黒板の一番右のところの日付を消して、女子が背伸びしてそこに数字を書いている。
1、1、1。1が三つ。今日は11月1日だ。
「にーい、いーち、はい終了!」
うれしそうな声と面白がるような表情の、セミロングの女の子。
ちょっとした遊びのつもりかもしれないが、おれにとってはかなりの瀬戸際だ。
いや案外、あっけなくここで終わりってことも……
「なーにやってんの、おっしー」
「あっ! こらっ! ダメダメ!」
おお。
天の助け。ふちなしメガネの女子が名前らしきものを口にしたぞ。
(おっしー……おしおし……そういえばスマホに「押切」って名前の着信履歴があったな)
メガネの子の背中を押して向こうに行かせ、またこっちにもどってきた。
おれは言った。
「からかうのも、いいかげんにしろよな」
「なにが?」
「お、
「……」
ぱちぱちっ、と二回すばやくまばたきする。
二重の大きい目だ。きっとコンタクトレンズも簡単に入るだろう。
「どうした?」
「へっ⁉ ああ、いやいや、なんでも」
目いっぱい指の間を広げたパーを右に左にうごかす。
もしかしたら、また何かおれの正体を見抜くようなことを考えているのだろうか?
しかしこれは逆にチャンス。
先にこっちから質問して、今の〈彼〉の状況をいろいろ教えてもらおう。
「なあ押切」
「あ、あ……? えっ? みょ、名字呼びっ!? そんな仲のいい男子みたいに……でもけっこう新鮮」
しまった。おれは心の中でアタマをかかえた。
呼び方か。
たしかにそこは、気をつけないとだよな。でももう遅いから、押し切るしかないか。
「あのさ」
「う、うん! なに?」
「おれ、クラスでイジメられてる?」
ぴん、と教室の空気が一瞬はりつめたようになった。
とくに、教室の真ん中あたりでたむろしてる、坊主頭の男子たちの目つきが変わった気がする。
「……答えにくいこときいてくるじゃん」
「大事なことなんだ。はっきり教えてくれ」
「そう。わかった。ほかならぬオーちゃんのたのみだもんね」
オーちゃん?
ああ、そういえば今のおれの名前は
「きて」
手をひかれ、おれは席から立ち上がってそのまま彼女についていった。
「どこに行くんだ?」
「い・い・か・ら」
「もう手、はなしてもいいぞ」
「はなさなくてもいいでしょ?」
肩ごしにこっちを見て笑顔になる。
なんだろう、この親密な距離感。
「このへんでいっか」
立ち止まったそこは、廊下のつきあたりだった。
きれいな白壁だ。こういうの、どうしてもうちの高校と比較してしまう。
「えーっとなにからいこう……なにからがご希望?」
と、首をかしげる。おれは言う。
「イジメられてるかどうか。イエスかノーでいいよ」
「イエス!」
ぐっ、と親指をたてた。
この人、なんでこんなうれしそうなんだ。
「それって全員か? 一人ぐらい、おれの友だちいなかったっけ?」
「となりのクラスのトベくん以外は……まあ、しょうがないよね」
トベというワードが気になるが、おれは話をつづけた。
「しょうがないって?」
「おぼえてないの!? アンタ、野球部で大暴れして、野球部みんなを敵に回してるじゃない!」
「野球部……」
おれは目をつぶった。
そういわれれば―――部屋にメジャーのだれかがバットをふってるポスターがあって、金属バットがあって、赤いヤンキースのキャップがあった。金属バットが部屋にあるのを見たときはゾッとした――本格派のヤンキーの武器!――が、そういわれれば納得するな。
そうか。
〈おれ〉は野球部なのか。
それで、
クラスのそいつらが、ほかの男子にハブれって指示してるんだな。
(え? じゃあこの金髪はなんだよ……)
おれは自分の頭をくしゃっとさわる。
さすがにこんな派手なのはOKじゃないだろう。シンプルに校則にひっかかってる気もする。
「押切。おぼえてないわけがないだろ」一応、フォローをいれとかないとな。「あんなことは、もう思い出したくなかっただけなんだよ」
「はぁ!? アンタあんとき『ぶちのめしたぜ』ってめっちゃ勝ち誇ってたじゃん」
「そこはまあ……いろいろ反省したんだ」
やばい。
おれの本体の
ここはあれか。
ボロを出さないよう、だまっとくのが一番だな。
新山くんに迷惑をかけないためにも、発言や行動は必要最小限にしとこう。
――おれはこの体に、この学校に、そんなに長くは
「どうしたの? 急に一点見つめなんかしちゃって」
すこし心配そうな顔でおれの顔をのぞきこんでくる。
やけに身長が……あ、そうか、おれは今180オーバーなんだっけ。
彼女の背がとくべつ低いわけじゃない。おれが高いから、こんなに身長差を感じるんだ。
(これはつまり、なんというか、キ、キスするときはヒザを曲げないとダメだ―――って、なにを考えてるんだおれは)
カッ、と顔が赤くなるのを感じた。
「あ~~~~、顔あか~~~い。かわいい子がこんな近くにいるから、興奮しちゃってる~?」
おれは大きく息をすった。
彼女のペースにならないよう、おちつかないと。
「ああ、したした。興奮したよ。じゃ、教室にもどろうぜ」
「あのさ」
ぐい、とうしろからブレザーのすそをつかまれた。
「明日、いっしょにどっか行かない?」
「え? おれと?」
「久しぶりにいっしょに出かけようよ。いいでしょ?」
「あ……あー」正直まよった。が、今のおれの目的ははっきりしていて、それはこの女子とデートすることではない。「わりぃ。用事あるわ」
「えー。じゃあ日曜日」
「その日もちょっと」
「だったら月曜。ね? さすがにそこは
「月曜? ふつうに学校あるだろ」
「ちがいます。三連休」
「休」の音をながく伸ばして、口がアヒル口みたいになる。
連休?
