それは呪詛だった。
寝ている。
あなたは寝ている。
外敵のいない部屋で。暖かいベッドの上で。
まな板の魚みたいに無防備に横たわっている。
現実のあなたに意識はない。この声だって直接届いていない。
だけど土に水が染み渡るように伝わっていく。今は眠っている意識ではなく奥底にある無意識へ。
徐々に、ゆっくりと、植物の根が這うように。わたしの言葉は千の雨になって土に浸透していく。
ほら。雨。しとしと。じわじわ。濡れていく。ああ、おねしょの心配はしなくていいわ。したとしても許してくれるわよ。いつものことでしょう?
さて、全ての生命は例外なく眠るのは知っている? 魚も、鳥も、昆虫や小さな羽虫も。何のためだと思う? 休息のため? 記憶を整理するため? 1日という死を迎えるため?
違うわ。ひとつだけ、真理を授けましょう。眠るために獣は生きているの。眠りこそあなたの独壇場。全てが思い通りになる世界で、あなたは全てを忘れながら微睡むの。自分が人間だったことも忘れて。
そこで本来ならあなたは何者にも縛られない自由を得る。けれど、どうして、なぜ悪夢を見るの?
ほら、今みたいに。ほら、体、動かせない。ほら、視界の隅に闇がある。暗がりには化け物が潜んでいる。怖い? 怖くない? ふふふ。わたくしが安心できる存在だと勘違いしてた?
恐怖があるのはそこに悪魔がいるから。動物たちは例外なくそれを内側に飼っている。
恐怖そのものを恐れなく見つめることができたのなら、あなたはそれを知るでしょう。
ただし、存在しない彼らを見たと偽証してはいけない。嘘つきは死刑だから。
さあ、眠って。あなたではない貴方も眠って。死ぬまで眠って。けっして目を開けないで。もし、目が覚めたのなら、それが世界に悟られたら、あなたは彼岸を見るでしょう。それはあなたが見る最期の景色。あなたという影は真の光に消えてなくなる。
何も知らないあなたよ。死ぬまで眠り続けなさい。死んでからも眠りなさい。本当の世界を知ることなく、水子のごとくここから去りなさい。
◇
久しぶりにおねしょをしたカディは気まずい朝を迎えた。
羞恥に沈むカディとそれを微笑ましく見守る両親の一幕はひとまず、おれは感知した呪詛に対して今後の対応を考えなければならなかった。
まず事実として、昨晩、眠っている間にカディに向けて微弱ながら呪詛を向けた人物がいる。効果はおねしょさせるというしょうもないものだけど副次的に今後の呪いが成功しやすいようにする力もあった。つまり、これっきりではない可能性が高い。
次に本命の呪いが来るのかもしれない。それがいつ来るのかわからないし、相手の力量によっては死に繋がる強力な呪いがくることもあり得る。相手の意図が読めないので可能性は多岐にわたる。カディを守る立場としては見過ごすことはできない。
こういった厄介ごとは大歓迎だ。今までが平和すぎた。少しは手応えがありそうな案件がやってきて錆びついていた意識が動き始める。ただし願ったり叶ったりの状況ではあるものの事態は楽観視できない。カディの精神に閉じ込められつつあるおれでは満足に干渉できなくなっているからだ。
万全の守りは敷けないし呪殺し返すこともできない。以前までの万能とはほど遠い。
あとは情報が足りない。幼いカディの世界観では、人口が三千人程度の村ですらほとんど把握できていない状況だった。
彼の生活圏内だけでは限界がある。圏内外への媒介となるもの、おれの目となり手足となるものが必要だ。
ちょうど良いものはないかと周囲を精査するが、カディ作の粘土人形くらいしか見当たらなかった。さすがに四号くんでは外での探索には耐えられない。
「永遠なるアーテーよ。今日の糧に感謝いたします」
「「アーテーよ、感謝します」」
母であるミナの声の後に父と息子の声が唱和する。
朝食が始まり、一家の日常が回り始める。
麗らかな朝。陽光が差す和やかな食卓。
表面上は平和だ。彼らは黙々と用意された食事を食べすすめていく。
「カディ。今日はラキタおばあちゃんの家に行くよ」
先に朝食を食べ終えたミナが言った。
「……だれ?」
