ハイリヒ王国の王子として、常に「次期国王」という過剰な看板を背負わされ続けてきたランデル・S・B・ハイリヒ。彼を取り巻く大人たちは誰もが彼の内面など見ちゃいなかった。大臣も騎士たちも、ただ国を統べるための「優秀な道具」としての価値しか求めてこない。
そんな息の詰まる日々に辟易していたランデルの平穏を、よりにもよって見事に引っかき回してきたのが、異世界から迷い込んだあの女――南雲ハジメだった。
王宮での生活が始まってからというもの、ランデルはあの女の神出鬼没なウザ絡みに頭を悩ませ続けていていた。
ある時は、王宮の自室で膨大な国家書類や勉学に追われていたときのことだ。
ふと、窓の外から「おっ、王子様発見! めっちゃ勉強してて草」と、底抜けに明るく軽快な声が響いた。
「なっ……!? 貴様、いったい誰の許可を得て城の窓枠に……!」
慌てて窓を開ければ、そこには何の変哲もないはずの空中に、モデルのようにすらりとした長身の彼女が、錬成魔法で作り出した石の足場に軽々と腰掛け、ひょっこりと満面の笑みを覗かせていたのだ。
ハジメは豪快に肩をすくめ、ケラケラと笑ってみせる。
「いやー、中めちゃくちゃお堅い空気しててウケるんだけど! ねえ、そんな難しい顔してないでさ、たまには外で日向ぼっこしよーぜ、めっちゃ天気いいし!」
「ふ、不法侵入だぞ貴様……! すぐにその下品な足場を片付けたまえ!」
そうやってプライドを盛大に傷つけられ、邪険に追い払うのが日課になっていた。
だが、あの女のマイペースさはそれだけにとどまらない。訓練の合間、日陰のベンチでだらしなくジャージの裾を崩してぼーっとしているかと思えば、退屈しのぎにふらりと王子の目の前へとやってきて、勝手に世間話を始めるのだ。
「よっ、王子様! 今日も元気に剣振ってて偉い偉い!」
「お前はまたサボっているのか! 王族の僕がこうして国のために精進しているというのに、そのふざけた態度はなんだ……!」
カッとなって声を荒らげるランデルに対し、ハジメは「いやー、だって真面目すぎても疲れるじゃん? それよりさ、ちょっと聞いてよ」と、全く気にする様子もなくサバサバと笑い飛ばしていく。
逆に、見回りの途中でサボって日陰でゴロゴロしているあの女を見つけると、今度はランデルのほうが「君ねえ……いや、貴様は王宮の敷地内でまたそんな不真面目な真似を……!」と、呆れながらもわざわざ注意しに行ってしまうことも増えていた。
いつしか、最初はうっとうしくて仕方なかったその快活な距離感が、窮屈な王宮の中で唯一、王子の仮面を脱ぎ捨てて素の状態でいられる時間へと変わっていた。
そして、そんな日々の中でのある穏やかな昼下がり。
訓練場の片隅で、またしてもサボってベンチに寝転がっているハジメの姿を見つけたランデルは、「まったく、いい加減にしたまえと説教してやる……!」と、いつものように足を向けかけていた。
だが、その途中で、一足先にあの女に近づく人影があった。王女であり、ランデルの姉であるリリアーナだった。
物陰からこっそり様子を窺うと、リリアーナは少し申し訳なさそうに、しかしどこか心からの安堵を浮かべた表情でハジメに話しかけていた。
「あの……ハジメさん。少し、お時間をよろしいでしょうか」
「んー? なになにリリィ。首元のそれ、今日もいい感じにキマってるじゃん?」
「ふふっ、おかげさまで……。あの、その……いつも、ランデルに話しかけてくれて、ありがとうございます」
ハジメは軽く片手をひらひらと振り、サバサバとした調子で笑ってみせる。
「え、お礼とかマジいいから! あーしが勝手にサボるついでにノリで絡んでるだけだし、マジ気にしないでよ」
「いいえ……分かっています。周りの人たちは誰もがランデルを『次期国王』としてしか見ていません。父上も、臣下たちも……本人自身を見てはいないんです。だからあの子は、ずっと孤独でした。だけど、貴女だけは……あの子を王族としてではなく、ただの『一人の等身大の少年』として、対等に、時に明るく引っ張っていってくれる」
リリアーナは潤んだ瞳を真っ直ぐに向け、静かに頭を下げた。
「それが、あの子にとってどれだけ救いになっているか……。姉として、本当に感謝しているんです」
そのやり取りを物陰で聞いていたランデルは、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けていた。
