アイシャ・グレイラットの人生   作:愛者

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決意は強く、父の分まで

朝は、不思議なくらい同じタイミングで目が覚めた。

「おはよう。」

「おはようございます、お母さん。」

自然と笑みが零れる。

そんな何気ない朝の挨拶が、今はこんなにも愛おしく、誇らしかった。

「アイシャ。」

リーリャは優しく微笑んだ。

「旅立つ前に、髪を梳かせてください。」

「……はい。」

素直に頷き、鏡の前の椅子へ腰を下ろす。

背後から、櫛がゆっくりと髪を梳いていく。

引っかけないように。痛くないように。

一本一本を慈しむような、丁寧で静かな手つき。その指先から伝わってくるのは、紛れもない母の愛情だった。

(……愛されてる。)

こんなにも。こんなにも近くにずっとあったのに。

私は今まで、一体何を見ていたのだろう。

涙が零れそうになり、アイシャはそっと目を閉じた。

「……気持ちいい。」

その一言しか出てこなかった。

本当は違う。言いたいことは、胸が押し潰されるほど山のようにあった。

(私は……役割なんていらなかった。)

仕える者でも、優秀なメイドでもなく。ただ、家族でいたかった。

お父さんが生きていたら。私は学校へ通っていたのだろうか。もっと叱られたのだろうか。それとも、たくさん甘やかしてもらえたのだろうか。

もしあの日まで生きていたなら、昔のお兄ちゃんみたいに、アルスと無理やり引き離されていたのだろうか。

聞きたいことがたくさんある。知りたいこともたくさんある。

でも——もう、お父さんはいない。

「……お父さん。」

小さく呟く。

「ごめんなさい。お母さんを泣かせちゃいました。きっと怒りますよね。」

……でも。

(家族が……こんなにも大切だったんだって、ようやく気付きました。)

私はもう少しで、大切な人たちを深く傷つけて、自分の想いだけを押し通してしまうところだった。

(だから、見守っていてください。)

私が最後にどんな答えへ辿り着くのか。アルスへちゃんと『愛してる』と言えるのか、それとも、違う答えを見つけるのか。

……正直、怖いです。

でも、歩いてきます。

アルスとは、二人きりでのお別れをしなくてもいい。帰る場所は同じなのだから。

大事なのは別れ方じゃない。「また笑って会えること」なのかもしれない。そんな気がした。

ふと、櫛を持つ手が止まる。

アイシャは膝の上で深く息を吐くと、静かに振り返った。

「お母さん。」

リーリャが優しく首を傾げる。

「産んでくれて、ありがとう。」

「……。」

「愛してる。」

その瞬間、部屋の時が止まった。

櫛を持つ手が、かすかに震える。

リーリャは俯いたまま微動だにしなかった。ただ肩だけが、小さく、激しく震えている。

「……お、お母さん?」

慌てて立ち上がる。

「ご、ごめんなさい! 私、何か——」

「……大丈夫、です。」

嗚咽に混じった声だった。

全然、大丈夫には見えなかった。

こんなにも声を殺して泣く母の姿を、アイシャは生まれて初めて見た。

——産んでくれて、ありがとう。

——愛してる。

その二つの言葉だけで、リーリャの止まっていた時間が動き出し、そして崩れ去った。

(……私は。)

何度、自分を責めただろだろう。

アイシャを産んだことを。あの日の過ちを。パウロとの罪を。

アルスとの一件が起きてからは、「私のような血が混じったから」「私のような女の娘だから」……そんな浅ましい考えまで頭をよぎった。

母親でありながら、娘の存在そのものまで自分の罪と重ねてしまった。

(最低です……。)

