柔らかな温もりを感じる。
一定のリズムで髪を梳く指先。
優しく頭を撫でられる感触が心地よくて、まだ眠っていたいと思った。
「……アイシャ。」
穏やかな声が降ってくる。
聞き慣れたはずなのに、どこか懐かしい声。
「朝ですよ。」
ゆっくりと瞼を開く。
視界いっぱいに映ったのは、リーリャの優しい笑顔だった。
「あ……。」
昨夜の出来事が少しずつ蘇る。
泣いて。
泣き疲れて。
そのまま眠ってしまって。
そして今。
私は、お母さんの胸に頬を預けたまま寝ていた。
「…………。」
一瞬で顔が熱くなる。
「お、お母さん!」
慌てて身体を起こそうとする。
しかし、腕にそっと力が入る。
「もう少しだけ。」
「……え?」
「母親らしいことを、もう少しだけさせてください。」
その言葉に、身体から力が抜けた。
恥ずかしい。
二十四にもなって。
こんなふうに甘えているなんて。
顔から火が出そうだった。
なのに。
離れたくない。
もう少しだけ、この温もりの中にいたい。
そんな子どものような気持ちも確かにあった。
「ふふ。」
リーリャは照れ隠しも見透かしたように微笑み、また優しく髪を撫でる。
「あなたは昔から、こうして頭を撫でると安心した顔をして眠る子でした。」
「お、覚えてない……。」
「そうでしょうね。」
「母親のほうが、こういうことは覚えているものです。」
アイシャは小さく笑った。
昨日までなら笑えなかった。
胸の奥に積もっていた苦しさは、まだ消えてはいない。
アルスへの想いも。
これから始まる旅への不安も。
何一つ解決していない。
それでも。
心だけは、少し軽くなっていた。
昨日まで胸を締め付けていた息苦しさが、ほんの少しだけ和らいでいる。
「……ありがとう、お母さん。」
その一言に。
リーリャは何も答えなかった。
ただ、娘の頭をもう一度だけ、優しく撫でた。
その温もりを、アイシャは今度こそ素直に受け入れた。
リーリャの胸へ頬を預けたまま、アイシャはぽつりぽつりと言葉を零す。
リーリャは何も急かさない。
娘の髪を優しく撫でながら、小さく相槌を打つ。
「ええ。」
「そうですね。」
「聞いていますよ。」
それだけで十分だった。
「……お母さん。」
「アルスの気持ちね。」
「嘘じゃないと思うの。」
「私も、あの子も。」
「何も分からなかっただけで。」
リーリャは黙って頷く。
「お兄ちゃんに、どれだけ好意を向けても。」
「私は一度も選ばれなかった。」
「だからなのかな……。」
「初めて真っ直ぐ好きって言われて。」
「結婚したいって言われて。」
「何度も求められて。」
「嬉しかった。」
「苦しかった。」
「気付いたら、それを失うのが怖くなってた。」
リーリャの手は止まらない。
「何が正解なのか、分からないの。」
「こんなことになって、ごめんなさい。」
「本当は。」
「ずっと家族といたい。」
「ずっと、この家にいたい。」
「でも。」
「謝って終わる話じゃない。」
「皆にも納得してもらえない。」
「私も納得できない。」
静かな部屋に、小さな声だけが響く。
「だから。」
「外へ行ってきます。」
「自分で答えを見つけたい。」
「……本当は。」
「私は、あのままアルスを連れて逃げるつもりでした。」
リーリャの指先が少しだけ止まる。
「お兄ちゃんの顔が、本当に怖くて。」
「殺されるって思った。」
「そんな人じゃないのに。」
「そんなこと、一番分かってるはずなのに。」
「罰を受けるって。」
「この気持ちを否定されたら。」
「終わってしまうって。」
「だから逃げた。」
アイシャは目を閉じる。
「でも。」
「相手がお兄ちゃんだったから、余計だったんだと思う。」
「子どもの頃から。」
「私は、お兄ちゃんに認めてもらいたくて。」
「褒めてもらいたくて。」
「見てほしくて。」
「ずっと、追い掛けてきた。」
「だから。」
「もし、あの時。」
「私を見てくれていたら。」
「私という人間を選んでくれていたら。」
「きっと、私はあんなに苦しまなかった。」
涙が一筋だけ零れる。
「……お兄ちゃんが好きだった。」
「それは間違いない。」
「でも。」
「アイシャ・グレイラットとして好きだったのか。」
「妹だからだったのか。」
「メイドとして慕っていたのか。」
「もう、それすら分からない。」
「全部、私なのに。」
「どれが本当の私なのか分からない。」
「だから。」
「こんなにも苦しいのかな。」
しばらく沈黙が流れる。
やがてアイシャは、少しだけ困ったように笑った。
「それに。」
「男の人のことで厄介なことになるなんて。」
「私たち親子、本当に似ちゃいましたね。」
リーリャも、小さく笑う。
「……そうですね。」
「困ったところまで、似てしまいました。」
「でも。」
リーリャは娘の前髪を優しく払う。
「私は、もうあなたに同じ後悔だけはさせません。」
その言葉に、アイシャは何も返さなかった。