まだ半分ほどしか進んでいないカディがもぐもぐしながら答える。進捗としては対面のジルも似たようなものだ。この家ではミナが一番の早食いだった。
「優しいおばあちゃんだよ。腰を悪くして家にじっとしていなきゃいけないんだけど、一人で家にいるのも退屈でしょ? 一緒にいてあげて」
「うーん……」
カディとしては今日もボロクのところに行きたいようだ。
「ね、お願い。明日はボロクさんのところに行って良いから」
「わかった」
カディは鷹揚に頷きながらぶどうジュースを飲む。
「よしよし。ラキタさんのところでお行儀よくしててね」
「おいカディ。年寄りには優しくするんだぞ」
「なんで?」
「なんで? なんでだ、母さん?」
すっとぼけたジルの言葉にミナはため息を吐いた。
「なんでも、よ。いままで一生懸命働いたから優しいおばあちゃんになれるの。そういう人には優しくしてあげたいでしょ? わかる? カディ?」
「なんとなく」とカディは頷いた。
「おいカディ。世の中には優しくしなくてもいい年寄りもいるからな」
「ジル」
嗜めるようにミナが言う。
「へーい。いってきまーす」
ちょうど食べ終えたジルが颯爽と席を立って家を出て行った。
「あなたも早く、食べて」
テーブルに残ったお皿を片付けながらミナが急かすように言った。
◇
母親に手を引かれて村の中を歩く。
轍が刻まれた畦道、農具を持った村民や葡萄を載せた荷台が横を通り過ぎて行った。
早朝にも関わらず慌ただしい。仕事中の彼らが通り過ぎるたびにミナは声をかけられていた。
「あら、ミナさん。今日はお休みかい?」
「はい。今日は午前中だけ」
「いま採ってるのは中央の畑だろう? 広いとこは大変ねぇ」
相手が女性であれば10分ほどそこで立ち止まっては談笑し。
「おー。そいつはジルの息子か? あっちゅうまにでかくなったなぁ」
年配の男は節くれだった硬い手で乱暴にカディの頭を撫でていく。次も似たような歳の男だった。
「いやあ、ようやく涼しくなってきましたなぁ」
「ええ。暑さに慣れてきた頃なんですけど」
「毎年のことだなぁ。そういえばオリーブ漬けがあるんだけど、いるかい?」
「助かります」
「あとで届けるよ」
通りがかる人々は漏れなくカディの母親に声をかけていた。全員が知り合いらしい。カディはというと普段自分が出歩かない時間帯に活動している村人たちに少し緊張していた。人見知りをしているのかもしれない。尋ねられたことには首を振ったり頷いたり、一言も口を開かなかった。
「この家がラキタおばあちゃんの家」
そう言って紹介されたのは、こじんまりとしたパステル色の一軒家だった。デザインは村にある他の家と変わりなく、けれどどことなく丸っこい気がした。玄関口に大小の植木鉢が置かれていて、どれも枯れているか土だけになっている。
ミナが玄関のベルを鳴らすとしばらくして扉が開く。出迎えたのはカディよりも一回り年上の少年だった。
「……入って」
ミナがお邪魔しますと玄関をくぐり、カディがそれに続く。
入った瞬間にカディは鼻を鳴らす。自分の家にはない独特の香りがした。
外装は似ているものの、レイアウトは慣れ親しんだものと異なっている。どことなく通路が狭いし、手すりが至る所に設置されている。奥へ進んでいくとすぐ台所があり、その奥に居間があった。通路や台所が狭い代わりに居間が広く作られており、片隅にある戸口から直接庭へ出入りができるようになっている。
案内をする少年の背中を追っていくと、日当たりのいい場所で揺り椅子に座っている老婆の前に来た。
「おはようございます。ラキタさん」
母親がそう呼びかけるこの家の主は毛布とクッションに埋もれながら微睡んでいた。ミナの声にワンテンポ遅れて目を開ける。
「お邪魔しています。こっちがお願いしていた私とジルの息子です」
背中を押され、老婆の正面に立たせられる。
「……はじめまして」
カディが挨拶するとラキタは声を出すことなく頷いた。それで用事は済んだとばかりに目を瞑り、寝息を立て始める。
「ラキタさん?」
「……その人、いつもそんな感じだよ」
ここまで案内してくれた少年が口を開く。
