悪神の誤算   作:ちゃちゃ衛門

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第2話

 

 

 まぶたの裏が白く滲む。意識が浮上する前に、まず襲ってきたのは胃の底からせり上がるような空腹だった。

 

「……っ」

 

 目を開けると、隙間だらけの木壁から差し込む朝日が、埃っぽい空気の中で幾筋もの光の柱を作っていた。昨夜の恐怖と冷気の記憶がまだ体にこびりついている。関節という関節が軋み、床の硬さがそのまま骨に刻まれたような痛みがあった。

 

 隣では、レンの巨体が丸まったまま小さく震えていた。オークの緑色の肌は、朝の薄明かりの中で見るとより一層異様に映る。反対側では、カイが膝を抱えて壁にもたれ、うっすらと開いた目でじっと虚空を睨んでいた。眠れていたのかどうかも怪しい。

 

「……起きたか」

 

 カイが低く呟いた。声はかすれていて、昨夜の混乱がまだ尾を引いているのがわかった。

 

「ああ……」

 

 答える僕の声も、自分のものとは思えないくらい掠れている。まだ聞き慣れない声。それだけで、これが夢でも幻でもないという現実を否応なく突きつけられる。

 

 僕たちの話し声に目を覚ましたレンが呻きながら身を起こした。

 

「夢じゃ…なかったんだな……」

 

 誰への問いかけでもなく自分自身に言い聞かせるように聞こえた。

 

「昨日の……祭壇。あの死体と、山羊。あれは、一体何だったんだ」

 

 レンが言葉にすると、カイの顔が同時に強張った。

 

「わからない。でも……」

 

 カイが自分の腕を見つめながら続けた。

 

「俺たちがこんな体になってることと無関係じゃない気がする」

 

 誰も、それを否定できなかった。祭壇のそばに転がっていた、あの黒いローブの死体。あれが何かの儀式の途中だったのだとしたら――僕らがこうしてこの体で目覚めていること自体が、その儀式の「結果」なのかもしれない。そこまで考えて、背筋に冷たいものが走った。だが、それ以上の答えは、今の僕らには持ち合わせがなかった。

 

「はっきりしてるのは……」

 

 カイが自分たちの体を順に見回しながら、静かに続けた。

 

「俺たちは、たぶん異世界に、それも別人の体で放り込まれた、ってことだけだ」

 

 その言葉が、重い沈黙となって小屋の中に広がった。誰もが薄々感づいていながら、あえて口にしていなかった現実。それをカイが、冷静な声で言語化した瞬間、否応なくその重みを受け止めざるを得なかった。

 

「……それで、これからどうするんだよ?」

 

 レンが呻くように言う。誰も、すぐには答えられなかった。

 

 少しの沈黙の後、カイが僕の方に視線を向けた。

 

「この状況を、どう思う?」

 

「情報が少なすぎる」

 

 僕は正直に答えた。

 

「ここにいる理由も、それまでの記憶が思い出せないことも、何一つわからない。誰が、何のために……」

 

「それもあるが」

 

 カイが言葉を遮るように言った。

 

「今考えるべきことは、生き残るためにどう行動するか、だと思うな。このままだと、今夜を越せるかどうかも怪しい」

 

 言われてみればその通りだった。だが、僕の頭の中には、どうしても振り払えない光景があった。

 

「確かに、それは問題だ。けど……先に、あの祭壇に戻るべきだと思う」

 

「あそこには死体しかなかった。行くだけ無駄だ」

 

 カイが即座に切り返す。

 

「それに、あの遠吠えを聞かなかったのか?今頃あの死体の匂いを嗅ぎつけて群がってるかもしれない」

 

「勿論、聞いていたよ」

 

 僕は食い下がった。

 

「でも、あそこに、一連の出来事の大事な手がかりがある気がするんだ。上手くいけば、帰れるかもしれないし」

 

「もし何もなかったら、無駄足になる」

 

 カイの声は冷静そのものだった。

 

「一先ずは安全と食料を確保して、その後にするべきだろう」

 

 僕は反論しようと口を開きかけたが、言葉が続かなかった。カイの言っていることは、筋が通っている。だがそれでも、あの紫色に灯った光が、頭の隅にこびりついて離れなかった。何か大事なことを見落としているのではないか――そんな焦燥感だけが、理屈を置き去りにして膨らんでいく。

 

「……レンは、どう思う?」

 

 僕が水を向けると、レンは太い腕を組んで唸った。

 

「正直、どっちの言い分もわかる。けど…腹が減って動けなくなったら、それこそ元も子もないだろ?それに…」

 

 続けようとしてレンの顔は強ばり、固唾を飲み込んだ。

 

