王立図書館の最も古びた歴史書が並ぶ一角。
埃っぽい古文書の山に囲まれ、清水幸利は額の汗を拭いながら、分厚い羊皮紙のページをめくっていた。
その背後、何もないはずの影の揺らぎから、スッと気配を消した遠藤浩介が姿を現す。
「お疲れ、清水。王宮の通路や、騎士団の詰め所のあたりを一通り偵察してきたけど……俺たちを探るような動きは特にないな」
「おう、ご苦労。……で、こっちはこっちで、調べれば調べるほどどうにもこうにも辻褄が合わねぇんだよ」
手元の古文書から視線を上げずに呟いた清水に、遠藤は肩をすくめながら隣の椅子に腰を下ろす。
「辻褄が合わないって、何がだ?」
「ああ。教皇は『魔人族を退け、トータス全土の理を安定させなければ、門を開くことすら叶わない』って言ってたろ? 俺達はそれを真面目に「帰還の条件」として調べてたわけだが……よくよく考えればそもそも、あのうさん臭いジジイが言ってたことだぞ? 本当に一方通行の召喚しかできないのか?と今更疑問になってな」
清水がそう言って鼻を鳴らすと、遠藤は腕を組みながら短く息を吐いた。
「確かに、言われてみればそうだな。俺たちをここに連れてきた手腕があるなら、送り返すことだって理論上は可能なはずだ。それなのに『気の遠くなるような時間と莫大な魔力が必要だ』なんて言われて、ずっと足止めを食らってる」
「あぁ、別の世界に干渉できるほどの力を持った神様が降臨してるってのに、元の世界へ送り返せないと考える方がどう考えてもおかしいよな。絶対に裏があるってことだ」
清水は一度そこで言葉を区切り、ふっと息を吐いて手元の古びた手稿に視線を落とした。
「……そこでだ。元いた世界へ帰る方法の手がかりを探すためにも、色々文献をあさってみたんだけどよ……どうにも不審な点ばかりが目につくんだよ。例えば、この世界の古い魔術体系とか歴史の基礎文献を漁れば漁るほど、肝心の『魔人族』に関するまともな情報がほとんど載ってねぇ」
手元の古文書には世界各地の勢力図や歴史が記されているはずだが、魔人族の項目だけが不自然なほど抽象的で、具体的な生態や拠点についての記述がすっぽり抜け落ちていた。
「人間族の敵対勢力って話なのに、歴史書での扱いが妙にぼかされてる。おまけに、俺たちをここに引っ張る原因になった『主神エヒト』の神託だの何だのについても、都合のいい美談ばかりでやけに綺麗に整頓されすぎてやがるんだよ。……おい遠藤、俺たち長年そういうネット小説やらラノベやらのサブカルチャーを浴びるほど摂取してきただろ? この手の『ご都合主義で綺麗にまとめられた世界観』って、ぶっちゃけめちゃくちゃ臭せぇと思わねぇか?」
「臭せぇって……どういうことだよ?」
「いかにも『あとから面倒な設定を突っ込まれないために、都合の悪い情報を最初からカットしました』って感じの、あまりにもスッカスカなプロットに見えねぇか? 敵であるはずの魔人族の生態が一切語られず、主神様のありがたいお言葉だけがやけに手際よく並べ立てられている」
「確かに……言われてみれば、戦う相手の生態がここまで抜けてるのも不自然だよな」
遠藤が腕を組みながら相槌を打つと、清水はさらに声をひそめた。
「だろ? おまけに、歴史の端々に出てくるはずの『神に逆らいし者』――いわゆる『反逆者』たちの足跡や記述も、やけに綺麗に消されてやがるんだ」
「反逆者……?」
「ああ。教会の教えじゃ、神に歯向かった大罪人として忌み嫌われてる連中だろ? だけど、基礎文献を少し遡るだけでも、その連中が関わっていたはずの歴史のピースが露骨に抜き取られている」
清水はそこで一度言葉を切り、遠藤は腕を組んだまま怪訝そうに眉をひそめる。
「じゃあ、この王国は俺たちに何か隠し事をしてるってことか?」
「いや、この国じゃ形の上では王様がいるが、実質的には王よりもあの胡散臭い教皇の方が立場が上で、教会の方が発言力が強いだろ? だから、恐らく何かを隠しているのは王国じゃなくて、あの『教会』の方だ。奴らは魔人族だけじゃなく、その『反逆者』たちの足跡や歴史そのものを意図的に隠蔽してやがるんだよ」
周囲を軽く見回してから不敵に笑う清水に、遠藤がわずかに目を細める。
「教会がそこまで隠す理由って……まさか」
「ああ。下手をしたら、あの胡散臭い教皇ですら実は単なる『操り人形』で、そのもっと上に、とんでもなくやべぇ真の黒幕が鎮座してるって可能性すらある」
清水は肩をすくめ、やれやれと息を吐いた。
「確証なんてないさ。ただ、オタクの勘ってやつだ。都合のいいことばかり並べ立てられた歴史書を読まされてると思うと、どうにも釈然としねぇからな」
背筋に冷たいものが走るような、何とも言えない不気味さが埃っぽい書庫に落ちた。教会の掲げる「正義」や「魔人族との戦い」という大義名分の裏側で、自分たちはどれほど正確な事実を教えられているのか。
