中村恵理という少女の人生は、底なしの泥沼だった。
六歳の時、父親が自分を庇って車に轢かれ、目の前で命を落とした。それを境に、夫を心から愛していた穏やかな母親は豹変し、恵理のすべてを否定するような苛烈な虐待が始まった。「お前さえいなければ」「お前があの人の代わりに……」と浴びせられる言葉と暴力。痛みに耐えながらも、恵理はいつか優しかった頃の母に戻ってくれると信じ、ひたすら耐え忍んでいた。
だが、十一歳の時、その微かな希望すらも完全に踏みにじられる。母親が家に見ず知らずの男を連れ込んだのだ。「自分を支えてくれる男なら誰でもいい」という母の本性を知り、さらにその男に襲われそうになった恐怖の末に事件が起きる。逮捕された男に対して母親が口にしたのは、娘への心配ではなく「自分から男を奪った」という理不尽な激怒と狂気だった。
その瞬間、恵理の中で何かが完全に壊れた。温もりも、救いも、この世のすべてが信用できなくなった。
失意のまま夜の街を彷徨い、川のほとりで冷たい水面に身を投じようとしたその時――偶然通りかかった天之河光輝に声をかけられた。
しつこく尋ねる光輝に根負けし、恵理が現実を少し歪曲して語ると、彼はまっすぐな瞳でこう言った。
――「もう一人じゃない。俺が恵里を守ってやる」
その言葉は、泥沼の底に沈んでいた恵理にとって、抗いようのない絶対的な「光」となった。
その後、児童相談所の調査が入ると、光輝との接点が失われることを恐れた恵理は、あえて「仲の良い完璧な母娘」を演じきってみせた。その冷徹なまでの演技と狂気におびえた母親からいつしか支配権を奪い返したが、肝心の光輝は、誰にでも自分に言ったのと同じような優しい言葉を投げかける「正義の味方」だった。
それが許せなかった。あの温もりを自分だけのものにできないなら意味がない。光輝を完全に束縛し、自分だけのものにしたい――それが、彼女の歪みきった執着の正体だった。
そして中学、高校へと進学しつつも恵理は誰にも本心を明かさず、大和撫子然とした「可憐な委員長」の仮面を被って生きていた。それは性格というよりも、積極的な情報収集と己の心身を守るための合理的な手段だった。
そんな彼女が近づいたのが、谷口鈴だった。そもそも恵理が鈴に近づいたのは、天之河光輝の身辺の情報を得たり、彼に近づいたりするための打算的な理由からだった。
鈴もまた、幼少期の寂しさから「笑顔でいれば一人にならなくて済む」と悟り、常に天真爛漫な「演技の笑顔」を纏って生きる少女だった。鈴は恵理の微笑む瞳の奥に宿る鋭さや冷たさ、打算的な合理性に早くから気づいていたが、それを不気味に思うことはなかった。むしろ、同じように仮面をかぶって懸命に生きるその姿に強烈なシンパシーを抱き、やがて彼女は恵理にとって数少ない、そしてかけがえのない親友となっていった。光輝に近づくための打算から始まった関係だったはずが、いつしか鈴と過ごす時間だけは、恵理にとって偽りのない呼吸のできる場所になっていた。
さらに高校一年の夏前、その鈴に連れられて、恵理の日常に異物が持ち込まれることになる。
――それが、南雲ハジメだった。
「ねぇナグモンー! こっちこっち! 恵理!この前言ってた鈴の友達連れてきたよー、ほら、この子!」
鈴に引っ張られるようにして教室に入ってきたその金髪のギャルは、放課後の教室で、赤の他人とは思えない自然な距離感で勝手に椅子を引き、足まで組んで座っていた。
そんな姿のギャルを一目見た瞬間、恵理は心の底から冷ややかな確信を抱いた。
(――なにこの女。……絶対、私とは一生相いれない。ていうか、見るからに頭が空っぽのアホそう……)
「あ、この子が鈴が言ってた子? はじめまして、南雲ハジメでーす。えーっと恵理ちゃんだっけ…?よろー☆」
(こんな教養のかけらもなさそうなギャルと、私がまともに話せるわけがない。関わらないでおこう……)
フレンドリーにそう笑いかけるハジメに対し、恵理は磨き上げた愛想笑いの仮面を引きつらせながら、内心で激しく警戒と拒絶の壁を築いたのだった。
最初はそう本気で思っていたはずなのに。鈴に連れ回されるうちに、ハジメを中心としたその輪――いつも周囲にいる香織や雫、勉強の合間にぼやく清水、そしていじられる遠藤といった面々と共に、恵理もいつの間にかそのグループでつるむようになっていた。
ハジメは勉強や座学こそ「基本的にはバカ」でいつも居眠りしかけていたが、自分の好きなことや直感に対しては異様なほどまっすぐだった。恵理がいつものように打算的な冷たさを隠し持って愛想笑いを浮かべてみせても、ハジメはそれを深く気にする様子もなく、ケラケラと笑ってこう言うのだ。
