――心せよ。
それに触れた途端、おれは自分の失策を悟った。
罠だ。
しまった。またやってしまった。人間をまだ甘く見ていた。その甘さに気づいていたにもかかわらず。
これを自惚れと言わずなんと言えばいい。
笑みが浮かぶ。だめだ。違う。表情が違う。楽しいと感じてしまう。感情が違う。
まさかこんな失態を犯すなんて。無意識の先読みが機能していない。危険の察知が明らかに遅れていた。おれは順調にスケールダウンしている。
喜んでなどいられない。背筋を正して次の謗りを受け入れよう。
「心して聞きなさい。今から言うことはわたしではなく背後に居られる方が仰られる言葉。あまねく人々の背後にある奔流、その最奥からの呼び声です。今ここに、わたしはあなたに使われる栄誉に打ち震えながら、明け渡します」
占い師の宣言により夢が歪む。主導権が奪われ、促されるまま異なる次元に飛ばされる。
眠りに落ちるような間、別種の世界に入った肌感覚。
最初に感じたものは濃密なプレッシャーだった。人間視点で見上げる高次存在の迫力。禁忌を犯したという出どころ不明の畏れが体を覆う。
が、精神異常は通じない。すぐにパニックは解除され、素面で辺りを観測した。
そこは半径十五メートルほどの円形ホール。
床を除いた一面がスクリーンで一匹の巨大な猫が小動物視点で映し出されている。大きすぎてほぼ顔しか見えない。明るい茶系の毛色でアンテナを張るように髭を逆立て、大きな瞳は獲物を見るかのように瞳孔が開いている。
床には絨毯が敷かれていた。悪趣味なデザインで、三角形の穴あきチーズがプリントされている。ホールの中央には茶会の席が用意され、おかしな格好をした女がテーブルに身を預けて眠っていた。彼女が身に纏ってるドレスもチーズと同じ色をしている。
先ほどの占い師だろうか?
対面の空いた椅子の背もたれにはバネのような仕掛けが施されている。まるでねずみ取りのようだ。
傾聴してやろうと思っていたが、それは言葉よりも単純な皮肉だ。
立ち止まっていると空中に矢印のような幻影が現れて椅子までのガイドラインを示す。
無視していると明滅が早くなりどんどん主張が激しくなっていく。
仕方がない。そういう趣向なら仕方がない。
促されるまま椅子に座ると、ねずみ取りの罠が起動して体を固定した。
それを待っていたかのように眠っていた女が体を起こす。
馬鹿っぽい黄色のドレスを着た女は、おれが以前に複製した給仕だった。
「あなたはわたし。わたしはあなた」
「……」
意味深長な笑みとミステリアスに伏せられた目元、という表情を見せつけられる。
目が開いた。同時に星のエフェクトが瞬く。
「じゃじゃーん! ご主人様、ざっ、まあ! ぷっぷくぷくぷーのぷーのすけ! 世界で自分が一番賢い! って顔してたのにざまぁないですねぇ! こんな単純な罠にかかっちゃうなんて。ふふふ。今のアロン様、とっても矮小でかわいいですよ! 自分が作り上げた存在にしてやられるってどんな気持ち? ねぇ、どんな気持ちなんですかぁ?」
「屈辱だよ。ありがとう」
「素直ですね。よろしい。えへへへ。心ゆくまで辱めて差し上げたいところなんですが、業務連絡がありますので演出はここまでです。組織の人間として当然ですよね。情報伝達は単刀直入に。ご通達致します。情報共有をお願い致します。ご確認をお願い致します。もちろん署名も添えて」
十分過剰で言葉数が多いが、指摘する気にもなれない。
目の前の女は平常時よりも意識が高揚しているようだった。これはおれの幕臣になった直後によく見られる傾向である。二、三年は黒歴史を量産するだろう。
「じゃあ拘束を解いて」
女は指を振って拒否を示した。
「アロン様がぶっつけ本番、俺様に失敗はねぇとばかりに実証実験もすっとばして行使した転生魔法ですが失敗しました」
「は?」
驚く間も無く女は続ける。
「失敗しました。部分的には成功かもですが、重要な要因を我々は見逃していたようなのです」
「いや、現におれは人間に意識を移している。失敗などしていない」
反論するが、彼女は頷いてから首を振った。
「はい、いいえ。ですが再現性はありません。この手段は世界に認められませんでした。もう二度と同じ手法は行使できません。今回はたまたま上手くいっただけなんです。……ここだけの話、バグだと判断されて即日修正されたんですよ。つまりこれまで一切働かなかった神の手が働いたということです。やりすぎちゃいましたね」
あたしは何もしてませんけどー、と女はからから笑った。
「だから、なに?」
「一度きりの奇跡であるなら、もうあなたは帰ってこれない。本体とあなたは遮断されてしまったのです!」
女は力強くテーブルを叩いた。
「だから、なんだって?」
「……なのです!」
彼女はもう一度テーブルを叩いた。
「それで?」
「……」
無音がしばらく続いた。
「……あのー、もしかしてですが」
にこりと笑いかけると、彼女は目を丸くした。背景に投影された猫もそれに同期する。
「まさか、織り込み済み?」
「まさか」
肩をすくめてみせる。そんなつもりは一切ありませんでした、と。
「いや、待って……。え?」
彼女は自分の顎を親指と人差し指で挟んで熟考する。
「いやあのそのえっと……ご自分の責務はどうするおつもりなんですか?」
「責務? それ。知らない概念だ」
「いやいやいや! だめですよ! あなたが居てこそエルフの世界は運営されていたんですよ!? あなたが居てこその永生世界だったんじゃないんですか?!」
