ありふれたギャルは世界最狂   作:バグッた左スティック

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幕間ですが本編みたいなもんです


幕間 レンズ越しに見えた、自分の影

ーー初めて自分の中の正しさに疑問を持ったのはあの時だったーー

 

物心ついた頃から、天之河光輝の背中には「正しさ」という名の光がまとわりついていた。

実家は地元でも名の知れた裕福な家庭であり、父親は経営コンサルタントとして社会の荒波を冷静に渡り歩く男だった。そして母親は慈愛に満ちた笑顔でいつも光輝を包み込んでくれた。

さらに、光輝の心に何よりも深く刻まれているのは、生前、高名なエリート弁護士として活躍し、法と正義を人生のすべてに捧げた祖父の存在だ。その亡き祖父が遺言として光輝に言い残した言葉がある。

 

――「光輝よ。何があろうとも、常に正しく、清く、弱き者を救う盾であれ。それが天之河家の血を引く者の使命なのだから」と。

 

幼い光輝にとって、その遺言は迷いのない絶対の真理だった。

道場では人一倍汗を流して剣の腕を磨き、学校では困っているクラスメイトがいれば真っ先に手を差し伸べる。いじめられている子供がいれば、大人相手でも臆することなく立ち向かう。

そうして誰かを助けるたびに、周りの大人たちは目を細めて褒めてくれた。友達は「光輝はすごい」「まるで本物のヒーローみたいだ」と眩しい目を向けた。

 

――自分がしていることは正しい。自分は皆の期待に応える「正義の味方」なのだ。

その確信は、光輝の誇りであり、原動力だった。疑う余地など微塵もなかった。中学に上がってもその姿勢は変わらず、生徒会役員を務め、剣道部では主軸として活躍し、成績も常に上位をキープする。周囲からは「完璧な優等生」「天之河家の誇り」と持て囃され、光輝自身もその評価を心地よく受け入れていた。

だが、そんな揺るぎない自負に、初めて小さな亀裂が入ったのは、中学中頃のことだったーー。

 

良かれと思って仲裁に入ったクラスの諍いで、助けたはずの相手から「お前に関係ないだろ」「正義面すんなよ」と鬱陶しそうな目を向けられたのだ。

あれはきっと、相手の我が儘や、反抗期特有の苛立ちだったのだと、当時の光輝は無理やり自分を納得させた。自分は間違っていない。そう言い聞かせなければ、足元が崩れ落ちるような恐怖があったからだ。

 

そして、その小さな違和感は、中学生活が進むにつれて、形を変えてさらに大きく広がっていった。

 

幼馴染である白崎香織と、八重樫家の道場を通じて物心ついた頃から共に剣を交えてきた八重樫雫。

彼女たちはいつだって光輝の側にいて、光輝の「正しさ」を肯定し、支えてくれる存在だった。特に香織は、光輝に密かな好意を寄せていると周囲から囁かれることも多く、光輝自身も、彼女たちが自分の隣にいることが当然の日常だと思っていた。

 

ーーだが、ある日を境に、その歯車は微かに狂い始めた。

 

最初は気のせいだと思っていた。

学校の中ではこれまで通り光輝の周りに人が集まり、香織や雫も同じ校舎の中で過ごしているはずだった。しかし、放課後や休日のたび、香織がどこか上の空で、自分の知らない世界に心を奪われているようなそぶりを見せるようになった。

 

これまでの香織なら、休日の過ごし方や放課後の予定も光輝のいる輪を中心に回っていたはずだった。それなのに、最近の彼女は「ちょっと用事があるから」と、休日ごとに別の学校の生徒がいるような街の隅へと出かけていくことが増えていた。

 

「……香織? 最近、放課後や休日にどこへ行ってるんだ?」

「え? ううん、なんでもないよ、光輝くん。ちょっと友達と遊んでるだけだから」

 

尋ねても、香織はどこか上の空で、曖昧な笑みを浮かべるだけだ。その瞳の奥には、光輝に向けられるものとは違う、もっと肩の力が抜けた、熱を帯びた感情が揺らいでいるように見えた。それが、光輝の胸の内にざらついた不快感を残す。

 

雫の変化も同様だった。

放課後、いつもなら一緒に下校し、時には道場の話や日々の反省を語り合うはずの雫が、「今日は別の用事があるから」と、素っ気なく先に行ってしまうことが増えた。剣の腕を磨き、お互いに高め合ってきたはずの彼女が、なぜか光輝から距離を置くようなそぶりを見せる。

雫の背中を遠くで見送るたび、光輝は言いようのない冷たい風が胸を通り抜けるような感覚に襲われた。

 

ーーなぜだ。

ーー俺は間違ったことはしていない。誰に対しても誠実で、期待に応え、正しくあり続けているのに、どうして大切な人たちが俺から離れていくような気がするんだ?