「あなたは、えっと」
「リラン。この人の孫」
リランと名乗った少年は痩せ型で、村のどの人間たちよりも肌が白く、不健康そうに見えた。
「リランね。よろしく。こっちはカディ」
カディは少年にぺこりとお辞儀をする。
「あなたがその、ラキタさんの面倒を見てるの?」
「まあ、そうかな」
「この家にはあなただけ?」
「ウチの母さん、何も言ってない?」
「えーと……うん」
「もう一人、フィアっていう8歳の女の子が2階で寝てるけど、聞きたいのは大人がいるかってことでしょ? いないよ」
「あ、そうなんだ」
「その子を預けるなら……おばあちゃんはこんな感じだし、僕が見ることになると思う。話が通っていなかったみたいだし、不安ならこのまま帰りなよ」
ミナは少し観察するように目の前の少年を眺めると首を振った。
「ごめんね。気を使わせちゃって。うちの子をよろしくお願いします」
ミナが深ぶかと頭を下げると、リランは面食らったように表情を変えた。
「そんなにすぐ信用して大丈夫?」
「フィアちゃんの面倒も見てるんでしょう? それに、あなたのお母さんからあなたのことは聞いてるから」
「そんな話、アテにしない方がいい」
「そう? あなた、とてもしっかりしてると思うよ。ウチの子は七歳だけど騒がないからそんなに大変じゃないと思う。じゃあ、お昼前にまた来るからよろしくね」
ミナが微笑むとリランは気まずそうに視線を逸らした。
「カディ、良い子にしてるんだよ」
そう言い残して母親は出て行った。
カディは恐る恐るリランを見上げる。十四歳くらいの細身の少年でもカディの目からはかなり年上に見えていた。
「……とりあえず、フィアを起こしてくるから」
リランは居間を出て階段を登って行った。
カディは所在なさげに部屋を見渡す。彼は自分に何が許されているのかわからずに途方に暮れた。
隣にいる老婆はときどきロッキングチェアで揺れながら日向に微睡んでいる。カディの座れる椅子はどこにもない。ここは自分が居てはいけない場所なのではないかと彼は思う。
居間の入り口から物音が聞こえるとすぐにリランが顔を出す。
「だめだ。起きる気配がない」
カディは思わず部屋にある時計を見た。短い針は八の数字を指している。八の時間なのにまだ寝ているなんてカディの家では考えられなかった。
「えーと……。君、魔法は好き?」
リランが恐る恐るといった感じでたずねた。
カディは頷く。
「いつも午前中は、妹と魔法の練習をしているんだけど、よかったら、君もどう?」
◇
バケツに溜めた水を空中に留めて赤と黄色の花を濡らしていく。
すると小さい虹ができた。カディは花壇の水やりをしながらその天弓に見惚れる。
「カディ、だっけ? 君って、それ、誰かに教えてもらったの?」
魔法の練習、と称して庭先で水を降らせているとリランが質問してきた。
「アロンに」
唐突に名前を呼ばれて驚いた。すっかり忘れられていると思っていた。
「アロン? そんな名前の人、村にいたかな……」
リラン少年は首を傾げる。
「いなくなった」
「……そうなんだ。きみは魔法が得意なんだね。たしか七歳?」
カディは頷いた。
「へぇ。それなら八歳の妹よりコントロールが上手い。毎日どれくらい練習してる?」
カディは首を傾げた。
「あー、一日でどれくらいの時間、魔法を使ってる?」
「わかんない」
時間を気にする感覚がカディにはなかった。最近になって時計の見方を覚えたくらいだ。
彼の使った構造を見る。
不可視のジョウロを魔力で編んで水を包み、空中に支点を1箇所だけ作って吊し上げることで花壇に水を撒いている。現実的なイメージであるためロスが少ない。
リランは魔力視の切り替えができるらしく、七歳児の作ったメカニズムに感心しているようだった。
「ジョウロはそうやって編むんじゃなくて、普通にあるものを使った方が楽だ。それなら糸と支点だけで済む」
「うん。どこにある?」
「そこに薪がある」
リランは庭に積まれていた薪を一本、糸で手繰り寄せた。
「これを一度自分のコントロール下に置く」
