原作のアイシャ・グレイラットの結末を否定したいわけではありません。
むしろ、あの結末には確かに一つの安らぎがあったのだと思っています。
ですが私には、それは「終着点」ではなく、「ようやく立ち止まることのできた場所」、つまり暫定的な安らぎのようにも感じられました。
環境は変わった。役割も少しずつ変わった。
けれど、アイシャ自身が「アイシャ・グレイラット」として、自分で人生を選び、自分の感情と向き合い、答えを見つけられたのか。
そこには、まだ描ける物語があるのではないか。
それが、この作品を書こうと思った理由です。
器用さには父パウロから受け継いだ資質を、そして感情を胸の奥に押し込み、誰かのために生きようとする不器用さには母リーリャの面影。
良くも悪くも性質を濃く受け継いだからとも見えます、作中リーリャが自分を淫魔と蔑み産まなきゃとさえ何度も思ったと書かれていました、小さい頃から身を捧げさせてきたアイシャとって残酷すぎる言葉だなとリーリャにとっても残酷ですが
ただ、血だけで決まるものではありません。
育った環境も、背負った役割も、彼女を形作った大切な要素だったのでしょう。
だからこそ、この物語では「血」や「役割」に縛られるのではなく、それらを受け入れた上で、自分自身の人生を選び直すアイシャを描いてみたいと思います。
『もしアイシャにも、自分だけの成長の時間が与えられていたなら。』がメインです
落とし所はもう考えていますが、蛇足編なので人生を蛇足するのが彼女にとっての清涼剤になるのではという考えもなくもないです
「一度自由にしてあげましょう。」
ナーグの言葉が静まり返った部屋に落ちる。
その瞬間だった。
「ふざけんじゃないわよッ!!」
部屋全体が震えるほどの怒声。
誰よりも早く立ち上がったのはエリスだった。
腰の剣に手こそ掛けない。だが、今にも殴り掛からんばかりの威圧感を纏い、ナーグへ歩み寄る。
「さっきから黙って聞いてれば、好き勝手言ってくれるじゃない! いきなり入ってきて、人の家のことに首突っ込んで……アンタ何様よ!」
ナーグは一切目を逸らさない。
「人形師です。」
「聞いてないわよ!」
エリスは一歩強く踏み込む。
「アイシャがどれだけ泣いたと思ってんの! アルスがどれだけこの子を振り回したと思ってんの! それを『時間を与えましょう』で済ませる気!?」
あまりの剣幕に、アルスがビクリと肩を震わせた。
「赤ママ……。」
「黙ってなさい!」
エリスは振り返りもせず怒鳴りつけた。
「アンタもよ! 好きだのなんだの言うくせに、さっきからアイシャに守られてばかりじゃない! この子がどれだけ一人で抱え込んでたと思ってんのよ!」
アルスは言葉を失った。反論などできるはずもなかった。
アイシャを庇おうとした。けれど結局、いつも前に立っていたのはアイシャだった。
逃げた時も、隠れていた時も、そして家族から責められている今この瞬間も。自分は何一つ彼女を守れていない。
(……っ。)
幼い拳を硬く握り締める。悔しい。悔しいのに、何も言えなかった。
ナーグが静かに口を開く。
「その通りです。」
エリスの眉がぴくりと動いた。
「アルス坊ちゃんはまだ子供です。だから守れなかった。それが動かしがたい事実でしょう。」
「なら!」
エリスが食い気味に捲し立てる。
「なんでアイシャを家から追い出す話になるのよ! 悪いのはアルスでしょうが! どうしてこの子が泣かなきゃならないの!」
ナーグは少しだけ視線を伏せた。
「追い出すのではありません。送り出すのです。」
「……違いが分からないわ。」
「違います。」
ナーグはリーリャを見、そしてルーデウスを見た。
「この家は彼女を守りました。ですが同時に……彼女を『アイシャ・グレイラット』という一人の人間ではなく、『有能な妹』『優秀なメイド』として完成させてしまった。だから彼女は、自分自身の人生というものを知りません。」
エリスは言葉を詰まらせた。
胸の内の怒りは消えていない。だが、その言葉の正論さだけは否定できなかった。
ルーデウスは深く俯き、リーリャは唇を噛み締める。
ナーグは一同を見回し、小さく息を吐いた。
「ですが、一つだけ問題があります。……このまま彼女をただ自由にしてしまえば、アイシャさんは必ずアルス坊っちゃんの元へ向かうでしょう。」
アイシャの肩が跳ねた。図星だった。
もし今、「好きに生きろ」と野に放たれれば、自分は迷わずアルスの元へ走る。それ以外の生き方を知らないのだから。
「それでは振り出しです。何の意味もありません。」
ナーグは淡々と続ける。
「だから一つだけ。『アルス坊っちゃんとは会わない』。その一点だけを絶対の条件とし、それ以外はすべて彼女の自由にしてください。」
「自由……。」
アイシャはその言葉を呆然と反芻する。
