午後。
母と二人で休みを取ったその日、屋敷の扉が勢いよく開かれた。
「アイシャ!」
聞き慣れた声。振り返るより早く、その姿が目に入る。
「……ノルン姉。」
家族会議の日。知らせを受けるや否や、ルイジェルドの元から急いで戻ってきたのだろう。息は少し乱れ、旅装束のままだ。その姿を見ただけで、どれほど急いできたのかが痛いほど伝わってきた。
「アイシャ……。」
目が合う。その瞬間だった。
「よかったぁ……!」
ぽろり、と。ノルンの目から大きな涙が零れ落ちた。
「え……?」
「よかった……本当に……っ!」
言葉にならない。泣きながら笑っている。それだけで十分だった。
アイシャは呆然と立ち尽くす。
(……あ。)
分かってしまった。
ノルン姉は——私が苦しんでいると思って、もっと辛そうな顔をしていると思って、笑えなくなっていると思って。
だから、元気そうな私を見て、安心して泣いている。その涙だった。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(こんなことで……っ。)
いや、違う。
こんなこと"だから"なのだ。
私は今まで、この涙を知らなかった。誰かが自分のために泣いてくれること。誰かが安心して涙を流すこと。その本当の意味を。
「……ごめんね。」
自然と言葉が零れた。
「心配かけちゃった。」
その一言に、ノルンは何度も首を横に振る。
「違う……違うよ。謝らなくていいの。アイシャが無事で……ちゃんと笑えてて……それだけでいいの……っ!」
涙は止まらない。そんな姉を見て、アイシャは小さく笑った。
昔の私なら、きっとこの涙の意味は分からなかっただろう。
『そんなに泣かなくてもいいのに。』そう言っていたと思う。あるいは、『ノルン姉は大袈裟ね』と、そんな嫌味さえ口にしていたかもしれない。
実際、私はそういう妹だった。
ノルンを見下し、傷つけるような言葉も何度も口にした。
それでも——この人は今、私のために泣いてくれている。
その事実だけで十分だった。胸が満たされる。
「ありがとう。」
自然と笑えた。ノルンも涙を拭きながら笑う。
その笑顔を見て、アイシャは思う。
——ああ。私はもう、ノルン姉が羨ましいんじゃない。
ちゃんと、大好きなんだ。
そう思えたことが、何より嬉しかった。
◇
しばらくして、ようやくノルンの涙は落ち着いた。
赤くなった目元を袖で拭いながら、小さく笑う。
「……ごめんね。泣くつもりじゃなかったんだけど。」
「ううん。」
アイシャは首を横に振る。
「今なら、その涙の意味が分かるから。」
その一言に、ノルンは少しだけ目を見開いた。
「……そっか。」
そして、ゆっくりと息を整える。
「話は聞いたよ。」
静かな声だった。アルスのこと、家族会議のこと、その全てを指しているのだろう。
アイシャは少しだけ俯いた。
「うん。でも、大丈夫。」
その返事は、不思議なくらい穏やかだった。
「家族会議から、まだ二日しか経ってないのにね。」
苦笑する。
「でもね、私……変わりたいって思ったの。知りたいって思ったの。恋って何なのか、愛って何なのか。私が何を好きで、何を選びたいのか。全部……今まで知らないまま、生きてきちゃったから。」
ノルンは何も言わない。ただ、静かに耳を傾けてくれる。
「前なら、分からないって泣いて終わってたと思う。『誰かに答えをください』って、『叱ってください』って、それだけだった。」
少し笑う。
「でも今は違う。分からないから知りたい。ちゃんと自分で答えを見つけたい。そのために旅に出る……そう思えるようになったの。」
胸に手を当てる。
「きっと、一人だったらここまで思えなかった。お兄ちゃんも、お母さんも、シルフィさんも、ロキシーさんも、エリスさんも、ナーグさんも……みんなが私を心配して、私のために怒って、私のために泣いてくれて、想ってくれたから。だから、私は逃げるんじゃなくて、歩いてみようって思えたんだ。」
