鋸の音と水車の軋みに包まれた製材所での日々は、驚くほど早く「日常」というものに変わりつつあった。
あの化け物騒動から、5日ほどが経っていた。カイの右腕の傷はほぼ塞がり、レンの頬の切り傷も薄い線を残すだけになっている。
朝靄の残る村の広場に三人は居た。倒木を平にならしたベンチにこしかけ、今日の予定をすり合わせていた。作業着を着こなす三人は、どこから見てもこの世界の労働者として溶け込んでいた。
「――というわけで、今日はジャルデュルさんに家まで来るように言われてるから、午前中は別行動だね」
ジュンヤがシャツの襟を直しながら話す。簡素な労働者用のシャツだが、三人にとっては麻布より格段に着心地が良い代物だった。
「へぇ、いいご身分だな。俺たちは伐採の作業だってのに、魔法使い様は女主人の御用聞きかよ」
カイが片眉を上げてからかうように言う。だが、口調に棘はなかった。
「僕だって好きで行く訳じゃないよ。ジャルデュルさんに言われたんだから仕方ないだろ」
「わかってるって。……とはいえ、そろそろ三人揃って休める日が欲しいな」
レンが斧を肩に担ぎながら、少し寂しそうに笑った。
「話が終わったらすぐ行くよ。ここからそう遠くないだろ」
「そんなに急がなくていいぜ。お前のことだから給料アップの交渉もしてくれるんだろ? 楽しみにしてるぜ」
カイの軽口に、ジュンヤは苦笑を返した。
「気をつけてね、二人とも」
「ああ、また後でな」
短いやり取りを最後に、三人はそれぞれの方角へと足を向けた。ジュンヤの背中が家屋の影で見えなくなるのを見送ってから、カイとレンは斜面沿いの林道へと歩き出した。
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その日、二人に言い渡されたのは、製材所からやや離れた斜面での伐採だった。切り出したばかりの丸太を挽くだけでは追いつかないほど、木材の需要が伸びているらしい。内戦の余波で砦や柵の補修が各地で相次いでいるのだと、ジャルデュルは苦い顔で説明していた。
2人が指定の場所に着くと、荷馬車を連れた作業員が既に仕事を始めていた。軽い挨拶を済ませ、林の中へ二人は入っていった。
「それにしてもジャルデュル、ジュンヤに何を頼もうとしてるんだろうな」
レンが斧を肩に載せながら話す。
「さぁな……。なんにせよ、面倒事でなきゃいいんだが」
二人はぼやきながらも、慣れた足取りで斜面を登っていく。そこは村から半刻ほど歩いた針葉樹の林の縁で、そこには切り出しやすい古木が並んでいた。その中の一本に目をつけると、背中の弓を下ろして作業を始める。
交互に斧を振りながら、カイはレンの仕事ぶりを見ていた。この数日で、レンの斧さばきは見違えるほど滑らかになっていた。狙った角度に、狙った力で、無駄なく刃を打ち込む。木屑が舞うたび、乾いた音が林に響いた。
「お前、木を切るのもすっかり様になってきたな」
「そうだな、この体の使い方もだいぶわかってきたような気がする」
レンがそう言って斧を振り下ろすと、太い幹が乾いた悲鳴を上げてぐらりと傾いだ。轟音とともに古木が倒れ、周囲の下生えを巻き込みながら地面を揺らす。
「まずは一本」
満足げに額の汗を拭うレンを見て、カイは小さく笑った。
「こんなのさっさと終わらせて狩りに行こうぜ。干し肉ばっかり飽きてきたろ? 捌くのは任せたぞ」
「おいおい、調子のいいことばっかり言ってバレて一緒にしょっ引かれるのは御免だぞ?」
「そう言うなよ。近くの婆ぁさんが新鮮な牛乳をくれたんだよ。だから今日は鹿肉のシチューなんて……」
最後まで話すことなく、カイは黙り込んで辺りを見渡した。喉の奥がひくりと動き、握った拳にじわりと汗が滲む。獣とは違う、何か不気味な気配が肌を撫でていた。
急いで傍らにあった弓を取り、ほぼ無意識的に指先を矢筒へと伸ばした。理由は、はっきりとは言葉にできない。ただ、さっきまで梢の上で鳴いていた鳥の声が、いつの間にか途絶えていることに、体の方が先に気づいていた。カイの異変に、レンは疑問の表情を浮かべている。
「……レン、用心しろ」
「どうしたんだよ。急に……」
「いいから武器を構えろ! 今すぐに」
低く鋭い声に、レンもようやく異変を察し、斧を握り直した。風が針葉樹の梢を撫でる音だけが、やけに大きく耳につく。
カイは息を殺し、視線だけを巡らせた。木々の隙間、下生えの陰、斜面の向こう――どこにも動くものは見えない。だが、うなじの産毛がちりちりと逆立つ感覚は消えなかった。獣の唸りとも息遣いとも違う、ただ粘りつくような視線だけが、こちらの一挙一動を舐め回している。
「……誰か、見てる」
カイの声に、レンの喉が小さく鳴った。
「誰だ!用があるなら出てこい!」