「あの祭壇、魔術師もどう見てもまともじゃなかった。もしあいつの仲間があそこに来てたら…考えたくもない」

 

 その一言が、議論に一旦の区切りをつけた。

 

「……わかった。まずは、食料と安全の確保を優先しよう」

 

 実際、僕の胃も限界に近かった。最後に何かを口にした記憶――いや、そもそも「最後に何を食べたか」という記憶自体、思い出せない。記憶の情景にかかる白い霧の向こうに消えている。さらにいえばこの体もいつから食べてないのか分からない。

 

「……とりあえず、この中に何か使えるものがないか探してみないか」

 

 カイが立ち上がりながら言った。

 

 昨晩は暗闇で何も分からなかったが、小屋の隙間から差し込む光のおかげでそこら中に物が散乱しているのがわかった。

 

 明るくなった小屋の中を、僕らは手分けして探り始めた。室内は想像以上に荒れ果てていた。埃が層になって積もった床、蜘蛛の巣が張られた棚、朽ちかけた家具。長い間、誰も足を踏み入れていなかったのは明らかだった。

 

「……これ、使えるか?」

 

 レンが部屋の隅に立てかけられていた柄の長い斧を見つけた。木こりが使うような無骨な代物で、刃には赤茶けた錆が浮いていたが、まだ十分な重みと鋭さを残していた。

 

「こっちにもあった」

 

 僕は棚の奥を漁っていたカイの声に振り返った。

 

 カイが手にしていたのは、鞘に収まった鉄のダガーだった。抜いてみると、刃はところどころ曇っていたが、まだ研げば使えそうだった。

 

 僕自身も、埃を被った小箱の中から幾つかの品を見つけていた。鉄とガラスで出来たランタン、束になった蝋燭、そして――くすんだ光を放つ、数枚の金貨。

 

「金貨まであるのか……」

 

 思わず呟く。誰が、どんな事情でこの小屋を離れたのか。考えかけて、すぐにその思考を打ち切った。今はそれよりも、目の前にある「使えるもの」の方が重要だった。

 

「俺はこれを使う」

 

 レンが斧を担ぎ、その重みを確かめるように何度か振ってみせた。慣れない巨体でも、その武骨な得物はしっくりと馴染んでいるように見えた。

 

「俺はこっちだな」

 

 カイがダガーを腰の布に差し込む。

 

 僕はランタンと蝋燭、そして金貨を懐に――正確には、粗末な布の内側にねじ込んだ。武器と呼べるものは手元になかったが、灯りと、いざという時の金銭は無駄にはならないはずだった。

 

 わずかばかりとはいえ、手にした道具は、僕らの中に僅かな安堵と、そして奇妙な実感をもたらした。これは、もう「ゲームの中」の出来事ではない。自分の手で拾い上げ、自分の意志で選んだ、紛れもない現実の装備だった。

 

「……とりあえず、これで多少はマシになったか。次は水と何か食べられるものを探そうぜ」

 

 カイがダガーの重みを確かめながら呟く。誰も答えなかったが、その通りだと、皆が頷いていた。

 

「……外、出るしかないよな」

 

 レンが小屋の隙間から外を覗きながら言った。その声には、覚悟よりも怯えの方が色濃く滲んでいた。狭い小屋の中で、その巨体はあまりにも大きく見えるはずなのに、今はどこか頼りなく映る。

 

「ここにいたって、いずれ飢え死にするだけだ。危険はあるだろうが行動しなければ結果は変わらない」

 

 カイがレンを諭すかのように静かに言った。

 

「……確かに。お前の言う通りだ」

 

 外の脅威に怯えていたレンを、カイは静かな言葉で宥めた。淡々と状況を整理し、今何をすべきかだけを簡潔に告げる。それだけで、レンの強張っていた肩から力が抜けていくのがわかった。

 

 ――こいつだって、怖くないはずがないのに。

 

 それでも顔色一つ変えず、必要なことを見極めて動く。その姿を横で見ながら、僕はただ感心するしかなかった。自分だったら、きっとこうはいかない。理屈をこねくり回すばかりで、人を動かす言葉なんて出てこないだろう。

 

 レンは小さく息を吐き、覚悟を決めたように扉の隙間に目を寄せた。外の様子を窺い、しばらく沈黙してから、ゆっくりと頷く。

 

「……今のところ、何も見えない。行こう」

 

 軋む蝶番の音が、やけに大きく響いた気がした。心臓が早鐘を打つ。僕らは息を殺しながら、慎重に外へ踏み出した。

 