「……あ、そういえばさ」
重い空気を断ち切るように、遠藤はふと思い出したように懐から古びた羊皮紙の束を取り出した。
それは、先ほどの教会の管理区域の奥から、遠藤が自身の圧倒的な気配操作の技能を用いて文字通り「パクってきた」非公開の古い資料だった。
「それ、何だ?」
怪訝な顔を向ける清水に、遠藤はそれを机の上に広げながら軽く笑う。
「教会の立ち入り禁止エリアの奥に保管されてた古い資料なんんだけどさ……なんだかやけに古臭くて気になったから、つい持ち帰っちまったんだ。中身までは確認してないけど、お前なら何か分かるかと思ってさ」
清水が食い入るようにそのページを覗き込むと、そこには全体的に経年劣化で激しく擦り切れており、さらに重要な一節のところどころが濃いインクで執拗に塗りつぶされて読めないようになっている文章があった。
かろうじて残された文字を追っていくと、そこにはこう記されていた。
――『……神に逆らいし者……大いなる反逆者たちは……理を外れた試練の場たる……大迷宮を……築き上げた……』
「……おいおい、これ……」
清水は青ざめた顔で、読める部分と擦り切れた空白部分を指で追いかける。
オルクス大迷宮やグリューエン大火山、神山オルクスのように一般に知れわたる場所とは違い、そこに書かれていたのは、教会の教えではただの忌むべき大罪人として扱われている「反逆者」たちが、かつてトータス全土の理を外れた試練の場たる「大迷宮」をその手で作り上げたという、衝撃的な伝承の断片だった。
「ほとんどが擦り切れてたりインクで潰されてやがるけど……読めるところだけ繋合わせると、あいつらが作ったとされる大迷宮の噂や、その足跡の歴史そのものが露骨に書き換えられているのがわかる。つまり、教会が隠してるのは魔人族だけじゃねぇ。この『反逆者』たちと『大迷宮』に関する真実の歴史そのものだ」
「マジかよ……それじゃあ、俺たちを帰さない理由も、この世界の裏側も、全部あの教会が作った嘘の上に成り立ってるってことかよ……」
遠藤も険しい顔つきで呟く。
背筋に冷たいものが走るような、何とも言えない強烈な不気味さが埃っぽい書庫を支配した。
「……いよいよ、マジできな臭くなってきたな……」
清水は頭を抱え、忌々しそうに歯噛みする。
「なぁ清水……。一応、ここで知ったことやこの資料のことは、他の連中にも共有したほうがいいか?」
遠藤の問いに、清水は眉根を寄せて小さく首を横に振る。
「いや、やめとけ」
「どうしてだ? あいつらなら俺たちが真面目に言えば、普通に信じてくれるだろ?」
「ああ、それはそうさ。あいつらは素直だし、ちゃんと言えば信じるだろうよ。だけどな……問題はそこじゃねぇんだ。こんな世界の裏側、いわば教会の隠蔽工作や真の黒幕の存在なんて知っちまったらどうなる? 下手をしたら、真実を知ったってだけであの教会か、あるいはその裏にいるヤバい連中に目をつけられて、気づかないうちに消される可能性だってあるだろ。……あいつらを無駄な危険に巻き込まないためにも、こんなきな臭い話は俺たちだけで抱え込む方が安全だ」
「……確かに、そうだな。俺たちが知る分には気をつけて隠せばいいけど、みんなを巻き込むのはリスクが高すぎるか」
遠藤が納得したように頷くのを見て、清水は低く呟く。
「なんにせよ、王宮近辺にとどまっているだけじゃ手に入る情報なんて少なすぎる。……なんとかして王宮の外へ出て、自力で真相を探る方法はないか、本格的に考えねぇとな」
清水が低く呟くと、遠藤も神妙な面持ちで力強く頷いた。
だが、そんな重苦しい空気と恐ろしい仮説の存在を打ち消すように、清水はふと自分の左手首へと視線を落とした。
そこには、数日前にハジメから貰った特製ブレスレットに刻まれた『鋼』の文字が、冷たくも確かな手触りで存在していた。
あんな頭のイカれた金髪ギャルが、世界の裏の不気味な事情など知ったことかとばかりに、自分の足でガリガリと足場を固め、周囲を巻き込んで笑っている。その圧倒的な「異物感」が、奇妙なことに二人のモヤモヤした不安をいい意味で現実へ引き戻してくれた。
「……まあ、あんなヤバい金髪ギャルが、なんだかんだで自分の足で足場固めてやがるんだからよ。俺たちも、こんなスカスカの歴史書や教会の隠し事ごときでビビッてらんねぇってことだろ」
「そうだな。……まぁ、あいつのペースに付き合わされるのも日常になっちまったしな。生きて、この世界の裏側くらいは自分の目で確かめてから帰らないとな」
遠藤も自分の手首にある『E』のチャームをそっと撫で、二人は世界への違和感を胸の奥にしまい込みながら、それを打破するための現実的な生存戦略として、重い足取りで書庫を後にしたのだった。
* * *