そこで言葉を切る。
「だから今日はね……ノルン姉にも聞いてほしかったの。この二日であったこと、私が何を感じて、何を考えて、何を知ったのか……全部。」
ノルンは何も遮らない。急かすこともしない。
ただ、優しく微笑みながら頷いた。
「うん。聞かせて。今日はお姉ちゃんだから。」
その一言に、アイシャも自然と笑みを浮かべた。
ようやく、本当の意味で姉妹として話ができる。そんな気がした。
◇
ノルンは少し俯き、自分の膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
「……私ね、ずっと勘違いしてた。」
静かな声だった。
「アイシャは何でもできるから。お母さんにも、お兄ちゃんにも頼られて、私なんかよりずっと大人で……だから……。」
少し笑う。その笑顔は、泣き出しそうだった。
「私だけが家族に甘えてた。アイシャの分まで……できるアイシャがいるから、私は余計に甘えちゃったんだと思う。アイシャばっかり褒められて、いいなぁって思ってた。」
ノルンは顔を上げ、アイシャを真っ直ぐに見つめた。
「でも……逆だったね。」
ノルンは続ける。
「アイシャも……甘えたかったよね。」
その一言だけで十分だった。胸が熱くなり、何かを言おうとしても言葉にならない。
ノルンはぐっと涙を拭うと、ぱんっと自分の頬を軽く叩いた。
「よし!」
空気を変えるように明るく笑う。
「今までアイシャが大人をしてくれたんだから! その分、今度は私が返す番!」
胸を張る。
「この先は、お姉ちゃんするんだから! お・ね・え・ちゃ・ん!」
——やっぱり。
アイシャは思わず額に手を当てた。
(何を言うかなんとなく分かってたけど……嫌な予感しかしなかった。どうせ『お姉ちゃんって呼んで』とか、『甘えていいんだよ』とか、そういうことでしょ。)
案の定だった。
ノルンは満面の笑みで両腕を広げる。
「ほら、お姉ちゃんに甘えながら話して? いっぱい甘えていいんだよ、今日くらいは。えへへ。」
「…………。」
(本当に言った……。)
あまりにも予想通りで、思わず笑ってしまいそうになる。
(単純だなぁ……。)
昔ならきっと呆れていたはずだ。何も考えていないと、平凡だと、そんな風に見下していたかもしれない。
でも今は違う。その単純さが、その真っ直ぐさが——私にはなかったものであり、ずっと羨しかったものだった。
そして今は、羨ましいだけじゃない。とても温かい。
その真っ直ぐな優しさが、胸いっぱいに染み渡っていく。
「……お姉ちゃん。」
少し照れながら呼ぶ。
そのたった一言だけで、ノルンはぱっと花が咲いたように目を輝かせた。
「うん! 任せて!」
その返事がおかしくて、アイシャは声を漏らして笑った。
旅立ちの前に、ようやく本当の意味で姉妹になれた気がした。
◇
「はい、ここ。」
「え?」
返事をする間もなかった。
ノルンはアイシャの肩を軽く押し、そのまま自分の膝へと強引に頭を乗せてしまう。
「ちょ、ちょっとノルン姉!」
「動かない。お姉ちゃん命令。」
「そんな命令あるの?」
「今日できた。」
「横暴!」
抗議するアイシャだったが、ノルンは楽しそうに笑うだけだ。
そして、そのままそっと頭へ手を乗せ、優しく、ゆっくりと、髪を梳くように撫で始めた。
「…………。」
悪くない。というより——すごく気持ちいい。
抵抗しようと思えばいつでもできる。けれど、そんな気はまったく起きなかった。
(……姉に甘えるのも、悪くないね。)
自然と目が細くなり、身体からスッと力が抜けていく。
そんな自分に少し笑ってしまった。
(でも……やっぱり、お母さんの方が撫でるの上手いし。)
そう考えた瞬間、自分で自分がおかしくなる。
何を張り合っているんだろう。比べるものでもないのに。きっとこれは、照れ隠しなのだ。
認めてしまうと、本当にただの甘えっ子みたいで恥ずかしかった。