 

光輝の胸を満たしていたのは、誇らしさではなく、じっとりと冷たい焦燥感だった。

自分が築き上げてきたはずの完璧な人間関係が、足元から音を立てて崩れていくような恐怖。しかし、その原因が何なのか、光輝にはまったく理解できなかった。彼らにとって自分は絶対的な中心であるはずなのに、彼女たちの視線の先にあるのは、自分ではない「何か」だった。

 

街のどこかで、ふざけた笑い声をあげながら誰かと軽口を叩いているかもしれない、あの無神経でマイペースな他校の女子の存在など、当時の光輝の視界に入るはずもなかった。

ただ、彼女たちの変化の端々に影を落としているその「名前も知らない異物の気配」に対して、光輝は無意識のうちに言い知れない苛立ちと警戒心を募らせていく。

 

ーーそして、すべてが変わるあの日の朝を迎えるまで、光輝は知らなかったのだ。

その「名前も知らない冴えない他校の女子」が、自分の世界のすべてを揺るがす存在になることなど、微塵も想像していなかった。

 

---

 

そして、季節は巡り――高校へと進学した。

 

新しい制服、新しい校舎、新しいクラスメイト。

天之河光輝の名前は中学時代から引き続いて当然のように周囲の注目を集め、入学式からクラスの中心に祭り上げられた。剣道部への勧誘も引きも切らず、「さすが光輝くん」「やっぱり頼りになる」という称賛の声は、相変わらず心地よく、そしてどこか義務的な重みを持って光輝の背中を包み込んでいていた。

 

すべてが順風満帆であるはずだった。

――あの女子(彼女)が現れなければ。

 

高校に入れば、香織や雫はまたいつものように自分の隣に戻ってくる。幼馴染として、そして一番近くで自分の「正しさ」を理解し、支えてくれる存在に戻ってくれる。光輝は心のどこかで、そう信じて疑わなかった。

 

だが、現実は残酷なまでに違っていた。

 

高校の入学当初から、香織と雫の足取りは相変わらず光輝から遠ざかっていた。それどころか、中学の中頃から彼女たちの影にちらついていた「あの異物」は、高校に進んでもなお、彼女たちの中心に深く根を下ろしていたのだ。

 

南雲ハジメ。

 

制服を着崩し、いつでもどこでも気怠げで、それでいて周囲をごく自然に巻き込んでしまうあのギャル女子。

光輝から見れば、校則すらうろ覚えの不真面目で、自分の「正しさ」やこれまでの努力の対極にいるような、関わる価値もないはずの存在。それなのに、香織も雫も、あの女に夢中だった。あんな、何の取り柄もなさそうな、ふざけた態度ばかり目につく女のどこが良いというのか。

 

休み時間、香織がクラスの輪を抜け出して、わざわざ別の場所へいる南雲のところへ駆けていく姿を見るたび、光輝の胸の奥底でドス黒い感情が疼いた。

放課後、雫が「今日はあの子達と用事があるから」と、光輝の誘いを当然のように断って去っていく背中を見るたび、胃の腑を逆流するような冷たい焦燥が込み上げた。

 

ーーなぜだ。

ーーなぜ、俺ではないのだ。

 

俺は誰よりも正しく、誰よりも努力し、皆の期待に応え続けているというのに。

彼女たちの視線の先にあるのは、真面目に剣を振り、正義を貫く自分ではなく、いつもくだらない冗談を言ってケラケラと笑っているあの女なのだ。

 