 差し込む光に一瞬目を眇める。昨夜の闇に支配されていた森は、朝の光の中では別の顔を見せていた。針葉樹の梢の隙間から差す木漏れ日、湿った土と苔の匂い。だが美しさに見惚れる余裕などなかった。木々の合間、影になった茂みの一つ一つが、何かが潜んでいるのではないかという疑念を掻き立てる。周囲を警戒しながら、僕らは足音を殺して歩を進めた。

 

「……この辺り、覚えがあるか? ジュンヤ」

 

 カイが辺りを見回しながら尋ねてくる。

 

 僕は記憶を探った。針葉樹の森、切り立った山々、雪を頂く峰。ゲームで何百時間と歩き回った景色と、確かに似ている。だが同時に、決定的に違う何かもあった。画面越しに見ていたものと、肌で感じるものとの間には、埋めようのない断絶があるのだと、この瞬間はっきりと理解した。

 

「……わからない。正直、どこでもこんな感じだったというか…」

 

 声が尻すぼみになる。ゲームの知識は、僕らを導く光になるはずだった。だが今、目の前に広がっているのは、ただの見覚えのある森でしかなかった。

 

 しばらく森を進むと風に乗って微かな音が届いた。

 

 ――さらさらと、水の流れる音。

 

「……水の音だ」

 

 カイが反応した。三人同時に、音のする方角へ顔を向ける。

 

「行こう。水があれば、方角の手がかりにもなる」

 

 僕らは音を頼りに、慣れない足取りで森の中を進み始めた。空腹と渇きで思考が鈍っていく中、その水音だけが、僕らを前へ進ませる唯一の道標だった。

 

 木々の間を縫うように進むうち、水音は次第に大きくなっていった。傾斜を下り、下生えを掻き分けた先――視界が開け、川が姿を現した。

 

「あった……!」

 

 僕が声を上げかけた時、後ろから口を塞がれた。褐色の肌に無骨な掌、すぐにカイだとわかった。

 

「何するんだよ!」

 

 僕はその手を振り払って悪態をつくかのように言った。

 

「シッ!あれを見ろ!」

 

 小声で短く言うと沈黙のポーズを取りながら向こうを指さした。なんのことか分からずその指先に目をやると、瞬時に理解できた。

 

 川岸のやや下流、開けた岩場に、二つの灰色の影が見えた。しなやかな体躯、逆立った灰色の毛並み、地に伏せるようにして何かを咥えている。

 

 ――狼だった。二頭。その足元には、まだ湯気を立てているような、小鹿の亡骸が横たわっていた。

 

 仕留めたばかりなのだろう。狼たちは獲物を守るように身を寄せ、時折鋭い視線でこちらの気配を探るように鼻先を持ち上げていた。

 

「……最悪だ」

 

 レンが押し殺した声で呟く。誰も動けなかった。

 

 スカイリムの狼――ゲームの中では、序盤で何度も遭遇する、取るに足らない雑魚敵だったはずだ。剣の一振り、あるいは矢の一射で片が付く、そんな認識が僕の頭のどこかにあった。

 

 だがその油断は、次の瞬間、粉々に打ち砕かれることになる。

 

 風向きが変わったのか、あるいは僕らの気配が濃くなりすぎたのか。一頭の狼が、ぴたりと動きを止めた。低い唸り声が、地を這うように響く。獲物を横取りされることを警戒しているのだと、本能的に理解した。

 

「……まずい」

 

 カイが後ずさった、その瞬間。

 

 二頭の狼が、同時に地を蹴った。

 

「っ――ヤバい!逃げろ!!」

 

 レンの叫びが響いたが、もう遅かった。灰色の影が、驚くほどの速さで距離を詰めてくる。僕は反射的に後ろに飛び退いたが、足がもつれ、無様に尻餅をついた。

 

 一頭がレンに向かって突進する。斧を振る間もなく飛びかかられ、噛み付いたまま引き倒そうと首を振る。レンは咄嗟に太い腕を突き出してその巨体で真正面から受け止めた。

 

「うおおおっ!」

 

 牙が前腕に食い込む鈍い音、レンの短い呻き。だがその怪力で、狼の体を強引に引き剥がし、地面へと叩きつける。狼は激しく痙攣し、直ぐに動かなくなった。

 

 もう一頭が、逃げ惑うカイへと矛先を変えた。

 

「く、来るな……!」

 

 カイは短剣を抜く間もなく、ただ逃げ回るだけだった。慣れない身体は思うように動かず、足取りは重く、鈍い。逃げようとして木の根に足を取られ、体勢を崩す。

 

「がっ……!」

 

 転んだ隙に飛びかかった狼の牙が、カイの腕に深々と食い込んだ。悲鳴が森に響き渡る。真っ赤な血が地面に滴り落ちるのが、視界の端に焼き付いた。

 