「気持ちよさそう。」
「……うるさい。」
「ふふっ。」
ノルンは嬉しそうに笑いながら、撫でる手を止めない。
しばらく静かな時間が流れたあと、やがてノルンがぽつりと口を開いた。
「ねぇ。旅に出たら、何してみたい? どこに行きたいとか、食べたいものとか、見たい景色とか……何でもいいよ。」
「……。」
アイシャは少し考える。考えて——困ったように笑った。
「それがね、まだ何も考えてないの。」
「え?」
「本当に。旅に出るって決まっただけで、その先を考える余裕なんて全然なくて。何をしたいのかも、どこへ行きたいのかも……分からない。私らしいでしょ?」
苦笑しながらそう言うと、ノルンは少しだけ目を丸くしたあと、優しく微笑んだ。
「うん。それでいいと思う。だって、初めてなんだから。これから考えればいいよ。アイシャは今まで、誰かの目的地ばかりを歩いてきたんだもん。今度は、自分の目的地を見つける旅なんだから。」
その言葉に、アイシャは静かに目を閉じた。
「……そっか。そういう旅なんだね。」
その一言は誰に言うでもなく、これから歩き出す自分自身へ向けた、小さな確認だった。
「それと!」
ノルンが何かを思い出したようにぴしっと指を立てる。
「今日から呼び方は『ノルン姉』じゃなくて『お姉ちゃん』ね!」
「……は?」
「お姉ちゃん。」
「いや。」
「お姉ちゃん。」
「……。」
「はい、もう一回。」
「お姉ちゃん。」
「……お姉ちゃん。」
「よしっ!」
満足そうに力強く頷くノルン。
「これからは統一ね!」
「なんでそんなところだけ妙にこだわるの……。」
「だって、お姉ちゃんだもん!」
「人が恥ずかしいっていうのに……。」
頬を赤くしながら小さく文句を言うアイシャ。
ノルンはそんな反応さえ嬉しいらしく、にこにこと誇らしげに笑っている。
(……本当に気に入ったんだ、お姉ちゃんって呼ばれるの。まあ、嬉しそうだからいいけどさ。)
そんなことを考えていると、ノルンはふと、少しだけ真面目な顔になった。
「ねぇ……ナーグさんって、どんな人なの?」
「え?」
「私は少し見たことがあるくらいでさ。アイシャがこうなったきっかけをくれた人なんでしょう? 恩人みたいな人だよね。」
「恩人って……。」
アイシャは苦笑した。
「気が早いよ、お姉ちゃん。まだ二日だよ?」
知り合って間もない相手だ。恩人なんて呼ぶには、あまりにも早すぎる。
でも——。
(確かに……。)
彼がいなければ、あの夜、私はきっと屋敷を抜け出していた。アルスを連れて、誰にも見つからない場所へ。ただ怯えて、逃げることしか考えられなかった。
あの時の自分には、他の道なんて見えていなかった。
そう思うと、小さく息を吐く。
「どんな人……か。」
思い返す。
「面識なんてほとんどないんだけどね。それなのに、あんな重たい家族会議に平気で首を突っ込んできて、しかも私とアルスのことをどうにかしようって本気で考えて……普通なら関わりたくないでしょ? だから……。」
少し考える。
「変な人。」
「ぶっ!」
ノルンが盛大に吹き出した。
「それ本人に言ったら怒られるよ?」
「怒るかな。」
「どうだろ。」
アイシャもつられて笑う。
「でも、それだけじゃないかな。」
笑みを少しだけ引っ込め、真面目なトーンに戻す。
「誰かのためになりたい人……そんな感じ。答えを押し付けるんじゃなくて、『自分で答えを見つけろ』って言う人。なのに、ちゃんと最後まで付き合ってくれる。……不思議な人。」
「……そっか。」
ノルンは静かに頷いた。
「いい人なんだね。」
「うん。」
その返事は、自然と口から出た。
好きとか嫌とか、まだそんな大きな感情ではない。けれど——。
「どんな人なんだろう。」
そんな小さな興味が、心のどこかに芽生えていた。
それは恋ではなく、一人の人間として、もっと知ってみたいという、ごく純粋な好奇心だった。
