朝の廊下には、大きな窓から爽やかな朝の光が差し込んでいた。
生まれつき影が薄く、クラスの誰からも気づかれないことに悩んでいた遠藤浩介は、教室に上がる前に喉を潤そうと、一階の自動販売機へと歩いていた。
「よっ、遠藤。どこ行くっちゃ?」
後ろから、鈴が転がるような、少しハスキーで軽いノリの声が聞こえた。
振り返ると、肩まで届く金髪の毛先をゆるく巻き、制服を少し着崩したギャル――南雲ハジメが、登校してきたところだった。身長168センチのモデル体型。右手に付けたお気に入りの水色のシュシュが、彼女の歩調に合わせて小さく揺れる。
「あ、南雲。ちょっと自販機に飲み物を……」
「あ、じゃああーしの分もよろー! ミルクティーね!」
ハジメはスクールバッグのチャックをガサゴソと開け、小綺麗な財布から百円玉を二枚、遠藤の手のひらにチャリンと握らせた。
ハジメが自分のジュース代として渡してきたその硬貨を見て、遠藤は「おい南雲、一本にしてはちょっと多いぞ」と、戸惑いながらツッコミを入れた。
するとハジメは、立ち止まりもせず、振り返りもせずに、ヒラヒラと細い手を振りながら、廊下の向こうへ歩き去っていく。
「アンタの分☆」
軽やかに笑いながら、そのまま「おはよー香織〜!」と教室の奥へ消えていくハジメ。
手のひらの二百円を見つめ、遠藤は自販機の前でガックリと肩を落として、ボソッと呟いた。
「……足りねぇよ」
昨今の自販機は、物価高で一本百四十円〜百六十円がデフォルトなのだ。二百円ではハジメのミルクティー一本しか買えず、結局遠藤は自腹の小銭を足してハジメの分を買った。
遠藤は、ハジメがくれた『自分の分』としての百円玉を、そのままなんとなく制服のポケットへと突っ込んだ。その顔はほんの少しだけ嬉しそうに口元を緩めていた。
ーーーーー
朝のホームルーム前の教室の窓際では、いつものようにハジメを中心とした輪ができていた。
ハジメの隣の席で、無愛想にスクリーントーンをカッターで削っているのは清水幸利だ。
「ちょっと清水ぁ! 昨日あんたに『なんか漫画貸して』って言ったらさ、何あのなろう系のエッチなやつ! あーしが異世界に妙な偏見持っちゃったらどうすんの!?」
「あ? なんか貸してって適当に言ったお前が悪いだろ。俺のコレクションに文句言うな」
「開き直んなし! もっとこう、きゅんきゅんする少女漫画とかストックしときなよ! ママンの原稿の手伝い、トーン貼りマジで終わんないんだから愚痴くらい聞いてよね!」
「いちいちうるせぇぞ。貸し一つだからな」
ハジメがふくれっ面で清水の肩を小突く。中学時代からの悪友としての、遠慮のない、心地のいい空気感。
だが、その微笑ましい光景の横で、突如として目に見えないほどの重圧(プレッシャー)が膨れ上がった。
「……ねぇ、清水くん?」
背後からかけられた冷ややかな声に、清水の背筋が凍りつく。
振り返ると、そこにはクラスの聖女・白崎香織が立っていた。彼女は美しいシルバーリングをはめた細い指で、清水の腕をぎゅっと、肉に食い込むほどの力でホールドする。
「清水くん……ハジメちゃんに、何を、貸したのかな……? 詳しく、教えてくれる?」
「あ、いや、白崎さん……? 目が、目が笑ってないんだけど……」
「ハジメちゃんは純潔なんだよ? 変な毒を吹き込まないでくれるかな……ね?」
「いけぇ香織ぃ!やれやれぇ!」
「ちょっと香織、顔。ハジメを害する敵みたいに清水くんを見るんじゃないの。……清水くん、ごめんなさいね。ハジメも、あんまり面白がって煽るんじゃないの」
二人の間にスッと割り込み、香織の肩を優しく、だが確実に押さえて引き離したのは八重樫雫だ。腰まで届く黒髪をきっちりと結い上げた、凛とした佇まいの美少女。
ハジメとは呼び捨てで呼び合う、クラスの誰もが認めるもう一人の大親友であり、この暴走しがちな空間の優秀なストッパーでもある。
「だーって雫〜、香織のこの過保護なオカン顔、マジでおもろくね? 必死すぎて超ウケるんだけど!」
「笑わないの。……はぁ、まったく……」
ハジメの調子のいい返しに小さく溜め息をつき、困ったような、どこか呆れたような苦笑いを浮かべる雫。
だが、雫はふと視線を落とし、その眩しいやり取りに、ほんの少しだけ羨ましそうな視線を送っていた。ハジメのように自分の好きなものを堂々と叫び、誰の目も気にせず笑い合える自由さ。いつも黒髪をきっちりと結び、模範的な生徒として振る舞う雫にとって、そのフランクな輪は、どこか眩しすぎるものだった。
「香織マジ天使〜! 今日も距離感バグってて可愛い! 放課後ショッピング付き合ってよ!」
「うん……! ハジメちゃんが行くなら、私、どこまでも付いていくよ……!」
