「香織が夜遊び?」
まさかそんな馬鹿な、と雫は思わず聞き返してしまった。
学校でもおとなしく真面目な白崎香織が、夜遊びなどするはずがない。しかし学校の噂というのは、尾ひれがついて勝手に膨らむものらしい。最近、香織が学校の外で「派手なギャルとつるんでいるらしい」という目撃談がいつの間にか歪められ、「あんな派手な奴とつるんでいるんだから、きっと夜遊びもしているに違いない」という大げさで不穏な噂が校内に流れてしまったのだ。
その噂を真に受けた光輝は、大慌てですっとんきょうな早合点をした。「香織が不良に染まって変な夜遊びを始めているかもしれないんだ!」と、親友である雫のところまで飛んできて心配を零していったのである。
さすがにこのまま放置するわけにもいかない。雫は香織の交友関係を正すため、そして噂の真相を確かめるため、「調査」に向かうことになった。
「ねえ香織、最近……夜に外を歩いていたりしない?」
直接問い詰める雫に、香織はきょとんとした顔で小首をかしげた。
「え? 夜遊び? 何のこと?」
見事なまでのきっぱりとした否定である。少なくとも香織自身には、夜遊びをしている自覚が全くないらしい。
「うーん……?」と雫が腕を組んで首をひねっていると、香織はどこかそわそわとした様子で、頬を赤らめながらモジモジし始めた。
「あ、あのね……夜遊びとかは全然してないんだけど……そういえば、今週の日曜日にね、ちょっと一人で街までお出かけする予定があるの……!」
その言葉を聞いた瞬間、雫はパズルのピースがカチリとハマる音を聞いた。他のクラスメイトとではなく一人で街に出かけるなんて、香織にしては珍しい。
(日曜日に一人で……。普段の香織ならあり得ないスケジュールだわ。もしかして、出かけた先で例の派手なギャルと会うつもりじゃ……?)
こうして、香織の怪しい(?)単独行動の裏を探るべく、雫の意図せぬ「尾行・調査作戦」が幕を開けることになったのだった。
◇
そして、その日曜日。
街の通りを少し離れた場所からこっそりと香織の後をつけていた雫は、目を疑う光景に遭遇する。
待ち合わせ場所の近くでソワソワと佇む香織の前に、一人の少女が現れた。ダボダボのパーカーに極太のパンツ。首からじゃらじゃらとチェーンを下げ、スクエア型のサングラスをかけている。まるで本場のB系ラッパーそのものといった、ド派手な格好だった。
(なっ……なによあいつ!? 不良どころか、完全に街の治安を乱している不審者じゃない……!)
呆然とする雫の目の前で、そのB系少女は香織を見つけるなり「あっ! 香織! オッスゥー!」と妙に陽気な声をかけた。香織も嬉しそうな笑みを浮かべて頷き、二人は連れ立って歩き出そうとする。
(まずいわ! あんな危なっかしい格好の不審者に香織が連れ去られちゃう……!)
香織がトラブルに巻き込まれていると勘違いした雫は、隠密行動のこともすっかり忘れて物陰から飛び出した。
「そこまでよ! 香織から離れなさい不審者っ!」
気付けば雫は、道場で鍛え上げた脚力で二人の間に割って入っていた。香織を背中に庇い、凛とした眼光でB系の少女——ハジメを鋭く睨みつける。
だが、ハジメは怯えるどころかポカンと口を開けた。かけていたサングラスが片方ズルッとズレるのも構わず、雫を上から下までまじまじと見つめ返してくる。
「……え、誰? 香織の友達……ってか、うわっ! スタイルヤバッ!!」
「な……っ!?」
警戒する雫のパーソナルスペースなど1ミリも気にせず、ハジメはズイッと距離を詰めてきた。息をのむ雫の全身を、プロの目線で舐めるように観察し始める。
「脚長っ! 背筋の伸び方すごっ! え、てか立ち姿マジでモデルじゃん! どんなポーズ取らせてもシルエット映えそうなんだけど! え、名前なんて言うの!?」
「っ……!? や、八重樫、雫だけど……って、急に近寄らないで!」
「雫ちゃんね! あーしは南雲ハジメ! ねぇ、その黒髪ロングもヤバい! 近くで見ると顔超可愛いじゃんw」
「かわっ……!?」
『八重樫家の跡取り』『武道女子』として、幼い頃から厳しく育てられてきた雫。周囲から求められるのは常に「凛とした強さ」だった。男勝りな自分に引かれることはあっても、同世代の女子からこんなにもまっすぐに「可愛い」「モデルみたい」と褒められたことなど一度もない。ハジメの唐突すぎる直球に、雫の顔がカッと熱くなる。
