しばらくの間、二人は無言で並んで歩いた。
泣き止んだとはいえ、時折アイシャが鼻をぐすっと啜る音だけが、朝の静けさに小さく響く。
街並みが少しずつ遠ざかり、見慣れた大通りの雑騒が背後へと退いていく。
ふと、アイシャが首を傾げた。
「……そういえば。」
「ん?」
「ナーグさん。」
「なんだい?」
「前はもっと……優しいというか、丁寧な話し方じゃありませんでした?」
ナーグは前を向いたまま、素っ気なく答える。
「そうか? こんなもんだろ。」
アイシャはじーっと彼の横顔を見つめた。
「嘘です。」
「何が。」
「『アイシャさん』とか、『ルーデウス殿』とか……すごく丁寧でどこか余計な距離感があったじゃないですか。今なんて急に『こんなもんだろ』ですよ?」
ナーグは可笑しそうに少しだけ口元を緩めた。
「気のせいだろ。」
「きっとな。」
「絶対、気のせいじゃないです!」
アイシャがむっと頬を膨らませる。
その子どもっぽい反応に、ナーグは肩を揺らして笑った。
「まあ、いいじゃないか。これからしばらく一緒に旅をするんだ。変に気を遣い合ってちゃ、お互い疲れるだけだろ?」
少し間を置いて、前を見つめたまま続ける。
「アイシャも敬語なんていらない。そんなものを気にする旅じゃないんだ。好きなように喋ればいい。……まあ、敬語の方がしっくりくるなら、そのままでも構わないが。」
アイシャは指を顎に当てて少し考え込んだ。
「……うーん。急に変えるのは、少し難しいですかね。」
「そういうもんか。」
「だって、今まで出会ってきた人みんなに敬語でしたから。……癖になっちゃってるんです。」
「なるほどね。」
ナーグは深く納得したように頷いた。
「じゃあ、そのうち自然に崩れたらでいいさ。無理に自分を作り替える必要はない。」
アイシャの唇から、小さな笑みがこぼれた。
「……はい。」
返事をしてから、自分でもくすりと笑う。
「あ。今の『はい』も敬語でした。」
「重症だな。」
「重症ですね。」
二人は顔を見合わせ、声を殺して笑い合った。
家族と別れて旅が始まってから初めての、肩の力がふっと抜けた柔らかな笑い声だった。
◇
アイシャは少し歩いてから、ふと思い出したように口を開いた。
「あの……。」
「ん?」
「最後に、一つだけ寄りたい場所があるんです。……ルード傭兵団に。皆さんにも、ちゃんとお別れを言っておきたくて。」
ナーグは即座に頷いた。
「構わないさ。俺に許可なんて取る必要はない。どこまでも付いていくのが、今の俺の立ち位置だからな。」
そして、ゆっくりとアイシャを見やる。
「これは『アイシャの旅』だ。行きたい場所があるなら行けばいい。行きたい場所がないなら『こんな所はどうだ』くらいの提案はしてやる。でも、行きたいところが決まっているんなら——行くしかないだろ?」
アイシャはその言葉に、胸のつかえが降りたようにほっと息を吐き出した。
「……ありがとうございます。」
「それと。」
ナーグは歩調を緩めず、横目でアイシャを見た。
「これからは『どこへ行ってもいい』し、『何を選んでもいい』。……その代わり、選ぶのは全部アイシャだ。俺じゃない。」
アイシャは一度立ち止まり、深く、静かに頷いた。
「……はい。」
その素直な返事に、ナーグは苦笑いを浮かべる。
「まったく。敬語をやめるのは、相当先になりそうだな。」
「あ……また『はい』って言っちゃった。」
「ははっ。」
二人は笑い合いながら、ルード傭兵団の事務所へと足を向けた。
◇
魔法都市シャリーアの賑やかな通りを抜け、見慣れた石造りの建物が見えてくる。
『ルード傭兵団事務所』。
「ここです。」
アイシャが立ち止まる。
「少しだけ。」
ナーグは重厚な建物を見上げ、小さく頷いた。
「ああ。最後の挨拶なんだろ? 俺は外で待っててもいいぞ。」
アイシャは首を横に振った。
「ううん、一緒に来てください。皆さんに紹介もしたいですし。」
「了解。」
ギィと重い音を立てて扉を開ける。
カランカラン、と澄んだ鈴の音が響いた。
中で書類仕事に追われていた男たちが一斉に顔を上げる。
「あ……アイシャさん!」
その一言で、奥の部屋からもガタガタと椅子を引く音を立てて次々と団員たちが顔を出した。
