今日もまた一日が始まる。
カディは再びおねしょをして落ち込み、両親に励まされていた。
家族会議があり、寝る前に水は飲まないようにしてトイレを済ませてから寝ようと議決された。それから何事もなかったようにケロッとした顔で朝食を食べていた。切り替えが早いのが彼の強みかもしれない。
そして昨日の焼き直しのように母親に連れられてラキタの家へ。
玄関先で母親がリランに声かけて別れる。カディが敷居を跨ぐなりフィアが威嚇をしてきてリランが間に入ってことなきを得る。フィアは不承不承と家に来る異物を認めた。おそらくその裏では虎視眈々とイジワルを画策しているのだろう。
そこら辺は子供同士のコミュニケーション。過度に心配することはない。
おれはカディから意識を外し、この日中にも諜報活動に精を出すことにした。
遠隔で家の軒下で待機させているネズミを稼働させる。
昨晩、偶然にも本物のネズミが軒下にいたので今はそれを材料にクオリティが上がっている。
ちゅうちゅうと鳴きはしないもののバージョンアップした諜報ネズミはリアリティのある仕草で茂みの中を走り回る。
ちょうど家からジルが外出するところだったので後をつけることにした。
「〜♩」
呑気に鼻歌を鳴らしながら歩いている。
今日は森の方へ行くようだ。
ジルはお弁当袋を携え小道を進んでいく。軽い傾斜のある道を進んでいくと、自宅とほぼ同じ大きさの丸太小屋が見えた。
切られたばかりの木がそのまま置かれていたり、加工された建材が屋根の下に保管されている。ジルはそのまま小屋の中へ入っていった。同じタイミングで中に侵入を果たし、すぐに身を隠せる家具の隙間に身を滑り込ませる。
室内は作業スペース兼休憩所になっていた。手作りらしい長椅子には先客が座っている。
「よお」
男はジルを見るなり声をかけた。
「おはよう、ダンテ」
ジルが返事を返す。
この髭面で体格の良い男はダンテというのか、とおれは記憶した。
「今日も嫁さんの手作り弁当か? 羨ましい」
「そう思うならさっさと結婚しろよ」
「できるならな」
彼らは気安い調子で語り合う。特にジルは家で見せる表情とは違っていた。
「今日はもう狩ってきたのか?」
「いや、罠の見回りだけ。成果はそれ」
ダンテが親指で指したところには大きな猪が横たわっていた。
「血抜きは?」
「終わったよ。腑分けも。皮を剥ぐのは明日にする。今日はもう帰って寝たい……」
ダンテは豪快に口を開けて欠伸をする。
「早いな。調子悪いのか?」
「寝不足だ。近頃は寝ても寝ても足りんのだわ」
「それ、滋養のある部位があるんだろう? 調子悪いなら自分で食えば?」
「んなことしても下半身が元気になるだけだっての。お前こそ入り用じゃねぇの? 二人目もつくるんだろ?」
「ああ、必要になったら」
「その時は任せてくれよ」
それから聞くに耐えない猥談が続く。清々しい朝だというのにこいつらは。
「お前が来てから食卓が華やかになったってみんな喜んでる。品が増えると気力が出るってさ。感謝してるよ」
「ま、それが仕事だからな」
ダンテは小刀で葉巻を切り、火をつけて吹かした。ジルは若干煙たそうに顔を顰める。
「そういえば、この村に移るきっかけとかあったのか? 近頃、移住者が増えてるけど、住んでるこっちからしたら何が魅力なのかわからん」
「良い酒が飲める。それ以外に理由が必要か? ん……わりぃが、そろそろ眠気が限界だ。先に上がらせてもらうぜ」
ダンテは葉巻を咥えながら帽子を被り、キザっぽく手を上げた。
「そっか。また明日な」
ジルが同じく手を上げた。
足音が響いて横を通り過ぎていく。おれは父親のジルではなくこの狩人をつけようと決めると、扉が開くタイミングで飛び込んだ。
「うお」
股を潜り、軒下に身を隠す。
「なんだ? ネズミか?」