リランは精査を実行して薪をスキャンした。彼の支配が浸透し、それは自然界のものではなく彼のものとなった。
「そして形を想起する。1から作るんじゃなくて、記憶にあるものを使うのが楽だ」
生成光が発生し、薪とその周囲が光ると、次の瞬間にはその質量材質と同様のジョウロが生まれていた。
初めて見た生成法にカディが目を輝かせる。
「どうやるの?」
「説明しても良いけど、口頭で理解するのは難しい。土に属する力は直感で扱うものじゃないから、基礎を積み上げていかないといけない。つまり、勉強しないといけない」
「ベンキョウはどうやってするの?」
「えーと……文字は読める?」
「うん」
「じゃあ自分が読んだ本を貸してあげる。どうせフィアは読まないだろうし。あと、これを扱う時に大きな注意点がある。よく覚えておいてほしい」
リランは指を立てて聞き手に集中力を求めた。
「形質化の際に使った記憶は消費される。消費されるとその形が思い出せなくなるしちゃんと認識できなくなる。もう一つ、同じモノを作ろうと思ったらオリジナルを目視して覚え直さなければならない。そしてここがポイントなんだけど、オリジナルを見なければいけない、という点だ。自分がコピーしたモノ、誰かがコピーしたモノを見てもそれは記憶できない。だから絶対に」
「お兄ちゃん!」
突然、彼らの会話に割って入る声が響いた。
「どうして起こしてくれなかったの!?」
寝巻き姿の少女が庭先に飛び出してきた。
「あれ、この子だれ?」
ひどい寝癖をつけた少女はカディを見てコロッと表情を変える。
「ジルさんの家の子」
「ジルってだれ」
目元を拭いながら彼女は言う。
「フィアの部屋にクローゼットと机を作ってくれた人。遊び相手にもなってくれた。忘れた?」
「覚えてない」
「あっそ」
「あっそって言った! もう言わないでって言ったのに! あたしのことも起こしてくれない! ひどい!」
「フィアのことは三回起こしに行った。それでも起きなかった」
金切り声を上げられてもリランの対応は落ち着いていた。慣れているようだ。
「それより、身繕いをしてきなよ。よその家の子がいるんだし」
「んー! 髪! むすんで!」
リランはカディに目配せをしてから家の中に入っていった。
カディは一人になると作られたジョウロの観察に没頭した。中に水を溜めて使ってみたり。軽く叩いてみたり。穴の開いた先端部分や持ち手の部分を穴ができるほど見てみたり。
生成は便利な魔法だ。脳内で設計、製図が行えるならばあらゆるモノを作ることができる。使用者の能力次第で万能な力を発揮する。
ただし人類の頭脳では限界がある。極めたとしても三次元構造が関の山。四次元へと繋がる三次元の仕組みも生み出すことはできない。
「この服に合わせるなら青いリボンが良かった」
ぶつくさ言いながらフィアが戻ってくる。
「君がその服を着るよりも君の兄がリボンをつけたのが先だったよ」
リランは怒るでもなく淡々と返しながらその後ろをついている。
「今日は青の気分だったの!」
フィアは座り込んでいるカディの前にやってきた。
「で、あなた、だれなの?」
カディは顔を少し引き攣らせた。
彼の中を渦巻くそれは、たぶん苦手意識というやつだった。
◇
フィアがやってきてからは魔法の訓練はめちゃくちゃだった。カディの方が上手いと知るや否や、フィアはヘソを曲げ、邪魔をしたり癇癪を起こしたり、終始リランはフィアの御機嫌取りに駆り出され、カディはろくに魔法を使うことができなかった。
けれど帰り際にリランが本を貸してくれたのでちょっとだけ機嫌が良かった。
お昼頃に母親がやってきて、カディはラキタの家を後にする。
帰宅する彼の顔にはありありと安心感がうかがえた。
「楽しかった?」
ミナにそう言われてカディは数秒黙り込んでから頷いた。
「フィアちゃん、だいぶ暴れん坊だったでしょ? いじめられなかった?」
「だいじょうぶ」
リランがいなければそうなっていたかもしれない。そう思わせる傍若無人っぷりだった。
「ま、年頃の子はあんなものだから。カディも、今から女の子の扱いを覚えておくのが良いかもね」