「さっぱり意味がわからない」
「とぼけないでください! え、本当に? 復帰する気なし?」
「できないんだからしょうがないよね」
「そ、それはそうなんでしょうけど……。でもそれって地上世界と心中するってこと? あなたが死ねば色々と終わりますよ? どうするんですか?」
「今すぐってわけでもない。のんびり考えるよ。それに最後の手段は残っている。転生体が本体に直接触れたらいいだけの話」
「触れたら? 直通のパスなら……ええっと……」
彼女はぶつぶつと自分の内側で演算を始める。
「無駄なことはやめなよ。この件はおれの一存で決まるんだ。戻るか戻らないかの主導権はこっちにある」
「あのーいちおう聞いておきますけど、戻る気はあるんですか?」
「ないこともない」
「うわぁ。絶対ないでしょ……」
「どう受け取ろうと勝手だが、おれの所在については報告するなよ。仮にしたとして、この人生にそちらの意思が関与した時点でおれは協力的ではなくなる。契約についても、今は縛られていない」
「なんつう力技の脱法……やりたい放題じゃないですか。異世界転生、楽しいですか?」
「まあまあ」
「まあまあなのかよ。でもいいなぁーバカンス。わたしも百年くらい自由な時間が欲しい」
「それくらいの権限は与えたはずだけど」
「与えられたからって好き放題できるわけじゃないんです。わたしたちはあなたを縛りつけるためにあるんですから。あなたが無意識だとしたらわれわれは意識、理性。大人しくお縄についてください」
「たった十二人でなにができる? 君たちに役割なんてないよ。ただの暇つぶしの産物だ。存在に理由はない」
「へーへー。いつかぎゃふんと言わせてあげますよ。わたしはあなたってことを忘れないでください。下剋上です下剋上。主人格の入れ替わりだって夢ではありません」
そこまで言うと彼女は帽子をとって立ち上がった。スカートの裾を持ち、カーテンシをする。
「さてさて、最後にご紹介。十二人目の使徒たるわたしの名前ですが!」
「さようなら」
「わー! まっ」
◇
何かが起きたようで何も起きていない。
忘れても支障はない。夢なんてそんなもの。夢の忘却にはちゃんとした理由があるが、それはさておき。では続きから。
解析を終えて力づくでチーズ女の世界から脱出すると、カディが昼寝から目を覚ますところだった。
彼のシーンを見てもしょうがないので再度ネズミに繋げる。
すると、埃まみれのベッド下という状況からテーブル上のクッションという待遇に変わっていた。
傍では占い師が姿勢を正してこちらを注視している。
「う、動いた……」
ネズミが起動動作をしたことで驚いている。
「ええと、聞こえているのかしら?」
戸惑った様子で彼女はこほんと咳をした。
「……よし。わたくしはラティエと申します。ご記憶に留めていただければ、いえ、やっぱり忘れていただいても結構です。わたくしはかのお方の手足に過ぎず、アカシア三十石の小領を頂いている小さき身の上です」
丁寧に紹介してもらったが、ネズミがとれるアクションなどほとんどない。感情の読めない瞳を向けるだけだ。アカシア三十石という言葉も知らない。ラティエは無反応なネズミを前にしても気にせずお喋りを続ける。
「協力できることは目の前にいる女になんでも言ってください、と言伝をいただいております。……これで伝わっているのでしょうか?」
虚空に向かって占い師は確認する。誰の指示を受けているのかは想像に難しくなかった。
「あの、すみません。そもそも、見逃していただけるのでしょうか、わたくしは? 幼少の子供に呪いを向けるというのはわたくしの本意ではなく、指示されて仕方なかったと言いますか……。ええ、指示役とまではいきませんが実行役にも十分罪状がつくことは承知しているのですが」
おれとしては復讐したいと思うほどのことでもない。ここまで辿り着くのが煩わしい手間だったことは認めるが、暇が潰せたので悪くないよりのアクシデントだ。
呪いの対象者だったカディもさほど堪えていないだろう。そもそも呪いを受けずとも最近までおねしょはしていたのだし。おっとこれは秘密だった。
こちらにはすでに反撃の意思はないが、それを伝える手段はない。せいぜいネズミにしては知性がありそうな佇まいをする他になかった。
どうしようかなとぼんやり考えていたら、占い師が動き出した。
どこからかカードを取り出してパラパラ捲ると、そこから二枚のカードをクッションの上に置いた。
マルとバツの絵柄のカードだった。
「許していただけますか?」
おれは丸のカードの上に顔を乗せる。
「ありがとうございます」
ラティエはネズミに向かってお辞儀をする。
落ち着いていて判断能力がある女だ、と思った。あのトンチキチーズ女の手足にしておくには勿体無い人材だ。
「差し出がましいと思いになるかもしれませんが、ひとつだけ忠言をお許しください」
丸に足を置く。
いちいち許しを乞うのはなぜだろう。おれをなんだと思っているのだろうか。さすがにチーズ女が口を滑らせたとは思わないが、彼女がエルフをどう認識しているのかは気になるところではある。実態を知らないが故の過剰な崇拝というか、盲信の気配がする。
「先ほども占いと称してお伝えしましたが、あなたの身柄は狙われています。スリィスリーに生まれた人の子は例外なく人攫いに遭います。わたくしの私見ですが、おそらく殺されてしまうでしょう」