「アイシャさん!」
「今日はお休みじゃなかったでしたっけ?」
あちこちから口々に笑い声が飛ぶ。
アイシャの唇にも、いつもの自然な笑みが浮かんだ。
「今日は皆さんにご挨拶に来たんです。」
「挨拶……?」
団員たちが顔を見合わせる。
「少し、旅に出ます。」
その一言に、事務所内の空気が一瞬で静まり返った。
「旅……?」
「ええ。少し自分を見つめ直す時間が欲しくて。いつ帰ってくるかは……まだ決めていません。」
少しだけ意味深に目を細め、悪戯っぽく笑う。
「ですが……ちゃんと帰ってきますから。」
その言葉を聞いた瞬間、張っていた空気がフッと和らいだ。
「なんだよー! びっくりさせるなよな!」
「帰ってくるなら安心しましたよ!」
「そうですよ、顧問がいなくなったら仕事が完全に止まっちゃいますから!」
「止まりません。」
アイシャは即座に容赦なく打ち返した。
「私がいないくらいで止まるようなら、それは皆さんの努力不足です。」
「厳しいーっ!」
「アイシャさんが帰ってくる前に潰れちゃいますよ!」
「潰れないように知恵を絞るのも、傭兵の仕事でしょう?」
いつもの軽快な掛け合い。いつもの聡明なアイシャ。
団員たちは顔を見合わせて、豪快に爆笑した。
「ハハハッ! やっぱりアイシャさんだ!」
その温かな笑い声を聞きながら、入口の壁に背をもたせかけていたナーグは、静かにその光景を見つめていた。
(……愛されてるじゃないか、全く。)
グレイラットの屋敷だけではない。
この賑やかで粗野で温かい場所もまた、アイシャ・グレイラットが自分の力で築き上げた確固たる居場所だった。
団員たちの質問は尽きなかった。
「どこまで行くんですか?」
「いつ頃帰ってきそうです?」
「お土産、期待してますからね! 俺は美味い酒で!」
「おい、お前はまだ真っ昼間だろ!」
賑やかな笑いが広がる中、アイシャは一人ひとりの顔を見て丁寧に言葉を交わしていた。
そんな様子を見守っていたナーグが、ゆっくりと輪の中へ足を踏み出す。
「悪いな、みんな。」
静かだが、通る声だった。
「別れ話があるのは分かる。だが……急ぐ旅じゃないとはいえ、ここに留まり続けるための旅でもないんだ。」
団員たちの視線が一斉にナーグへと注がれる。
「また帰ってくるんだ。 だったら今日は『行ってらっしゃい』と背中を押して送り出してやる方が、男として格好いいんじゃないか?」
一瞬の静寂。
「……誰だ、あんた?」
誰かが素直な疑問を口にした。ナーグは苦笑する。
「まあ、そうなるよな。」
すると、アイシャが一歩前へ踏み出した。
「紹介します。今回、一緒に旅をしてくださる方です。……ナーグさん。私が旅に出ようと思えた……一番のきっかけをくれた人です。」
ナーグは軽く頭を下げた。
「ナーグだ。よろしくな。」
団員たちは互いに顔を見合わせ、怪しむように、けれど好奇心に満ちた目を向けた。
「へぇ……アイシャさんが自分から他人を紹介するなんて珍しいな。」
「しかも『一緒に旅』だあ? そりゃ気になるねぇ。」
アイシャは頬を少し染め、慌てて手を振った。
「皆さんが考えているような怪しい関係じゃありません! そういうニヤニヤした顔をやめてください!」
「してないしてない!」
「いや、絶対してるわ!」
事務所に再びどっと笑いが巻き起こる。
ナーグはその賑やかさを眺めながら、頭を掻いて可笑しそうに笑った。
(贅沢な奴だな……これほど愛されていることに気づけないとは。見えないってのは悲しいものだが……そういう風に生きてきたんだから仕方ないか。)
「まあ、今後あの子がどうなるかはアイシャ自身次第だ。そういうのを含めて『自分を探す旅』だからな。俺は横から適当に口を出すかもしれんが、決めるのは本人だ。それ以上でも、それ以下でもないよ。」
その言葉に、団員たちは一瞬ぽかんと口を開けた。
そして——。
「ぶはっ!」
誰かが耐えきれずに吹き出した。
「いいじゃねえか、この兄ちゃん!」
「はっきり言ってくれるぜ!」
「気に入った!」
バシンッ! と豪快な音を立てて、大柄な傭兵がナーグの背中を叩いた。
「ぐっ……!? 痛えな……っ!」
「歓迎の印だ、歓迎の!」