カイが弓に矢を番えながら、努めて平静な声を張り上げる。だが、応えたのは沈黙ではなかった。
突如、茂みの向こうが妖しく光り、氷の礫が飛び出した。礫は二人の前方に着弾し、地面が音を立てて凍りついた。間もなく、二つの人影が現れる。杖を持った大柄な男と、細身の女に見える黒いローブの影が、じりじりと間合いを詰めてきた。フードの奥に覗く青い瞳は、凪いだ湖面のように波一つ立てていない。
「……これは僥倖と見るべきか」
男が低く呟いた。まるで路傍の石ころを数えるような、何の抑揚もない声だった。
「なに言ってんだ、お前」
カイが弓を引き絞ったまま、鋭く問い返す。だが、男はそれに答えることすらしなかった。静かに右手を上げると、それが合図だった。
女がゆっくりと身を沈めた。細身の体つきに、しなやかな動き、猫科の獣を思わせる低く無駄のない構えだった。指先を弾くと、ぼんやりとした紫の光が右手の周りに渦を巻き、次の瞬間には一振りの短剣がその手に握られていた。何もない虚空から、光の粒子が凝縮するようにして生まれ出た刃だった。
「――あれは」
レンの目が、その異様な光景を捉える。実体を持たない光が、一瞬にして鋼の質感を帯びる。まるで、必要な時にだけこの世に呼び出されているかのような、不気味な武器だった。刃の表面には、うっすらと白い霜が這うように広がっている。
「召喚武器か……!」
考える間もなく、壮年の男が杖をこちらへ向けた。杖の先に、澄んだ青白い光が瞬く間に凝縮していく。放たれたのは、鋭く尖った氷の柱だった。空気を切り裂く鋭い音とともに、カイの立っていた地面へ突き刺さる。
カイは反射的に横へ転がり込み、木の幹の陰に身を隠した。氷柱は幹に突き刺さり、パキパキと不気味な音を立てて根元まで凍りつかせていく。遠間から放たれるそれは、狙いも威力も申し分なかった。
カイも応戦しようと幹の陰から身を乗り出し、矢を放つ。男もまた別の木の裏へ滑り込み、次弾のために杖を構え直していた。
「そっちがその気なら――」
カイは矢筒から続けざまに二本を抜き、攻撃の隙を突くように連射した。一本は逸れたが、もう一本が男の頬を掠める。血が一筋、頬を伝った。
「……多少は、やるようだな」
頬から一筋垂れる血を、男は指の背で拭っただけだった。それきり男は氷柱ではなく、代わりに細かな氷片の礫を連続で放ってくる。カイは幹を盾に転々と位置を変えながら応射を続けたが、互いに決定打を欠いたまま、削り合うような一進一退が続いた。距離を保ったまま近づかせない男の戦い方に、カイは徐々に呼吸を乱していく。
一方、レンの前に立つ女は短剣を逆手に持ち替えると、地を這うように身を低くし、素早く背後へ回り込もうとする。
「クソッ! 何なんだよ……!」
レンが唸りを上げる斧を振るって追い払おうとするが、女はその軌道を読み切っていたかのように、最小限の動きで躱す。まるで猫が獲物との間合いを測るような、無駄のない足運びだった。振り抜いた斧が空を切る隙に、彼女は既に懐へと入り込んでいる。
「速い……!」
短剣の切っ先が肩口を掠め、薄く皮膚を裂いた。レンは咄嗟に斧を横薙ぎに振り抜くが、ひらりと躱される。荒い呼吸の下で、油断なく相手を見据えた。
女は追撃をかけず、代わりに、空いた左手を前に突き出した。女が何か囁くと、掌から氷の粒が巻き上がった。視界を白く塗り潰すほどではないが、レンは堪らず後ろに下がる。すると突然、天地がひっくり返る。驚いて足元見るとそれは、杖の男が初めに放った礫によって凍った地面であった。この時初めてレンはまんまと術中に嵌ったことに気づいた。この隙を、女は見逃すはずもなく、勢いをつけてとどめと言わんばかりに飛びかかる。首筋を狙った短剣はレンの太腕に阻まれたが、深く突き刺さった。
女は口元に勝ちを確信した笑みを浮かべ、そのまま滅多刺しにしようと刃を振り上げる。だが、その思惑が崩れるまでに、瞬きひとつの間もなかった。
「がっ……! うぉぉぉッ!!」
レンは馬乗りになっている女の顔を掴むと、そのまま力任せに放り投げた。身体は宙を舞い、勢いよく近くの樹木に叩きつけられる。
「ぎゃぁっ!」
濁った悲鳴をあげて、女は地面に伏した。はだけたフードから見える顔が、痛みに歪んでいる。
しかしそれはレンも同じだった。腕に刺さった短剣を抜き捨てると、それは光の粒になって消えた。
傷口から血が止めどなく溢れ出す。傷は深く、痛みに身体が震えていた。
「……レン!」
女の悲鳴に気を取られたのも一瞬、カイが叫んだのと、壮年の男が動いたのはほぼ同時だった。倒れた女へ向けた視線は、傷の深さを値踏みするほんの一拍で離れていく。男はもう、杖先に新たな光を灯し、動けずにいるレンへ狙いを定めていた。