ただ安心したように、もう一度だけ母の胸へ頬を寄せた。
アイシャの言葉が途切れる。
部屋には、穏やかな沈黙だけが残った。
リーリャは娘の髪をもう一度だけ優しく撫でる。
「……少しは、楽になりましたか?」
「うん。」
アイシャは素直に頷いた。
「まだ分からないことばかりだけど。」
「昨日よりは、少しだけ。」
その言葉だけで十分だった。
リーリャは微笑み、ゆっくりと身体を起こす。
「では。」
「そろそろ起きましょうか。」
「皆さんも、お腹を空かせています。」
「ふふ。」
思わずアイシャも笑ってしまう。
「こんな日でも、お母さんはお母さんだね。」
「ええ。」
「皆さんが朝を迎えるのは変わりませんから。」
「でも今日は。」
リーリャは少しだけ照れたように笑う。
「あなたも一緒です。」
その一言に、アイシャの胸が温かくなる。
「うん。」
「一緒に作ろ。」
「ええ。」
二人は寝台から降りる。
身支度を整え、髪を結い直す。
鏡に映る自分の顔は泣き腫らしていた。
それでも、不思議と昨日ほど嫌ではなかった。
部屋を出る。
廊下を並んで歩く。
誰も前を歩かない。
誰も後ろを歩かない。
肩を並べる。
それだけだった。
厨房へ着くと、自然と二人で朝食の支度を始める。
野菜を刻む音。
鍋から立ち上る湯気。
焼ける香ばしい匂い。
どれも昨日までと同じはずなのに、今日は少し違って感じた。
「では、起こして参りましょうか。」
「うん。」
二人は厨房を後にする。
ルーデウスを起こし。
家族を起こし。
子どもたちを起こす。
それは毎朝繰り返してきた日課だった。
けれど今日は違う。
メイドではない。
母と娘が並んで家族の朝を迎えに行く。
ただ、それだけの朝だった。
それだけなのに。
アイシャは、その何気ない時間が、どうしようもなく愛おしかった。
朝食の支度を終えた二人は、家族を起こして回ることにした。
いつもと変わらない朝。
変わったのは、二人の心だけだった。
子どもたちの部屋を順番に回り、穏やかな声で起こしていく。
笑顔で返事をする者。
まだ眠そうに布団へ潜る者。
そんな何気ない光景に、アイシャは小さく笑みを浮かべる。
やがて、最後の部屋の前で足が止まった。
アルスの部屋だった。
「……。」
リーリャが一歩前へ出る。
「ここは私が。」
そう言いかけた時だった。
「お母さん。」
アイシャがそっと袖を掴む。
「私が行く。」
その一言に、リーリャは息を呑んだ。
胸の奥を、不安が過る。
昨日までの娘なら。
何をするか分からない。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎってしまう。
――何を考えているのですか、私は。
リーリャは目を伏せる。
昨夜、あれほど泣きながら胸の内を話してくれた娘に。
今なお疑いを向けるなど、母親失格ではないか。
「……お願いします。」
静かにそう答えると、アイシャは小さく微笑んだ。
「うん。」
扉を三度、軽く叩く。
「アルス。」
「朝だよ。」
返事がない。
「入るね。」
ゆっくり扉を開ける。
寝台ではアルスが目を擦りながら身体を起こしていた。
「……アイシャ。」
昨日のことを思い出したのだろう。
その表情はどこかぎこちない。
「おはよう。」
アイシャは、いつも通り笑った。
「朝ご飯できてるよ。」
その笑顔に、アルスは少しだけ安心したように笑みを浮かべる。
「アイシャ!」
勢いよく寝台から降り、そのまま抱きつこうと駆け寄る。
しかし。
アイシャは半歩だけ身体を引いた。
自然な動きだった。
まるで踊るように。
アルスの両腕は空を切る。
「え……?」
「おはようの抱擁は、また今度ね。」
そう言って笑う。
優しい笑顔だった。
けれど、その一歩は確かな距離だった。
「約束、したでしょ。」
「卒業するまで会わないって。」
「今は同じ家にいるから仕方ないけど。」
「それ以上は駄目。」
「私たちが決めた約束なんだから。」
アルスは唇を噛む。
寂しい。
触れたい。
甘えたい。
そんな気持ちが顔に出ていた。
それを見て、アイシャは一瞬だけ胸が痛んだ。
それでも。
この一歩だけは譲れない。
昨日の自分なら、きっと抱き締め返していただろう。
でも、今は違う。
これは誰かに命令されたからではない。
アイシャ・グレイラットが、自分で決めた最初の約束だった。
「だから。」
「ちゃんと朝ご飯食べて。」
「学校へ行く準備して。」
「それが今のアルスのお仕事。」
アルスは俯きながら、小さく頷く。
「……うん。」
「いい子。」
そう言って頭を撫でようとしたアイシャの手は、途中で止まる。
少し迷ってから、ぽん、と一度だけ軽く触れる。
それだけで終わりだった。
「行こっか。」
そう言って部屋を出ていくアイシャの背中を、アルスは黙って見送る。
扉の外では、その様子を見守っていたリーリャが静かに息を吐いた。
