旅立ちの朝。
玄関前には、既に家族の誰もが集まっていた。
まだ眠そうに目を擦っている子供たち。
ルーデウス、シルフィ、ロキシー、エリスの四人。
そして、どこか落ち着かない様子で佇むノルン。
そんな中、静けさを破って屋敷の門をくぐり、一人の青年が歩いてきた。
「ああ、おはようございます。」
ナーグだった。
子供たちは一斉に首を傾げる。「だれ?」と言いたげな表情を浮かべる中、一人だけ険しく、鋭い視線を向ける少年がいた。
アルスだった。
(この人だ……。アイシャを連れていく人。この人が来なければ、アイシャは——)
理由の分からない、胸を刺すような苛立ちがアルスを満たす。
ナーグはそんな刺さるような視線に気づいていないかのように、いつも通りの軽やかさで片手を上げた。
「おはようございます、ルーデウス殿。」
ルーデウスも一歩前へ出ると、少しだけ表情を引き締めた。
「おはようございます。……いよいよですね。どうか、僕の妹を……アイシャをよろしくお願いします。」
ナーグは苦笑した。
「『ナーグ』でいいですよ。さん付けなんて堅苦しい。大切な妹さん、責任を持ってお預かりします。」
その言葉に、シルフィ、ロキシー、エリスも静かに頭を下げる。
「アイシャさんをよろしくお願いします。」
「頼みましたよ。」
「任せたわよ。」
最後に、おずおずとノルンが前へ出た。
「あ、あの……! 初めまして……じゃないかもしれませんけど、兄さんの……妹のノルンです。あっ、違う、えっと……」
顔を真っ赤にしながら慌てて言い直す。
「アイシャの、お姉ちゃんです。」
その微笑ましい姿に、場にいた全員の唇から自然と笑みが零れた。
ノルンは必死に涙を堪えながら続けた。
「私達の妹を……どうか、よろしくお願いします。私達がもっとちゃんと見てあげられていたらって……ずっと後悔してるんです。だから……っ」
声が震える。ナーグは静かに、深く頷いた。
「ええ。しかと任されました。皆さんの大切なご家族ですから。」
そして、少しだけ柔らかく微笑む。
「ですが、後悔も愛も、あの子にはちゃんと伝わっていますよ。それだけあれば、もう大丈夫です。今日は妹さんの門出ですから……泣いた顔より、最高の笑顔で送り出してあげてください。その方が、貴女には似合います。」
「……はい。」
頬を朱に染めるノルン。その様子を見たルーデウスが、茶化すように肩を揺らした。
「ノルン、照れてらぁ。」
「に、兄さん……っ!」
ぽかぽかと、遠慮なくルーデウスの胸を叩く。
「痛い痛い!」
玄関先に小さな笑い声が広がった。
しばらくして、ルーデウスは軽く咳払いをした。
「……ごめんごめん、つい。……ナーグ……さん。」
呼び名に少し迷うルーデウスに、ナーグは吹き出した。
「じゃあ、俺もルーデウスで。『殿』って呼ぶの、実はずっと堅苦しくて嫌だったんだ。」
「いきなりタメ口かよ。」
ルーデウスも苦笑する。
「まあ、僕も嫌いじゃないですけど。……そうだ、アルスは卒業まで寮へ入れることにしました。一度は取りやめるかという話も出ましたが……決めました。」
ナーグは小さく頷いた。
「それが賢明だ。家っていうのは守る場所であり、帰る場所であり、安らげる場所だ。だが時には……人を縛る『檻』にもなる。アイシャがそうだったように、アルスにも同じ兆候があっても不思議じゃない。」
少し楽しそうに目を細めて続ける。
「『何とか』は惹かれ合う、って言うしな。」
「……?」
ルーデウスは一瞬だけ眉をひそめた。
(なんだ……今の言い回しは?)