「もう少し手加減しろってんだ!」
「傭兵にそんな細かい加減があるかよ!」
また別の団員がバシバシと肩を叩く。
「おい、だから痛いと言ってるだろ!」
「ハハハハッ!」
事務所全体が揺れるほどの笑いに包まれた。
ナーグも苦笑しながら肩をぐるぐると回す。
「これがルード傭兵団の歓迎か……思ったより手荒だな。」
「まだまだこんなもんじゃねえぞ!」
「マジかよ……。」
その光景を見ていたアイシャも、思わず吹き出した。
「ふふっ……ナーグさん、もう完全に馴染んでますね。」
「馴染みたくて馴染んでるわけじゃないんだがな。……まあ、悪くはないが。」
そう言って照れくさそうに笑うナーグに、団員たちは「兄ちゃん!」と親しげに肩を組みにいく。
アイシャはその光景を静かに見つめながら、心の中で小さく呟いた。
(……やっぱり、人に好かれる人なんだな。)
自分から誰かの輪に強引に入ろうとするわけでもない。
それなのに、彼がただそこにいるだけで、自然と人が集まってくる。言葉に偽りがないからだ。
その時、団員の一人がふっと笑みを消した。
「兄ちゃん。」
鋭い傭兵の目が、ナーグをまっすぐに射抜く。
「アイシャさんを任せるのは構わねえ。……だが、もしアイシャさんに何かあったら……ただじゃおかねえぞ。」
周囲の団員たちも無言で頷く。冗談ではない。仲間を、身内を守る者の本気の目だった。
ナーグはその視線を逃げずに受け止めると、軽やかに肩を竦めた。
「そんな怖い顔をされても困るな。見ての通り、俺はどこにでもいる一般人だ。」
自嘲気味な笑みを浮かべ、ちらりと天井を見上げる。
「だから……そうならないように、危険を避けて歩くさ。……俺の命じゃ、一回しか守れないからな。」
あまりにも当たり前のように、静かに口にされた一言。
団員たちは一瞬言葉を失い、やがてニッと口元を歪めた。
「ハッ、言うじゃねえか。」
「一般人の割には肝が据わってるぜ。」
「腹が据わってる奴じゃねえと、アイシャさんの旅の連れなんて務まらねえからな!」
再び豪快な笑い声が響き渡る。
しかし——アイシャだけは、笑えなかった。
(……一回しか、守れない?)
その言葉だけが、まるで棘のように胸の奥に深く突き刺さった。
大切な人のために命を懸ける覚悟——そう捉えることもできる。
けれど、何か決定的に違う。
まるで……自分の命を、最初から「使い捨ての道具」のように見なしているような。そんな奇妙で冷たい響きが、彼の声の奥に混ざっていた気がしたのだ。
(……気のせい、かな。)
当のナーグは、既に団員たちと楽しそうに笑い合っている。
アイシャは深く追求することもできず、胸の中に生まれた小さな違和感の芽を抱えたまま、その場所を後にした。
「じゃあ、行ってきます!」
「 気をつけてください!」
「帰ってきたら土産話、山ほど聞かせとくださないねーー!」
たくさんの笑顔と手に送られ、アイシャとナーグはルード傭兵団を後にした。
◇
二人は再び、静かな石畳の道を歩き始めた。
しばらく無言の時間が流れたが、不意にナーグが口を開いた。
「思ったより、相当慕われてたな。」
アイシャは少し恥ずかしそうに苦笑した。
「……ええ。私も驚きました。仕事が回らないから『行かないでほしい』と引き留められるとは思っていましたけど……あんなに気持ちよく、笑顔で送り出してもらえるなんて思ってもいませんでした。」
胸の奥が、温かい温もりに満たされていく。
みんな、寂しさを抱えながらも笑って送り出してくれた。そんな愛され方があるなんて、これまでの自分は知らなかったのだ。
(人との繋がりって……本当は、こんなにも温かいものだったのかな。)
ふと隣を歩くナーグを見る。
ナーグもまた、まっすぐ前を見つめていた。
あの目。
出会った当初は、自分のすべてを見透かされているようで怖くてたまらなかった。
けれど今は違う。
どこか大地を思わせる、静かで深い琥珀色の瞳。
飾らず、威張らず、ただそこに「ある」目。
(この人は……ずっと見ていてくれていたんだ。)
グレイラット家の都合の良いメイドでもなく、完璧な天才少女でもなく。
ただの「アイシャ」という一人の人間を。
そんなことを考えていると、