光輝のなかにあった「正しさへの絶対的な自信」は、少しずつ、しかし確実に歪み始めていた。

それは怒りか、嫉妬か、あるいは底知れぬ恐怖か。

自分の世界が音を立てて崩れていく予感を抱えながら、光輝は今日も、完璧な「優等生」の仮面を貼り付けたまま、揺らぐ日常のなかで息を潜めるしかなかった——。

 

---

 

季節が初夏へと移り変わる頃、それは訪れた。

 

グラウンドに響く乾いた白球の音と、生徒たちの歓声。

今日は光輝のクラスと、ハジメのクラスが合同で行う体育の授業だった。クラスが分かれていても、校庭という同じ空間にいれば、自然と視線は引き寄せられてしまう。

香織と雫が、クラスの女子たちと楽しげに準備運動をしている姿が目に入る。だが、その輪の中に「あの女」の姿はなかった。

 

――どこだ?

 

グラウンドの隅、日陰になった観覧席のベンチ。そこに、ジャージの裾をだらしなく崩し、一人でポツンと座り込んでいるハジメの姿を見つけた。

膝を抱えるようにして俯き、どこか気怠げに宙を見つめている。授業が始まっているというのに、体操に参加する気配すらない。

 

(やっぱり、あいつは……)

 

光輝の胸の内で、燻っていた苛立ちが急速に熱を帯びて膨れ上がる。

香織や雫を自分から遠ざけ、いつも周囲を自分のペースで掻き乱しておきながら、肝心の授業ではこうして平然とサボる。光輝の中で、ハジメに対する評価は最初から最後まで一貫して「不真面目で、規律を重んじない、目障りな異物」でしかない。

 

(見過ごすわけにはいかない)

 

それが純粋な正義感によるものか、あるいは香織たちを奪われた私怨によるものか、当時の光輝にはもう判別がつかなかった。ただ、「間違っているものは正さなければならない」という強い使命感に突き動かされるように、光輝は足音を立ててハジメの元へと歩み寄った。

 

周囲のクラスメイトたちが「お、天之河が行くぞ」「また正義感発揮か?」とひそひそと囁く声が聞こえる。その視線が、光輝の背中をさらに「正しいヒーロー」へと祭り上げる。

 

「――南雲さん」

 

影が落ちたことで、ベンチに座っていたハジメがゆっくりと顔を上げた。

見れば、その額にはうっすらと脂汗が滲み、顔色はいつになく青白い。だが、イライラと焦燥に目を曇らせていた光輝には、そんな細かな異変に気づく余裕など微塵もなかった。

 

「授業中だぞ。みんな汗を流して真面目に取り組んでいるのに、君一人がそこでサボっているなんて許されない。見学だとしても、そんな態度では――」

 

光輝が厳めしい顔で正論を切り出すと、ハジメはめんどくさそうに片目を開け、ぼんやりとした足取りで記憶を辿るように呟いた。

 

「あ〜……えっと、天之河くんだっけ? ごめんね、サボってるわけじゃないんだけど……ちょっと今、色々と無理でさ……」

 

どこか力の抜けた、悪びれないような、それでいて相手をしてすらいないような物言いだった。

この日、ハジメを襲っていたのは容赦ない生理痛だった。腹部を内側から締め付けられるような激しい痛気だるさに加え、貧血気味で立っていることすらままならない。サボりたくてサボっているわけではなく、ただここで息を潜めて痛みが引くのを耐えているだけなのだ。

 

しかし、光輝の目には、その態度がどう映ったか。

 

「……なんだその態度は。体調が悪いならちゃんと保健室に行くべきだ。そうやって言い訳をしてやり過ごそうとするのは――」

「だから、動けないって言ってるじゃん……。そんな怒んないでよ、頭痛くなってきた……」

 

ハジメは小さく眉根を寄せ、ぐったりとベンチに身体を預け直した。不真面目で、どこか飄々としたいつもの調子は崩れていないが、明らかに光輝の説教を鬱陶しがって聞き流している。

 

――自分が正しいことを言っているのに、なぜこの女は反省しないのか。

――なぜ、こんな不真面目で無責任な人間が、香織や雫にあんなに好かれているのか。

 

ぷつりと、光輝の中で何かが切れる音がした。

それは、彼の内面でずっと歪み続けていた「正しさ」という名のガラス細工が、音を立てて砕け散る瞬間だった。

 

「……おい、聞いてるのか?」

 