アイシャは何も悪くないのに。それなのに、そんな恐怖を抱いてしまった自分がいた。

そのくせ、こうして甘えてくる娘を抱きしめている。

その矛盾を、心の奥でもう一人の自分が責め立てる。

『そんなことを思った貴女に、母親を名乗る資格がありますか』と。

苦しかった。胸が千切れるほど痛かった。

それでも——今、この子を抱きしめなければ、私は一生後悔する。

そんな自分に、娘は泣きそうな笑顔で告げてくれたのだ。

「産んでくれてありがとう」「愛してる」と。

救われた。

許されたわけではない。罪が消えたわけでもない。

それでもその言葉は、壊れかけていた母親の心を、確かに繋ぎ止めてくれた。

「……アイシャ。」

涙で声にならない。

何度も、何度も、壊れ物を扱うように娘を強く抱きしめる。

「愛しています……愛しています……っ。」

嗚咽に途切れながらも、その言葉だけは何度も何度も伝え続けた。

旅立ちの日は泣かない。笑って送り出そう。そう決めていたはずだった。

けれど、こんな言葉をもらってしまっては、もう駄目だった。

母である前に、一人の弱い人間として、涙を止めることなどできなかった。

この三日間で、最後の最後に立場が入れ替わった。

最初は、私がお母さんの胸で泣いて、子供みたいに甘えて、撫でてもらって、抱きしめてもらっていた。

でも今は違う。お母さんが私を抱きしめて、声を上げて泣いている。

こんなにも感情を剥き出しにして泣くお母さんを見るのは、初めてだった。

その姿を見ていたら、アイシャの目からもボロボロと涙が溢れ出し、二人で引き寄せ合うように泣いた。

「……お母さん。」

言えてよかった。

「愛してる」と。

たぶん、子供の頃にも口にしたことはあったのだろう。

でも、今の私は違う。ちゃんとその言葉の持つ重みと、温かさを感じながら言えた。

この三日間、ずっと隣にいてくれたお母さんだからこそ——ようやく、心から伝えられたのだ。

少し遅すぎたのかもしれない。それでも、私にとってはかけがえのない一歩だった。

泣き止むまで、アイシャはお母さんの背中を優しく撫で続けた。髪を撫でてあげた。

今度は、私の番だと思ったから。

そして、ようやく気付く。

お父さんの分までお母さんを大切にするのは、娘である私なのだと。

守られるだけじゃない。どちらか一方が支えるだけでもない。

家族だから、お互いを支えて、守って、寄り添っていく。きっと、それでいい。

(だから……。)

心の中で静かに誓う。

——行ってきます、お母さん。

貴女の娘として。貴女が胸を張って誇れる娘のままで、帰ってきます。

もっと強くなります。

お兄ちゃんみたいには、なれなかった。きっとこれからも、なれはしない。

でも、それでいい。

私は、パウロ・グレイラットと、リーリャの娘なのだから。

そのことを、今は心から誇りに思える。

憧れは、憧れのままでいい。私は私として歩いていく。

だって——私は天才なのだから。

今度はその才能で、誰かの期待に応えるためじゃなく、私自身の人生をちゃんと歩けるようにならなくちゃ困る。

それがきっと、「アイシャ・グレイラット」としての本当の始まりなのだから。

リーリャは涙を拭おうともせず、震える声で愛おしそうに笑った。

「……生まれてきてくれて、ありがとう。アイシャ。」

語りかける。

「貴女がいたから、私は頑張れました。もし貴女がいなかったら……私は……。」

そこから先は言葉にならなかった。

込み上げる嗚咽に、何度も息を整える。それでも伝えなければならない。母として、今、この瞬間に。

「私の娘でいてくれて……ありがとう。アイシャが、私の娘でよかった。」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでもリーリャは笑った。

世界で一番美しい、母親の笑顔だった。

その笑顔を見た瞬間、アイシャの胸の深くに、一つの答えが静かに落ちた。

(……ごめんね。)

心の中で、小さく呟く。

(ごめん、アルス。)

一緒に逃げたいと思ったことも。家族を全部捨ててもいいと思ったことも。

あれは、本気だった。嘘じゃない。あの時の私は、本当にそう思っていた。

でも——もう、それは選べない。

もし、いつか二人で幸せになる未来があるとしても。

お母さんを泣かせて、家族を傷つけて、その犠牲の上に築く幸せだけは……私は認めたくない。認めちゃいけないのだ。

それだけは、はっきりと分かった。

「もう……無し、だね。」

誰に言うでもなく、小さく苦笑する。

アイシャはポケットからハンカチを取り出すと、リーリャの涙を優しく拭った。

「お母さん、すごい顔。」

「……アイシャもですよ。」

二人で顔を見合わせる。

目は真っ赤で、鼻も赤くて、とても人に見せられる顔ではなかった。

それでも、ふふっと笑ってしまった。その笑いは、どこまでも温かかった。

親の愛を、これ以上ないほど受け取った。そして初めて、自分から愛を返した。

だからこそ見えたものがある。言葉では表せない、確かにそこにある深い絆。

アルスと過ごした時間にも、愛はあった。激しく、まっすぐで、求め合うほどに情熱的な愛。

だからこそ苦しかったし、溺れてしまった。

けれど、今お母さんへ抱くこの想いは違う。

胸が締め付けられるような苦しさではなく、心がじんわりとほどけていくような安らぎだった。

どちらも愛なのかもしれない。違うものなのかもしれない。まだ分からない。

けれど一つだけ、確かなことがある。

(私は……また一つ、愛を知った。)

だから、前へ進むのはもう怖くない。

不安はあるし、怖いことだってこれからたくさんあるだろう。

でも立ち止まりそうになったら、今日という日を思い出せばいい。お母さんを、家族を、この温もりを。

それだけで、きっとまた歩き出せる。

ふたりはようやく涙を拭い終えた。

腫れた目のまま、少しだけ照れくさそうに笑い合う。

アイシャはしっかりと旅鞄を握りしめた。

深く、息を吸い込む。

そして母と肩を並べて、部屋を出た。

向かう先は——玄関。

家族みんなが待つ、始まりの場所へ。

 




失うとなって気づくものも失ったから気づくものもある、リーリャの頑張りも認めてやりたい報われてもっと幸せになってほしいという想いで作った回ですね。
そしてゼニスも神子になってしまった状態で終わらせたくないという願いもありますね。様々方法を試して成長みたいな扱いだから止めようがないみたいな結末だったけど
クリフがエリナリーゼの呪いを緩和したようにアイシャはルーデウスがいない世界線だと、異世界召喚に携わるとかありますのでリーリャの為に方法を探す、アプローチが違うだけでもっと身近に手立てはあるんじゃないかという視野が広まったアイシャがなんていいう展開もありかなとネタバレになるかなこれ。ただの案です、どうなるかはアイシャというキャラ次第



自分の勢いもありますがアイシャならこうしそうで進めたらいいなかな
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