辺りを見渡して、ダンテは再び欠伸をする。
彼が歩き出したのを見て背後をつけた。
ジルがたどった道を逆に、狩人は森を抜けていく。
ダンテは村の中心に向かっているようだった。
彼を見失わないように、他の村人と鉢合わせしないように気をつけながらあとをつける。この村の人間ときたらネズミを非常に毛嫌いしているので見つからないようにしなければならない。
ダンテは少しフラフラとした足取りでとある建物に入っていく。
その建物は、他の家々とは違い、真っ白な漆喰の壁で、尖塔のように屋根がするどく空へ伸びていた。
欠かさず手入れのされた小さな庭とそれを囲む小さな水路を抜けると大きな両扉が開かれたまま来訪者を出迎える。
内部はアーチ状に伸びた柱が屋根を支えて奥行きを演出していた。さほど広い室内ではなかったが天井が高く開放的で、両側の長方形の窓から光が差し込んでいる。建物の隅と中央には生きた水路が絶えず流れており、こぽこぽと水の弾ける音、さらさらと流動する水の音が背景として絶えず聞こえている。
おれは整列している長椅子の下に潜り込んだ。
ダンテは最前列に進み、そこにどかっと腰掛ける。ぎしりと男の体重で椅子が軋む音を最後に、水路を流れる水音だけが残った。
静寂が落ち、椅子に腰掛けた男は眠っているように動かない。おれはその真下を陣取り、彼の呼吸を聞く。
しばらくの間、水以外の全てが静止していた。
誰もいない礼拝堂。
置物になった男は眠りこんだわけではない。彼は祈りを捧げている。なぜ?
人々は眠り、食べ、役割を遂行し、また眠る。祈ることに意味はない。けれど彼らは、食事の手前、そして折に触れてこのような祈りを捧げる。生活する上で必須ではない行為だ。してもしなくてもその一日が変わるわけではない。
静寂は語らない。けれど触れて感じられる鼓動があった。
――この男は懺悔をしているのだ。
今も続く痛みがあった。その悲痛な振動のない声がこの場に鳴動している。
痛い、苦しい。
けれどこの男は、その痛みから逃れたいと思っているわけではないらしい。
この苦行を人は人生と呼んでいるらしい。実に馬鹿馬鹿しいことだ。
カツカツカツという音が痛苦が蔓延する静寂を切り裂いた。
「今日も熱心ですね」
この無為を終わらせるには相応しい響きに聞こえる。
この教会における本当の主の声だった。
それなりに老齢の男。その纏う服は白い出立ちで、青色の帯を首に掛け、裾には複雑な青い刺繍が施されている。
青と白の聖職者。
村では異質な存在で農作業などの労働はせず、村長や相談役などと一緒にいる印象がある。基本的に祭事でしか見かけない存在だった。
「アギオス厳親。邪魔してるぜ。もうすぐ帰るよ」
「気が済むまで居てもらって構わない。良からぬ者が棲みつかないよう狩人がいれば安心だ」
「悪いけど俺にそんなご利益はないぜ。それに良からぬっていうのはどちらかというと俺のことじゃないか? 血の匂いを持ち込んで悪いと思ってる」
「それは思い違いだと言っておきましょう。あれは、四十年前ほどのことでしょうか。疫病の際に、各々の家に血で魔除けの印を描いたことがあります。そしてここは血を流す者を癒す治療院。気になされず」
「ありがとう」
彼らはお互いに異なる方を見ていた。ダンテは祭壇に置かれた大きな水瓶を見上げ、アギオスという神父は男を見下ろしている。
「聞いてもらえますか」
ダンテはつぶやいた。
「もちろん。この時間は誰もいない。この場でも良いかな」
「盗み聞きしている奴がいるとすれば、ネズミくらいだな」
ま、聞かれてもかまわねぇけど、とダンテは切り出す。
「明朝、猪を撃ち殺しました。まだ若く、生命力のある命でした。その命を断ち、我が糧としました」
「手を前に」
ダンテは罪人のように両手を差し出す。