光輝がさらに言葉を重ねようとしたその時、足元からざわめきと共に複数の影が近づいてきた。

 

「光輝くん……流石にそれは、ダメだよ……」

 

悲しげに、そしてどこか冷め切った声でそう呟いたのは香織だった。彼女のすぐ後ろには、雫やクラスの他の女子生徒たちが数人、心配そうに駆け寄ってきていた。その全員の視線が、ハジメではなく、説教を垂れている光輝に向けられている。

 

「香織……? なんだよ、俺はただ、この生徒がサボっているから――」

「サボってなんかないわよ!」

 

香織の背後から、ハジメのクラスメイトである女子生徒が声を荒げた。

 

「南雲さん、今日すごく体調が悪いんだから! 無理して動けないから先生に許可もらって見学してるだけなのに、勝手に決めつけて……天之河くん、流石にそれはないよ」

「そうだよ。いくら優等生だからって、一方的に怒鳴りつけるなんて酷くない?」

 

周囲から次々と飛んでくる、冷ややかな非難の言葉。

光輝は目を見開き、その場に立ち尽くした。脳内が真っ白に染まる。

 

(俺が、酷い……? 悪いのは、規律を破ってだらけているように見えるあいつの方じゃないのか? なんで、俺が責められているんだ……?)

 

「ち、違う! 俺はそんなつもりじゃ……ただ、皆が真面目にやってる中で――」

 

弁明しようと口を開く光輝の声は、すっかり冷え切った周囲の空気にかき消されていく。クラスメイトの女子たちまでもが、「天之河くん、ちょっと正義感が空回りしすぎだよ……」と、あからさまに軽蔑の色を帯びた目を向けてきた。

これまで「正義の味方」「みんなのリーダー」として称賛されてきた光輝にとって、それは生まれて初めて浴びる、他者からの明確な拒絶と失望の視線だった。

 

「――こら、そこ。どうした」

 

ざわめく人混みを割って、体育教師の厳めしい声が響いた。

状況を察した教師は、青白い顔でベンチに寄りかかっているハジメを一瞥し、それから冷や汗を流している光輝に視線を据えた。

 

「……天之河」

 

教師は近づいてくると、光輝の肩をぽんと軽く叩いた。そして、呆れたように目を瞑り、静かに首を横に振る。

 

「……少し話そう。教官室まで来い」

 

「せんせ……」

 

「いいから、来るんだ」

 

教師に背中を押されるようにして、光輝はフラフラと足を踏み出した。

遠ざかっていく背中の向こうで、香織たちがハジメにそっと寄り添い、「大丈夫? 保健室行く?」と優しく声をかけているのが聞こえる。

自分を必要としてくれていたはずの彼女たちの中心には、もう光輝の居場所などどこにもなかった。

 

---

 

教官室に足を踏み入れると、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

パイプ椅子に座るよう促され、目の前に立った体育教師は、しばらく腕を組んで黙ったまま光輝を見据えていた。やがて、低く落ち着いた声が落とされる。

 

「――天之河。連れて来られた理由は、わかるな?」

 

教師の問いに、光輝はかすかに喉を鳴らした。

自分が誰かを助けようとして、結果的にクラスメイトや香織たちから非難されたこと。ルールを破ったわけでもない生徒に説教をしてしまったこと。頭では「何か悪いことをしてしまったのかもしれない」という自覚がかすかに芽生えつつも、心の底では「でも、サボっているように見えたから注意しただけだ」という納得のいかない思いがせめぎ合っていた。

光輝は、はっきりとしない返事の代わりに、気まずそうに小さく頷いた。

 

「……なんとなく、です」

 

「そうか。じゃあ、聞くが……今日、南雲が授業を見学していた理由はわかっているか?」

 

「それは……体調が悪いと、本人が言っていましたが……」

 

光輝がそう答えると、教師は小さく息をつき、静かに視線を逸らした。

 

「あぁ、そうだ。……だがな、それも、男の俺たちにはその辛さが一生かかってもわからないものだがな」

 

教師が発したその言葉に、光輝はきょとんと目を瞬かせた。

男の俺たちにはわからない――その表現にわずかに引っかかりを覚えながらも、意味を測りかねていると、教師はさらに言葉を継いだ。

 

