朝日が、薄く部屋を照らし始めていた。
アイシャはゆっくりと目を開く。
まだ眠い。けれど、今日は不思議と驚くほど目覚めが良かった。
頬に触れる柔らかな感触。胸元へ顔を埋めると、昨日と変わらない温もりと、どこか懐かしい母の匂いが鼻をくすぐる。
「……お母さん。」
小さく呟いてみる。返事はない。ただ、穏やかな寝息だけが聞こえてくる。まだ眠っているらしい。
少しだけ身体を起こし、母の寝顔をそっと覗き込んだ。
そこで、気付いた。
「……。」
目元が、少し赤い。
乾いた涙の跡。泣いていたのだ。昨日、自分が眠ったあと。あるいは、自分を抱き締めながら。
胸が締め付けられる。自然と指が伸びていた。
そっと頬へ触れ、もう乾いている涙の跡を指先でなぞる。
「ごめんね……。」
小さく呟く。
昨日は、お母さんが謝っていた。自分を責めていた。
違う。悪いのは、お母さんだけじゃない。
(私も……もっと早く言えばよかった。)
苦しいって。助けてって。甘えたいって。
言えなかった。言わなかった。お母さんを困らせたくなかったから。
そう思っていたのは、自分も同じだったのだ。
「……本当に。親子なんだね。」
思わず可笑しくて笑ってしまう。
何でも一人で抱え込むところ。自分が悪いと思ってしまうところ。泣きたいくせに人前では泣けないところ。誰かのためなら、自分を後回しにしてしまうところ。
こんなところまで、そっくりだ。
だからこそ、昨日の母の言葉がようやく腑に落ちた。
『私も弱かっただけです。』
あの言葉は決して言い訳などではなかった。本心だったのだ。
お父さんが亡くなった。ゼニス様は言葉を失った。屋敷を支えなければならなかった。恩義を返さなければならなかった。
守るものが多すぎた。きっと、お母さんにだって余裕なんてなかったのだ。
私を見る余裕も。私に甘えていいと言う余裕も。ただ、なかっただけ。
ちゃんと、愛してくれていた。
それだけは、昨日も今日も、痛いほど伝わってくる。
ただ、ふたりとも不器用だった。それだけだったのだ。
「……私、帰ってくるね。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
今度は『役割』を持ったメイドとしてではなく、一人の『娘』として。胸を張って、笑って。
「ただいま、お母さん。」
そう言える自分になって帰ってきたい。そのための旅なのだ。
アイシャはもう一度だけ母の寝顔を見つめ、起こさないように、そっと額へかかった髪を払い直した。
「……大好き。」
今度は照れも迷いもなかった。
ようやく素直に言えたその言葉は、静かな朝の部屋へ、優しく溶けていった。
もう少しだけ——そう思い、アイシャは母を起こさぬよう、そっと胸元へ顔を埋め直した。
温かい。昨日よりも、この温もりが愛おしく感じる。
耳を澄ませば、一定のリズムで打ち打つ規則正しい鼓動が聞こえる。
幼い頃も、こうして眠ったことがあったのだろうか。覚えてはいない。
けれど、初めてではないような圧倒的な安心感だけが、確かにそこにあった。
「……あと少しだけ。」
小さく呟き、静かに目を閉じる。そのまま、抗えない心地よい眠気に身を委ねた。
◇
「……ん。」
眩しい。
差し込む強い光に目を細めながら、ゆっくりと瞼を開く。
「お母さん……?」
返事はない。隣を見れば、寝床はきれいに整えられていた。
「えっ!?」
ガバッと飛び起きる。しまった、寝過ごした。
時計など見なくとも分かる。差し込む陽の高さが、もう朝など遠に過ぎていることを告げていた。
「お母さん!」
寝癖もそのまま。頬には薄くよだれの跡まで残したまま、慌てて部屋を飛び出す。
一直線に厨房へ向かった。きっと朝食の支度をしている、そう思って扉を開けた。
しかし——。
「あら。」
振り返ったリーリャは、すでに洗い終えた食器を布で拭いていた。
流しも綺麗に片付いている。鍋も洗われ、調理台には何もない。昼食の仕込みすら終わりかけているように見えた。
「……。」
「……。」
しばし流れる沈黙。
アイシャはようやく、自分が昼近くまで泥のように寝てしまったことを悟った。
「……寝過ぎた……。」
消え入りそうな声。
そして、そんな娘の姿を改めて見たリーリャは——思わず口元を手で押さえた。
寝癖があちこちへ跳ね上がり、片方の頬にはうっすらと赤い寝跡。髪もボサボサで、寝ぼけたまま飛び出してきたのが一目で分かる。
昨日までの、隙一つない完璧なメイドの姿はどこにもなかった。
「……ふっ。」
堪え切れない。
「ふふっ……あははっ!」
とうとう声を上げて笑い出してしまう。
「お、お母さん!?」
「ご、ごめんなさい……っ。」
笑いながら目尻の涙を拭うリーリャ。
「本当に……子どもみたいですね。いえ……昔より子どもらしいかもしれません。」
その言葉に、アイシャはぽかんと口を開けた。
「昔より……?」
「ええ。」
リーリャは優しく微笑んだ。
「昔のあなたは、こんな寝坊は絶対にしませんでした。起こしに行けば、もう着替えを済ませていて……朝食の準備も半分終わらせていましたから。だから私は、本当に『助かる子』だと思っていました。」
少しだけ切なさの混じった笑みを浮かべる。
「でも、本当は違いましたね。子どもでいようとする前に、大人になってしまっていただけ……。だから、今のあなたを見ていると……ようやく年相応の娘が帰ってきたようで、嬉しいのです。」
アイシャは照れ臭そうに頭を掻いた。
「……そんなに寝癖ひどい?」
「ええ、とても。……それから、よだれも。」
「えっ!?」