アギオスは懐から小瓶を取り出し、突き出されたその手に瓶の中身を振りかけた。
「この者は罪を自覚し告白した者。使徒ミシャによる浄化を許そう。あらゆる罪を流す水を受け取れ。ただしその報復も受け取るがいい。ここにあるのは罪ではない罰ではない。因果である。……では、花壇の水やりでもしてもらおうかな」
「お安いご用」
のろのろとダンテは腰を上げる。儀式を終えても覇気がない様子で、その顔は少し青褪めて見えた。
「ダンテ。その喉を塞いでいる石を吐き出さないことには、意味はありませんよ」
神父は彼の背中に声をかける。男は一瞬だけ立ち止まり、礼拝堂を後にした。
◇
その後ダンテは帰宅してしまったので他所にネズミを向かわせた。
特に明らかになるものはなく日中の諜報は切り上げてカディへと視点を戻す。
目の高さが変わり、彼の感覚に同機する。
「ピンクのビーズ、30個」
カディ、フィア、リランはリビングで時計の針のように寝っ転がりながら、細かい作業を行なっていた。
フィアが中心となってネックレスを作成していて、それを構成するパーツをカディが作り、さらに出来たパーツをリランが大きさを均等にして色味を加えている。
さながらライン作業だった。その中でカディは同じ作業の繰り返しに疲弊している。
どうやらビーズの生産がかれこれ三時間半になるそうだ。
死んだ目をしているカディとは違い、兄であるリランは淡々と作業をこなす。ときどき規格に合わないビーズ玉をカディの手元に弾きながら的確に要求されたビーズをフィアの元に供給していた。
しばらく動きのない作業風景が続く。
秒針が33周したくらいで大きなため息と共にフィアの手元にあるネックレスが完成した。
彼女は出来上がったそれをさまざまな角度から点検すると頷く。
「うん、良い感じ」
その言葉を受けてカディは顔を伏せた。齢七歳にして労働に触れたらしい。
まあ労働というか、報酬のない搾取されるだけの環境のようだけど。
「ぼく、帰っていい?」
「ああ、ありがとう。お疲れ様」
普段は一人でこの現場を回しているのだろう。リランには余裕がありそうだった。
「帰っていいって何よ。好きでここにいるんでしょう?」
「好きで……」
カディは絶句したように言葉を切った。
「うーん。もっと赤っぽい色のやつも作りたい」
「それは今度にしよう。バザーはまだ先のことなんだし、急がなくていい。他の形のアクセサリーも充実させるべきだ」
「だったらこの髪留めが良い!」
フィアは手元に開いていた資料を指した。
「材料がないね。母さんに相談しよう」
「材料費が……」
ぶつぶつと自分の商売について埋没するフィア。
おそらく、想像するまでもなく、そこに人件費という概念は存在しないのだろう。
「じゃあ帰る。時間だし」
カディは頃合いを見て切り出した。
「今日はありがとう、カディ。……そういえば、明日は行商が売り物をするらしいけど、カディも行く?」
帰り際の挨拶の後、リランは言った。
「ギョウショウ?」
「ああ、行ったことがない? じゃあ、よければ一緒に行こう。君のお母さんとも話してみて。できればお小遣いをいくらか貰えないか頼んでほしい。貰えなくても別にいいよ」
「うーんと、わかった」
「カディ。今日はありがと」
フィアはカディに向けてお礼を言った。明らかに言い慣れていない様子で目線が合っていない。
「うん。よかったらまた手伝うよ」
「え、ホント!?」
「えっと……うん」
若干後悔があるようだったが、彼はそう請け負った。
こんなボランティアに手を貸す必要はないだろうに。けれど損得を学ぶ機会だと思えば悪くない取引だ。
「またね! カディ!」
現金なものでフィアはようやくカディに笑顔を向けた。カディも固い表情を解いて笑顔を向けて返す。彼の中の苦手意識は若干薄れたようだった。