「お前も保健体育の授業で習ったことがあるだろ。賢いお前なら、今俺が言った言葉の意味が、少し考えれば分かるはずだ」

 

「……っ」

 

その言葉を聞いた瞬間、光輝の脳内で、先ほどグラウンドのベンチで見た光景が激しいフラッシュバックを起こした。

 

うっすらと額に滲んでいた脂汗。

青白く、ぐったりと覇気のなかった顔色。

痛みに耐えるように体を丸め、何を聞かれても動けそうになかったあの姿。

 

――男の俺たちにはわからない。

――保健体育の授業。

 

脳裏に浮かび上がった単語と、ハジメのあの時の状態が、パズルのピースが噛み合うようにガタリと結合する。

それが何を意味しているのかを理解した瞬間、光輝の血の気がサーッと引いていくのを感じた。

 

「なっ……」

 

息が詰まる。

自分は、動けないほど苦しんでいる女子生徒のところへわざわざ赴き、こともあろうに「サボるな」と声を大にして説教を垂れていたのだ。体調不良の理由も確かめず、自分の正義感と私怨を押し付け、周囲の前で公開処刑のように恥をかかせた。

 

――俺は……何をして……。

 

頭を殴られたような衝撃とともに、それまで「自分は正しい」と信じて疑わなかった足元が、完全に底抜けしていくような恐怖が光輝を襲った。

 

顔面を蒼白にし、自分のしでかしたことの重大さに打ち震える光輝を見て、教師はふうと大きく息を吐き出した。責め立てるような口調はすっかり消え、そこに残っているのは、生徒の致命的な過ちを諭す大人の静かな諦めと、わずかな同情だった。

 

「天之河……お前の気持ちは、実直に学校の規律や集団の秩序を守ろうというものだったはずだ。お前が普段から生徒会や剣道部でどれだけ責任感を持って動き、周囲の信頼に応えようとしているか、俺たち教師もよく見ている。お前が曲がったことが嫌いで、誰よりも『正しく』ありたいと願っていることもな」

 

教師の言葉は、怒りではなく、むしろ光輝という人間の本質を肯定するような優しさを含んでいた。だが、その優しさこそが、今の光輝の胸には容赦なく突き刺さる。

 

教官室の重苦しい沈黙を破るように、教師はふっと視線を窓の外へ向け、それから再び光輝の目をじっと見据えた。

 

「――天之河。お前は、将来の進路についてどう考えている?」

 

突然の問いかけに、光輝はハッとして顔を上げた。予想もしていなかった話題に思考が追いつかず、しばらくまばたきを繰り返してから、戸惑いながらも絞り出すように答える。

 

「将来、ですか……? 特には……その、父からは経営コンサルタントとしての手腕を学べと言われていますし、祖父がエリート弁護士として法曹の道を極めたように、世の中の役に立つ立派な道を進めって……自分でも、文武両道で、周りから期待されるような人間になって……その、みんなの手本になるような……」

 

言葉を紡ぐうちに、光輝の声はみるみる小さくなっていった。

 

教師は腕を組み、光輝のその曖昧な返答をじっと聞き届けた後、少しだけ肩の力を抜いて静かに言った。

 

「そうか。経営コンサルタントの父親に、高名な弁護士の祖父か。……まあ、お前の真面目さなら、その立派なレールの上を歩くこともできるだろうさ」

 

教師は一度言葉を切ると、少しだけ自嘲気味に片方の口角を上げ、苦笑しながら首を振った。

 

「だがな、その『立派なレール』の上で、お前はいつも『正しくあること』に囚われすぎていないか? ……例えば、今日お前が叱った南雲だ。あいつは日頃の行いこそ褒められたもんじゃないが……あいつにも、あいつなりの『譲れない意地』や、必死に守り抜こうとしているものがあったんじゃないか?それを、お前は頭ごなしに否定した」

 

(――南雲さんにだって、譲れない意地が……?)