そんなもの、生まれてこのかた与えられたことがない。
何をすればいいのか。どこへ行けばいいのか。誰に会えばいいのか。
分からない。わからない。解らない。判らない。
いつもみたいに、「凄いね」「偉いね」「よくやったね」って言ってもらえる正しい答えを教えてほしい——。
「そんなの……っ。」
掠れた声が漏れる。
「私……何をすればいいの……。」
ナーグは頷いた。
「だから苦しいのです。やることもない。会いたい相手にも会えない。答えも出せない。突然、自由だけを与えられる……あなたにとっては残酷で酷な話でしょう。ですが——」
その眼差しは、どこまでも柔らかかった。
「今のあなたには、その苦しみが必要なのです。」
「……っ。」
アイシャは顔を覆った。否定できなかった。グレイラット家という肩書きと役割を剥ぎ取られた瞬間、自分には何も残らない。自分が何者なのかさえ分からないのだ。
ルーデウスは深く眉間を押さえた。
(自由……か。)
その言葉が、鋭く胸に突き刺さる。
妹を守ってきたつもりだった。だが違う。自分はただ、彼女に「役目」を与え続けていただけだったのではないか。
「お兄ちゃん……。」
アイシャが縋るような、不安げな瞳でこちらを見る。
その目を見つめ、ルーデウスは苦しそうに自嘲の笑みを浮かべた。
「俺は……今まで、お前なら大丈夫だと思ってた。だから何でも任せて、何でもできる最高の妹だって……。」
拳を握り締める。
「違ったな……俺がお前を、勝手にそう思い込んでいただけだった。」
パウロの時に学んだはずだった。相手を一人の人間として見ず、自分の理想や都合を押し付けることがどれほど愚かなのかを。それなのに、自分はまた同じ過ちを繰り返していた。我ながら嫌気がさす。
リーリャは溢れる涙を拭うことも忘れ、ぽつりと呟いた。
「自由……。」
その言葉は、彼女にとってもひどく遠く、眩しすぎるものだった。
ロキシーが静かに目を閉じる。
「……理には適っています。少々……いえ、かなり過激な荒療治ではありますが。アイシャさんは、『自分で選ぶ』という経験があまりにも少なすぎました。」
シルフィも悲しげに頷いた。
「怖いとは思う……。でも……このまま屋敷にいても、きっとお互いに辛いだけだから。」
エリスは腕を組んだまま、フンと鼻を鳴らした。
「気に食わないわね。」
誰も口を挟まない。
「でも。」
エリスは鋭い眼光でナーグを睨みつける。
「アンタの言うことは、一応筋が通ってる。だから余計に腹が立つのよ。」
ナーグは苦笑した。
「そうでしょうね。私も嫌われ役には慣れておりません。」
「なら、なんでそんな役を買って出るのよ。」
エリスの問いに、ナーグはアイシャを見つめた。
「彼女は、自分からは外へ踏み出せません。なら……最初の一歩くらいは、誰かが背中を押さねばならない。」
そして、再びルーデウスへ向き直る。
「ただ、口だけ出して放り出すつもりはありません。彼女がアルス坊っちゃんに会いに行かぬよう見届ける『監視役』が必要でしょう。……一拍置いて申し訳ありませんが、その役目は私が務めます。」
部屋の空気が一変した。ルーデウスが目を見開く。
「あなたが……?」
「ええ。」
ナーグは迷いなく頷く。
「人様の家庭事情に口を出した以上、相応の責任は負います。それが出来ぬなら、最初から何も申すべきではありません。」
エリスはじっとナーグを見つめた。やがて、小さく息を吐き捨てる。
「……そこまで言うなら、途中で放り出したらどうなるか、分かってるわよね?」
(その時は斬られて死ぬだろうな)と察しながら、ナーグは淡く笑った。
「心得ております。」
◇
自由——。
その一言が、ルーデウスの胸の奥深くへと沈んでいく。
何も分からない場所へ、たった一人で放り出される感覚。
その恐怖に、俺は誰よりも身覚えがあった。
前世。三十四年間、引きこもりとして家から出られなかった俺。
異世界に転生した直後は浮かれていた。剣と魔法の世界だ、やり直せる、そう思っていた。
だが、いざ生家の門を出ようとした時、足が竦んで動かなくなった。
怖かった。門の向こうに何があるのか分からない。人が怖い。世界が怖い。一歩が踏み出せなかった。
あの時——俺の背中を押してくれたのはロキシーだった。
「外へ出てみましょう。」
その一言と温もりが、俺の閉ざされた世界を劇的に広げてくれたのだ。
そして魔大陸。
目を開ければ見知らぬ大地、強大な魔物、言葉も文化も通じない世界。
怖くなかったと言えば嘘になる。それでも歩みを進められたのは、ルイジェルドさんがいてくれたからだ。エリスがいてくれたからだ。三人だったから、前へ進めた。
俺はいつだって、一人じゃなかった。
(…………。)
その時、ルーデウスは痛感する。
アイシャには、誰がいた?