そうか、今日が11月1日で、あさっての日曜は文化の日、その振り替え休日か。
つまり三日後。
さすがにそのころには、もうおれはこの体にはいないだろう。
(……)
ゆるせ。新山くん。
デートしてやってくれ。この、やけにグイグイくる押切さんと。
「じゃあね!」
とりあえずスマホのスケジュールにはその旨をいれておいた。
これで、彼がよっぽどあの女の子を嫌いじゃないかぎり、デートに出かけるだろう。
(どういう関係か知らないが、ふたりの幸せをいのる……よ)
さて、やっと放課後になった。
家と反対方向行きの電車に乗って、おれはあいつのもとへと向かう。
駅について空を見上げた。よかった。雨はふっていない。
金曜日は部活がないからもう家に帰っているはず。
そして、午後六時から六時半ぐらいの間に、おれの幼なじみは――――
(ばっちりだ)
同居するポメラニアン(♀)のガルベスを、リードにつないで散歩に出かける。
家から河川敷へ行き、サイクリングロードを橋まで歩いて、折り返して帰宅。
それが
(さながらストーカーだが、状況が状況。大目にみてほしいね)
「そんな『尾行してます』ってアピールするような尾行があるか。バカもん」
長い金髪の青い目の少女が、空から声をかけてくる。
見上げると、シャッ、とおれのとなりに瞬間移動した。
「ここが勝負どころっぽいネ。でも今、あの子は『新山という男』に嫌悪感をもっているよ。勝算はあるん?」
「やってみるさ。時間もないし」
「そう。大嫌いは無関心よりもマシともいうし」
そのとき、
おれが今までぼんやりと頭のどこかで考えていたことに、
かすかに輪郭ができて、うっすら形をもったような気がした。
幼なじみの
ということは、
もし、なにかの拍子であいつに〈好かれた〉ら、それも〈おれ〉ではなく新山くんってことになる。
〈おれ〉ではなく彼として告白して、
うまくいくってことは……
いや……
おかしな考えだ。
それに、もはやゼロから恋愛をスタートしてる時間なんか、おれにはない。
「ダメ! こらっ! いけないってば!」
わっ、とおどろいて片足をあげた。
地面を小さい生き物が、あっちに行きこっちに行き、はげしく動いている。
体にほんのりカフェオレみたいな色がかかった、白のポメラニアン。
ほえずに、ハッハッ、という犬独特の息づかいで走り回っている。
おれの片足にはリードがからまっていた、
「ごめんなさいです! おかしいなー、いつもはおとなしい子なんですけど……」
「大丈夫大丈夫」
夕暮れ時で、昨日とはちがって学校の制服を着てるから、まだ気づかれてない。帽子も、色をかえたし。黒いヤンキースのキャップに。
犬がはしゃいでいて、会話できる空気じゃない。
おれは足のリードをほどきながら、しゃがんでそいつの頭をなでた。
「ガルベス。ちょーっと静かにしててくれな」
「えっ!!!??」
あ。
やばい。正体がバレたか。
「よく見たら、あなた昨日の……ス、ス、ス」
「ス?」
「ストーカー!! 私ん
そっちか。
顔バレじゃなくて、おれの口がすべったってこと。
(くそっ。もうグダグダだよ。だが、いくしかない!)
「きいてくれ。くわしく言えないが、おれは彼と―――
「えっ」
深掘りされるとまた話がすすまなくなる。
ここは勢いで押しまくったほうがいいだろう。
「
おれは手をあわせた。
いのる気持ちで。
サッと風がふいた。
夜のにおいがする。
あとは、このずっといっしょにすごした大事な幼なじみが、
ウソいつわりなく自分の胸のうちを打ち明けてくれたら、
おれはそれで、
「ふ、ふつうですっ!!! ふつう! はい! 言いましたっ!!!」
つ――――えーーーーっ!!!???
「し、失礼します!」
パタパタと音をたてて足早に立ち去る幼なじみ。
強めの風がふいた。サイズが合ってないのか、ヤンキースのキャップが吹き飛んだ。
ショックだった。
その日は、食事がのどをとおらなかった。食卓でとなりにすわる新山くんの妹が、何度もおかずをハシでつまんで食べさせようとしてきたが、おれは一口も食べなかった。食べれなかった。
「もうつきあっちゃう?」
それを言ったのはいつだったか思い出せないが、
もしそれが、そのときは本心だったのなら、オッケーしとけばよかったと思う。
おれはやっぱり、幼なじみっていう関係に甘えていたんだ。
そりゃあ……好意を寄せたりサインをおくってるのに、どっちつかずな態度ばっかりとられたら、愛想もつきるよな。
(えーい、もうヤケだ。どうなってもいいよ! っていうか、はやく成仏させてくれ!)
家から一歩も出ず、
おれは二日間をすごした。
そして11月4日。
「ちーっす」
待ち合わせ場所で押切さんが片手をあげた。
デートするぞ、って感じの気合が入った服装だ。
「どうも……」
「あー元気ないー」
「元気ないよ」
「どうしたの?」
「ずっと好きだった子にコクったら、『ふつう』っていわれた」
「へー……意外。オーちゃん、好きな子いたんだね?」
セミロングの髪をふわりと舞わせ、ぴょん、という感じでとなりを歩く彼女がこっちに向いた。
「私、私」と自分を指さす。
「え?」
瞬間、ショートの髪のあいつが、不思議と目の前の彼女に重なって見えた。
「私なら『ふつう』って言わないよ?」