ハジメに抱きつかれて一瞬でふにゃりと満面の笑顔になる香織。清水は冷や汗を拭いながら「鈍感って怖えな」と心の中で呟いた。
少し離れた席からは、園部優花が一人、その窓際の賑やかさを冷めた目で見つめていた。
「相変わらず、南雲さんは騒がしいわね」
ぽつりと他人行儀な声で独りごちた、その瞬間。ふとした拍子にハジメと目が合ったが、彼女のその真っ直ぐな瞳に気圧され、本能的にパッと気まずそうに目を逸らした。
――そんな窓際のバカ騒ぎを、教室の後ろからじっと見つめている少年がいた。
天之河光輝。文武両道、誰もが認めるクラスのイケメン人気者だ。
「天之河くん、次の球技大会のシフトなんだけどさ、どっちがいいと思う?」
「あ、うん。俺はみんながやりやすい方でいいよ。調整ありがとね」
「やっぱり頼りになる〜! 天之河くんなら絶対そう言ってくれると思った!」
光輝の周囲には、常に多くの男女が集まっていた。物理的な意味での孤立など、彼の人生には一度だって存在しない。誰にでも優しく、完璧に応える光輝は、今日もクラスの誰もが認める中心人物だった。
「なぁ龍太郎、今日の昼飯さ――」
「あー、わりぃ光輝! 今日昼休みに部活のミーティングあんだわ。お前はほら、生徒会の書類とかあんだろ? またな!」
「あ……うん、そっか。ミーティング、頑張れよ」
親友である坂上龍太郎に背を向けられ、光輝はふと、窓際へと視線を向けた。
金髪を揺らし、赤点スレスレで、不真面目で、サボることばかり考えている南雲ハジメ。その周りには、遠藤や清水、香織や雫、さらには谷口鈴に連れられた中村恵里までもが一緒になって集まっていた。ちょうど自販機から戻ってきた遠藤の姿を見るなり、ハジメが突然ケラケラと笑い声を上げた。
「ちょっとみんな聞いてよ! あーし、この前の休みの日に街でたまたま遠藤と会ったんだけどさー! こいつコンビニの自動ドアの前に立っても、影薄すぎてセンサーが全然反応しなくて中に入れなかったの! マジでウケるんだけど!」
「ギャハハハハ! マジか!? マジか!? 遠藤お前、それ都市伝説の域だろ!!」
それまでクールにトーンを貼っていたはずの清水が、カッターを放り出して机を激しく叩きながら、涙目になって大爆笑し始めた。清水のツボに入りきった狂ったような笑い声が教室に響き渡る。
「おいィ!! 南雲ぉぉおぉ!!! 大声でバラすなやぁ!殺すぞ!!!」
普段の影の薄さはどこへやら、遠藤は顔を真っ赤にして、教室の窓ガラスが震えるほどのガチの怒号絶叫を響かせた。
「店員さんとバッチリ目が合ってるのに開かねぇ俺の気持ちにもなれやぁ!! センサーが反応しねぇんだよ、マジで開かねぇんだよオイ!!!」
「ぶっ、ふふ……っ! く、くくっ……遠藤くん、せんさーの前で、じゃんぷ、とか……しなかったの……っ?」
鈴と香織は二人揃って机に突っ伏し、両肩をプルプルと激しく震わせながら、涙目で必死に笑いを堪えて質問してきた。
「したわ!!! ジャンプしてもステップ踏んでも1ミリも開かなくて、結局後ろから来た見知らぬおばあちゃんが開けてくれたんだよちくしょう!!!」
遠藤はそこで一気にお腹の空気を吐き出すと、ガシガシと自分の頭を掻きむしり、忌々しそうにハジメを指差した。
「でおばあちゃんの後ろから店に入った瞬間、たまたま買いものしてたコイツと目が合ってさぁ!! コイツ、格好のイジりネタを見つけたといわんばかりに、無言で『ニタァ……』って、この世の終わりみたいな邪悪な顔で笑ってやがったんだよ!! あの瞬間、俺の平穏な高校生活が終わったって本気で悟ったわ!!!」
「ちょっと遠藤くんそれ最高すぎ。よく真顔でジャンプできたね」
普段は物静かな恵里までもが、お腹を抱える鈴たちの横で「クスッ」と楽しそうにツッコミを入れ、ハジメや雫たちと一緒になって笑いの輪に溶け込んでいる。
(……彼女の周りは、いつも騒がしいな)
光輝は遠くからそのバカ騒ぎを眺めながら、心の中でぽつりと呟いた。
赤点スレスレで、授業中は寝てばかりいて、およそ模範的とは言い難いギャル。そんな南雲ハジメの周囲に、なぜこうも人が集まり、誰もが楽しそうに笑っているのか。呆れ半分、そしてどこか理由のわからない不思議さを覚えるような目線で、光輝はしばしその光景を見つめていた。
やがて午前中の授業が終わり、待ちに待った昼休みのチャイムが鳴り響く。
教室内が一気にお昼ご飯の空気に包まれる中、窓際から悲痛な叫びが上がった。
「嘘でしょ最悪……っ! あーし、今日お弁当忘れたんだけど!! マジで詰んだわー!」
スクールバッグをひっくり返して頭を抱えるハジメ。購買へダッシュしようと立ち上がりかけたハジメの前に、スッと影が差した。香織だった。
「大丈夫だよ、ハジメちゃん。私のを食べよ?」
「え、香織? でもあんたの分が――」
ズルッ!!