慌てて仲裁に入った香織から事情を聞かされ、雫は脱力するように肩を落とした。
ハジメのド派手なB系ファッションは、夜遊びの格好などではなかった。贔屓にしているセレクトショップで、新作のセットアップを試着させてもらっていただけだったのだ。
「なんだ……光輝の完全な早合点じゃない……」
雫が安堵の溜息を吐いたその時、ハジメは香織に向かって楽しそうに話し出した。
「いやぁ、びっくりしたぁ? ここ、あーしの行きつけのセレショなんよ! てか、この前店長が『お姉さんそれディスプレイなんで触んないでもらっていい?』『……全部ない。もういい?』とかって塩対応ボケかましてきたからさ、即座にちょっと舌足らずに『アッアディダスのスーパースター下さいUS10で!』って返してやったわけ! マジうけたわ!」
身振り手振りを交えて店長との掛け合いを再現するハジメの背後で、店のガラス戸がガラリと開いた。目の細かいニット帽を深く被り、無精髭を生やしたアンニュイな雰囲気の店長がひょっこりと顔を出す。
「お? ……君が、ハジメちゃんのお友達ィィ?」
低めの渋い声に似合わず、どこかお茶目な響きだった。ハジメは「あ、店長! 今ちょうどその話してたところ!」とパッと満面の笑みを向け、香織も「こんにちは!」と和やかにペコリと頭を下げる。
「マジかよ、俺の塩対応ネタバラされてんじゃんw」
「だってもう鉄板ネタっしょw」
店長とハジメ、そして香織の三人は、昔からの気心知れた仲間のように自然と盛り上がり始めた。すっかり出来上がった内輪のノリと、お洒落な空気感。
少し離れた場所に取り残された雫は、その楽しげな談笑の輪に、一歩も足を踏み入れることができなかった。
(……お店の人とまで、あんな風に対等に冗談を言い合えるなんて。この子は一体、どんな世界で生きているのかしら……)
ストリートカルチャーに縁のない雫には、会話の細かい中身も、その場を支配する空気感も分からない。ただ圧倒的な熱量と自由さだけが渦巻く空間で、雫は完全に「蚊帳の外」へと追いやられていた。
周囲の目など一切気にせず、自分の好きな服を纏い、自分の足で見つけた世界で感情のままに笑うハジメ。
『家』の重圧に縛られ、自分を殺して完璧な「型」に嵌まった優等生を演じ続けてきた雫にとって、その自由さと眩しさは単なる憧れでは済まなかった。
(……羨ましい。……妬ましい)
自分には絶対に許されない生き方を、息をするようにやってのける少女。胸の奥底で、泥のように濁ったコンプレックスと嫉妬がじゅわりと滲み出す。
「ねえ雫ちゃん、立ち話もなんだし、あそこのカフェでなんか飲もーよ! あーしが奢ったるから!」
ハジメは「あ、店長また後で返しに来るわー!」と店に向かって軽ーく手を上げると、屈託のない笑顔でごく自然に雫の手を握ってきた。
ふにゃりと柔らかく、温かい手の感触。光そのもののような無邪気な引力に触れた瞬間、雫の胸の奥で、どろりとした重く歪な感情が産声を上げた。
(……ああ、駄目だ。この子は、私には眩しすぎる)
これ以上踏み込めば、必死に保ってきた自分の「型」が、この狂おしい羨望と嫉妬に呑み込まれて壊れてしまう。
だからこそ雫は、その火傷しそうな温もりから身を守るように、心の内でスッと「一歩引く」ことを選んだ。
それからというもの、雫は香織と共にハジメと過ごすようになった。けれど、香織のように無防備に感情をぶつけることは決してなかった。常に半歩下がり、保護者やツッコミ役という安全な「立ち位置」を保つ。そうすることで、自由なハジメへの陰鬱なコンプレックスと、自分でも持て余す割り切れない執着を、内側にひた隠しにしていたのだ。
◇
何度かハジメたちと時間を共にするようになり、少しだけ距離が縮まったある日。
放課後に三人で立ち寄ったカフェでのことだった。
香織が席を外したわずかな隙に、真向かいに座るハジメがふと鋭い目を向けてきた。将来服飾デザイナーを目指すハジメには、人やシルエットを見る独特の直感がある。さっきのウィンドウショッピングで、雫がマネキンの服をじっと見つめていた瞬間を、ハジメは見逃していなかったのだ。
「ねえ、雫」
「……なに?」
「初めて会った時も思ったんだけどさ、雫って、服のシルエットとか生地の落ち感見る目がけっこうガチじゃん? ……本当は、こういうY2Kストリートな感じとか、もっとモードで可愛い服とか、着てみたりしたいって思ってたりする?」