人間の男女関係は、永遠とこのようなものだ。今後大人になって複雑性は帯びるだろうが、本質的にはシンプルだ。
しかしそれを語るのは野暮というもの。人類はシンプルな世界を下敷きに複雑怪奇な社会を形作る。冷や水は無粋だ。そんな舞台裏はどうでもいい。劇に集中しようか。
カディは一人で家に向かう。
無性にお腹が空いていた。労働後のほのかな充実感と午後からの自由時間が彼を上機嫌にさせる。
家に着くと家族が揃っており、お昼の準備がされている中で父親が食卓に座っていた。
「おかえり、カディ! ほらな! 一人でも帰って来れた」
ジルがスープの入った鍋を持ってきたミナに言う。
「帰って来れたけど、万が一があるから迎えに行って、って言ったの」
「万が一なんて考えていたらキリがない。百が一くらいになったら心配するさ」
「揚げ足取らないで。言い方を変える。常に心配して」
「常に気にはかけている。愛は途切れない。言うだろ。アギオス厳親がいつも」
「熱心な信者でもないくせに」
「俺にはお前とカディがいるからな。神様に向ける分はないよ。あ、いやいや、嘘嘘! ちょっとだけはあるって!」
ミナが鍋を持ちながら半眼になって立ち止まっているのを見てジルは慌てて弁明した。
「カディ。早く手を洗ってきて」
エプロンを外しながらミナは言う。カディは言われた通り洗面台に向かった。
「急ぐことはないだろ。何か用事?」
リビングから会話が聞こえる。
「カシエに誘われてて。最近流れてきた占い師に見てもらえって煩くて。あなたは興味ある?」
「ないね。まったく。お前に限って心配ないだろうけど、つまらない開運グッズなんて買ってくるなよ」
「うん」
「食器洗いはやっておくから」
「ありがとう。あと外に干してある布団も見てほしいな。それと中央倉庫にある大鎌が壊れちゃったから直してくれって村長が」
「わかったわかった」
カディが席に着くといつものようにジルが言った。
「アーテーよ。今日の恵みに感謝を」
◇
カディが昼寝をしている隙に、おれは軒下に待機させていたネズミへと意識を移した。
急いでミナの後を追う。彼女の支度が長引いたおかげで間に合った。まだ視認できる距離を歩いていた。
さてさて。時間は正午過ぎ。今日という日の後半戦の始まり。
カディにおねしょの癖がつくのは良くないし、おちおちやられっぱなしというのも面白くない。今日で決着をつけよう。
そう大きくない村だから術師に繋がるものはすぐに見つかるだろうと思っていた。あるいは、すでに見ていて見逃している可能性もなくはないと。けれどもう概ねのことは把握した。あと他に確認すべき点は、なぜカディを狙ったのか、それによってどのような波及効果を狙っているのか。その二点。
術者を特定できれば解呪は容易い。
術者はだれか、なんていうのは誰がどう見たって自明ではあるけれど、いちおう黙っておこう。予感程度に抑えておくのが人の次元を楽しむ秘訣だ。人生の終わりが死だなんてことはみんな知っている。わざわざ言うまでもないし、常日頃から考える必要もない。着地点を見ないというスタンスは多くのことに適用しても良いライフハックだ。
もう少し語ろう。結果や恐怖は自ずと目の前に立ち現れる。先走ってそれを捕まえようとするより、待ち構えていた方が対処は難しくない。それなのにそれが出来ないのは、何事も物事を困難にしているのは、外部ではなく内部のプログラムによるものだ。
これはエルフにも言えることだが、人間はそれが顕著だ。わかりやすい。わかりやすく愚かだ。見ていて飽きない。彼らのエゴプログラムは……えーと、この辺りにしておこうか。
ミナは葡萄畑の広がる農地から村の中心地に向かっていた。