凄まじい摩擦音と共に、香織が普通のスクールバッグから取り出したのは、どう見てもバッグの体積を数倍は超越している、漆塗りの超巨大な高級三段重箱だった。
香織は何事もないかのように笑顔でそれを「ドンッ!」とハジメの机の上に広げる。一段目には色鮮やかなおかず、二段目には俵型のおにぎりが美しく敷き詰められていた。
「(……どうやって入れてたんだ、あれ……。四次元ポケットかよ……)」
隣の席の清水は、さっきの爆笑から一転して本気で引いた顔で固まり、心の中で激しくツッコミを入れていた。物理法則を完全にバグらせている香織の愛の重さに、教室内が微かにざわつく。
「わー! 卵焼きも入ってる! 香織、これ普通にめちゃくちゃ美味しいんだけど!! 女子力高すぎてヤバい!」
「本当!? よかったぁ、ハジメちゃんのために朝早起きして頑張ったんだよ!」
ハジメがサバサバとおかずを口に運んで大絶賛すると、香織はふにゃりと天使のような笑顔を咲かせる。
(……いやお前もお前で、出所不明のバカデカ重箱を普通に受け入れて食ってんじゃねぇよ! 少しは疑問に思えや!!)
心の中で全力のツッコミを叩きつける清水を置き去りに、雫や谷口鈴、そして恵里たちもその輪に加わり、おかずを突つき合いながら賑やかに笑い声を上げていた。清水はその横で、ハジメに「はい清水、おにぎり一個あげる」と唐揚げと引き換えにトレードされ、「……サンキュ」と呆れ顔のままコーラで流し込んでいる。
朝の宣言通り龍太郎が不在の中、光輝は他グループの男女に机を囲まれ、笑顔で購買のパンを食べながらも、やはり窓際のあの輪をじっと見つめ続けていた。
朝、廊下で「おっ、光輝クゥゥン〜! 今日も顔面国宝でお疲れ〜」と、ヘラヘラ笑いながら自分の肩をポンポンと叩いて通り過ぎていった南雲ハジメの、あの軽い手のひらの感触。
光輝は無意識に自分の肩をそっと指先で撫でながら、その窓際の輪を、どこか冷めた、それでいて焦れったいような複雑な目で見つめ続けていた。
そんなお昼休みの喧騒の最中、ガラガラと教室の扉が開いた。
部活のミーティングを終えてお腹を空かせた龍太郎が「あー、腹減ったー!」と帰ってきたのとほぼ同時に、小柄な担任の畑山愛子先生が、手に入れたばかりのプリントの束を抱えて入ってきた。
「はーい、みんな席についてくださーい! ……あ、坂上くん、ちょうどいいところに帰ってきましたね」
「愛ちゃん先生だ」「先生、まだ昼休みだよー?」と、クラスのムードメーカーたちが口々に声を上げる。愛子は「もう、先生をちゃん付けで呼ばないの! 午後の授業の連絡が――」と、いつものように怒るポーズを取った、その瞬間だった。
――ピキィィィィィィィィン!!
突如として、教室の床一面に、目も眩むような幾何学模様の光が広がった。巨大な魔法陣。
「な、なんだこれ……っ!?」
教室中から悲鳴が上がる中、反射的に動いたのは雫だった。床の異変を察知するやいなや、すぐ隣にいた香織の腕を強く掴んで引き寄せる。
「香織、離れないで……!」
「っ、ハジメちゃん……!」
香織が恐怖に震えながら伸ばした視線の先にいたのは、光輝でもなければ自分自身でもなく、目の前で目を輝かせているハジメの姿だった。
パニックに陥る教室の中で、しかし、南雲ハジメだけは床の幾何学模様をガン見して、すっかり目を奪われていた。
「待って……!? この床の模様、デザインめちゃくちゃ細かくない!? え、何これ、すっごい綺麗! 写真! 写真撮りたいんだけど携帯どこ!?」
「南雲、お前この状況で何言ってんだよ!?」
「写真撮ってる場合かアホギャル!! いいから早く逃げろっつの!!!」
清水と遠藤の息の合ったツッコミと叫びが響く。
直後、爆発的な白い閃光が教室を完全に包み込み、彼らの意識は暗転した。
なんかいいタグとかあればお願いします