天赤二次小説 「ザナンザ生存if 夢小説」 作:ブドゥヘパ
数日間にわたる懸命な看護が、ようやく実を結びつつあった。
熱はすっかり下がり、背中の傷もかさぶたへと変わりつつある。
ザナンザの身体に宿る驚異的な生命力と、徹底した衛生管理、そして適切な栄養補給。それらが噛み合い、彼は自力で床を離れ、足を踏み出せるまでに回復を遂げていた。
「村長に挨拶しようか。それから、村を一回りしてみる?」
私の問いかけに、ザナンザは深呼吸を一つ挟み、ゆっくりと頷いた。
「あぁ、ぜひそうさせてほしい。命を救っていただいたお礼を申し上げるのは勿論だが……君が守り、育んできたというこの場所を、私自身の目で見届けておきたいんだ」
素朴な麻の衣を纏ってなお、彼の一挙手一投足には隠しきれない気品と、長年の鍛錬によって培われた隙のない所作が滲み出ている。
一歩先を歩く私の背後で、彼は一定の距離を保ちながら、確かな足取りでついてきた。ただ従うのではなく、いざという時に前へ立ち出でて私を庇える位置取り――無意識に身体が動くあたり、彼は根っからの軍人なのだと痛感させられる。
重い木造りの扉を押し開けると、地中海独特の湿り気を帯びた温かな風が、私たちの頬を撫でて吹き抜けた。
「……! これは……」
村の全貌を目にした瞬間、ザナンザの足がピタリと止まった。
息を呑み、見開かれた漆黒の瞳。彼が想像していたであろう「落人の貧しい隠れ里」あるいは「疫病に怯える陰鬱な集落」の姿は、そこには微塵も存在しなかったからだ。
整然と区画された美しい圃場(ほじょう)には、青々と葉を広げる野菜と、水路から引き込まれた清流に揺れる稲穂。
少し離れた牧草地からは羊たちののどかな鳴き声が響き、浜辺の方角からは漁を終えた村人たちが獲物を分け合いながら朗らかに笑い合う声が聞こえてくる。
集落の奥からは優げな湯気が立ち上り、天然温泉のほのかな硫黄の香りが風に乗って漂っていた。
「……素晴らしいな。無駄のない導線、管理された水路……そして何より、誰もが未来を信じて活き活きと働いている。まるで争いとは無縁の、奇跡の楽園だ」
ザナンザは感嘆の溜め息を漏らし、眼前に広がる景色を慈しむように見つめた。
「これが……君が二年間で積み上げてきた成果なのか、アイラ」
「私一人じゃないよ。シュワルトや村のみんなが、私の提案を信じて手を動かしてくれたからできたことなんだ」
そう答えると、ザナンザは首をゆっくりと横に振り、胸の前にそっと手を当てて深く頭を下げた。
「いいや。どれほど優秀な働き手が揃おうと、確固たる知恵と揺るぎない指揮を執る者がいなければ、ここまでの繁栄と秩序は絶対に築けない。……君は実に、尊い人だ」
あまりにまっすぐな賛辞に気恥ずかしさが込み上げ、私は視線を泳がせながらその場を誤魔化した。
「……大袈裟だってば。ほら、あそこにいるのがシュワルトのお父さん――村長だよ」
指差した先では、立派な丸太を担ぎながら村人に指示を出している巨躯の男性が汗を拭っていた。
シュワルト譲りの情に厚い顔立ちをした村長は、私たちの姿を認めると、豪快に破顔してこちらへと歩み寄ってくる。
「おう、アイラ! その若蔵が例の『死にかけてた新入り』か!」
「村長!挨拶に連れてきたよ。ザナンザ、こちらが村長さん」
ザナンザはすぐさま背筋を正し、皇子としての威厳を削ぎ落とした一人の若者として、恭しく礼を執った。
「初めまして、村長殿。私はザナンザと申します。アイラ殿やシュワルト殿、そして皆様の手厚いご看病のおかげで、こうして再び土を踏むことができました。このご恩、生涯忘れません」
その洗練された立ち姿と誠実な言葉遣いに、村長は一瞬圧倒されたように目を丸くしたが、次の瞬間にはガハハと腹から笑い声を上げた。
「かぁ〜っ! こりゃまたえらく筋の通った男前が飛び込んできたもんだ! シュワルトの奴が『凄腕の軍人を引き当てた』と鼻高々だったが、嘘じゃなさそうだな!」
村長はザナンザの肩を力強く叩いた。傷口を配慮した手加減はあったものの、体躯の大きい男の打撃に、ザナンザは苦笑いを浮かべながら耐えている。
「いいかザナンザ! うちは『病の村』なんて物騒な偽名を使ってはいるが、中身は見ての通りの平和な村だ! アイラが齎してくれたこの平穏、大事にしていけよ!」
「はい……! 謹んで、この村の力にならせていただきます」
まっすぐに答えるザナンザの表情には、悲劇の皇子としての陰りは消え、この大地に根を張って生きていく男としての清々しい光が宿っていた。