「どうした?」
柔らかな声が降ってきた。
「……っ!」
アイシャはハッと我に返る。
「あ、いえ……何でもありません!」
慌てて視線を逸らし、誤魔化すように足早に歩き出そうとする。
……が。
二、三歩進んだところで、ピタリと足が止まった。
「あれ……?」
困り果てたような顔で振り向くアイシャ。
「どうした?」
「……。」
アイシャは情けなさそうに苦笑した。
「……行く場所が、ありません。」
「え?」
「今までなら……仕事があって、役割があって……次にどこへ行くなんて考える必要すらありませんでしたから。」
恥ずかしそうに頬を指で掻く。
「旅に出るとは決めたものの……『どこへ行きたいか』と聞かれると、やっぱり何も浮かんできなくて。本当に困ってしまいました。」
ナーグは少しだけ目を細め、静かに笑った。
「それでいいんだよ。」
「え?」
「自由なんだからさ。あてもなくただ歩いた先が、もしかしたら『行き着きたかった場所』になるかもしれないだろ?」
アイシャはキョトンと目を丸くした。
「だから今日は、歩きながら決めればいい。行きたい場所じゃなくてもいいんだ。気になる風景でも、美味しそうな匂いでも、面白そうな店でもいい。……あるいは、ふと『足が止まった場所』こそが、今のアイシャが行きたかった場所なのかもしれない。」
ナーグは立ち止まり、空を仰いだ。
「立ち止まるのは悪いことじゃない。止めたいと思ったから止まったんだ。そこには何か理由や意味があるのかもしれない……そう考えるのもありさ。要は、捉え方次第なんだよ。」
アイシャはその言葉を、胸の中でじっくりと噛み締め直した。
(足が止まった場所……。)
そんな他愛もない理由で、進む方向を決めてもいいのだろうか。
そんなあやふやな動機で、今日という一日を紡いでもいいのだろうか。
その「分からなさ」すら、どこか眩しく、愛おしかった。
「……自由すぎて、逆に困ってしまいますね。」
ナーグは困り顔のアイシャを見て、クスクスと笑った。
「人生を少し楽に、豊かに生きるコツはな……『適当さ』と『雑さ』だ。」
「……雑さ、ですか?」
「ああ。アイシャ・グレイラットは真面目すぎ。それは美徳だが、時には自分を追い詰めるナイフになる。その辺は、この三日間で少し身に染みただろ?」
肩を竦めて見せる。
「だからもう、俺が細かく言わなくても分かるはずだ。……さて。」
ナーグはお腹に手を当てた。
「朝も早かったし、腹が減ったな。香ばしい焼きたてのパンでも食いに行こう。美味い飯でも食いながら、これからのことを考えようじゃないか。『腹が減ってはなんとやらだ』」
アイシャは思わず呆れたように笑ってしまった。
「……ナーグさんって、本当によく言えばおおらか、悪く言えばいい加減ですよね。」
「いい加減じゃない。『適当』だ。」
「似たようなものじゃないですか。」
「全然違う。適度に行当たる、それが適当だ。」
大真面目な顔で言い返され、アイシャはとうとう耐えきれずに吹き出した。
「ふふっ……あはは!」
(本当に……変な人。)
少しだけ呆れる。けれど、不思議と嫌な気は全くしない。
むしろ、そんな彼の気負わない生き方が、少しだけ羨ましかった。
これから始まる旅は、きっとこの人の「適当さ」に振り回されることも多いのだろう。
けれど——それがどこか楽しみで仕方がない自分もいた。
今までの自分の周りには、こんな人は一人もいなかったのだから。
みんな真面目で、優しくて、不器用で、責任感が強すぎて——自分も含めて。
「……でしたら。」
アイシャはくるりと前を向いた。
「この先の通りを曲がったところにあるパン屋さんがおすすめです。」
「ほう、そうなのか?」
「はい。私の情報網を舐めないでくださいね。」
「それは頼もしいな。」
ふふ、と誇らしげに胸を張る。
アイシャの足取りは、いつの間にか驚くほど軽くなっていた。
後ろから、ナーグがのんびりとついてくる。
「……ナーグさん!」
「ん?」
「遅いです!」
「そんなに急ぐ旅でもないだろ。」
「さっきご自分で『留まる旅でもない』って言ったじゃないですか!」
「歩く速度まで急げとは言ってないぞ。」
「もう……っ。」