どこか妙に引っかかる違和感。それを思考の奥で探ろうとした、その時だった。
廊下の奥から、聞き慣れた足音が響く。
リーリャとアイシャが並んで歩いてきた。
二人とも穏やかに笑っていた。けれど、その目は少しだけ赤く腫れていた。
ルーデウスは胸の奥の違和感を脇へ置いた。今は何より、家族を送り出すことが先だった。
◇
「おはようございます、皆様。」
「おはようございます。」
アイシャとリーリャが揃って頭を下げる。
リーリャが一歩前へ出た。
「娘のために、このような朝早くからお集まりいただき、本当にありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよいか……。」
シルフィが優しく微笑み返す。
「そんなの気にしなくていいんですよ。大切な家族を送り出す日なんですから。」
「ええ、当然です。」とロキシー。
「むしろ来ない方がおかしいでしょ。」とエリス。
その飾らない言葉に、アイシャは思わずふっと吹き出した。
「ふふ、ありがとうございます。」
そこへ、待ってましたとばかりにノルンが飛び込んできた。
「アイシャ!」
両手でぎゅっとアイシャの手を包み込む。
「寂しくなったら、いつでもお姉ちゃんの家に来ていいからね! お姉ちゃんの家だからね!」
「はいはい……」
アイシャは苦笑しながら頷く。
「わかったよ、お姉ちゃん。」
「ほんと!?」
「ほんとほんと。」
「約束だからね!」
「何回言うのさ。近い近い。」
ぐいぐい迫るノルンを、アイシャは肩で軽く押し返す。
「えへへ……。」
そんな二人を愛おしそうに見つめた後、リーリャは静かにナーグの前へ歩み寄った。
そして、深々と頭を下げる。
「どうか……娘をよろしくお願いいたします。あの子を見守ってあげてください。」
ナーグは困ったように頭を掻いた。
「まず、頭を上げてください。それに『様』なんてやめてください。そんな風に呼ばれるような立派な人間じゃないんです。」
リーリャが顔を上げる。ナーグは照れくさそうに笑った。
「俺は大したことをしていませんし、これからも特別何かをするつもりはありません。だから『様』なんて似合わないですよ。それに……娘さんを託す相手なんです。『娘に何かあったら承知しません』『泣かせたら許しません』……そのくらい言ってくれた方が、お母さんらしいです。」
リーリャが目を丸くする。
「俺は、アイシャさんの人生を代わりに生きることも、完全に守り切ることもできません。できるのは、横を一緒に歩くことくらいです。だから……娘さんが帰ってきた時、『行かせてよかった』と思っていただけるように努力します。」
リーリャはしばらく黙っていたが、やがて小さく、温かく笑った。
「……ありがとうございます。では……ナーグさん。娘を、よろしくお願いいたします。」
今度は頭を下げなかった。
母として、娘を信じるように。まっすぐにナーグの目を見てそう頼んだ。
「任されました、お母さん。」
その呼び方にリーリャは少しだけ驚いたように目を見張ったが、すぐに愛おしそうな表情を浮かべた。
ナーグはアイシャの方へ視線を向けた。
「たった三日。されど三日……あの三日で、アイシャさんは見違えるほど顔つきが変わりましたね。あの日の顔は……酷かった。何かに怯え、逃げ場を失って、まるで路地裏で震えている子どものような目をしていました。すべてのものを失うと本気で思っていた顔です。」
くすりと笑う。
「でも、今は違う。ほら。」
視線の先では、ノルンが相変わらずアイシャに抱きついている。
「お姉ちゃんの家だからね!」
「はいはい、お姉ちゃん。……何回言わせるのさ。」
笑いながら押し返すアイシャ。その表情は、あの日抱えていた暗い泥のような影が嘘のように晴れていた。
「ちゃんと、お別れができたんですね。いい旅支度ができたから、あんなふうに笑える。」
リーリャも娘を見つめる。胸の奥がじんわりと温かくなった。
(……大丈夫。)
自然とそう思えた。
ナーグの目に嘘はなかった。奥様やルーデウス様とどこか似ている、人を疑うより先に信じてしまうような優しさ。
悪く言えばお人好しだが、その温もりはきっと傷ついた誰かを救う。
(アイシャ……存分に、この方に甘えなさい。たくさん困らせて、たくさん笑って……母が少し焼きもちを焼いてしまうくらいに。)
それくらい幸せな旅なら、母としてこれ以上の喜びはないのだから。
◇
一人ひとりと言葉を交わし、子供たちとも別れの挨拶を済ませていく。
そして最後——アイシャはアルスの前で足を止めた。
アルスは肩を震わせ、どうしても目を合わせられない。
それでもアイシャは、優しく、慈しむように笑った。
「アルス。」
その声に、アルスはゆっくりと顔を上げた。
「……あなたの気持ち、すごく嬉しかった。幸せだったよ。」
アイシャは少しだけ目を細める。
「あれが全部嘘だったなんて、私は思わない。伝わるかは分からないけど……本当に、ありがとう。」
アルスは何も答えられなかった。喉が引きちぎられるように熱く、言葉にならない。
アイシャも、それ以上は言わなかった。