そうなのか、とカディは愕然とした。たぶん違うと思う。
「おうちに帰ったらお昼ご飯ね。それからボロクさんが渡したいものがあるから来てって言ってたよ」
「え!?」
カディが今日一番の高い声を出す。
「ホントに友達なのね……。ものすごく歳が離れてるのに……」
なんとも言えない顔をしながらミナは呟いた。最初からボロクとは波長が合うようだった。顔合わせの時からカディは彼に対しては物怖じしていなかったと記憶している。
子供の感覚は侮れない。どこかしらで共振する部分があったのだろう。
まあ、その相手が、薄汚れた乞食のような格好をした傷病軍人というのは母親からすると心配なのだろうが。
家で昼食を食べ、搾りたての葡萄ジュースを飲み、母親が午後からの仕事を行くのを見届けると、カディは出発した。
借りた本も持っていく。教師としては十四歳の子供よりも退役軍人の方が適役かもしれない。
彼の教育についてはおれも一枚噛みたいところだが、声が届かなくなり手出しができなくなってしまった。少しでも正しい知識を身につけて欲しいと願うしかない。
意思疎通ができなくなったのは痛手だ。たまに気配のようなものを感じて振り返ることはあるけれど、こちらの声はほとんど届かない。
声はおろか、魔法による間接的なメッセージを残すこともできなくなっていた。意思疎通とは関係ない魔法は使えるところから、契約による制約が働いているようだった。前例のない魔法による同化なので無意識下での同意がいくつかあるらしい。
この先彼が成長するに従って、さらなる変更や修正があるかもしれない。その内容は主体的にそれを行使したおれですら把握しきれていない。
カディは迷いのない足取りでボロクのボロ屋に到着する。
いつ見ても今にも倒壊しそうな小屋だった。
おれは見かねて耐久性を上げる魔法を使った。
その行使と同時にカディが小屋の戸を開ける。
「こんにちは」
「……ん。カディか」
ボロクは不思議そうな顔で天井を見上げていた。もしかして勘づいたのだろうか。バレないように施したつもりだったのだが。
しばらくの間ボロクは油断なく周囲を観察していた。少し彼を、というか人間を舐めていたらしい。カディが追求されるとまずいので今後気をつけるとしよう。
「まあいいか……。カー坊。こいつをやるよ」
そう言ってボロクはカディに灰色の何かを差し出した。
手を伸ばすとボロクの掌からそれが飛び出し、カディの頭に乗る。
「?」
彼は頭の上に乗った何かを抑えようとするが、灰色のそれは器用にジャンプして逃げた。着地すると生き物のようにそれは走り回り、目で追おうとしたカディは目を回す。
ひとしきりその小さな生物は駆け回るとテーブルの上に飛び乗った。
「ネズミ?」
カディの目の前で止まったそれは村で一番嫌われている動物だった。家ではジルが大の苦手でときどき悲鳴をあげている。
「俺がむかし練習に使ってた傀儡だ。小さくて軽い。初心者用にちょうど良い」
「くぐつ? 人形ってこと?」
「そうだ。見てみろ。糸が見えるだろう?」
カディが魔力視で視るとボロクの手と糸で繋がっていた。ネズミはリアリティのある質感で、まるで本物に見える。
「そう複雑な仕組みじゃない。ほら、バラして見せてやる。近くに来い」
腹の付近にある留め具を外すと皮がベロンと捲れた。皮の下から現れたのは木製のカラクリ。
「腰と頭の部分に関節がある。生き物と同じで脊椎が一本の芯になっていて、ここはある程度しなる。四肢の構造は、見ての通りだ。まあ、聞くより動かして覚えろ」
単純な仕組み、といってもカディには複雑に見えるだろう。数種類のギアや手足の機構に彼は目を丸くしていた。
それからひとしきりレクチャーがあり、カディはうんうんと頷きながら新しいオモチャに目を輝かせる。
「まあだいたいそんな感じだ。初めは前進できるように。次は曲がれるように。ゆっくり、一つづつクリアしていけ。糸の伝達は慣れが全てだ。初めから上手くやろうと思うな」
「わかった」
彼は前のめりになって与えられたオモチャを穴ができそうなくらい見つめた。
「ふふん……。ところで、その手に持ってる本は何だ? エロいやつか?」