「させるかよ……!」
カイは残った矢のすべてを使う覚悟で、男の射線へ割り込むように矢を放った。杖を振りかぶる一拍を縫うような一矢に、男は僅かに手元を狂わされる。放たれた氷柱は、レンの肩先を掠めるだけに留まった。
男の視線が、倒れ伏した女、矢を構え直すカイ、立ち上がろうとするレン――その三点をゆっくりとなぞる。品定めする商人のような、静かな目の動きだった。
「――退くぞ」
それだけを言うと、男は杖を下ろし、既に踵を返しかけていた。
女はふらつきながらも自力で立ち上がり、短剣を再び呼び出そうとしたが、男は首を横に振った。
「やめておけ。これ以上消耗するな」
その一言で、女は諦めたのか悔しさを滲ませた顔でこちらに一瞥しながら後退していく。
「――待てよ、お前ら……!」
カイが追おうとすると、男は両手を大きく広げ、何かを呟いた。すると辺りが突然、吹雪に包まれて身動きが取れなくなる。カイはふたつの影が木々の合間へと消えていくのを、ただ見送るしかなかった。
林には、荒い呼吸と、点々と残る血の跡だけが残された。
「レン、大丈夫か!?」
カイが駆け寄ると、レンは血の滴る腕を押さえながら、引きつった笑いを浮かべる。気丈に振舞っているが、痛みに体が小刻みに震えている。
「……ぎりぎり、な。まさか首筋狙われるとは思わなかった」
「馬鹿、笑ってる場合か。早く止血しねぇと」
カイは自分のシャツを裂いて、レンの腕にきつく巻きつけた。鉄錆に似た血の匂いが、冷たい森の空気に濃く滲む。
「あいつら……マジで殺しに来てたよな?」
レンが呻きながら呟く。
「ああ。……でもあっさり退きやがった。わけがわからねぇ」
カイは険しい顔で、二人が消えていった木々の奥を睨んだ。
「こっちを探してたような口ぶりだったな。奴らの服装と言い、あの祭壇となにか関係が…うぅ…痛ぇ」
「かもな。……とにかく、今は戻ろう。お前のその腕、ちゃんと診てもらわねぇと」
二人は互いの怪我を確かめ合いながら、来た道を急ぎ足で戻り始めた。斜面の下、村の煙が細く立ち昇るのが見える。二人は無言のまま足を速めた。
ジャルデュルの家で、ジュンヤは何を告げられているのだろうか。そんな考えが、ふとカイの頭をよぎった。
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夜も更けた頃、森の奥深く。切り立った岩肌に半ば埋もれるように口を開けた洞窟の中で、松明の灯りが揺れていた。
壮年の男に肩を貸されながら、女がよろよろと足を引きずって戻ってくる。出迎えた同胞の手で、手早く傷の手当てが施されていく。
その一部始終を、奥に座す人影が黙って見つめていた。
松明の光すら避けるように、フードを深く被ったまま身じろぎ一つしない。声を発するまで、そこに人がいることにすら気づかせないほどの静けさだった。
「――報告を」
短い一言が、洞窟の岩肌に反響して消える。それだけだった。喜びも怒りも、その声の温度からは何一つ読み取れない。
壮年の男が片膝をつき、淡々と経緯を語り始めた。
「任務からの帰路の途中、偶然にも例のオークとレッドガードに遭遇しました。……始末しようとしましたが、想定以上の抵抗に遭い、断念しました。申し訳ありません」
短い沈黙が落ちた。フードの奥から注がれる視線が、傷の手当てを受ける女の方へ、僅かに動いたのが分かった。
「――お前まで手傷を負うとは、目算は狂ったか」
壮年の男は顔の切り傷を撫でながら話す。
「申し訳ありません。膂力も、身のこなしも、想定を上回っていました。……素体と上手く適合しているようです」
「術の完成度の高さが裏目に出るとはな……皮肉な事だ」
フードの奥で、乾いた息が一つ漏れた。
「計画の方はどうなってる?」
「はい、北の古い鉱山を根城にしていた山賊の一団を見つけました。……彼らが陽の下を歩くことは二度とないでしょう。必要な"材料"は、既に鉱山の奥に揃えてあります。いつでもご命令を」
まるで収穫の首尾でも語るような、ひどく凪いだ声だった。感情の色は、そこにも一切滲んでいない。
「よろしい」
リーダーの男は短く言うと、続けた。
「あの二人は放っておけ。必要なのは一人だけだ」
「――あのブレトン……!」
女が痛みに顔を歪めながらも、口を挟んだ。リーダーは、それにゆっくりと頷いた。
「あの夜、我らが同胞の数多くを討った者だ。……その報いは、必ず受けさせる」
その一言だけ、僅かに掠れていた。松明の炎が、その声の余韻をなぞるように一段大きく揺れた。
「居場所は、もう絞れている」
リーダーは、それだけを言い残すと、再びフードの奥に静けさを戻した。それ以上の言葉はなかった。松明の炎が爆ぜる音だけが、洞窟の中に静かに響いていた。