娘を信じてよかった。
そう思うと同時に。
娘の背中が、昨日より少しだけ大人びて見えた。
食卓には、いつもと変わらぬ料理が並んでいた。
焼き立てのパン。
温かなスープ。
香草を添えた肉料理。
どれも見慣れた朝食だった。
それなのに。
誰一人として席へ着こうとしない。
昨日まで当たり前だった朝が、あまりにも遠く感じられた。
ルーデウスは椅子へ腰掛けながら、無意識にアルスへ視線を向ける。
厳しい目だった。
父として。
兄として。
まだ飲み込めてはいない。
昨夜、「旅に出る」という結論を受け入れた。
だが、感情まで整理できたわけではなかった。
アルスもまた、その視線から逃げるように俯いている。
何を話せばいいのか。
何を話してはいけないのか。
それすら分からない。
重い沈黙だけが流れる。
そんな空気を破ったのは、意外にもアイシャだった。
「はいはい。」
「パン冷めちゃうよ?」
いつもと変わらない声。
明るく、軽やかな声だった。
「せっかく焼いたんだから、美味しいうちに食べて。」
そう言って笑いながらパン籠をテーブルへ置く。
昨日泣き崩れた女性とは思えないほど自然な笑顔だった。
その姿に、ルーデウスは思わず目を見開く。
(……アイシャ。)
無理をしているのか。
いや。
違う。
朝、自分が見た妹の顔は、確かに少しだけ軽くなっていた。
昨日のままなら、こんな笑顔は作れない。
ならば。
今、自分がすべきことは。
ルーデウスはゆっくり息を吐く。
「そうだな。」
「冷めたらもったいない。」
努めていつも通りの声で言う。
「いただきます。」
その一言で、止まっていた時間が少しだけ動き始めた。
エリスは腕を組んだままアルスを睨んでいた。
つい先ほどまでなら、本気で殴りかかっていてもおかしくなかった。
それほど怒っていた。
それでもアイシャの笑顔を見て、ゆっくりと眉尻を下げる。
「……ふんっ。」
「アイシャがそうしたいなら。」
「大人の私たちまで、いつまでも引きずってらんないわね。」
ぶっきらぼうな言い方だった。
だが、それはエリスなりの優しさだった。
ロキシーは静かに微笑み、シルフィもほっとしたように胸を撫で下ろす。
リーリャは料理を配りながら、その光景を静かに見つめていた。
娘は、大丈夫。
昨日とは違う。
そう確信できた。
まだ答えは見つかっていない。
それでも、自分の足で歩こうとしている。
ならば母として信じよう。
そう思えた。
アルスだけは、まだぎこちない。
何度もアイシャを見ては、目が合うたびに逸らしてしまう。
そのたびにアイシャは、小さく笑って頷くだけだった。
焦らなくていい、約束は始まったばかりなのだから。
「それじゃ。」
アイシャは両手を合わせる。
「いただきます!」
その声に続くように、皆も手を合わせた。
「「「いただきます。」」」
少しだけぎこちない。
それでもグレイラット家の朝は、確かにいつも通り始まった。
賑やかな声が食卓に響く。
子どもたちは笑い、楽しそうに朝食を頬張る。
それを見て、シルフィが微笑む。
ロキシーも穏やかにパンを口へ運び、エリスは子どもたちの騒がしさに呆れたように笑っている。
お兄ちゃんも。
さっきまでの険しい表情が嘘だったかのように、子どもたちへ優しい眼差しを向けていた。
昨日までと変わらない。
そんな当たり前の朝。
──私は。
本当に、この景色を捨てるつもりだったんだ。
アルスを連れて。
逃げるつもりだった。
それは嘘じゃない。
あの時は、本気だった。
お兄ちゃんの怒りが怖かった。
殺される、とまで思った。
そんな人じゃないと分かっているのに、それほど追い詰められていた。
なのに。
今、この光景を見ていると。
胸のどこかが、小さく痛んだ。
どうしてだろう。
アルスへの気持ちは、嘘じゃない。
それだけは胸を張って言える。
それなのに。
家族を見ていると、胸の奥がざわつく。
置いていくはずだった。
失う覚悟もしていたはずだった。
なのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
……分からない。
まただ。
また分からない。
昨日から、そんなことばかりだ。
考えれば考えるほど、自分の心が遠くなっていく。
「アイシャ?」
不意にルーデウスの声がした。
「ぼーっとしてるけど、大丈夫か?」
「あっ。」
慌てて我に返る。
「う、うん! 大丈夫!」
そう笑って返す。
その笑顔は、嘘ではない。
けれど、本当でもなかった。
自分の心が、自分で分からない。
そんな違和感だけが、静かに胸の奥へ積もっていった。
ヒトガミが全て悪いんだが、重婚してるくせに腹違いの妹はダメという謎観念さえなきゃ、アイシャは蛇足編みたいに拗れなかったと思うな。近しい人間の気持には間違えるか蔑ろにしがちなのは致し方ないのかもしれないが