距離はそれなり。なだらかな隆線の丘を二つほど過ぎて、以前のおれなら二日間ほどの体感時間が過ぎると、住宅やお店が密集する区画にたどり着いた。
村に来る者たちが荷を解いて休息する宿泊地という側面が強く、観光客向けのお店や宿屋が立ち並んでいる。
普段は閑古鳥の一帯だったが今は賑わっていた。馬小屋を見るに大きな商隊が村を訪れているらしい。
そういえばリランが買い物に行こうとカディを誘っていたことを思い出す。行商の名をルシルと言っていた。
おれという意識の宿ったネズミは往来のある道を避けて、本物のネズミのように排水溝を渡って移動する。時にはダンゴムシや同類とすれ違いながらミナの後を追った。
溝から適宜見張っていると、彼女は村の出入り口付近にある宿に入っていった。おれはすぐにその建物の裏手に周り、侵入できる経路を探す。
ゴミが散乱し雑草が茂る中に壁の割れ目が隠れており、そこから中へ入ることができた。
カンカンカンと鍋を叩く音。ぐつぐつと何かを煮込む音。慌ただしく擦れ合う調理道具の音。
嗅覚が備わっていたら何を調理しているのかわかったかもしれない。ガンガン稼働している厨房を後にして隣にある食堂へ移動する。室内に張り巡らされた木の床材は時間の経過によってボロボロでネズミの身からするとかなり移動し難かった。
女同士の雑談のように姦しい厨房を抜けた食堂もガヤガヤと騒がしい。ウェイターや客の足を避けつつ、テーブルの下を駆け回っていると、見覚えのある靴が見えた。その靴を目印に駆け寄る。
行きついたそこはどうやらカウンター席のようで、ミナは従業員の一人と会話しているようだった。
「もうすごいのなんのって!」
ローファーの靴主がミナに言う。格好からして女性店員のようだった。
「当たったの?」
「そりゃあね。うん。話してないこと、知るはずのないこと、バンバン当てられたよ。本物だよ。何回かお話ししてるんだけど、もう千里眼かってくらい。ちょっと寒気しちゃった」
身震いしているのかローファーの靴が地団駄を踏む。
「占い師が来たのって二日前だよね? 何回占ってもらってるの?」
「占ってもらったのは最初だけ。基本的に部屋に閉じこもってるからご飯持って行くんだけど、さらっと言われるの。今朝なんて夢の内容まで言い当てられちゃってさあ」
「ふうん。そりゃあすごいな」
「何か飲む?」
「いらない。それより忙しそうだけど、こんなところで油売ってて大丈夫?」
「十分休憩中。あと体感五分くらい」
「それはそれは」
「仲良くなってさ、あなたの友達なら無料で見てくれるって。感謝してほしいな。このカシエちゃんと友達だったことに」
「その一人称、そろそろ辞めない?」
「良いでしょ。まだ見た感じ若いんだし」
「サバ読むのも大概にね」
「夢を見せてあげてるの」
「村の連中はみんな知ってるし、知らないのは外の人たちだけか……」
「それにね、これが若さを保つ秘訣なんだよ。言葉にするとそれが本当になるってラティエさんも言ってた」
「ラティエっていうのは、その占いの人の名前?」
「そうそう。わたし、それを聞いて思い出したんだよ。ラキタおばさんのこと。綺麗なお庭の世話をしててさ、何か秘訣があるんですか? って聞いたら、お花にね、キレイねキレイねって声をかけると本当に美しい花を咲かせるのよって言ってたんだから。それと同じことなんだって」
「ああ、ラキタさんね……。最近会った?」
「えっと、見てないかも。具合、悪いんだっけ? ミナの家、近所じゃなかった? 知ってるの?」
「最近、ちょっと。久しぶりに会ったんだけど、具合が悪いというよりは年だと思う。寝てばかりみたい」
「そっか。近頃は庭も荒れ気味だしね」
「おーい! 注文してるのが届かないんだけどー!」
テーブル席から声が響いた。
「はーい! ただいまー! じゃあごめんね。行かなきゃ。えっと、二階の一番奥の部屋だから」