 

光輝が息を呑むと、教師はさらに言葉を継いだ。

 

「あいつがどんな思いで毎日学校に来て、どんな足取りで日々を生きているか――お前のその狭い視野では、全く見えていなかったはずだ。自分の進路や『こうあるべき理想』ばかり気にして、目の前の人間が必死に泥臭く足掻いている現実を見落とすな。お前がやったのは、人を救うことじゃなくて、自分の正しさを証明するための自己満足だったのかもしれないぞ。」

 

張り詰めていた空気がわずかに緩み、教師は自身のマグカップからコーヒーを一口啜ると、どこか遠い目をしてぼそっと呟いた。

 

「……まっ! 先生も若い頃は、自分の正論ばかり振り回して嫁さんに『アンタのその身勝手な正論、いつまで続ける気!?』って本気でキレられて、危うく離婚届突きつけられそうになった痛い過去があってな。相手の気持ちを置き去りにして自分の正しさを押し付けることの恐ろしさは、身をもって学んだつもりさ」

 

呆気にとられる光輝に向けて、教師はダンディに片目を閉じ、少しだけ渋い笑みを浮かべて見せた。

 

「最後にお前よりちょっと年食ってる人生の先輩からのアドバイスだ。――自分の正しさを疑ってみろ」

 

教師のその短い言葉は、今後の光輝にとって、正義感に駆られそうになるたびに立ち止まらせる、逃れられない呪いのようなブレーキとして深く刻み込まれるのだった。

 

「……授業はもうすぐ終わる。どうやってケジメをつけるか、自分の頭でしっかり考えてこい。行ってもいいぞ」

 

促されるままに、光輝は深く頭を下げ、教官室を後にした。

静まり返った廊下を歩きながら、彼は先ほどの言葉を頭の中でそっと反芻する。

 

「自分の正しさ……か」

 

その呟きは、いつだって真っ直ぐであるべきだと信じて疑わなかった光輝の足取りに、初めての確かな重みと、そして自身の未熟さと向き合うための静かな覚悟を宿していくのだった。

 

数日後。

放課後のざわめきに包まれたクラスルームに、緊張を孕んだ足音が響いた。

 

天之河光輝は、自らのクラスとは違う、ハジメの所属するクラスの入り口に立っていた。

教官室での一件以来、光輝のなかにあった焦燥や「自分が正しい」という傲慢な自負は、音を立てて崩れ去っていた。あれから何日も自問自答を繰り返し、自分がどれほど空虚な仮面をかぶって周囲を見下していたのかを痛感した光輝は、今日、すべてのプライドを捨てて一つの決着をつけに来ていた。

 

教室内で香織や雫、そしてハジメの周りに集まっていたクラスメイトたちが、ふと入り口に視線を向け、ざわめきを静める。

その視線を一身に集めながら、光輝はまっすぐハジメの席へと歩み寄った。

 

「……南雲さん」

 

光輝の声はわずかに震えていたが、逃げることなく、ハジメの目をしっかりと見据えていた。

そして、周囲の生徒たちが息を呑む中、光輝は深く、きっちりと頭を下げた。

 

「先日は……本当に、申し訳なかった!!」

 

頭を下げた光輝の脳裏には、あの日の青白い顔と、冷や汗を滲ませて痛みに耐えていたハジメの姿が浮かぶ。事情も確かめず、自分の正義感を一方的に押し付け、彼女を傷つけたことへの後悔と反省が、その言葉に重みを与えていた。

 

突然の誠心誠意の謝罪に、教室中が静まり返る。

香織や雫も、驚いたように目を見開いて光輝の背中を見つめていた。

 

そんな重たい空気の中、当の本人であるハジメは、席に浅く腰掛けたまま、気怠そうに頭の後ろで手を組んでいた。

 

「――あーっ、いいっていいって! そんなマジメに謝られるこっちが気まずいわー」

 

ハジメはケラケラと肩を揺らし、全く気にする様子もなく片手をひらひらと振ってみせた。

 

「あーしも普段から先生に怒られるようなことばっかしてっし、それに、あの時はちょっと言い過ぎたしさ。お互い様ってことで、もうチャラね!」

 

どこまでも軽やかで、からっとしたその物言い。

それは光輝が勝手に恐れていた冷笑でも、根深い拒絶でもなく、ただ彼女なりの気遣いに満ちた「許し」だった。

 

「……南雲さん」

 

