知りたい。その一心だった。
ノルン姉のように笑いたい。
誰かを羨むのではなく、誰かのためだけに生きるのでもなく。
(私も……自分で幸せになりたい。)
苦しいのは、もう嫌だ。
そう思った時だった。自然と手が伸びていた。
膝をついたまま。縋るように。
その手が求めた先は、目の前で泣きそうな顔をしているアルスではなかった。
ナーグの服の裾を、小さく握り締めていた。
「……知りたい。」
震える声が漏れる。
「私も……自分で答えを見つけられるようになりたいの……。」
その痛切な言葉に、部屋の誰も口を開くことができなかった。
ノルンへの対抗心ではない。誰かに勝ちたいわけでもない。
ただ、幼い頃から「できる子」であることだけを求められ、自分の気持ちを知らないまま大人になってしまった、一人の女の子の祈りだった。
——アイシャ・グレイラット。
そう呼ばれたのは、いつ以来だっただろう。
アイシャ。
皆が求めるアイシャ。
ルーデウスの優秀な妹。
グレイラット家の完璧なメイド。
幼いアルスを甘えさせ、受け入れるアイシャ。
それらには、完璧になれた。
でも——ありのままの「私」は、一体誰が受け入れてくれるのだろう。
そもそも、ありのままの「アイシャ」とは、どんな人間なのだろうか。
分からない。何も知らない。
私は「できること」しかできない。そう思い込んで生きてきた。
昔は、見下していた。
泣いて、笑って、失敗して、遠回りをする人たちを「要領が悪い」「効率が悪い」と、どこか冷ややかに冷めた目で見下していた。
(違った……違ったんだ……。)
あの人たちは、自分で自分の人生を選んでいたのだ。
だから泣けた。だから笑えたのだ。
私は選んでいるつもりで、何一つ自分の意志で選んだことなどなかった。
一度気付いてしまえば、もう昔の自分には戻れない。
羨ましかった。ただ、それだけだった。
普通に笑って、普通に泣いて、好きな人を好きになって……そんな当たり前の幸せを手に入れる人たちが、眩しくてたまらなかった。
(だから……ノルン姉ばかり、って……何度も思っちゃったんだ……。)
答えは、ずっと前から胸の奥に出ていたのに。
お母さんがいた。お母さんを支えなきゃ。役立てる子にならなきゃ。頑張らなきゃ。
その気持ちも本物だった。褒められたかった。必要とされたかった。
でも、それだけじゃなかった。
私は——誰かに甘えたかったのだ。
一人の娘として。一人の女の子として。ただ温かく抱き締めてほしかった。
お兄ちゃんは、私を選んでくれなかった。
……きっと、あの時ものすごく傷付いたのだ。
だから、何一つ裏を知らない幼いアルスが、真っ直ぐ自分だけを見て、何度も「好きだ」と言ってくれた時。その温もりに、喉の渇きを癒やすように溺れてしまった。
あの心地よい快楽も、温かい愛おしさも、嘘じゃない。本物だった。
けれど、考えれば考えるほど——。
「正しい」「間違っている」「好き」「愛」「悪徳」。
そんな型にはまった言葉ばかりが頭をぐるぐると駆け巡る。
分からない。何が本当の私なのか。
誰か——お願いだから。
私を叱って。私を見つめて。
『アイシャ・グレイラット』という人間を、ちゃんと見て……っ!
溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
その涙は、恋を失う悲しみではない。初めて自分自身という人間と向き合おうとした少女が流す、産声のような涙だった。
◇
ナーグは、泣き崩れるアイシャを静かに見つめた。
「……答えは、きっと見つかります。その涙を見れば、それだけで十分です。」
アイシャは返事ができなかった。
嗚咽を漏らすわけでもない。声を張り上げるわけでもない。ただ、大粒の涙だけが止めどなく溢れ落ちる。
頬を伝い、顎を伝い、床へ染みを作っていく。震える手で何度拭っても止まらない。
泣き止み方が、分からない。
どうすれば、この胸を刺すような痛みが収まるのかも分からない。
長い年月の中で、自分のために泣くという感情を、どこかへ置き忘れてしまったかのように。
その姿は、もう誰もが知る「完璧なメイド」ではなかった。「有能な妹」でも、「誰よりも頼れるアイシャ」でもない。
ただ一人。泣き方さえ忘れてしまっていた、等身大の一人の女の子だった。
静寂が部屋を支配する。
誰も声を掛けられない。誰一人として、この綺麗な涙を止める資格などないように思えた。
アルスは拳を血が滲むほど強く握り締めた。
(僕……何を見てたんだ……。)
好きだと言って、幸せにすると口にして、結婚したいと強情を張って……求めるだけ求め、与えられることに甘えていただけの日々。
彼女がどれほど擦り減り、苦しんでいたのかにも気付かないまま、ただ縋りついていただけだったのだ。
リーリャは唇を噛み締め、掠れた声で呟く。
「……私は。」
胸を掻きむしるような後悔。
「娘として、抱き締めてあげたことが……この子に、どれほどあったのでしょう……。」
主人に仕えること、役に立つこと。それこそが娘の幸せだと信じて疑わなかった己の傲慢さ。
ルーデウスもまた、力なく目を伏せた。
有能だから。アイシャなら大丈夫だから。
そうやって自分に言い訳を重ね、妹の素顔から目を背けてきた。妹の有能さに甘え、寄りかかり、「あいつなら乗り越えられる」と勝手に決めつけていたのは、自分の方だった。
ロキシーは静かに目を閉じ、シルフィは堪えきれずそっと涙を拭う。
エリスだけが、真っ直ぐにアイシャを見つめていた。
その瞳に怒りはもうない。胸を締め付けるような、痛切な悔しさだけが宿っていた。
誰も気付いていなかったのだ。
この子がこんなにも儚く、不器用で、助けを求めて泣いていたことに。
「……ようやく。」
ナーグが静かに口を開く。
「皆さんも、お気づきになられたようですね。」
その一言に、誰も反論などできなかった。
この場にいた全員が、全く同じ過ちを犯していたのだから。
『アイシャ・グレイラット』という一人の少女ではなく、『何でもできるアイシャ』という都合のいい役割だけを愛していたのだと。
彼女の涙は、決してアイシャ一人だけのものではない。
家族全員が、自分たちの過ちと深く向き合い始めた証でもあった。
◇
重苦しくも、どこか澄んだ静寂が部屋を包む。
ナーグは一同をゆっくりと見回した。
「……では、以上でよろしいでしょうか。皆様。そして、アイシャ・グレイラット。異論がある方は、今お話しください。これ以上、誰か一人だけが歪みを抱え込むような状況にはしたくありません。」
静寂の中、ルーデウスは家族を見渡した。
ロキシーが静かに頷く。
「……私からは、何もありません。」
シルフィも柔らかく、しかしどこか切なく笑う。
「うん。アイシャさんが自分で決めた道なら、私は応援したいな。」
エリスは腕を組んだまま、フンと鼻を鳴らした。
「……気に食わないわね。」
ピリッと緊張が走る。
「でも。アンタが責任を持って連れて行くって言うなら、今はそれ以上言わないわ。」
「ありがとうございます。」
ナーグは静かに頭を下げた。
リーリャは涙を拭い、小さく娘を見つめる。
「……ごめんなさい。そして……行ってらっしゃい。」
まだ旅立ちの日ではない。それでもその言葉は、母として初めて娘を一個の人間として送り出す、祝福の言葉だった。
アルスは何度も口を開きかけた。
何かを言わなければ。引き留めるのか、謝るのか、誓うのか。
だが、交わされた想いの重さを知るほどに言葉が出てこない。結局、小さく拳を握り締めることしかできなかった。
アイシャはそんなアルスを見つめ、小さく微笑んだ。
泣き腫らした目。それでも、どこか憑き物が落ちたような爽やかな笑顔だった。
「では、旅立ちは三日後といたしましょう。」
ナーグが静かに宣言する。
「皆様も、アイシャ・グレイラットも。その日までに心残りを済ませてください。別れの挨拶でも、旅支度でも、伝えたい想いでも……三日あれば、きっとできます。旅は、家を出る前から始まっているのですから。」
こうして、長かった家族会議は静かに幕を下ろした。