異世界に転移してきてから、およそ一ヶ月半。
ハイリヒ王国の生活や訓練にもすっかり慣れ、クラスメイトたちはそれぞれの居場所と足場を見い出しつつあった。
その一環として、この日の王都城下町ではクラスメイトたちが動員され、長年の経年劣化により老朽化したインフラの修繕ボランティアが行われていた。
「んー、ここの石垣さ、ラインがガタガタでマジでダサいんだけど。もっとこう、スッと美しく繋がんないわけ?」
監督気取りで軽口を叩きながら、ハジメは両手を石畳の道に軽く当てる。
物理の理屈や複雑な魔力方程式なぞ頭の片隅にもなく、あるのはモーションアクターで培った抜群の身体感覚と、服飾デザイナー志望としての圧倒的な「美意識・直感」だけだ。
『範囲内地形構成把握』で足元の構造をざっくり捉え、持ち前のゴリ押しのセンスと『高速錬成』を組み合わせるだけで、歪んでいた道が一瞬でピカピカの美しい平面へとリノベーションされていく。
「基本的にはバカ」で座学の時間はいつも机でコソコソ寝そうになっているハジメだが、自分の感覚にハマった作業のときだけは、驚くほど手際が良く一途だった。右手に結んだ水色のシュシュが、パッと明るく揺れる。
その傍らでは、香織や鈴、そして恵理といった女子たちが、瓦礫の片付けや住民への対応を手伝っている。
「ナグモン、すごい! さっきまでボロボロだった壁が、新品みたいにピカピカだよ!」
鈴が目を輝かせて声を上げると、周辺の住民たちからも「おや、若いのに本当に助かるよ」「ありがとうねぇ、異世界の勇者様方」と温かい感謝の声が飛ぶ。
香織は、額の汗を拭うハジメの背中にうっとりとした視線を送りつつ、「ハジメちゃん、無理しちゃダメだからね? ほら、お水飲む?」と、タイミングを見計らって木製の水筒を差し出す。
「あんがと、香織。……にしても、この世界の石材って妙に硬くて、感覚で錬成すると手がビリビリしてだりぃわ」
ハジメは肩を回しながら、いつものサバサバした調子で水筒を受け取った。
だが、その華やかな輪の少し離れた場所で、中村恵理は黙々と作業を手伝いながらも、どこか上の空で、思い詰めたような様子だった。
手元で瓦礫を運ぶ指先が、ブルブルと細かく震えている。
(……私、何やってるんだろ。光輝くんはあんなに前を向いて、自分の進べき道を探してるのに……私の頭の中にあるのは、「どうすれば光輝くんを私だけのものにできるか」それだけ……っ)
ふと、作業の合間に自分の左手首に目をやる。
そこには、ハジメから配られた特製ブレスレットがあった。しかし、他のクラスメイトたちと違い、そのチャームには何の刻印も施されていない——冷たい「無地」のまま。
ハジメ達の輪の中にいる温かさに触れるたび、自分がどれほど歪んでいて、ドス黒い独占欲にまみれているかを突きつけられるようで、息が詰まりそうだった。
やがて日も傾き、城下町での大規模な修繕作業は無事に完了した。
心地よい疲労感と達成感に包まれながら、クラスメイトたちは賑やかに王宮へと引き揚げていく。
――それから数時間後。
王宮の食堂でみんなと一緒に夕食を済ませ、自室でひと息ついたハジメは、伸びをするように両手を大きく上に上げた。
「あー、食べ過ぎたかも、ちょっと外に散歩でも行こっかな」
金髪の毛先を揺らしながら自室を抜け出したハジメは、夜の静まり返った王宮の回廊へと足を踏み入れた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った石造りの廊下を、革靴の軽い足音を響かせながら、特に深い目的もなくぶらぶらと歩く。夜風が窓から吹き抜け、少し肌寒いくらいだった。
そのまま何気なく人気のない通路の角を曲がったとき、ハジメの視界の隅に、見慣れたシルエットがちらりと映った。
「ん……?」
足を止め、そちらへ視線を向ける。
そこにあったのは、明かりの少ない回廊の隅――冷たい石造りの柱の陰に、膝を抱えるようにしてぽつんと座り込んでいる一人の少女の姿だった。
ボブカットの黒髪を少し乱し、虚空を見つめたまま完全にフリーズしているのは、中村恵理だった。
手首に光るシルバーのブレスレットのチャームは、冷たい「無地」のまま。彼女はその小さな金属を指先で、痛いほど強く、血が滲むのではないかという勢いで握りしめていた。
(光輝くんは私を見てくれない。でも、ハジメ達の優しさに触れると、自分がどんどん泥沼に沈んでいく気がする……。あたたかいのに、苦しい。本当の私/ボクは、いったいどっちの人間なの……?)
頭の中で渦巻く狂気と、逃げ場のない自己嫌悪の板挟みになり、恵理の体が小刻みに震えていたその時、頭上からふっと気だるげで、けれど普段通りのフラットな声が降ってきた。
「……って、恵理? こんなところで何やってんの?」