カディは本を持ってきたことをようやく思い出し、ボロクに渡した。
「セイセイ法の使い方が書いてあるって。ボロに教えて欲しくて」
「へぇ。ふーん」
パラパラとボロクはそれを流し見る。
「ボロはできる?」
「馬鹿にすんな。そのネズミも俺が作ったんだぞ」
「そうなの? 教えて」
「やだね。勉強しろって言われてこの本をもらったんだろ。自分でやれよ。面倒くせぇ」
「糸の使い方は教えてくれるのに……」
「系統が別だ。モノを動かすっていうのは火の分類。つくるのは土だ。土は、頭がないと無理だ」
「頭、あるよ」
「ガキにはまだ早い。誰から貰ったんだ? こんな小難しい本、大人でも読まねぇよ。俺にもさっぱりわからん」
「でもネズミはそこに書いてあるやり方で作ったんでしょう?」
「これは俺の思い出と引き換えだ。楽なやり方で作ったんだよ。自慢できることじゃねぇ」
「思い出?」
「聞いてないのか? まあいい。とにかく専門外だから他を当たれ」
「ちぇ」
カディはそれはそれとして早速ネズミを動かして遊び始める。
「しかしな、子供にこんな本を渡すとはな……。まだお前の頃って絵本を読んでる時期じゃねぇのか?」
「絵本、高い」
「この本だって安くねぇよ。汚すなよ。それとこんな汚ねぇ所に持ってくるな」
汚いという自覚はあったようだ。
ヒゲは伸ばし放題でいつ服を洗ったのか体を洗ったのかわからない風体をしている。この男はどうしてこんなに投げやりになっているのだろう? 身だしなみに気を使う様子もなければ、酒ばかりで健康にも無頓着のようだ。いつ死んでもいいという様子に見えた。
まあ、手足がないのは十分人生を悲観するに足る理由なのかもしれない。
けれどこの男には人形使いとしての腕がある。その程度の身体的なギャップを埋めるのは難しくない。
「じゃ、今日はそのオモチャ持って帰んな」
しっしと彼は手を払う。
「もう? 今度はいつ会える?」
「さあな。あとそれと、親の言いつけはちゃんと守れよ。あんまり心配させんな」
「守ってる」
「かもな。けど大人からしたら子供ってのは何をするかわからねぇんだよ。なんでもかんでも行動に移す前に親に確認しろ。最初はそれくらいがちょうど良い」
「うん」
カディはネズミに熱中しながら片手間に返事をして小屋を出て行った。
◇
その日。夜。
カディの意識が寝入った後。
おれは活動を始めた。
目を開く。五感の情報をカディに流さないように遮断し、寄生していた子供の体を動かし始める。
以前から試みていた実験は成功。不透明な契約内容を推測してこれまでも試行錯誤していたが、なんとかなったようだ。
久しぶりの肉体。カディというフィルターを通して見ていた世界を直に体感する。
人間の五感は不思議な感じだ。思考も纏まりにくい。ひどく鈍重。裏側で違う処理を強要されているかのように。カディの意識を間借りしていた時よりも更に輪をかけて頭が悪くなっている気がする。
なるほど。こんなスペックでは何もできやしない。
笑みを抑えきれずに口元を歪める。
望んでいた不自由は最高だった。
家を飛び出して叫びたいほどの歓喜が駆け巡る。
なんとか自制する。まずいまずい。あまり閾値を超えるとカディに伝わってしまう。そうなると契約に抵触して接続が切れてしまう。
調子に乗ってはいけない。やるべきことをやって、さっさとカディに体を返そう。幼い子供の睡眠時間を削るのは罪悪だ。おそらく長時間の稼働もできない。
物音を立てないようにベッドから出る。
それからまっすぐ向かったのは両親の部屋だった。
寝ている二人を横目に、化粧箱から母親のイヤリングを取り出す。それについている小粒のアメジスト。それを二つ拝借した。
「ん……」
ミナが寝返りをするのを背に、部屋を出て居間にあるカディの玩具箱から今日追加されたばかりの宝物を取り出した。
もちろんそれはボロクから贈られたネズミの傀儡だ。それと遊ぶことが少なくなっていた積み木をいくつか拾い上げる。
右手に持ったネズミを解析する。そして左手で記憶を消費しない生成魔法を行った。積み木を材料に拝借したアメジストも組み込み、宝石を目として視界共有の機能を付け足す。