記念すべき10投稿目……と言いたいところですが、勢いだけで書き進めているので、あまり実感はありません。
今回書いていて改めて感じたのは、アイシャとアルス、特にアイシャは幼少期のルーデウスに少し似ているのではないか、ということです。
ルーデウスもシルフィと強い依存関係になりかけました。学校へ行くためのお金を出してもらえないなら働く、働き口を紹介してくれ、と行動に移そうとしていました。
ただ、あの頃のルーデウスは精神年齢こそ大人でしたが、肉体は子供です。行動的にも子供の枠を完全には越えられず、好きな人がいるからこそ「その人のために」という理性もどこかで働いていたように感じます。依存的ではあっても、衝動だけで突っ走ることはしなかった。
だからこそ、ゼニスやパウロが二人を引き離せたのだと思っています。
一方でアイシャは違います。
精神面は未熟なままなのに、社会的には大人でした。
幼い頃から使用人として働き、家を切り盛りできるだけの能力もある。お金も稼げる。実際に傭兵団を運営できるほどの才覚まで持っている。
だからこそ、逃げられてしまった。
能力があるからこそ、自分の衝動を実行できてしまった。
ルーデウスに憧れ、「お兄ちゃんみたいになりたい」と育った少女が、皮肉にも内面だけは幼い頃のルーデウスによく似た状態になってしまった。
そんな解釈を私はしています。
そして、もう一つ。
もしゼニスが神子にならず、パウロも亡くなっていなかったら、この結末にはならなかったのではないか、とも考えています。
リーリャは愛情深い母親ですが、自分を責めることに慣れすぎています。何かあれば「私の育て方が悪かった」と、自分を責め続けてしまう人です。
一方でパウロは、不器用ながらも子どもの感情を真正面から受け止め、ぶつかり合える父親でした。
逃亡の場面を読んだとき、私が一番強く感じたのは「父親の不在」でした
もう一つ、このIFを書く上で大きく考えたことがあります。
それは、相手が「アルスだった」という点です。
もし同年代の青年だったら、あるいはグレイラット家とは関係のない相手だったら、結果は違ったのではないか、と私は考えています。
ですが、アルスは十一歳の子供でした。
そして何より、アイシャが生まれた頃から「守り、仕え、忠義を尽くすべき相手」であるグレイラット家の人間です。
アイシャは物心つく前から、その価値観の中で育ちました。
「主を優先すること。」
「求められることに応えること。」
「期待に応えること。」
それが当たり前になり、それ以外の生き方を知らないまま大人になってしまった。
生まれ育った環境や刷り込まれた価値観は、それほどまでに強いものだと思っています。
現実でも、育った家庭の価値観や習慣、恋愛観の違いが原因で、恋人や夫婦がすれ違う話は珍しくありません。
長い年月をかけて身についたものは、「違う」と頭で理解したからといって簡単に変えられるものではない。
だから私は、アイシャ一人の問題ではなく、育った環境、立場、相手の年齢、そしてグレイラット家という特殊な関係性――それらすべてが重なった結果、あの結末へ進む力になってしまったのではないか、と解釈しています。
このIFは、その「刷り込まれた生き方」から一度だけ離れ、自分自身で答えを探すことができたなら、アイシャはどんな人生を歩むのだろう「誰かがアイシャを叱る」のではなく、「誰かがアイシャに自分で答えを見つける時間を与える」ことを、一つの軸として描いていこうと思っています
もっともっと読み込めば書きたいことをたくさんかけるだろうという話でした、加筆修正も考えながら先ずはゴールに向かって描ければなと。
今回は前書きでほとんど今言いたいことというか、思ってることは書いたかなと。書きながら考えながら頭に出てきたこと前から思っていたことを都度都度に書いているので。
今回はこの辺りで、短い夏休みが終わったので続きはマチマチになるかもしれないし仕事の合間にとかするかもですね