(姉上があの女に……? いや、それ以上に、あの女が、僕を……っ)
「いやー、なんか急に真面目な空気になっててアセるんだけど!ホントマジで気にしなくていいかんね? ……あ、てか、そろそろ戻らないとおじさん激おこになりそうだし戻るわーw」ハジメはヒラヒラと大きく手を振り、リリアーナの返事も待たずにスタスタと歩き去っていく。
残されたランデルは、自分の内面の苦悩や孤独を他人に知られた恥ずかしさと、それを「特別な意図なく、ただ自然体に受け止めてくれていた」という事実への戸惑いで、顔を真っ赤に染めながらその場から逃げ出すしかなかった。
それからの日々、ランデルはハジメと顔を合わせるたびに、以前とは少し違った複雑な感情を抱くようになっていた。
相変わらず、ハジメは訓練の合間にふらりと現れては、どうでもいいちょっかいを掛けてくる。
「あっ、王子様! 今日もまた『次期国王様』として勉強してんの~? メッチャ頑張ってて草〜!」
「っ……! お前なぁ……! もう少し言葉を選びたまえ! 僕は今、国家の重要書類に――」
「まぁまぁ。 ちょっとは休憩しようぜー?あんま根詰めると身体にもよくないってw」
からかうようにケラケラと笑ったかと思うと、ハジメは突然、ポケットからごソゴソと不格好な形をしたクッキーを取り出した。
「なっ、なんだ急に……! 僕は今、取り込み中でだな、そんなものを急に口に――んぐっ!?」
拒絶する間もなく、ハジメは「ほら、あーん!」とばかりに、問答無用でその不格好なクッキーをランデルの開いた口にグイッと押し込んだ。
「んぐ、むぐっ……!? っ、貴様……! 人の話を聞け……!」
「それ香織が作ったクッキー。うまいっしょ? ジャージのポケットに突っ込んであちこち歩き回ってたせいでところどころ潰れちゃってるけど、味はバッチリだからアンタも食いなって!」
無理やり口に押し込まれたクッキーは、ほんのり甘く妙に香ばしかった。激しくむせ返りながらも何とか飲み込んだランデルが、真っ赤な顔で抗議しようと目を剥いたその時、訓練場の遠くから、建物が揺れるほどの猛烈な怒号が響き渡った。
「こらぁ!ハジメぇ!またさぼりよってぇ!!」
その声の主を聞きつけ、ハジメはぴくりと肩をビクつかせた。
「うっわやっばおじさん激おこぷんぷん丸じゃん!」
「なっ、なんだ急に……!」
「そんじゃ王子様またねぇ!あんま無理すんなよー☆」
ハジメは豪快に片手をヒラヒラと振りながら、メルドの追跡を振り切るために風の如く猛ダッシュでその場から走り去っていく。
残されたランデルは、口の中に残る甘い余韻と、突然の嵐のような一幕にポカンと口を開け、遠ざかっていくジャージ姿の背中を見つめながら、呆れたように呟くしかなかった。
……なんだあいつは……まったく、王宮の敷地内で何をやっているんだか……」
そして、ある日の穏やかな夕暮れ時。
ランデルは城の廊下を歩きながら、胸の内に澱のように溜まる焦りとモヤモヤを持て余していた。通りすがりの貴族たちが、声を潜めて話しているのが耳に入った。
「聞いたか? あの異邦の錬成師、南雲ハジメのことだ。最近、王宮のあちこちで随分と名を上げているらしいな」
「ああ、あの城壁修繕の件か。東方開拓における水路設計もそうだ。召喚されたばかりの若造にしては出来すぎた手腕だと、王宮の職人たちの間でも噂になっているそうだ」
「ああ、彼女がリリアーナ王女に仕立てたアクセサリーも、王宮の女性貴族たちの間で小洒落たものだと評判だ。王女様があまりに喜ばれているのを見て、自分もあんな風に美しいものが欲しいと、今や王宮内では彼女への注文が殺到しているとか」
貴族たちが羨望の眼差しを向けるあの女は、自分の力で居場所を切り開き、他者から必要とされている。彼女の言葉には温度があり、自分の足で立つ意思があった。
だが、自分はどうだ。血筋という偶然だけで担ぎ上げられ、誰一人として「ランデル・S・B・ハイリヒ」という一人の人間など見てはいない。ただ「次期国王」という椅子を汚さないための、よく出来たお飾り人形。
持てる者と、持たざる者。その残酷なまでの隔たりが、ランデルの胸の内で音を立てて砕け散る。