◇
それぞれが静かに部屋を後にする中、リーリャだけが立ち上がれずにいた。
扉の前で足を止めたアイシャと、二人きり。
「……アイシャ。」
その呼び方だけで、アイシャは振り向いた。
いつもの「お世話を」「主人のために」という義務の籠もった声ではない。ただ、娘を慈しむ母親の声だった。
「少しだけ……お話しできますか。」
アイシャは小さく頷き、椅子へ腰掛ける。
リーリャは正面ではなく、ゆっくりと娘のすぐ隣へ腰を下ろした。
「私は……あなたを、とても自慢に思っていました。何でもできて、誰よりも気が利いて、主人にも信頼されて……母親として、誇らしかった。」
アイシャは黙って耳を傾ける。
「ですが……その誇りは、母としての誇りではありませんでした。優秀な『使用人』を育て上げたことを誇っていたのです。……ごめんなさい。」
リーリャの肩が震える。
「私はあなたに……『泣いてもいい』『甘えてもいい』『失敗してもいい』……そう一度も言ってあげられませんでした。いつも誰かのため、グレイラット家のため……あなた自身のためではありませんでした。あなたを……私と同じ、縛られた道へ歩かせてしまった……。」
「違うよ、お母さん。」
アイシャが静かに言葉を挟む。
「私が選んだんだよ。お母さんを助けたかった。ルーデウスお兄ちゃんも、ノルン姉も、みんな大好きだったから……だから頑張れたの。」
「ええ……その気持ちは本物でしょう。」
リーリャは首を横に振る。
「ですが、それだけではなかったはずです。……あなたは、娘として、家族として、甘えたかった。そうでしょう?」
その一言に、アイシャの肩が大きく跳ねた。
否定できない。
「私も……。」
リーリャは涙を零しながら笑った。
「奥様を裏切ると分かっていて……それでも、自分の気持ちを止められませんでした。私は自分を淫らな女だと責め続けた。けれど今なら分かります。私はただ、弱かっただけなのだと。誰かに寄りかかりたかっただけなのだと。……あなたも同じです。弱かった。ただ、それだけなのです。」
アイシャは顔を覆った。
「お母さん……ごめんなさい……っ。」
「違います。」
リーリャは娘を強く抱き寄せた。生まれて初めて、一人の愛しい我が子として。
「謝るのは私です。……今日だけは、主人のメイドではなく、あなたのお母さんでいさせてください。」
その温もりの中で、アイシャは幼子のように声を上げて泣いた。
◇
部屋には、静かな寝息だけが響いていた。
泣き疲れたアイシャは、いつの間にかリーリャの腕の中で眠りについていた。
涙の跡が残るその顔はひどく幼く見え、先ほどまで自分を責め立てていた少女と同一人物とは思えないほどだった。
「……眠ってしまいましたか。」
リーリャは頬に掛かった髪をそっと耳へ掛ける。
「頑張りましたね……。」返事のない娘に、愛おしさを込めて呟いた。
リーリャはアイシャの身体に腕を回し、優しく抱き上げる。
幼い頃は軽かった身体も、今はすっかり大人めいた重みになっていた。だが、その重みこそが彼女の生きてきた年月なのだと感じられた。
廊下をゆっくりと歩く。誰の手も借りず、自分の手で部屋まで運ぶ。ようやく、母として抱きしめることができたのだから。
寝台へ静かに横たえようとした、その時だった。
「……おかあ、さん……。」
寝言とともに、アイシャの手がすっと伸び、リーリャの服の裾を強く掴んだ。離さないで、と乞うように。
「ええ、ここにいますよ。」
優しく声をかけると、アイシャは安心したように力を抜く。
リーリャは靴を脱ぎ、そっと娘の隣へ横たわった。
アイシャは眠ったまま、身を寄せてくる。
幼子のように胸元へ顔を埋める娘の頭を、リーリャはゆっくりと撫で続けた。
「あなたは……ずっと我慢していたのですね。母さんは、ようやく気付きました。……もう、大丈夫ですよ。これからは、あなたが『娘』でいられる時間を、私が作りますから。」
窓の外では、静かな夜風が木々を揺らしていた。
旅立ちまで、あと三日。
その夜だけは、メイドのリーリャではなく一人の母親として、愛しい娘を強く抱きしめたまま静かに目を閉じたのだった。
自分が感じた、アイシャ・グレイラットですね。作中は小悪魔的で打算的で器用だから何でもできてしまったから、役割を与えれてしまったからとかそんな色々なことが重なって出来上がった子なのかなと
無職転生はアニメから入り動画とか原作をあさり蛇足編に至りました、賛否あるようですが結末はアイシャというキャラにはありそうな末路だしきっかけがあれば結末は変わっていたなと感じるようなキャラだなと。
無職転生の中で1番、魅力と成長要素があるなと感じましたね
書きたいことはたくさんあります、それとAIとの協議は結構面白いですね。ただ結構こちらの考えてる文と考えてるものと違うものになりやすいので地頭が必要なんだなぁと