村長への挨拶を終えた私たちは、そのまま集落を縦貫するなだらかな小道へと足を進めた。
「まずは、村の命綱でもある食糧の生産現場から案内するね」
私が先導すると、ザナンザは「あぁ、頼む」と短く頷き、一歩引いた位置から私の言葉に静かに耳を傾けた。
最初に辿り着いたのは、穏やかな内海に面した小さな入り江だった。
木組みの頑丈な作業場では、潮風に晒された村人たちが、網にかかった大きな魚を手際よく仕分けしている。
浜辺の燻製小屋からは香ばしい煙が立ち上り、保存食作りの真っ最中だった。
「ここは漁場だよ。獲れた魚はすぐに塩漬けか燻製にして、長期保存できるようにしてるの。仕分けの基準や燻製器の構造も、傷みにくいように工夫してあるんだ」
ザナンザは入り江全体を見渡し、感心したように息を漏らした。
「なるほど……。単に魚を捕るだけでなく、加工と保存の工程までが完全にシステム化されているのか。これならば、時化(しけ)が続いて漁に出られない日が続いても、民が飢えることはないな」
「そういうこと。……次は、一番自慢の場所へ行こうか」
海沿いから少し小高い丘を越えると、目の前には鮮やかな緑の絨毯が広がっていた。
整然と区画された圃場(ほじょう)の足元には、なみなみと清らかな水が張られ、日の光を反射してキラキラと輝いている。その水面からスクッと伸びる、瑞々しい緑の苗たち。
「……! アイラ、これは……何だ?」
ザナンザの足が完全に止まった。
武芸と軍略に優れ、ヒッタイトの広大な領土を見てきたはずの彼が、見たこともない光景に目を見開いている。
「これは『水田』。お米を育てている田んぼだよ」
「すいでん……たんぼ……?」
聞き慣れない単語を口の中で反芻し、ザナンザは膝を折りかけて、水面に映る自分の顔と緑の苗を凝視した。
「畑に水を張り、穀物を育てるだと……? ヒッタイトやメソポタミアの農耕は、麦を中心とした乾燥地帯の路地栽培が主だ。このように大量の水を常時溜め込み、整然と苗を並べて育てる技術など……見たことも、聞いたこともない」
「ヒッタイトにはお米がないんだよね。米は麦よりも一収穫あたりの栄養価が高くて、正しく保存すれば何年も持つ優れた主食になるの。
水路を引いて水の量を管理するのは大変だったけど、シュワルトたちの協力のおかげで、この村でも安定して収穫できるようになったんだよ」
「なんという……」
ザナンザは立ち上がり、絶句したまま眼下に広がる緑の水田を見渡した。
「水路の引かれていない乾燥した土地では考えられぬ発想だ。これだけの水管理を100人程度の村で成し遂げているとは……。君の故郷の知恵なのか?」
「うん。私のいた世界では当たり前の光景だったんだけどね」
私が控えめに笑うと、ザナンザは深く、重みのある眼差しを私に向けた。
「当たり前などではない。異世界の知恵をただ知っていることと、それをこの泥と石の現実に落とし込み、見知らぬ人々に教え導いて形にすることは、全く別の才能だ。
君の成したことは……一つの国を興すに等しい偉業だよ」
真摯すぎる彼の言葉に胸が少し熱くなり、私は恥ずかしさを隠すように「次は牧場へ行こう」と歩調を早めた。
水田を後にし、緑豊かな丘陵地帯へ向かうと、そこには木柵で囲われた広い牧草地が広がっていた。
羊や山羊たちがのんびりと草を食み、少し離れた小屋では、村の女性たちが搾りたての乳からチーズやバターを作っている。
「畜産も、ただ放牧するんじゃなくて、病気が広がらないように衛生管理を徹底してるの。糞尿の処理方法や、家畜の毛から服を織る工程もルール化してあるんだよ」
「……衛生管理、か。軍の陣営でも、疫病や衛生の悪化で倒れる兵は少なくない。それをこの規模の村で、民一人ひとりに徹底させているとは……」
漁場、水田、畑、そして牧場。
村を巡るにつれ、ザナンザの瞳に宿る驚きは、やがて深甚なる敬意と感嘆へと変わっていった。
彼は立ち止まり、吹き抜ける豊かな風を感じながら、静かに呟いた。
「過酷な運命に翻弄されながらも、君はこの地に揺るぎない『楽園』を作り上げたのだな。……傷を癒やすだけの場所かと思っていたが、ここは命の尊厳と、人々の営みが最も美しく結実した場所だ」
ザナンザは私に向き直ると、胸に手を当て、皇子としての矜持を込めて優しく微笑んだ。
「この素晴らしい村の一員として置いてくれること……心から誇りに思うよ、アイラ」
その真っ直ぐな瞳と温かな声に、私の胸はトクンと小さく跳ねたのだった。