「仕事は何時まで?」
「この客が捌ければ終わり。占い終わったらまた声かけてー」
パタパタとカシエが駆けていく。それを見送るとミナが立ち上がった。
おれは急いで来た道を戻る。このネズミの体長では階段を登ることはできない。食堂から厨房から屋外へ。そして外壁を伝い、雨どいを渡って占い師がいる部屋に近づいた。換気用の通気口が直通で部屋に繋がっているようだったが、ネズミ対策で網が張られていた。
どうしようかと悩んでいると、都合よく窓が解放される。これ幸いと部屋の中に潜り込んだ。
窓を開けた人物の脇を抜け、近くにあったチェストの裏手へ。
場面は、ちょうど占い師とミナが張り合わせる所だった。
「――すみません。この時間まで寝ていたもので。ええと……」
ボサボサの長髪で顔の隠れた女が部屋を片付けて来客の準備をしている。
「出直しましょうか?」
ミナは開いた扉の前でまだ部屋に入ってきていない。部屋の中は脱ぎ散らかされた衣類が散乱し、部屋に唯一あるテーブルの上には木彫りの原始的な置物や精緻なデザインの香炉が置かれている。壁には曼荼羅のようなタペストリーが吊り下げられており、貸し部屋でありながら生活者の性質が反映されていた。
「どうぞどうぞ。そこに座って」
散乱していた衣類を丸ごとさらってベッドの上に雑に纏められた。ミナは少し葛藤したあと、テーブル近くの椅子に腰をかけた。
「待ってて、ください。今、用意するので」
クローゼットから上着を出し、鏡台の前でわちゃわちゃと手を動かして髪どめやアクセサリーをいくつも装着していく。最後にフェイスベールを装着すると、スラリとした薄着の神秘的な占い師が完成した。
舞台裏を見てしまったから神秘性は少し薄れてしまったが、身支度を終えて完成した占い師らしい人物がミナの対面に腰をかけた。
「お待たせいたしました」
スイッチが入ったらしく穏やかで落ち着いた声に変わっている。
「ごめんなさい。お休みのところをお邪魔してしまって」
「構いませんよ。人が来ないと起きないんです、わたくし。夢の中が楽しくて」
「夢」
ミナは戸惑った顔で呟いた。まったく共感できなかったのだろう。
「あなたは、えっと、ミナさんでしたか? ミナさんは夢を見ませんか? 昨夜でなくても、気になった内容のものがあるなら診断できますよ」
「わたしは全然見ない体質で。昼寝をするとたまにっていう感じです」
「なるほど。あなたには悩み事が少ないようですね。最近、気になっていることはご家族のことですか?」
「そうですね。自分のことよりもそっちが気になります」
「息子さまのことですね」
占い師はさらりと告げた。ミナは少しだけ目を見開くと、頷いた。
なるほどなるほど、と相槌を打ちながら占い師は香炉をセットする。厳かな箱に入っていた香木を取り出し、灰の溜まった香炉の中にそれを置いた。木片の中心がじわりと黒ずみ一筋の煙が立つ。
嗅覚が備わっていないのでわからないが、おそらく部屋には香木の香りが広がっているのだろう。
占い師は黒ずみ始めた木片の上に琥珀色の小石のような塊を置いた。
すると香木の煙とは別の煙が現れ、二筋の煙が次第に部屋を満たしていく。
セッティングが終わると占い師はテーブルに置いてあったカードを切り始めた。
手品師のように手慣れた様子でカッティングされ、再びテーブルに置かれる。
「息子さんの生まれた年と日にちをお伺いします」
「333年5月15日」
それを聞いて占い師の手が一瞬だけ止まった。
「……何時何分」
「12時56分」
流れるような手捌きでカードが並ぶ。表向きにされたそれらはどれも星座が描かれていた。
「簡単に説明いたします。この三枚が現在、未来、さらに先の未来。その下に連なる二枚がそれを補足しています。例えば、ここは現在。宝石商のカードですね。下にはサイスと聖人のカードがあります」
