柔らかな温もりを感じる。
一定のリズムで髪を梳く指先。
優しく頭を撫でられる感触が心地よくて、まだ眠っていたいと深く微睡みへ落ちそうになる。
「……アイシャ。」
穏やかな声が降ってきた。
聞き慣れたはずなのに、どこか昔のように懐かしい声。
「朝ですよ。」
ゆっくりと瞼を開く。
視界いっぱいに映ったのは、リーリャの優しい笑顔だった。
「あ……。」
昨夜の出来事が、少しずつ頭の中に蘇る。
泣いて。泣き疲れて。そのまま母の腕の中で眠ってしまって——。
そして今、私はお母さんの胸に頬を預けたまま朝を迎えていた。
「…………っ!」
一瞬で顔が熱くなる。
「お、お母さん!?」
慌てて身体を起こそうとした。しかし、背中に回された腕へそっと優しく力が込められる。
「もう少しだけ。」
「……え?」
「母親らしいことを、もう少しだけさせてください。」
その言葉に、すっと身体から力が抜けた。
恥ずかしい。もう二十四にもなって、こんなふうに子供みたいに甘えているなんて。顔から火が出そうだった。
なのに——離れたくない。もう少しだけ、この温もりの渦の中にいたい。
そんな、ずっと押し殺してきた幼い我儘も確かに存在していた。
「ふふ。」
リーリャは照れ隠しも見透かしたように微笑み、また優しく髪を撫でる。
「あなたは昔から、こうして頭を撫でると安心した顔をして眠る子でした。」
「お、覚えてないよ……。」
「そうでしょうね。母親のほうが、こういうことは覚えているものなのです。」
アイシャは小さく笑った。昨日までなら、絶対に浮かべられなかった笑みだった。
胸の奥に積もった苦しさは、まだ消えてはいない。アルスへの気持ちも、これから始まる終わりの見えない旅への不安も、何一つ解決してはいない。
それでも——心だけは、昨日よりずっと軽くなっていた。
胸を締め付けていた息苦しさが、ほんの少しだけ和らいでいる。
「……ありがとう、お母さん。」
その一言に、リーリャは何も答えなかった。
ただ、娘の頭をもう一度だけ優しく撫でた。その温もりを、アイシャは今度こそ素直に受け入れた。
◇
リーリャの胸へ頬を預けたまま、アイシャはぽつりぽつりと胸の内を零し始めた。
リーリャは何も急かさない。娘の髪を梳きながら、静かに相槌を打つ。
「ええ。」「そうですね。」「聞いていますよ。」
それだけで、十分だった。
「……お母さん。アルスの気持ちね、嘘じゃないと思うの。私も、あの子も……ただ、何も分からなかっただけで。」
リーリャは黙って頷く。
「お兄ちゃんに、どれだけ好意を向けても……私は一度も『アイシャ』として選ばれなかった。だからなのかな。初めて真っ直ぐ『好き』って言われて、結婚したいって言われて、何度も求められて……嬉しかった。苦しかった。気付いたら、それを失うのが怖くなってたの。」
撫でる手は止まらない。
「何が正解なのか、分からないの。こんなことになってごめんなさい。本当は……ずっと家族といたい。ずっと、この家にいたい。でも、謝って終わる話じゃないし、皆にも納得してもらえない。私も、自分に納得できないの。」
静かな部屋に、掠れた小さな声が染み込んでいく。
「だから……外へ行ってきます。自分で答えを見つけたい。……本当はね、私はあのままアルスを連れて逃げるつもりだったの。」
リーリャの指先が、ほんの少しだけ止まった。
「お兄ちゃんの顔が、本当に怖くて……殺されるって思った。そんな人じゃないのに。そんなこと、一番分かってるはずなのに。罪を犯して罰を受けるって……この気持ちを否定されたら、私が終わってしまうって思った。だから逃げたの。」
アイシャは静かに目を閉じる。
「でも、相手がお兄ちゃんだったから、余計だったんだと思う。子どもの頃から、私はお兄ちゃんに認めてもらいたくて、褒めてもらいたくて、見てほしくて……ずっと背中を追いかけてきた。だからもし、あの時お兄ちゃんが私を見てくれていたら……私という人間を選んでくれていたら、きっと私はあんなに苦しまなかった。」
大粒の涙が一筋だけ零れ落ちる。
「……お兄ちゃんが好きだった。それは間違いない。でも……『アイシャ・グレイラット』として好きだったのか、妹だからだったのか、メイドとして慕っていたのか……もう、それすら分からないの。全部私なのに、どれが本当の私なのか分からない。だから……こんなにも苦しいのかな。」
しばらくの沈黙の後、アイシャは困ったように少しだけ笑った。
「それに……男の人のことで厄介なことになるなんて、私たち親子、本当に似ちゃいましたね。」
リーリャも、愛おしそうに小さく笑った。
「……そうですね。困ったところまで、似てしまいました。ですが——」
リーリャは娘の前髪を優しく払う。
「私は、もうあなたに私と同じ後悔だけはさせません。」
その言葉に、アイシャは何も返さなかった。ただ安心したように、もう一度母の胸へ深く頬を寄せた。
「……少しは、楽になりましたか?」
「うん。まだ分からないことばかりだけど……昨日よりは、少しだけ。」
その言葉を聞いて、リーリャは微笑み、ゆっくりと身体を起こした。
「では、そろそろ起きましょうか。皆さんも、お腹を空かせています。ふふ。」
「こんな日でも、お母さんはお母さんだね。」
「ええ。皆さんが朝を迎えるのは変わりませんから。……ですが今日は、あなたも一緒です。」
胸がじんわりと温かくなる。