光輝がゆっくりと頭を上げると、そこにはいつもの気怠げな笑みを浮かべたハジメの姿があった。

胸につかえていた重たい澱(おり)が、少しだけスッと溶けていくような気がした。自分が作り上げた「完璧な優等生」の仮面ではなく、不格好な素の自分で向き合ったからこそ、初めて見えた景色だった。

 

「……ありがとう、南雲さん。今度は、ちゃんと……その、よろしく頼む」

 

「ん、おっけー。ま、お互いマイペースに行こーぜ」

 

ハジメが軽くウインクをして見せると、クラスの空気が一気に和み、周囲から小さな笑い声が漏れた。

光輝のなかにあった歪んだ世界が、この日を境に、ゆっくりと、しかし確実に変わり始めていていた。

 

。クラスの空気が和やかな雰囲気に包まれる中、光輝はふと、心に引っかかっていた小さな疑問を思い出した。

自分のデリカシーのなさや軽率さを省みた上で、どうしても腑に落ちなかったことがある。

 

「あのさ、南雲さん……もう一つだけ、聞いていいか?」

 

光輝が恐縮しながら尋ねると、ハジメは首を傾げて「んー? なに?」と返す。

 

「その……自分がデリカシーのない事を言っているのは分かってるんだが……じゃああの時、なぜ見学という形をとっていたんだ? 本当にそこまで辛いなら、保健室に行くなり、最初から授業を欠席して休めばよかったんじゃないかと思って……」

 

それは光輝なりの、純粋な疑問からの問いかけだった。

だが、その言葉を聞いた瞬間、すぐ近くに控えていた香織や雫が「ちょっと、光輝くん……!」と、再び険しい表情で光輝を咎めようと一歩前に出た。

 

「待って待って、香織も雫も、いいていいてw」

 

ハジメはひらひらと手を振って二人を制し、クスリと楽しげに笑った。そして、面倒くさそうに頭を掻きながら光輝に向き直る。

 

「まぁ、普段のあーしなんて誘惑に負けまくりだし、家でゴロゴロできるなら一生そうしていたいタイプだけどさ……。でも、将来やりたいこととか、いつか自分の手で形にしたい目標だけは一応あるわけよ。だからさ、こういう時に自分を甘やかしてサボっちゃうと、もう全部がどうでもよくなりそうで嫌なんよね。……普段はだらしないしすぐ楽な方に流されるけど、ここだけは譲れないっていうか。ワザとフケたりズル休みしたことは一度もないし、無遅刻無欠席を貫いてるのって、せめてものあーしの意地ってやつ?」

 

カラッと笑い飛ばすハジメの言葉に、光輝はハッと息を呑んだ。

 

(――将来やりたいことのために、自分の足で進もうとしている、か……)

 

不真面目で要領は悪く見えても、彼女には「自分の意志で目指す場所」があり、そのために「学校を休まない」「体調が悪くても授業には必ず出る」という泥臭いプライドを自らの足で守り抜いていたのだ。

 

その言葉を聞いた瞬間、光輝の脳裏に、あの日の教官室で体育教師から投げかけられた言葉が鮮やかに蘇ってきた。

 

――あいつにも、あいつなりの『譲れない意地』や、必死に守り抜こうとしているものがあったんじゃないか?

――お前は、将来の進路についてどう考えている?

 

不真面目で要領は悪いが、自分の決めたプライドを守るために、バカなりに泥臭く、必死に日々の授業にしがみついているハジメ。

一方で、自分の意志など一つもなく、ただ親の敷いたレールの上で「こうあるべきだ」という空虚な優等生を演じていただけの自分。

 

体育教師がなぜあの時、「お前、将来やりたいこととかってあるか?」と尋ねたのか。その真意が、今ようやく痛いほど理解できた。

 

あの教官室で、先生はすでにこのことを知っていたのだろう。彼女が普段はだらしなく見えても、どこに自分の意地を張っているのかを、あのベテランの教師はとっくに見抜いていたのだ。だからこそ、表面しか見えていなかった自分に、あんな問いを投げかけたに違いない。

 

自分の足で立ち、自分の頭で考え、未来へ向かって泥臭くも足掻いている人間と、ただ綺麗な正論を振り回していただけの自分。どちらが本当に「懸命」で、どちらが空っぽだったのかは明白だった。

 

「……そっか。自分の目指すもののために、そのプライドを必死に守ってたんだな」

 

