「八幡、おはよ」
最低の夜を越えた先の朝は、いつも通りの日常だった。砕けたメンタルをガムテープで補強して昨日と同じ今日のスタートを切る。鏡に映る俺の顔は浮腫んでもはや別人だけど、それでも俺だ。
気持ち、いつもより早く家を出た。思った通り教室はガラガラ。比企谷はまだ来てない。
今日は遅いんだな、と席に突っ伏しながら入り口を眺める。8時20分、着席時間のわずか5分前に教室に入ってきた比企ヶ谷に「今日は遅いね」と声をかける。
いつもなら返ってくる生返事が今日はない。
……何かがおかしい。だけど、そのおかしさを追求する前に着席のチャイムが鳴る。
「やべ、チャイムなっちゃった。じゃあ、また後で……」
「いい加減にしろよ」
しん、と。いつもはまだ騒がしさが残る教室から音が消えた。ほとんどの生徒が席に座っている中、俺と八幡だけ立ったまま。
がた、がたと椅子と床が擦れる音が響く。耳元で心拍音が鳴り続けていた。心臓にマイクでもついてると錯覚するほどに。
「ずっと最悪の気分だった」
誰も喋れない、凍った空気を割いたのは比企ヶ谷だ。俯いたまま、淡々と一定の音程とリズムで言葉を紡ぐ。
「嘘の告白間に受けて彼氏面して付き纏いやがって。金輪際俺に近づくな、気色悪いんだよ。
……この、ホモ野郎が」
視線を床に落として、やや斜め後ろを向いて表情を見せないで。片腕をもう片方の腕で握りしめて、足はいつでも逃げられるように少しかかとを浮かせて。
八幡の仕草は、クラスの女子が生理的に受け付けないものを見た時に行うものにそっくりだった。だからこそ、これが嘘だと理解する。
いつもの、八幡の優しい嘘。短い期間だが一番近くで過ごしてきたのだ、それくらいわかる。
背を向けて離れていく八幡を引き止める。理由はないが直感があった。
「いやだ」
瞬きの刹那、目尻から雫が溢れる。生まれて初めて、悲しみ以外で涙を流す。
いつから俺は、八幡の『助けなきゃリスト』に入れられてしまったんだろう。親密度は関係なく、むしろ関係が希薄な相手にほど発揮される八幡の自己犠牲。自分が嫌われて問題を丸く治めようとする八幡の悪癖。
……そんなこと、このクラスでは俺しか知らないわけだけど。でもだからこそ、悔しくて仕方がない。
なあ八幡。お前、嘘とはいえ彼氏になった相手を、すぐに切れるような浅い関係にカテゴライズするのかよ。俺ってお前にとって『その程度』の奴でしかないの?
「俺、ホモでもいいよ。ハブられるより、親に怒られるより、八幡と連めなくなる方が嫌だ」
「……は、はあ?」
初めて八幡と目が合った。予想外の反応をする俺に戸惑って宙を泳いで揺れる瞳が『らしい』とおもう。
「改めて言わせてよ。俺さ、お前が思うより比企谷八幡のことが好きだよ。
嘘なんかじゃない、正真正銘ホンモノ。だからさ、近寄るななんて言わないで。明日も彼氏面させてよ」
俺は、ホモじゃない。淫夢ネタで大笑いするし、こっそりグラビア雑誌だって読む。でも、ちゃんと八幡のことが『好き』だし、好きだからこそこれからも一緒に連んでいたい。濁って半開きの目を大きく見開いて、「おい」と抗議の声を上げる八幡。余計なことをするなと目が語っている。嫌だよ。
「なあ、八幡。俺、八幡の
「……バカじゃねえの」
ポツリと、一言。怖くて、それでも晒すわけにはいかなくて見つめ続けていた瞳に柔らかな色が宿った。それだけで十分だ。
他の奴らにはわからない。でも俺には伝わったから。
隣のクラスの日直の号令が聞こえた。もうじき、うちのクラスにも担任が来る。正直、今日はもう授業を聞くとかそういう気分になれない。
「……ゲーセン、いくか」
比企ヶ谷八幡が、初めて俺に話題をふった。それもサボりのお誘い。
「いいの?」
「……今ならいい」
そっか、じゃあいいか。ロッカーに向かい、スクールバッグを取り出す。それから後ろの扉を思いっきり開けて、「じゃあ行こ、八幡!」と大声で名前を呼ぶ。
八幡も鞄を肩にかけていた。二人並んで廊下を一気に駆け抜ける。
少しだけ視界が潤んでいた。でも、馬鹿みたいに楽しかった。
【高校2年、春】
総武高校の校門前。自転車に跨りながら八幡を待つ。だらだらと漫画アプリを流し読む俺に突き刺さる無数の視線。
「……」
それにしても、遅い。ちらりと見上げた時計塔の短針は、4と5の中間をさしていた。
「八幡!」
ようやく現れた不健康そうな黒髪を半ば怒鳴り声で呼びつける。約束の時間から30分も遅れたのだ。全く、どうせ補習かなにかで呼び出されたのだろうけれど。
「遅すぎ。今日デートなの忘れてんのかと思った」
「忘れてねぇよ」
八幡の「遅れて悪かったな」に「もういいよ」と返し、自転車の後ろに乗るよう視線で合図をする。慣れた手つきで自分のスクールバッグを前カゴに入れた八幡に「いやいやいや! ちょっと待って!」と女の子がツッコミをいれた。
「誰?」
「あー……クラスメイト」
「そうだけど違う! 部活仲間!」
「ヒッキー!」とおそらく八幡の高校でのあだ名を呼ぶ少女に、俺は目を細める。
「デートってなに、どういうこと!?」
ヒキガヤと引きこもりをかけたのだろう。連れ出せば案外アウトドア系のこともやるんだけどな、などと内心で考えつつ。俺は
「八幡、部活入ったんだ」
「まあ、今年から」
タイプの違う美少女が二人、こちらを凝視している。にこりと「大型犬みたい」と評される笑顔で微笑みかけながら、「どうも、こんにちは」と口火を切った。
「俺は
チラリと視線を隣に流し、ニヤリと口角をあげる。八幡に体重を預けながら肩を組んでいる方の手でピースサイン。またか、と言いたげな八幡の
「比企ヶ谷八幡の彼氏でっす!」
一瞬の沈黙、からの絶叫。呆れた八幡の視線を感じてピースで返した。
どうやらこの捻くれ者も案外高校ではうまくやってるのかもしれない。
*高校生編につづく____!
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