「カイ!」

 

 僕は叫びながら、咄嗟に手のひらを狼に向けていた。何か――何でもいい、ゲームなら最初から火炎の魔法を使えたはずだ。頭の中でそう念じた瞬間、手のひらの奥に、確かに熱いものが集まる感覚があった。

 

 魔力が、集束していく。

 

 だが、それをどう「放てば」いいのか、僕にはまるでわからなかった。感覚はある。手応えもある。なのに、それを制御する術がどこにもない。集まった熱は行き場を失い、パチッと小さな火花を散らしただけで、虚しく霧散した。

 

 ――使えない。

 

 絶望が胸を刺す暇もなく、レンが咆哮のような声を上げながら突進した。

 

「離れろっ!!」

 

 カイに食らいついていた狼にめがけて斧を振り下ろした。狼はすんでのところで身を躱したが、レンの一撃を尾に受けてしまい、狼の悲鳴と同時に尾が地面に転がった。手負いとなり、劣勢を悟ったのか、狼は牙を剥き出しにしたまま後退り、やがて森の奥へと駆け去っていった。

 

 静寂が戻る。荒い呼吸だけが、三人の間に響いていた。

 

「……カイ、大丈夫か!?」

 

 僕は震える足で駆け寄った。カイの腕には牙によって穴が空いていた。出血はあるものの、比較的軽傷にも見えた。

 

「っ痛ぇ……」

 

 カイが歯を食いしばりながら、傷口を押さえる。僕は自分の着ている粗末な布を裂き、傷口をきつく縛った。手が震えて上手くいかない。何もできない自分への苛立ちと、それでも動かなければという焦りがせめぎ合う。

 

「……すまん。俺が、もっと早く助けに行ければ」

 

 レンが肩を落とす。彼自身も牙で抉られた前腕から血を滲ませていたが、それを気にする素振りすら見せなかった。

 

「……いや。誰のせいでもない」

 

 カイが痛みに顔を歪めながらも、絞り出すように答えた。

 

 誰もが痛感していた。ゲームでは瞬く間に片付けていたはずの、ただの狼二頭。それにここまで手も足も出ず、連携の欠片もなく、それぞれがバラバラに、なす術もなく蹂躙されかけた。

 

 知っているということと、生き延びられるということは、まったくの別物なのだと――その事実が、傷の痛みと共に骨身に染み込んでいった。

 

 しばらくの沈黙のあと、レンがおもむろにカイのダガーをとりだし、川岸にある狼が仕留めた小鹿の亡骸に近づいた。

 

「……レン?」

 

 僕が声をかけるのも聞こえていないかのように、レンは膝をつき、ダガーを鞘から抜いた。そして、まるで幾度となく繰り返してきた動作であるかのように、迷いのない手つきで小鹿の腹に刃を入れ始めた。

 

「お、おい……何して……」

 

 カイが痛みを堪えながら目を丸くする。僕も言葉を失った。

 

 その手つきは、明らかに素人のものではなかった。関節の位置、皮を剥ぐ角度、内臓を傷つけずに取り出す手順――まるで体が、頭で考えるより先に、やり方を「知っている」かのようだった。

 

「……レン、お前、鹿なんて捌けたのか?」

 

 僕が尋ねると、レンは自分の手元を見つめたまま、困惑した声で答えた。

 

「わからない……気づいたら、体が勝手に動いてた」

 

 その声には恐怖と驚きが入り交じっているように聞こえた。

 

 知らないはずの技術や知識が自分の意思とは関係なく発現する。そんなことが有り得るのだろうか。自身の記憶に無いものなのであれば、これは体に染み付いた習慣……この肉体が持つ記憶とでも言うのだろうか。もしそうなら、さっきの……力が中から外へ流れ出る感覚も同じ理由で説明がつくだろうか。

 

「なんだかよく分からないけど、便利でいいじゃないか」

 

 カイがぽつりと呟いた。レンは照れるように笑っていた。極度の緊張から場が少し和らいで、僕も答えの出ない疑問をひとまず脇へ置く事にした。今はそれよりも、目の前にある現実の方が、遥かに重要だった。

 

 やがてレンの手によって、小鹿は貴重な肉塊へ、狼は毛皮へと姿を変えた。血の匂いに顔をしかめながらも、僕らの胸には確かな安堵が広がっていた。これで、今夜を生き延びる糧が手に入った。

 




最後まで読んでいただきありがとうございます。
文章を書くのはあまり得意ではないので読みにくいところも多いかと思います。
この物語はなるべくリアルさを追求していこうと思い、執筆しています。感想や指摘など大歓迎です。とても励みになります。
よろしくお願いします。
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