有能だから。何でも器用にこなせるから。
そんな身勝手な理由で、俺は「あいつなら一人でも平気だ」と思い込んでいた。
何でもできたんじゃない。誰にも頼れなかっただけだ。
家を出ろと言われても、自由に生きろと言われても、あいつには何をすればいいのか分からない。
それはきっと、前世の俺が家の門の前で立ち尽くしていた姿と全く同じだ。
俺にはロキシーがいた。魔大陸ではルイジェルドさんとエリスがいた。ノルンには俺が手を差し伸べた。
なら——アイシャには、誰が手を差し伸べる?
家族ではダメなのだ。それは分かる。特に俺ではダメだ。
アイシャが言ったように、俺の「所有物」として宣言して繋ぎ止めれば解決は簡単だろう。だがそんなことをすれば、アイシャの心は永久に死んでしまう。そんな確信があった。
答えは、最初から決まっていた。
ルーデウスはゆっくりと顔を上げる。
「……ナーグさん。」
自分でも驚くほど、静かで穏やかな声だった。
「お願いします。アイシャの背中を……押してやってください。」
そして、苦い自嘲の笑みを浮かべる。
「俺は……兄失格みたいだから。」
アイシャが息を呑んだ。
ルーデウスは妹を見る。今まで頼りにしてきた「できる妹」ではなく、初めて迷い、泣き、助けを求めている「一人の妹」として見つめながら。
「でも……帰ってくる場所だけは、兄として絶対に守る。それくらいは、俺にやらせてくれ。」
ナーグは小さく息を吐き、アイシャへ向き直った。
「『自由になれ』と言われても困りますよね。今まで誰かのために生きることを叩き込まれてきた人間へ、明日から好きに生きろと言うのは酷な話です。」
アイシャは俯いたまま、小さく頷いた。
「だから、あなたが立ち止まった時は、その都度私が助言をしましょう。答えを教えることはできませんが、考えるきっかけを作るくらいはできます。」
ナーグは一歩近づき、静かな声で告げた。
「アイシャさん。」
少しだけ首を横に振る。
「……いえ。アイシャ・グレイラット。」
本名を呼ばれた瞬間、アイシャの肩が震えた。
「愛を知りたいのであれば、まずは多くの『愛している』を知ることです。恋人の愛、夫婦の愛、親子の愛、兄妹の愛、友の愛、師弟の愛……人は同じ言葉を使っても、その形は一つではありません。あなたは、そのどれもを深く知る前に、たった一つの答えを出そうとしてしまった。正確には……見ようとしなかったか、見る余裕がなかったのかもしれません。」
「……っ。」
「しかし、あなたは愚かな人ではありません。むしろ、とても聡い。ですが……ご自身の感情を抑圧し続けた結果、それがどんな感情なのか、何が正しく何が間違いなのか、基準すら見失ってしまった。だから今は、答えを探す旅をしてください。アルス坊ちゃんを忘れるためではありません。あなた自身を知るために。」
その言葉は、不思議なほどアイシャの胸の奥深くまで染み込んでいった。
(私は——いつから自分のことを考えなくなったんだろう。)
幼い頃は、お嫁さんになることに憧れていた。
結婚式で見た美しい花嫁姿に、本気で心を躍らせていた。そんな子供らしい夢を、素直に口にしていたはずだった。
けれど、それはいつしか消えた。自分で消したのだ。
ルーデウスを支えること。ノルンを支えること。グレイラット家に尽くすこと。
それが自分の存在意義なのだと、自分自身に言い聞かせてきた。
兄に身を捧げる。それでも構わないと思っていた。
……そう思っていたのに、兄は自分を選んではくれなかった。
赤ん坊だったアルスを抱き上げたあの日。小さな手が、まっすぐに自分へ伸びてきた。
あの瞬間だけは……初めて、自分が世界から選ばれたような気がしたのだ。
ノルンは、自分で選んだ人と結婚した。幸せそうに笑う姉の姿は、眩しくて、羨ましくて……そして痛感した。
(私は、ああはなれない。)
だから恋も、愛も、自分には必要ないと切り捨てたはずだった。
なのに——アルスは何度も「好きだ」と言ってくれた。何度も「結婚しよう」と言ってくれた。何度も、自分だけを真っ直ぐに見つめてくれた。
その甘い熱量と快楽。
その時間だけは、何も難しいことを考えなくてよかった。自分の空っぽさに悩まなくてもよかった。ただ、ぶつけられる想いだけに身を委ねていればよかったのだ。
温かかった。苦しかった。心地よかった。気持ちよかった。
その気持ちよさこそが幸せなのだと、自分に言い聞かせて信じ込もうとした。
だから、悪いことだと分かっていたのに。やめなければいけないと知っていたのに……考えることを、放棄してしまったのだ。
本当は知りたかった。ノルン姉みたいに幸せになりたかった。苦しいのはもう嫌だった。
そう思って伸ばした手は——。
書いていたら朝になってました、皆さんは蛇足編のアイシャの結末をどう感じましたか?言い方が悪いしリスペクトにかけた言い方をするならアルスの成長イベントみたいな感じた時もありました、実のところ