そんな屈折した思いを抱えながら、ふと足音もなく視界に入ったのは、相変わらず軽快な足取りで歩いているジャージ姿の少女だった。気がつけば、ランデルの足は自然とあの女のほうへ向かっていた。
訓練場の裏手にある石壁の陰。いつものように気さくに座っていたハジメの姿を見つけ、ランデルは少し不機嫌そうに声をかける。
「……こんなところで何してんだよ、お前は」
ハジメはひょいと顔を上げると、ニカッと快活な笑みを浮かべた。
「おっ、どしたん王子様? そんなしかめっ面してさ、何かあったわけ?」
「……お前はいいよな。実力もあって、王国からも評価されててさ。……それに、自分の人生を自分で選べる」
「は? 何言ってんの急に」
「……怖くて仕方がないんだよ」
ランデルは膝を抱え、震える両手を強く握りしめた。
「僕は安全な城の中で『次期国王』としての顔を貼り付けて座っているだけだ。……周りが見ているのは僕自身じゃない。僕という『王様の代わり』だ。そんなものに何の意味があるんだよ。いっそ、僕なんていなくなればいいのにって、本気で思ってしまうんだ……!」
誰にも言えなかった本音。次期国王としての重圧、周囲の期待への拒絶、そして自分自身の無力さに対する絶望が、堰を切ったようにあふれ出す。
ハジメはふざけるのをやめ、真っ直ぐな瞳でその言葉を受け止めた。彼女はドンと力強く立ち上がると、ランデルの肩を軽く叩いて見据えた。
「……自分で消えるとかそんなんあんま言うもんじゃないって、そんなん超ダサいからやめときな!」
「っ……!」
「周りの目なんてぶっちゃけ空気と同じだしさ! アンタが『次期国王』背負うしかないなら、その上でどう遊び倒すかはアンタの自由っしょ! ……つーかさ」
ハジメはフッと軽い笑みを浮かべ、両手を腰に当ててケラケラと笑い飛ばした。
「アンタがいつか超イケてる王様になった暁にはさ、その辺のダサい王族服なんてもう卒業させて、あーしが世界で一番ヤバい服作ってあげっからさ!だからそんなウジウジ悩んでないで、もっと気楽に行こーぜ!」
その言葉を聞いた瞬間、ランデルの瞳から、こらえきれなかった涙がポロリとこぼれ落ちた。
「……っ! なんだよそれ……服って……僕は真剣に悩んでいるのに……!」
慌てて袖で涙を拭いながら、ランデルは震える声を絞り出す。
「はは、マジで励ましてんだからありがたく受け取りなって! さてと、そろそろ戻るわー☆」
そう言ってハジメは威勢よく立ち上がろうとしたが、ふと何かを思い出したように、ジャージのポケットからシルバーのチェーンが輝く小さなネックレスを取り出した。
「あ、そうそう。これ、アンタにあげる」
「え……ネックレス……?」
ハジメが差し出したのは、銀色に輝くチェーンの先に、小ぶりなひし形のチャームが揺れるシンプルなネックレスだった。ハート型のような可愛らしさはない、鋭角でクールなデザイン。
「……なんだ、これは」
「ひし形のチャーム。アンタ、これから王様になるんしょ? だったら甘いハート型より、こういうシャープなやつの方が似合うっしょ! これ、あーしが工房で鍛えた特製パーツ。王族の服って堅苦しいからさ、こういうの一個着けるだけでもだいぶ雰囲気変わるでしょ」
ハジメはニカッと笑い、ランデルの反応を待たずに背中を向けて歩き出した。
「薬品のデザインもそうだけどさ、王様ってのは鋭い感性持ってないとダメだかんね! ……ま、これ見てたまには気楽に息抜きしなよ。じゃ、またねー!」
ハジメは豪快に片手をヒラヒラと振りながら、夕闇の訓練場へと風のように去っていった。
残されたランデルは、手の中のネックレスを見つめ、呆然と立ち尽くした。
チェーンの先に揺れる銀のひし形が、かすかに光を反射して鋭く輝いている。
(……鋭い感性、か)
ランデルはそっとそのネックレスを首元に当て、鎖の感触を確かめた。冷たい銀の感触が、なぜか胸の奥で熱く脈打っているような錯覚を覚える。
不安が消え去ったわけではない。王族としての現実が変わるわけでもない。
それでも、ランデルの胸にあった暗い絶望の底には、あの女にもらった「いつかの約束」という小さく、しかし決して消えない確かな灯火がともされていた。
真っ直ぐに名前を呼ぶのはどこか気恥ずかしく、ランデルは照れ隠しのようにそっぽを向きながら、胸の内で吐き捨てるように呟いた。
「……見てろよ、あいつ。いつか絶対、最高にカッコいい姿を見せてやるんだからな……!」