呆れながらも笑い、アイシャはあえて半歩前を歩く。
(この人と食べるご飯は、どんな味がするんだろう。)
(どんな表情をして、パンをかじるんだろう。)
そんな、当たり前でささやかなことが気になった。
誰かの日常を知りたい。誰かのことを、もっと見てみたい。
そんな純粋な好奇心が胸に芽生えたのは、生まれて初めてのことだった。
(これが……『人を知りたい』って気持ちなのかな。)
もしも家族にも、これまで出会ってきた人たちにも、こんな風に関わることができていたなら。
自分の世界は、もっと違った景色に見えていたのだろうか。
そんな思いを巡らせながら、相変わらずマイペースに歩くナーグを振り返った。
「ほら、早くしてください! パンが冷めちゃいますよ!」
「冷めたらまた、焼き立てを買えばいいさ。」
「そういう問題じゃありません!」
アイシャの少し弾んだ高い声が、朝のシャリーアの街並みに心地よく響き渡った。
◇
通りを一本曲がると、風に乗って香ばしいパンの香りが流れてきた。
小麦の甘い匂い、カリッと焼けた皮の香ばしさ。朝の街を包み込むような温かな匂いに、アイシャの足は自然と速くなる。
「……っ。」
小さくお腹が鳴りそうになるのを誤魔化すように、コホンと咳払いをした。
「ほら、ナーグさん、早くです!」
振り返ると、当の本人はどこまでもマイペースだ。
「はいはい。」
口先だけの軽い返事。けれど、少しだけ歩幅を広げ、小走りでアイシャの隣へと並んだ。
その様子を見て、アイシャはふふっと口元を緩める。
「ナーグさんが言ったんですよ? 私の自由だって。」
「確かに言ったな。」
「なら、ナーグさんを急かすのも私の自由です。思いのまま、ってやつです。」
得意げに胸を張ると、ナーグは思わず吹き出した。
「なるほど、悪知恵がはたらく頭の回転が早い子だこと。」
「失礼ですね!」
「褒めてるんだよ。」
「褒めてません!」
「半分くらいはな。」
「半分じゃダメです!」
テンポよく言い返すアイシャに、ナーグは肩を揺らして笑った。
「やれやれ、おだて上手な人当たりのいいお嬢さんだと思ったんだがなぁ。」
「元々です!」
「そうか、なら仕方ないな。」
「もう……。」
アイシャは呆れたように笑いながら、じっとナーグを見上げた。
そして、悪戯っぽく目を細める。
「ナーグさんだって、一言多いですよ。……あの家族の前で見せていた、優しそうなナーグさんはどこへ行っちゃったんですか? 返してくださいよ。」
その言葉に、ナーグは少し考えるような素振りを見せてから言った。
「いるだろ、今も。」
「え?」
「ただ優しいだけの男なんて、旅の連れとしては退屈だろ? 少しくらい茶化す奴がいた方が面白い。」
「自分で言いますか、それを?」
「言うさ。こう言い切った方が面白いからな。」
即答だった。
アイシャはとうとう堪えきれず、大きな笑い声を上げた。
「ふふっ……あはは! やっぱり変な人!」
「今さら気づいたのか?」
「ええ、今さらです!」
笑い合いながら、二人はパン屋の扉へと向かって歩いていく。
その笑顔は、今朝屋敷を出た時に流していた涙とは、全く違う輝きを放っていた。
ナーグは多くを教えようとはしない。
「こう生きろ」と答えを押し付けることもしない。
ただ、ありのままのアイシャと話し、笑い、同じ歩幅で歩いているだけだ。
いつの日か。
「グレイラット家のアイシャ」でもなく、「優秀なメイド」でもなく。
ただの一人の人間として、心から笑える日が来ることを、当たり前の未来として信じながら。
アイシャはしたたかですから傭兵団に勤めていたのはルーデウスの役に立てるが割合大きいように感じていたかな。能力故に仕事ができて人を使いまとめることも指示もできる、ルーデウスが異常なだけで、アイシャほどの人間は普通の人からしたら憧れられる対象だしそれに加えて愛想も上手い。生きてるだけで人をたらす才能はパウロ譲りでしょうかね、内面はリーリャと同じ自分の考えと想いが先行しがちではありますが。パウロもクズなだけならリーリャもギレーヌともやれないし、まぁ半ば無理矢理感はあったけども。
旅を出る前にはご飯を食べるのは無難な流れではありますが、やってみたかった流れではありますね。