どこか感心したような、そして自分自身のちっぽけさを恥じるような光輝のトーンに、ハジメは「ま、そういうこと!」と気楽に笑ってみせた。

 

「ん、わかってくれればいーの! じゃ、そろそろ次の授業始まるし、あーしは売店行ってくるわ!」

 

ハジメはケラケラと笑いながら席を立ち、相変わらずマイペースな足取りで教室を去っていく。

その背中を見送りながら、光輝は深く、そして静かに息を吐き出した。

 

完璧な「正しさ」の仮面を脱ぎ捨てた光輝の心には、かすかな、だが確かな自分の意志の芽生えがあった。人の数だけそれぞれの事情があり、それぞれの戦い方がある。そして自分には、まだ見つけるべき自分の道が――本当の自分を見つける旅が、残っているのだと知るために、この失敗は決して無駄ではなかったのだ。

 

 

謝罪を終えたあの日から、天之河光輝の日常の景色は一変していた。

 

教官室で体育教師に告げられた「自分の正しさを疑ってみろ」という言葉は、呪いのように光輝の思考の底に深く、重く根を張っていた。

 

相変わらず朝はクラスの中心に祭り上げられ、剣道部では主軸として汗を流し、生徒会では山積みの書類を的確に処理していく。外側から見れば、相変わらず「完璧な優等生・天之河光輝」のままだった。

だが、その内面は全く違っていた。何をするにしても、脳裏の片隅で常にあの言葉が反響する。

 

(――俺のやっていることは、本当に正しいのか?)

(――いまの選択は、誰かの期待に応えるための見栄じゃないのか?)

 

自分の正しさに絶対の自信を持てなくなった光輝にとって、唯一の、そして強烈な基準となったのが――あの時、自分が頭ごなしに否定し、そして許してくれた「南雲ハジメ」という存在だった。

 

放課後の廊下や、休み時間の教室。

ふと視線をやると、ハジメは相変わらず香織や雫の輪の中心にいて、けらけらと笑い声を上げていた。以前なら、その光景を見るだけでドス黒い焦燥に駆られていたはずだ。しかし今の光輝は、その賑やかな輪を――特に、そこにいるハジメの姿を、どこか探求するような、自分の内面を映し出す「レンズ」のように見つめていた。

 

(なぜ、彼女の周りには人が集まるんだ……?)

 

赤点スレスレで、授業中は寝てばかりいて、教師の目から見れば決して模範的とは言えないギャル。およそ光輝の生き方とは対極にあるはずの人間だ。

だが、ハジメは自分の意志を曲げない。体調がどれほど悪くても未来のために「無遅刻無欠席」という自分だけのプライドを泥臭く守り抜き、誰かに媚びるわけでもなく、ただ目の前の友達と本気で笑い合っている。

 

それに比べて、自分はどうだ。

親の敷いたレールの上を歩き、「正しく、強く、優しくなければならない」という空虚な期待を背負い、綺麗事の仮面を被って周囲を見下していただけではないか。

香織や雫が本当に求めていたのは、頭ごなしに正論を押し付ける「完璧な優等生」ではなく、泥臭くても自分の足で生きている人間の、温度のある横顔だったのではないか。

 

ハジメという圧倒的に「不完全で、しかし嘘のない人間」をレンズ越しに見つめるたび、光輝の中で、自分がどれほど薄っぺらいハリボテの上に立っていたのかが思い知らされるようだった。

 

「天之河くん、次の球技大会のシフトなんだけどさ、どっちがいいと思う?」

「あ、うん……。俺はみんながやりやすい方でいいよ、調整ありがとね」

 

クラスメイトに笑顔を返しつつも、光輝の胸の奥は静かに揺れ続けている。

嫉妬でも怒りでもない。彼女たちがなぜあんなにも自然にハジメに惹かれ、あの温かい輪を作ることができるのか。その答えを探すように、光輝は今日も、少し離れた場所から、どこか客観的に、しかし痛切な自己省察の目を向けてハジメたちの背中を見つめ続けていた。

 

――そして、あの爽やかな朝の光が差し込む廊下で、遠藤に小銭をちゃっかり握らせながらハジメが登校してくる、いつもと変わらない賑やかな一日が始まるのだった。

 

 

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