「あ、今の笑い目死んでるわ。無理していい子ちゃんぶらなくてよくね? めっちゃ気疲れしそうだし、そういうの見ててこっちが肩こるわー」
心臓が跳ね上がるような動揺を、恵理は必死に隠した。自分の内側にある打算や冷たさを、こんな風に真っ向から、しかも何の悪気もなく指摘されたのは初めてだった。
しかし、ハジメはそこで話を終わらせず、持っていたパックのジュースをストローごとスッと恵理に手渡した。
(ほら、甘いもんでも飲んでリラックスしなー☆)
打算的でアホそうだと見なしていたはずのその女は、香織や雫、清水、遠藤、そして鈴といった面々と共にいる中で、驚くほどフラットに、他人の闇に無駄に踏み込んでこない――「カラッとした適度な雑さ」を持っていて。気がつけば、恵理はその予想外の温度感に何度も救われる思いがしていたのだった。
そして、その中で恵理は、かつて同じ「仮面」を被っていたはずの鈴の変化に気づくことになる。
いつもくだらないことでケラケラと笑い、ハジメのマイペースさにツッコミを入れ、香織や雫たちと賑やかに過ごす日々の中で、鈴の表情は少しずつ変わっていった。
――鈴の笑顔は、もうかつてのような「一人にならないための演技の笑顔」ではなかった。
恵理には分かった。互いに仮面をかぶる者同士だからこそ、その笑顔の奥にあった微かな影や緊張が今の鈴には一切ない。ハジメがもたらす圧倒的な「今この瞬間を楽しむ熱量」と、香織たちの優しい温もりに囲まれて、鈴は文字通り、心の底から自然に、濁りなく笑っていた。
そして、一人また一人とクラスメイトたちが自然とハジメたちの周りに集まってくるたびに、それぞれが飾らない笑顔で語り合い、確かな温もりを育んでいく。
異世界への転移直前の教室でも、ハジメが遠藤の「コンビニの自動ドアが影の薄さで反応しなかった事件」を面白おかしく暴露し、清水の爆笑と遠藤の絶叫を誘う騒がしいやり取りがあった。そのあまりにも間抜けで楽しげな光景を見ながら、恵理は思わず――吹き出していた。
(……っ?)
ハッと息を呑む。作り笑顔でも、計算された相槌でもなく、喉の奥から込み上げる衝動のまま、声を出して笑っていた。
(あれっ……? 今、私……自然に、笑ってた……?)
誰かを騙すためでも、取り繕うためでもなく、ただ純粋に「おかしくて、楽しい」という感情だけで笑ったのは、いつぶりだっただろう。その胸のざわめきに戸惑いながらも、どこか心地よい気恥ずかしさが残った。
そんな楽しげな輪が広がれば広がるほど、恵理の胸の奥には、名前のつけられない澱のようなものがチクリと溜まっていった。
鈴が本当の居場所を見つけて笑っているというのに、自分だけはどこか冷めた仮面のままで、この温もりに完全に溶け込めない違和感があるのか、それとも別の何かなのか。恵理にはその痛みの正体がうまく掴めなかった。
(あたたかいのに、どうしてこんなに息が詰まるんだろう……。みんなが眩しすぎて、ここにいる自分の笑い方が、だんだん分からなくなっていく……っ)
その鮮やかすぎる光景のなかにいながら、自分が何に怯え、何に焦がれているのかも分からないまま、恵理の心は常に曖昧なざわつきでパンク寸前だった。
そして、異世界への召喚を経てからも、ハジメを中心とした輪の中にある温もりと空気感は変わらなかった。
工房での作業や、メルドの顔石像事件のときもそうだ。ハジメが真面目な顔で「見てよこのおじさんの顔のクオリティ!」と言い放ったとき、香織や鈴や雫たちが必死に笑いをこらえて震える中、恵理もまた、ここで笑っては台無しになると必死に笑いを堪えていた。
(あぁ、私……今、本当に心の底から笑いそうになっている……)
仮面をかぶった打算的な委員長ではなく、純粋な感情で揺さぶられている自分を、恵理は強く自覚していた。
さらに、東方荒地での水路構築や、その後の対人・対魔物訓練の中でも、ハジメは異色の存在感を放っていた。光輝との模擬戦の際、ハジメが素手で現れ、「あーし別に人殺しになりたいわけじゃないし」と平然と言いのけたその言葉は、理不尽な世界から目を背けていた恵理たちの胸を真っ直ぐに突き刺した。誰かを無理に傷つけることなく、己の軸をしっかりと持って生きるその背中は、眩しいほどに自由だった。
そして、日々の訓練や開拓を重ねる中で、ハジメは工房で仕立てた特製ブレスレットをクラスメイトたちに配っていった。
