「皆って進路とかもう決めてるん?」
——中3の秋。橙色から急速に紺色へと溶けていく夕暮れの公園に、ハジメの唐突な声が響いた。冷たい秋風が吹き抜けて、周りの空気はどこか寂しげだ。
少し離れた公園の端。キーコ、キーコと小さな金属音を立てるブランコに、だるそうに腰掛けている人影があった。ハジメにLINEで強引に呼び出された清水だ。
「……南雲の奴、寒ぃのに何でこんな公園に呼び出すんだよ」
呼び出した礼にと放り投げられた、すっかり冷え切った缶コーヒーの温もりでかじかむ手を温めながら、清水はハッと白く濁る息を吐き捨てた。ボヤきつつも帰ろうとしないのは、息の詰まる自宅にいるより遥かにマシだからであり、何よりこのウザい呼び出しが自分にとっての居場所なのだと自覚しているからだった。清水は少し離れた場所から、ベンチの周りに集まる女子三人のやり取りを、その缶コーヒーを時折啜りながら静かに眺めていた。
ベンチでは、街灯の薄明かりの下で進路希望調査票が広げられていた。ハジメの問いかけに、香織が真っ先に嬉しそうに答える。
「私ね、ハジメちゃんと同じ高校に行けたらそれでいいかな! ハジメちゃんがどこ受けるか決めたら絶対教えてね!」
香織は迷いのない、けれどハジメという存在に全てを委ね切った無邪気な笑みを浮かべている。
「え〜、香織あーしのこと好きすぎでしょw てか、そこの舎弟! アンタはどこ行く気なん?」
ハジメがチラリとブランコへ視線を向け、ニヒヒと悪戯っぽく笑いながら話を振る。
すると清水は、缶コーヒーを口から離し、不機嫌そうに明後日の方向を向きながら吐き捨てた。
「……教えねーよ!」
「何よその言いぐさ! 舎弟のくせにケチー!」
「うるせぇな、お前に言う必要ねぇだろ!」
バカにするようにキーキーと喚くハジメを冷たく突っぱねる清水。息の詰まる家から遠ざかりたいだけの冷めた自分の進路など、家を出られればどこでもいいと思っているからこそ、こんな眩しい奴に明かせるはずもない。ハジメは不満そうに「ちぇー」と頬を膨らませたが、秋になってようやく重い腰を上げたかのように、あっけらかんと言い放った。
財布の紐を緩めてまで自分を呼び出しておきながら、当の本人はこれまで全く進路のことなど考えていなかったらしく、今になって急に思い立ったようにこう続けたのだ。
「まぁいいわ! やっと決めたし! あーしが受けるのは服飾デザインのコースがある私立!」
少し離れたブランコから、清水が「……へえ、秋になってようやく即決かよ。迷いとかねぇのか?」と呆れ半分に声を潜めて尋ねる。
ハジメは前髪をくしゃっとかき上げると、薄暗い公園の中でニカッと眩しい笑顔を咲かせ、大音量で宣言した。
「迷う意味分かんなくね!? 高校出たら、あーしが目指すは**アントワープ王立芸術アカデミー**だから!!」
「……あ? アント……なんだって?」
あまりにも聞き馴染みのないイカツい単語に、清水がブランコの上でポカンと首をひねる。
「はぁ!? 知らんの!? ベルギーにある世界最高峰のファッションの名門校だよ! マルジェラとかドリス・ヴァン・ノッテンを生み出した伝説の学校! 課題が過酷すぎて毎年半分以上脱落する超スパルタだけど、あーしは絶対そこ行って、自分のブランド立ち上げて世界中に発信したいの! ファッションってさ、自分を一番カッコよく表現できる最強の武器じゃん? だから妥協すんのナシ!」
ハジメは拳を突き上げ、熱っぽく語り散らす。
ただの思いつきや格好つけではない。自分で調べ上げ、世界の頂点を見据えた上で突き進もうとしている本気の熱量。
ハジメにとっては純粋な夢の叫びに過ぎない。
だが——その場にいた三人にとって、ハジメの将来が「世界レベルでやけにはっきりと見えている」という圧倒的な取扱注意の眩しさは、秋の薄暗がりの中で直視できないほど凄まじかった。
離れたブランコの上で、清水は「……マジかよ。相変わらず夢のスケールだけは馬鹿でけぇな」と呆れたように缶コーヒーを煽りつつ、あまりの熱量の差に苦笑混じりの溜息をついた。
香織は「やっぱりハジメちゃんはすごいなぁ……! 世界のアントワープだね!」とうっとりと瞳を輝かせ、さらに深い狂信を宿らせる。
そして、雫は——。
(……アントワープ……世界最高峰の芸術学校……)
知識として知っていた。世界のファッション界を牽引する、圧倒的な異才と独創性しか生き残れない地獄のような名門。
ポケットの中で、自身の爪が掌に食い込むほど強く拳を握り締める。
『八重樫家の跡取り』。幼い頃から決められたレール。行くべき高校も、歩むべき道も、すでに家柄と父親によって「型」が嵌められている自分には、選ぶ自由など日本の高校ですら存在しないというのに。
(どうしてこの子は……こんなにも遠い未来まで、迷いなく見つめられるの……?)