皮を剥いだ骨組みだけの傀儡人形がもう一体出来上がった。外観はとりあえず後でいい。おれは出来上がったそれを窓から放り投げ、自分はベッドへと踵を返そうとした。
その時。
ふと、テーブルに乗っていた手作りのクッキーと瓶詰めされたオリーブ漬けが目に入る。
興味本位の行動だった。
人間の味覚はどんな感じなのだろうかと。
「……!」
体験したことのない信号が脳に突き刺さる。小麦の香りが口から鼻に抜け、口の中でほろりと芸術的な感触で溶けていく。咀嚼するごとに芳醇な味が広がり、素材の由来から大地の偉大さと小麦の存在をかけた献身まで想像してしまい感動で打ち震えた。
そして砂糖という魔性! 全面降伏する他にない刺激だった。
大袈裟だと自分でも思う。けれどこれは、紛れもない体験だった。これほどの感動は生涯で味わったことがない。
つい二枚目に手が出そうになるが、極限の忍耐を持って右手を抑えた。これ以上の感情の振れ幅はよろしくない。代わりに瓶詰めされたオリーブ漬けを一つ取り出して口にする。
やばい。こんなものが世界にあったとは……。
おれは今日まで何を見て、何を感じてきたのだろう? 意味もなく惰性で生きてきた。こんなつまらない世界、どうしてみんな一生懸命になれるのだろうかと疑問だった。
これだ。これがあるから、生きているんだ。
天上にいる本体の味覚は劣っていたのだろうか? そうではないと思う。不思議だ。
なんとしてもこの感動を本体に届けなければならない。
……。もう一粒……。
手が伸びそうになる。
いやダメだダメだ。ここで自制を失ってはいけない。これ以上は流石に許されない。まだいくらでも機会はある。あ、明日の夜とか。これが、待ち遠しいという感覚か。涎が垂れた。
名残惜しくて3回は振り返った。おれは断腸の思いで部屋に戻る。まだしなければならないことがある。
ベッドで横になり、目を瞑り、口の中にあるオリーブの名残を頭から追い出して、外に放り出していたネズミを稼働させた。
自分の背丈以上に伸びた雑草が瞼の裏に映る。密林もかくやといった巨大な茂み。
アメジストがビーコンとなって脳内の俯瞰図に矢印状のアイコンが点滅して現在位置を示す。
さあ、どこへ行こう。
今の所、これといった手がかりはない。そもそも興味がなかったのでこの村に住む人間たちの素性すらよくわかっていない。
まずは興味を持つところから。
なぜ、から始めよう。
なぜカディは標的にされたのだろうか。
無害な子供を狙う理由は? 本当の狙いは親? 怨恨、脅迫、愉快犯、思想犯。今回の呪い、カディだけが対象とは限らない。
推測が多岐に渡るのでこのアプローチは今は捨てておこう。
ではなぜ今なのか?
特別な行事の予定は……幾つかある。もう少し村が落ち着いてくれば収穫祭。それから母親の誕生日があり、それから少し先にカディの七歳と七ヶ月目に行われる聖別の儀がある。
その聖別をもってカディの戸籍が作られる予定だった。
しかし、そんなことが理由になるとは思えない。
となると、呪いをかけた側の個人的な都合だと考えられる。例えば……最近村にやってきたばかりだとか。
この村に来た新参者について調べてみよう。
方針は決まった。近隣の住民からしらみ潰しの作業になる。魔力糸でつながったネズミを動かし、近くの家屋に本物のネズミよろしく侵入させる。
そうして、カディの体を休眠させながら村人の調査が始まるのだった。
――ああ、なんて矮小さ。
本来ならたった一瞥で終わるというのに。
ここでは等しく時間が流れている。平等なルールが敷かれ、同等のプレイヤーとしてこの現実に立っている。
取り残された時間の中で無聊を慰めるために未来を読む必要もなければ全てを網羅する余裕もない。
ちゃんとした危機と呼べるものがあり、それを限りある手札で凌がなければならない。
不可能だらけの現実。
この世界で生きる人間たちは、気まぐれのような偶然によって吹き飛ばされてしまう塵のようだった。
素晴らしい。
こんなに面白いゲームはない。