香織が『H』のイニシャルを刻んで歓喜し、遠藤には自動ドアのネタを茶化されながらも存在感マシマシの『E』のイニシャルが彫られ、光輝が自戒を込めて『十字』を刻んでもらう中――ハジメは恵理のところにもやってきて、陣の入った杖の調整とともにこう言った。
「いつでも彫ってあげるからさ」
だが、恵理はその手を素直に取ることができなかった。
香織たちのように真っ直ぐにハジメの好意を受け止め、自分の名前や好きなマークを刻むだけの「勇気」がなかった。光輝への歪んだ執着と、この温かい輪の中で感じてしまった心地よさ――その二つの矛盾した感情の板挟みになり、彼女の手首に残されたシルバーチャームは、冷たい「無地」のまま放置されていた。
(私は、どこに向かっているんだろう……。光輝くんだけがすべてのはずなのに、あの人たちの温もりに甘えたいなんて思ってしまう……)
誰にも言えないドス黒い独占欲と、拭いきれない焦燥感に耐え切れず、恵理は夜の王宮の回廊へと足を踏み出していたのだった。
王宮の回廊。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った石造りの柱の陰に、恵理は膝を抱えて座り込んでいた。
手首に嵌められた特製ブレスレット。そのチャームは、何の刻印も施されていない冷たい「無地」のまま。香織のように素直に愛を叫ぶことも、龍太郎のようにバカ騒ぎすることもできない。ただ自分の醜い執着と、過去のトラウマに絡め取られ、どこへも進めずにいる空っぽの自分。
(光輝くんが私を見てくれないなら、私はまた、あの真っ暗な地獄に一人で放り出される……っ)
頭の中で渦巻く狂気と自己嫌悪の嵐に耐えかねていたその時、不意に、気だるげで軽やかな女の子の声が降ってきた。
「――って、恵理? こんなところで何やってんの?」
顔を上げると、ジャージ姿のハジメが、首をかしげて自分を見下ろしていた。その耳元で揺れるピアスが、夜風に微かにかすれている。
「あ、ハジメ……。ううん、なんでもないの。ちょっと夜風にあたろうと思って……」
「…そっか」
ハジメはそれ以上深く詮索するような言葉を返すこともなく、ふっと息をつくと、何も言わずに恵理の隣にそっと腰を下ろした。
冷たい石造りの床に並んで座る、二人の間のわずかな距離。夜風が吹き抜ける回廊に、静寂が漂う。
(どうして……? どうして何も聞かないの……?)
何も踏み込んでこないその圧倒的なフラットさに当てられ、恵理のなかで張り詰めていた何かが、音もなく限界を迎えた。誰にも見せたくない醜くてぐちゃぐちゃな内面が、もう抑えきれずに、自らの口からポロポロと零れ落ちていく。
「……私ね、ずっと怖かったの」
掠れた声で、恵理はぽつりと言った。
「誰も信用できなくて、冷めた仮面をかぶって、全部計算で生きるしかなかった。あの時からずっと……心の底では、いつまたあの暗い泥沼に引きずり戻されるかって、怯え続けていたの。
そんな私に、あの人が光をくれた。眩しすぎるくらい真っ直ぐで、誰にでも優しい光輝くんが、私を見てくれた。あの温もりに触れた瞬間から……私の世界はあの人で塗りつぶされた。
ううん、最初はあんな綺麗な気持ちなんかじゃなかった。ただ独りになるのが怖くて、あの人に縋って、依存して……いつしか、あの人を誰にも渡したくないって、すべてを独占して狂いそうになるくらいの、ドス黒い執着に変わっていったの。
あの人だけが私の世界のすべてで、光輝くんさえいてくれれば他の何もいらなかったはずなのに――」
震える手で、恵理は膝から顔を少しだけ上げ、月明かりの下で冷たく光る左手首の無地のチャームをぼんやりと見つめた。そして、指先でそれをそっと撫でながら、かすれた声を紡ぎ出す。
「なのに、日本にいた頃から……ハジメやみんなと過ごすうちに、あんな風に賑やかであたたかい輪の中にいると、冷え切っていたはずの胸の奥がじんわりと解かされていくような、そんな居心地の良さを感じてしまっていたの。そこで考えたんだ…本当の私ってどっちなんだろうって…」
震える手で、手首の無地のチャームをぎゅっと握りしめる。
「……ハジメが作ってくれたこれに、何も彫らなかったのもそうだよ。この小さなシルバーに何を刻めばいいかなんて、自分でもずっとわからなかった。光輝君へのこんなに歪んでドス黒い想いをぶつけるにはあまりにおこがましいし、かといって、ハジメやみんなと一緒にいるときの温かい自分をここに残す資格なんて……私にはない。何をどう選んでも、自分にはそんなものを刻む資格なんてどこにもないって分かってるから……。