今のアルスに何を伝えても、きっと届かない。届いたとしても彼を苦しめてしまう。
だから、今はこれでいいのだ。
「……じゃあ、行ってきます。」
短いお別れ。
けれどそれこそが、今の二人にとって一番優しい答えなのだとアイシャは知っていた。
踵を返し、玄関先で待つナーグの隣へ歩いていく。
そして、愛する家族へと向き直った。
荷物を持ち直し、深く息を吸い込む。
「アイシャ・グレイラット……行ってきます。」
一歩、前へ。
ほんの少しだけ俯く。胸が張り裂けそうに痛む。
しばらくみんなに会えない。寂しい。怖い。本当は行きたくない気持ちだって、まだどこかにある。
それでも——アイシャはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もう迷いだけではない強い光が宿っていた。
「……しばらくのお別れは、正直辛いです。でも、行きます。」
それは自分自身へ向けた不退転の決意だった。
そして次の瞬間、ふっといつもの悪戯っぽい調子に戻る。
「私がいなくなると皆さん大変でしょうけど……今まで私に頼りすぎていた皆さんには、ちょうどいい薬ですね。少しは自分たちで頑張ってください。」
あの眩しい日々を思い出させる、生意気で愛くるしい笑み。
ルーデウスが思わず苦笑する。
「言うようになったねぇ。」
「誰の妹だと思ってるんです?」
すかさず返すアイシャ。その軽口に、張り詰めていた空気がふっと和らいだ。
満足そうに頷くと、アイシャは改めて前を向いた。
「……行きましょう、ナーグさん。」
少しだけ鼻にかかった声。泣くまいと必死に堪えているのが丸わかりだった。
ナーグはそんな横顔を見て、小さく笑った。
「ああ、行こうか。……格好つけるなら、最後まで通せたら良かったのにな。」
「意地悪です……っ。」
「少しだけな。」
二人は歩き出す。
後ろでは家族が手を振り、リーリャは最後まで娘の背中を見つめ続けていた。
ノルンは隠そうともせず、大粒の涙をポロポロとこぼしている。
「……つくづく姉妹だな。少し話しただけでも分かるくらい、よく似てる。」
「……。」
アイシャは返事をしなかった。声を出せば、溢れてしまいそうだったから。
やがて二人は門をくぐる。
魔法都市シャリーア。ルーデウスの家の門を越えた瞬間、朝の爽やかな風が二人の間を吹き抜けた。
まるで、新しい旅の始まりを祝うかのように。
その瞬間だった。
「っ……う……っ……!」
堪えていた堤防が、音を立てて決壊する。
アイシャは口元を両手で覆い、声を押し殺しながら泣き始めた。
ナーグは足を止め、静かに空を見上げた。
「……よく振り返らなかったな。それだけで十分だ。あの家は、アイシャ・グレイラットの人生そのものだ。あそこから踏み出すってのは、簡単なことじゃない。よく頑張ったよ。」
アイシャは首を激しく横に振る。
「……そんな、簡単に褒めないでください……っ。」
涙を拭いながら笑おうとしても、ぐしゃぐしゃになって笑えない。
「嬉しいです……でも……やったこともないことを、正解かも分からないことを褒められると……変な気持ちになります……苦しくて……っ。」
ボロボロと涙が止まらない。
「家を出ただけなのに……こんなに、お母さんやみんなと離れたって実感するなんて……旅なんて……私に、できるのかな……っ。」
不安がポロポロと溢れ出す。拭っても拭っても涙は止まらなかった。
ナーグは答えなかった。今は言葉を重ねる時ではないと分かっていたからだ。
代わりに、そっと後ろを振り返る。
まだ、遠くに屋敷が見える。
リーリャはとうとうその場に崩れ落ち、顔を覆っていた。遠くからでも泣いているのが分かった。
ノルンも両手で顔を押さえたまま泣いている。
「……さっきは姉妹だと思ったけど、やっぱり本当に親子で家族だな。」
ナーグが苦笑する。
シルフィは涙を指先でそっと拭い、ロキシーは帽子を深く被って顔を隠し、エリスは背を向けたまま一度も振り向かない。泣き顔を見せたくないのだろう。
そしてルーデウスだけは——泣いているのを隠しもせず、それでも目を逸らさず、最後まで妹の背中を見届けようと佇み続けていた。
誰一人として、先に家へ戻ろうとはしない。
それこそが、彼らの愛であり、見送りだった。
やがて——アイシャは何度も何度も深呼吸を繰り返した。
涙を拭い、もう一度だけ屋敷の方を視界に収める。
「……もう、大丈夫です。」
まだ少し鼻声だったけれど、その瞳はしっかりと前を向いていた。
ナーグは静かに頷く。
「……わかった。行こうか。」
今度は二人とも、一度も振り返らなかった。
ようやく旅立ちが始まりました、タイトルは旅立ちか巣立ちで迷いましたが巣立ちを取り入れました。
アルストの別れは過激にするか静かに終わらせるか悩んみましたね、最後の最後にアルスが泣き叫び駄々をこねるか。ルーデウスに寮生活を宣言されてかなり意気消沈してるから気力がないかなと思いしずかにしました。
あと10話くらいで濡れ場考えてます、ただ上手く思ったとおりになるかはわかりませんが。寂しさと欲、当たり前になっていたのがなくなったんだから年相応に渇いて乾くといった感じをイメージしてますね