慌てて頬をゴシゴシと擦るアイシャ。その慌てようがおかしくて、リーリャはまたくすくすと笑ってしまう。
その温かい笑い声につられて、アイシャも照れくさそうに笑った。
屋敷の厨房には、久しくなかった親子だけの穏やかな笑い声が、小さく、けれど確かに響いていた。
◇
その日のアイシャは、珍しく失敗ばかりだった。
皿を運べば、危うく取り落としそうになる。
調味料を取り違えそうになり、慌てて瓶を戻す。
掃除をしていても、同じ床の場所をぼーっと二度拭いてしまう。
どれも些細なことだ。誰かに叱られるほどのことではない。
けれど、あの完璧すぎた『アイシャ・グレイラット』からすれば考えられないようなポカばかりだった。
「今日はどうしたのですか?」
苦笑しながらリーリャが尋ねる。
「えっ……あ!」
また手を止めてぼんやりしていた。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて仕事へ戻る。
それでも——少し歩けば、またすぐリーリャの姿を目で探してしまう。
別の部屋へ行けば、気になって用もないのに後を追ってしまう。
姿が見えなくなるだけでそわそわし、見つければほっと胸を撫で下ろす。
まるで、初めてのお使いで迷子になりかけた子どものようだった。
(……私ったら。)
心の中で苦笑する。
アルスのことを「甘え過ぎだ」なんて思っていた。依存している、とも。
けれど、今の自分はどうだろう。
少し姿が見えないだけで探してしまう。声を掛けられるだけで嬉しい。頭を撫でられるだけで頬がゆるゆるに緩んでしまう。
(人のこと、全然言えないじゃない……。)
思わず笑ってしまう。
ほんの数日離れるだけだ。永遠の別れでもない。それなのに、胸の奥がしくしくと寂しくなる。
二十四歳にもなって、母に甘えたい。抱き締められたい。褒められたい。
そんな気持ちが、今まで蓋をしてきた分だけ、止め方が分からないほど次から次へと溢れ出してくる。
「アイシャ。」
名前を呼ばれた。
「はいっ!」
勢いよく返事をしてしまい、リーリャがくすりと笑う。
「そんなに大きな声を出さなくても聞こえていますよ。」
「あ……。」
また顔が赤くなる。
その照れた顔を見て、リーリャはどこまでも優しく微笑んだ。
ただその笑顔に向けられるだけで、胸の奥が満たされていく自分がいた。
(——これが、欲しかったんだ。)
特別なことなんていらない。褒美でも、期待でも、役目でもない。
ただ母と笑い合って、母に笑いかけてもらう。
その当たり前の愛を、私はこんなにも欲しかったのだ。
仕事はまったく手につかない。集中もしきれない。
けれど不思議と、焦りはどこにもなかった。
今だけは。今日くらいは。
少しくらい、ダメな娘でいてもいい。
心から、そう思えたからだった。
今回は完全に願望全開です。
アイシャが子どもになれて、リーリャがアイシャだけの母親になれる。
そんな、本来なら誰にでもあったはずの日常を書きたくなりました。
この親子は似ています。
感情を溜め込んで、自分を後回しにして、誰かのために生きてしまう。
だからこそ、旅立つ前くらいは「仕える者」ではなく、「娘」と「母」でいてほしかった。
そんな願いを詰め込んでいます。
正直、この作品を書いていて思うのは、「みんな救われてくれ」です。
アイシャも。
リーリャも。
アルスも。
もちろんルーデウスも。
誰か一人を悪者にしたいわけではありません。
ただ、アルスだけは少し厳しく見てしまいます。
二人とも「愛」を知らなかった。
だから、お互いに向けた想いも、嘘でも間違いでもなかったのだと思います。
だからこそ、その先にあった結末が、どうしても私には「成長」ではなく、「そこで止まってしまった」ように感じられました。
私がアイシャに望んだのは、暫定的な安らぎではなく、自分で答えを見つけることです。
世界を知って、人を知って、恋も愛も知った上で、それでも自分で選ぶ。
そういう彼女が見たかった。
だからこの作品では、そこを書いてみようと思います。
幼さゆえの一途さは本物だったと思っています。
ただ、逃亡生活で毎晩身体を重ね、妊娠して弱っていくアイシャを見て「守らなきゃ」と決意する流れだけでは、私の中ではまだ足りませんでした。
その想いは本物でも、それだけで「愛」と言い切ってしまうには、二人ともあまりにも世界を知らなさすぎた。
だから一度離れて、それでも変わらないのか。
あるいは変わってしまうのか。
そこまで描いて初めて、この二人の物語は終われるんじゃないか。
そんな解釈で書いています。
アイシャという少女に、もう少しだけ寄り添ってみたい。
その願いから始まった、私なりの蛇足です。
後書きもAIに一回洗浄してもらわなきゃ、言い方がきついというか誤解を招くからなるべくAIを通してマイルド感を狙っていこうかな。これはAI通してないけど
こんなに感情移入したキャラいたかなってくらいに肩を持ちたくなるほどに魅力されてますね
次の回はノルンを出します、別れの締めくくりは対の存在のノルンがいいなとは考えていたので。別れの日は家族で送り出すが今のところ望みの展開です。
その後は世界各地をブラブラする予定です、濡れ場は考えてはいます。差し込むのが際どいなぁという感じではありますが
追記、批判は残念ながら削除とかになるかもだけど二次創作だからね、何言っても自己満のオナニーだから言っても仕方ないよねってので勘弁してほしいかな。
ただ自分はこう解釈しましたとか共感する部分とかそういう前向きになのは歓迎です、アイシャが好きなら尚歓迎。アルス好きな人は残念ながら許さない