「どんな意味があるんですか?」
「意味は後ほど。わたくしは霊視を重んじるので、カードは二の次なんです。今はただの模様と思ってください」
「はあ……」
ミナは相槌を打ちながらちらりと他も見た。水瓶や泉に映る月のカードなど、意味深な絵柄が並んでいる。
「彼、息子様から不安のような波動を感じます。……最近、環境の変化がなかったでしょうか」
「それは、はい。目の届かない時間があるので、知り合いの家に預けるようになって」
「なるほど。もしかしてここ数日おねしょが多いのでは?」
「え」
ミナは大きく目を開く。
「はい。確かに、そうですけれど……。どうして?」
警戒したような視線だった。
「どうして、と言われましても。見えたからと言う他にありません。まあ、おねしょの方はさほど心配ないでしょう。一時的なもののようです」
「それは、よかったです」
硬い表情でミナは頷いた。占いというものに対してまだ半信半疑の様子だった。おれにもペテンにしか聞こえない。
「それよりも」
声の調子を変えて占い師はサイスのカードを示す。
「ここにある大鎌のカードが、わたしには引っかかりました。直感ですが、近々別離が待っているやもしれません」
「別離?」
訝しげにミナは繰り返す。
「どういう経緯で別れがあるのかわかりませんが、わたしが言えるのはそれが大きなターニングポイントになるということ。もしそれが来ても、受け入れた方がよろしいということ。息子様にとってその道へ行くことが正しい」
「正しい? 近々というのはいつのことですか?」
「はっきりとは見えません。ですが星が近いので、早ければ来月、少なくとも今年中のようです」
「今年中って……まだ七歳ですよ? この年で家を出るということですか?」
「ええ。ですので、お伝えしなければならないと思いました。その時が来ても、お心を乱されないように」
ミナは眉を寄せる。受け入れ難い様子だった。
「信じる信じないはご随意に。信じられないことの多くは、その人が恐れている事柄。信じたいものは、その人が希求している事柄。われわれ夢見の使徒はただ見たものをお伝えするのみ。危機をお伝えすることは出来てもそれを避ける術はわかりません。その人の頑張りによっては呼び込まない不幸もありますが、どうやら今回のそれは、努力によってどうにかなるものではないようです。息子様のためにも、それを歓迎してください」
「そんな……」
「では、わたくしはもう少し眠らなければならないので……」
話は終わったとばかりに占い師は香炉の火を消し、ヴェールを脱ぎ捨ててベッドの方へ。あっという間に毛布の中に姿を消してしまった。
ミナはしばらく山なりになった毛布を眺めていたが、全く動きがないのを悟ると部屋から出ていった。
ミナもそうだったしおれも首をかしげていた。
この自称占い師は、不安を煽るだけ煽って何がしたかったのだろう?
占いを使って儲けようという気もなさそうだった。本当に、見えたものをただ伝えただけのように見える。
まあ、しかし、何も心配は要らない。この女が言ったことが例え本当だったとしてもカディにはおれがついている。どのような受難が来たとしても跳ね除けてみせよう。
まさに、今からそれを行うように。
部屋に静けさが来るのを待って動き始める。
占い師の寝ているベッドの下に潜り込み、おれは呪術師のいる正確な座標を得た。
呪い返しの条件は整っている。夢。集合的無意識を媒介にした呪い。対象は眠りにつこうとしている。アンテナをその喉元に配置する。まるで誰かがあつらえたような状況だと微かに脳裏に過ぎる。
この女にはどのような呪いが相応しいだろう?
小さな警告を無視しておれは即座に呪い返しを実行した。