図星を突かれた瞬間、雫の心臓が激しく跳ね上がった。
「っ……! な、何言ってるの……私は、そんな浮かれた格好なんて……」
「別に浮かれてなくない? ってかさ、服って自分が一番カッコよく、自分らしくいられる最強の武器じゃん? 自分の『好き』に素直になるのの何が悪いわけ?」
ハジメは悪びれる様子もなく、カラッと言い放った。
「家柄とか、なんか厳しそうなルールがありそうな家っぽいの、なんとなく察するけどさ。でもさ、自分の気持ちに蓋して、いっつも『八重樫家の跡取り』とか背負って凛々しく大人ぶってるの、なんかめちゃくちゃ損じゃん。……あーしから見たらさ、ガチガチに型に嵌まった優等生の雫より、あのとき服を見て目を輝かせてた雫の方が、よっぽど自然体で、可愛いしカッコいいと思うけどね」
ドキン、と――。
胸の奥で、今まで経験したことのない激しい音が響いた。
武道の鍛錬で感じる緊張とも、優等生として褒められたときの誇らしさとも全く違う。身体の芯から痺れるような熱だった。
誰にも見せたことのない本音を、この太陽のような少女は、服を見るのと同じ直感ですんなりと見抜いた。そして何の気負いもなく、まるごと肯定してくれたのだ。
これ以上ここに居たら、自分の中の決定的な何かが崩れてしまう。
雫は必死に動揺を押し隠し、ふっと冷めたような笑顔を貼り付けて見せた。
「……何言ってるのよ、バカね。私は武道家よ、そんな服に着替える暇なんてないわ」
そうやって強がるのが精一杯だった。
◇
そしてある日。
いつものファミレスで、三人でテーブルを囲んでいたときのことだ。
ハジメが「あ、そういえばもう一人来るから〜」と軽い調子で言った直後、ボックス席の前で足を止める影があった。
だるそうに頭を掻き、「……いや、これなんの集まりだよ……」と呆れ顔で呟く、同い年くらいの見知らぬ男子——清水だった。
次の瞬間、隣に座っていた香織の雰囲気がガラリと一変した。
貼り付けたような笑顔のまま瞳からスッと光を消し、ぬるりと身を乗り出して清水へ詰め寄ったのだ。
「……君は、ハジメちゃんのなんなのかな? かな?」
「っ……! な、なんすかいきなり……」
急激に冷え込む空気と、香織の放つドロリとしたプレッシャーに、清水が引き気味に身を引く。
なりふり構わずハジメへの独占欲と執着を剥き出しにできる香織を、雫はひそかに暗い感情で見つめていた。
(……香織はいいわね)
自分は一歩引いて、この痛々しいほどの恋心を隠し続けることしかできないのだから。
せっかくの居場所で容赦なく繰り広げられる、カオスな大騒ぎ。雫は自らのドロドロとした感情に蓋をするように、ついに「ツッコミ役」としての怒声をファミレス内に響き渡らせた。
「ちょっと香織! 急に詰め寄って脅かすのやめなさいよ! 怖がられてるでしょ!?」
「だって雫ちゃん! ハジメちゃんが勝手に変な男連れてきて『舎弟』とか言ってるんだよ!? 意味分かんないじゃん!」
「理由も意味不明なんだけどー! ていうかアンタも調子乗って適当に男呼び出してんじゃないわよバカハジメ!!」
騒ぎ立てる二人を一喝しながら、ボックス席の端っこで完全に目を死なせている清水の姿がチラリと視界に入った。
(……ハジメったら、また変な巻き込み方して……)
頭を抱えつつも、雫の瞳の奥では、誰にも見せられない暗く重い執着が静かに燻り続けていた。
光輝のような『薄っぺらな正義』でもなく、香織のような『純粋な狂信』でもない。
羨望と嫉妬に塗れた泥濘の中から、眩しすぎる太陽を見上げ続けるような、逃れられない歪な恋。
いつからだろう。この胸を焦がす熱が、ただの羨望や憧れではなく、もっとドロドロとした、決して許されないはずの『恋心』なのだと気づいてしまったのは。
男勝りで、家のために生きる自分には似合わない、どうしようもなく甘くて痛い熱。
あのカフェで「自分の『好き』に素直になりなよ」「可愛いしカッコいい」と、隠した本音を丸ごと肯定してくれた不意打ちの言葉が、今でも呪いのように胸の奥で反響し続けている。
それでも、この手を伸ばしてしまえばすべてが壊れてしまう。
だから雫は今日も、胸の奥の猛火をそっと氷の仮面で覆い隠す。決して踏み出せない一線を引いたまま、眩しすぎる太陽の隣に——一番近い他人として、静かに立ち続けるのだった。