は引き金を引いた国家であり、兵器化を選んだ人間たちだ。俺は理論を書いただけ──という言い訳を、俺は何百回も組み立てて、何百回も自分で棄却した。俺の脳は上位存在に最適化されている。この理論が兵器転用可能であることを、俺は査読の誰よりも早く、正確に理解できたはずだった。理解できたのに、深く考えなかった。人類の役に立つ、という儀式の題目を唱えるのに忙しくて。
戦況は悪化し、ついに、核が使われた。
速報を見た夜、俺は当然、いつもの言葉を口にしかけた。戻して、と。彼女に頼めば一秒で終わる。死者は戻り、都市は建ち、キノコ雲は無かったことになる。今までずっと、そうしてきたように。
──だが、俺はやめた。
なぜか。当時の俺の内側を、なるべく正直に書き起こすと、こうなる。
人類は、愚かだ。
俺はそう思ったのだ。何度戻しても、彼らはまた同じ引き金を引くだろう。理論を与えれば兵器にし、兵器を持てば撃つ。なら、戻すことに何の意味がある?
それは、あまりに上から目線だった。自覚はある。人類を「彼ら」と呼んだ時点で、俺はもう、査定する側に立っていた。ガラス越しに両親の涙を眺めたあの日の距離が、種全体まで広がっていたのだ。
そしてもうひとつ、白状しなければならないことがある。
俺は、思ってしまったのだ。
このまま進むと、どうなるのだろうか、と。
止めずに観察したら、人類はどこまで行くのか。それは義憤でも絶望でもなく、ただの興味だった。感情の平原にぽつんと残った、最後の好奇心。摩耗しきった俺の中で、まだ動く数少ない部品が、よりにもよってその瞬間に作動した。もっと早く──キノコ雲の前に、一線の前に頼んでいれば、俺はきっとこんなことを思う暇もなく、いつもの調子で「戻して」と言えていたはずだ。タイミングが、俺という欠陥を最悪の形で露出させた。
結果として、人類は最悪の方向に進んだ。
核は一発では終わらなかった。報復が報復を呼び、地図から都市が消えていった。俺の故郷──両親が今も住むあの県の半分が、汚染で使えない土地になった。両親は運良く避難できた。その運良く、という言葉すら、俺は避難所の映像を見ながら、他人事のように使った。
……人類は愚かだ、と俺は言った。
訂正する。俺も、愚かだった。査定する側に立ったつもりの俺が、一番愚かな判断で、一番大きな引き金を引かずに放置した。感情が薄いことは、判断が正しいことを意味しない。むしろ、判断を止めるブレーキが無いだけだったのだろう。それを、地図が塗り替わってから理解した。
──そんな、ある日のことだ。
彼女が、言ったのだ。今まで聞いたことのない、晴れやかな声で。
『できたぁ!』
「……何が」
『ようやく──あなたを、上に持って行ける!』
どういうことか、と問い詰めて、返ってきた説明はこうだった。
あの食べ物だ。黒いやつ。
受験期から今日までの何年間か、週に二、三回、俺が黙々と食べ続けたあの味の無い黒い何か。あれは、俺の魂を"上に"耐えられるようにするための、処置だったのだ。全然夜食どころではない。
『ちなみに整形じゃないよ。あなたの波長には指一本触れてない。包むの』
魂そのものを作り替えるようなことはせず、外側から一枚ずつ薄い保護の膜で包んでいく。シャボン玉に触れられない彼女が、シャボン玉を割らずに強くする、唯一の方法。一枚では足りないから、何年もかけて、食事の形で、何百枚も。ピンセットで折り鶴を折れないパワー系の彼女が、俺の知らないところで何年間も続けていた、途方もなく繊細な作業。
『だから、あなたの魂はそのまま。イケメンのまま。壊れずに、私と同じところまで来られる!』
初めて会った日、彼女は言った。存在を上げたいけど、魂が崩壊しちゃうから、と。あの日から彼女はずっと、諦めていなかったのだ。俺が受験がどうの、人間の形がどうのと儀式に励んでいた間、彼女は彼女で、俺を隣に並べるための儀式を黙って積み重ねていた。
俺は、何か言おうとした。
その時、枕元のスマホが鳴った。見れば、緊急速報。……何度目かの、核使用の知らせ。どこかの都市の名前と、推定死者数の速報値が、画面に並んでいた。俺はそれを読んだ。俺の理論の、成れの果てを。俺が「気になる」で見送った世界の続きを。
小波すら、もう立たなかった。
俺はスマホを伏せ、隣の光に向き直った。そして、こう言ったのだった。
「──俺を、上に連れていってほしい」