美春と織斑先生を迎え入れた美春の母親は終始オドオドした様子だった。
織斑先生が無自覚に放つ剣幕に気圧されているのか、息子が何か粗相をしたのかと心配をしているのか、美春はその真意を測りかねていた。
二人にお茶を差し出す母親の手が、微かに震えていた。
母親が二人の正面に座るとまず彼女から話が始まった。
「あの…うちの美春が何かしましたでしょうか?」
「いえ、美春君は何も問題を起こしてはいません。生徒会副会長として十分すぎるくらいの役目を果たしています」
織斑先生の返答に、母親は先ほどまでの緊張が嘘だったかのように声を一段高くして、美春に詰め寄った。
「生徒会!?あんたそんな大層なものに手を出してたの?家ではあんなに気が利かない子なのによくもまあ」
母親の言葉に、美春は慣れた様子で小さな笑みを浮かべ、申し訳なさそうに頭を下げる。
母親は愚痴っぽく言葉を続ける。
「この子ったら昔から本当に気が利かなくて…何をするにも手がかかる子なんです。生徒会でも皆さんにご迷惑をおかけしてないでしょうね?」
美春は先ほどと同じような態度で小さく答える。
「大丈夫だよ。先輩に助けてもらいながら何とか上手くやれてるよ」
「そう、ならいいわ。もしもの事があったら私が出向かないといけないんだからそれだけは勘弁して頂戴」
織斑先生の、お茶に伸ばしかけた手が止まった。
その手が何を意味するのか、美春には分かった。
美春は知っている。
この母親が襲撃事件以降自分の見舞いに一度も来ていないことを。
親には連絡を入れたと、織斑先生からは聞いている。
だが、それだけだった。
息子が腹を貫かれたというのに、だ。
母親は、息子が問題を起こしていないと分かるとほっと息を吐き、声の調子が戻らないまま織斑先生に話しかける。
「それで、先生。今回はいったいどのようなご用件で?」
織斑先生はいつもより低い声で切り出すと、一枚の紙を母親の前に置いた
「実は、生徒会でルクーゼンブルクという国に親善大使として行くことになりまして。海外への移動が伴いますので、渡航同意書を頂きに参りました。安全には最大限配慮しますが、危険が伴う可能性もゼロではありません。その点ご了承いただければこちらにサインをお願い致します」
「あら、この間は海に行ったのに今度は海外ですか。生憎ですが、家には海外移動に出せるお金がなくて…」
織斑先生の膝の上で、拳が固く握られていくのが美春の視界の端に映った。
「今回の移動は学校の行事ではなく、任務として向かうことになりますので、滞在費含めて費用は全額国際IS委員会で負担致します。また、美春君に対してはきちんと任務としての報酬をお支払いします」
織斑先生が表情一つ変えずにそう告げると母親の顔はぱあっと明るくなる。
「そういうことでしたらお断りする理由はございません。印鑑を取ってきますので少々お待ちください」
母親が席を外し印鑑を探しに行ったが、中々戻ってこない。
気づけば、美春は腰を上げていた。
母親の様子を見に行くと案の定印鑑の置き場所を忘れているようだった。
「印鑑だったら上からの二番目の引き出しだよ」
「えっと…本当だ。あんた気が利かないのにこういう事は覚えているのね」
母親が呆れ顔で席に戻っていくのを見届けた美春は慣れ親しんだ徒労感を久しぶりに味わった。
「…はい。これでよろしいでしょうか」
開けっ放しにされた引き出しを閉めてから居間に戻ると、母親はもうサインを終えていた。
「…はい、問題ありません。ところで、ご主人は今どちらに…?」
「主人は仕事で今日は家にはいなくて…。大事な話があるとは伝えたのですが、どうしても外せない仕事が入ったとかで…」
これも美春に聞きなじみのある言葉だ。
あの父親は自分が矢面に立つような場面になると仕事を言い訳にするのが常だった。
予定していた手続きが終わり、織斑先生が席を立とうとすると母親から不意に問いかけられる。
「あの…申し上げにくいことではあるのですが、美春の報酬の振込先などはお伝えした方がよろしいでしょうか」
「報酬は美春君本人名義で、学園が管理する口座に振り込むことになっています」
織斑先生が表情一つ変えずに答えると母親の表情に陰りが差す。
「美春名義でですか!?親善大使ということは報酬はそれなりの額かと思いますし、高校生に渡すというのは将来の金銭感覚の面でも…」
母親の言葉を織斑先生が遮る。
「委員会の決まりで報酬は当事者に支払うことになっていますので。それに美春君はしっかりしています。お母様の心配には及びません。ではこれで失礼いたします」
美春は織斑先生の言葉に顔を上げることができず、織斑先生の前に置かれたままの湯呑みをじっと眺めていた。
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織斑先生は玄関先で母親に形式的な会釈をすると、そのまま車に乗り込んだ。
美春は一度も振り返らなかった。
車が走り出してしばらく、車内には沈黙だけが流れていた。
先に口を開いたのは美春の方だった。
「…先生、ありがとうございます」
「ん?何のことだ」
「俺を庇ってくれたことですよ。大人で、そんなことしてくれた人はいなかったので…」
「見たままを言っただけだ。礼を言われる筋合いはない」
織斑先生はハンドルを握ったまま前を向いて短くそう答えた。
そしてふうっと一息つくと、ぽつりと言った。
「お前の観察眼がどこから来たのか、よく分かった」
「…でしょう?」
美春は軽く苦笑いを浮かべると、窓の外の景色に目を移した。
窓の外の見慣れた町並みが、段々と海沿いの景色へと姿を変えていく。
学園は、もうすぐだ。