冷たい秋風が吹き抜ける中、雫の胸の奥底から、泥のように濁った暗い感情がじわじわと溢れ出してくる。
自分は幼少期から感情を殺し、やりたいことも言えず、決められた型の中で必死に「八重樫雫」という模範的な優等生を演じて生きてきた。
それなのに、目の前の少女は日本の枠すら飛び越えて、自分の「好き」を貫き、自らの手で世界の頂点を掴み取ろうとしている。
(ずるい……。羨ましい……。……憎らしい)
薄暗い公園の街灯に照らされるハジメの横顔、世界を見据える真っ直ぐな瞳を見つめるたび、狂おしいほどの羨望と、自分への凄惨な惨めさが胸を焼き尽くしていく。
ハジメが眩しければ眩しいほど、さらに雫の影は色濃く、暗く泥濘(ぬかるみ)んでいくのだ。
「……雫ちゃん? どうしたの、顔色悪いよ?」
香織に覗き込まれ、雫はハッと正気に戻った。
咄嗟に引きつりそうな表情を抑え込み、いつもの「一歩引いた冷静な保護者」の仮面を被り直す。
「……なんでもないわ。ハジメがあまりにも途方もない夢を本気で語るから、少し呆れていただけよ」
「……ふん。口だけにならなきゃいいけどな。てかお前、基本バカなのに今からそんな学校行けんのかよw」
遠くから清水が意地悪そうにニヤリと笑って冷めたツッコミを入れると、ハジメの肩が分かりやすくビクッと跳ねた。
「ぐっ……!? バ、バカ言うな! 英語とデザインの実技審査があればいけるし……たぶん!」
語気の強さとは裏腹に、今になって慌てて進路を決めたツケの大きさに気づき、急にシュンと弱気になって目を泳がせるハジメ。
すると香織が両手をぎゅっと握りしめ、目を輝かせながら身を乗り出した。
「大丈夫だよハジメちゃん! 行きたい高校の受験勉強も、英語も、私が手取り足取りしっかり教えてあげるから! 一緒にがんばろ!」
「香織〜〜っ! マジ女神! どこぞの減らず口の舎弟とは大違い〜!」
涙目になったハジメが香織にしがみつき、香織がうっとりとその背中を抱きしめる。遠くで清水が「……都合いい奴だな」と呆れ顔で缶コーヒーの最後のひとくちを飲み干した。
そんな騒がしくも温かいやり取りを横目に、雫はポケットの中で震える自分の手を強く、強く握り続けた。
ハジメの自由さが眩しくて、愛おしくて、そして反吐が出るほど妬ましい。
(私には……絶対に手に入らない未来。絶対に選べない生き方……)
この自由に世界へ羽ばたこうとする太陽を、いっそ泥の中に引きずり下ろしてしまいたいという歪んだ衝動。
一歩引いたツッコミ役のフリをしながら、雫は自らの内に芽生えた恐ろしいほどの【ドロドロとした歪な恋心と強烈な嫉妬】に苛まれていた。
自分がこの少女の隣に立ち続ける限り、この暗い苦しみから逃れることはできない。
それでも離れることなど到底できないほど、ハジメという太陽は、すでに雫の魂の深くまで根を張っていたのだった。
---
——そして、季節は巡り、春。
満開の桜が舞い散る中、清水幸利は真新しい制服に身を包み、校門をくぐっていた。
あの後、家からなるべく離れていて、親の目が絶対に届かないであろう私立高校を片っ端から調べ上げ、死ぬ気で勉強して見事合格を勝ち取ったのだ。
「ふぅ……これでやっと、あの息の詰まる家からも離れられたし、静かで平和な高校生活が送れる……」
心の中でガッツポーズを決め、晴れやかな気持ちで割り振られた教室のドアを開けた、まさにその瞬間だった。
「あっ! 清水ぁー! アンタもこの高校だったの!? マジウケるんだけど!!」
教室の真ん中で、相変わらずダボッとした制服の着こなしで元気に手を振るギャル——南雲ハジメの姿があった。
「えっ……南雲……!?」
清水の思考がピキリとフリーズする。
ハジメが目指していた服飾コースのある私立高校と、自分が「家から遠い」という理由だけで選んだ私立高校が、まさかの同一校だったのだ。
驚愕で声を詰まらせる清水の横から、ぬるりと聞き覚えのある影が通り過ぎた。
「あ、清水君。ハジメちゃんと同じ高校になれて嬉しいよ。……まあ、クラスは違っちゃったみたいですごく残念だけどね。よろしくね」
貼り付けたような完璧な笑顔を浮かべつつ、瞳の奥からスッと光を消して「邪魔するなよ」と言わんばかりの威圧感を放つ白崎香織。
さらにその直後、廊下からため息混じりの声が聞こえてきた。
「はぁ……まさか、わざわざ香織と一緒にこの高校を受験して、こうして入学することになるなんてね……。まったく、我ながら何やってるんだか」
凛とした佇まいで現れた八重樫雫が、どこか諦めたような、けれどドロリとした執着を瞳に秘めたまま、清水のすぐ傍へと歩み寄る。
香織とは同じクラスになれたものの、肝心のハジメとはクラスが別になってしまったという内心の激しい不満と落胆を、雫は涼しい顔の下に完璧に押し隠し、ただ静かに溜息を吐き出すのだった。
満開の桜、真新しい教室、そして目の前に集結したいつものカオスなメンツ。
必死に逃げ出したはずの自分の理想の平穏は、入学初日の朝、あっけなく音を立てて崩壊した。
清水は、ゆっくりと自分のデスクに突っ伏すと、死んだような目で呟いた。
「……おわった……」
ここで恐ろしいのはこの4人、この時期まで誰も進路を決めていなかったことです