「うん。一緒に作ろ。」
二人は寝台から降り、身支度を整え、髪を結い直した。鏡に映る自分の顔は泣き腫らしていたけれど、不思議と嫌ではなかった。
廊下を並んで歩く。誰も前を歩かず、誰も後ろを歩かない。肩を並べて歩く。厨房に着くと、自然な呼吸で二人で朝食の支度を始めた。
野菜を刻むトントンという音。鍋から立ち上る湯気。
昨日までと同じはずの光景が、今日はまるで違って見えた。
「では、起こして参りましょうか。」
「うん。一緒に行こう。」
メイドとしてではなく、母と娘が並んで、家族の朝を迎えに行く。それだけのことが、アイシャにはどうしようもなく愛おしかった。
◇
順番に子どもたちを起こし、最後に辿り着いたのはアルスの部屋だった。
「……ここは私が。」
そう言いかけたリーリャの袖を、アイシャがそっと掴む。
「お母さん。私が行く。」
リーリャは思わず息を呑んだ。胸の奥を一瞬だけ不安が過る。(……昨夜までの娘なら、また逃げ出してしまうのでは——)
(……何を考えているのですか、私は。)
リーリャは固く目を閉じた。あれほど自分に心を開いてくれた娘に、今なお疑いを向ける己の愚かさを恥じた。
「……お願いします。」
そう答えると、アイシャは小さく微笑み、扉を三度叩いた。
「アルス。朝だよ。入るね。」
部屋の中では、アルスが目を擦りながら起き上がっていた。
「……アイシャ。」
昨日までの出来事を思い出したのだろう。その顔はひどくぎこちない。
「おはよう。朝ご飯できてるよ。」
アイシャがいつも通り笑うと、アルスは安心したように瞳を輝かせた。
「アイシャ!」
勢いよく寝台から飛び降り、そのまま抱きつこうと駆け寄ってくる。
しかし——アイシャは、半歩だけ自然に身体を引いた。まるで踊るような流麗な身のこなしで、アルスの空切る両腕をかわす。
「え……?」
「おはようの抱擁は、また今度ね。」
優しく、けれど絶対に越えさせない笑顔。
「約束、したでしょ。成人するまで会わないって。今は同じ家にいるから仕方ないけど、それ以上は駄目。私たちが決めた約束なんだから。」
アルスは寂しそうに唇を噛み締めた。
それを見て胸が痛んだが、アイシャはこの「一歩の距離」を絶対に譲らなかった。誰に命じられたわけでもない。『アイシャ・グレイラット』が自分で決めた、最初の約束だったから。
「だから、ちゃんと朝ご飯を食べて、学校へ行く準備をして。それが今のアルスのお仕事。」
「……うん。」
頭を撫でようとした手が一瞬迷い、ぽん、と一度だけ軽く触れて離れる。
「行こっか。」
去っていくアイシャの背中を、アルスは見送るしかなかった。
扉の外で見守っていたリーリャは、静かに安堵の息を吐く。娘の背中が、昨日より少しだけ大人びて見えた。
◇
食卓に、温かい料理が並ぶ。
焼き立てのパン、スープ、香草の香る肉料理。それなのに、誰も席に着こうとしない。重苦しい沈黙の中、ルーデウスがアルスへ向ける視線は、父として、兄としてまだ険しかった。
そんな空気を破ったのは、意外にもアイシャだった。
「はいはい! パンが冷めちゃうよ? せっかく焼いたんだから、美味しいうちに食べて。」
明るく笑いながらパン籠を置く。昨日泣き崩れた姿が嘘のような自然な笑顔。ルーデウスは目を見開いた。
(……アイシャ。)
無理をしているのではない。今朝の妹の表情は、確かに昨日より軽くなっていた。
ならば、自分が兄としてやるべきことは一つだ。
「……そうだな。冷めたらもったいない。いただきます。」
止まっていた時間が動き出す。エリスも腕を組みながら、フンと鼻を鳴らした。
「アイシャがそうしたいなら、大人の私たちがいつまでも引きずってらんないわね。」
不器用なエリスなりの優しさ。ロキシーは微笑み、シルフィは胸を撫で下ろす。
「それじゃ、いただきます!」
アイシャが両手を合わせ、家族の声が重なる。
ぎこちなくも、グレイラット家のいつもの朝が始まった。
子どもたちが賑やかにパンを頬張り、ルーデウスも柔らかい眼差しを向けている。昨日までと変わらない、当たり前の温かい風景。
(……私は。本当に、この景色を捨てるつもりだったんだ。)
アルスを連れて逃げるつもりだった。お兄ちゃんの怒りが怖くて、殺されるとまで思い詰めていた。
なのに——今、この温もりを見つめていると、胸の奥がしくしくと痛む。
アルスへの気持ちも嘘じゃない。けれど、家族を見ていると、胸が潰されそうに苦しくなる。
置いていくはずだった。失う覚悟もしていたはずだった。
(……分からない。まただ……。)
考えれば考えるほど、自分の本当の心が遠のいていく。
「アイシャ? ぼーっとしてるけど、大丈夫か?」
ルーデウスの声にハッと我に返る。
「あっ……う、うん! 大丈夫!」
笑って返したその笑顔は、決して嘘ではない。
けれど——本当の自分でもなかった。
自分の心が自分でも分からないという小さな違和感だけが、静かに、深く、胸の奥底へ積もっていった。
もっともっとリーリャとアイシャは親子として過ごしてほしかったなと恩だの役割など気にしないで、好きな人を好きでいるそれだけでよかったと思う不器用な母と娘だなって
ヒトガミが全て悪いんだが、重婚してるくせに腹違いの妹はダメという謎観念さえなきゃ、アイシャは蛇足編みたいに拗れなかったと思うな。近しい人間の気持には間違えるか蔑ろにしがちなのは致し方ないのかもしれないが