なのにさ……光輝君を想って狂いそうになりながらも、その一方で……ハジメや鈴たちとバカみたいに笑って過ごす時間が、いつの間にか私にとっての逃げ場所になっていて……。あたたかい居場所なんて欲しくなかったのに、そこに居心地の良さを感じてしまう自分が、気持ち悪くてたまらないの」
声がわずかに震える。けれど、不思議と止まらなかった。
「光輝くんを想う私も私なのに、みんなと一緒にいるときの私も私で……。どれが本当で、どれが虚像なのか、もう全然わかんないの。……ねぇ、私、いったい何なの……? 自分が、自分自身が、もう全然わからなくなってきた……っ」
吐き出した言葉は、行き場をなくして夜の回廊の冷たい空気に溶けていく。
自分で自分がコントロールできない恐怖と、初めて見抜かれたような――あるいはすべてをさらけ出してしまった安堵が入り交じり、恵理は膝を抱えた腕にそっと顔をうずめた。
しばらくの沈黙の後、うずくまる恵理の頭上で、ハジメは静かに息をついた。
「まあ、光輝君のことは、なんとなく気になってるんだろーなとは思ってたけどさ」
「え……?」
恵理はびょんと肩を跳ねさせ、涙を浮かべた目でハジメを見上げた。
「なんで……知ってるの……?」
「そりゃ、あんだけ目線でチラチラ追ってたら、普通に気づくっしょ。けっこう分かりやすかったしwてか香織とか鈴とかにも普通にばれてっしw」
(――うそ……)
恵理の胸が激しく波打つ。
自分はみんなの輪から一歩引いて、冷めた仮面の裏から世界を眺めているつもりだった。このグループに紛れ込んでいるだけの、ただの「モブ」の一人だと思い込んでいた。それなのに、自分のそんな醜い執着も、向けられた視線の先さえも、この子は最初から――いや、香織や鈴たちにも最初から全部お見通しだったというのか。
「まあ、恵理って背中押してほしいとか、そういうタイプじゃないじゃん? だからあえて触れないでおいたんだけどさ…」
ハジメは軽く肩をすくめると、いつものギャルっぽいテンポのまま言葉を続けた。
「それにさ、そんなのどっちも本当の恵理ってことでいいじゃん。光輝君にめっちゃメロッてることと、あーしらとつるむこと、別に分ける必要なくね? そんなん考えるまでもないっしょ」
その気負いのない、あまりにも軽やかな言葉を聞いた瞬間、恵理は思考を完全にフリーズさせた。
(……え……?)
自分の中では何年もかけてドロドロに発酵し、誰にも見せられないほど醜く歪んでいると思い込んでいた執着も、自己嫌悪も。あのギャルにとっては、まるで「今日の晩御飯なににする?」くらいの、息をするように当たり前の、取るに足らない日常の一コマにすぎなかったというのか。
(ずるい……。なんでこの子は、こんなにも簡単に、私の地獄をただの「日常」にしてしまうの……っ)
あまりにも軽やかで、あまりにも拍子抜けするようなその一言に、恵理の脳内で必死に築き上げていた防壁が、音を立てて崩り去っていく。
「……っ……、ぅ……」
喉の奥から、押し殺したような震え声が漏れる。
「え!?マジでどしたん急に泣いて?……。あーし、なんか変なこと言った?」
少しだけ慌てたような、でもどこか呆れたようなハジメの声が上から降ってくる。
恵理は顔を上げたかったけれど、あふれ出る涙が止まらなくて、膝を抱えた腕に顔をうずめたまま、ただ小さく首を横に振るしかなかった。
「……泣いてない……っ、泣いて、ないもん……」
掠れた、子供のような泣き声。
誰の前でも冷めた仮面をかぶり、頭の中で常に損得と計算を巡らせて生きてきた。大人を騙し、世界を敵に見立てて、一人で殻の中に引きこもっていた。
それなのに、そんな夜の回廊で、お洒落なジャージを着崩したこのギャルの隣で、こんなふうに子供のように泣かされている。
――自分が、自分自身でなくなってしまうような恐怖は、まだ消えていない。
光輝への執着が消えたわけでもなければ、過去の傷がすべて癒えたわけでもない。
けれど。
(……そっか。……そっか、私、これでいいんだ……)
胸の奥底で、ずっと張り詰めていた冷たい鉄線が、音を立ててほどけていく。
ドス黒い執着を抱えた自分も、誰かと笑い合って救われている自分も、どちらを切り捨てる必要もなく、ただそこにあっていいのだと、初めて許された気がした。
ハジメは特に気の利いた慰めの言葉をかけるわけでもなく、どこか優しい手つきで恵理の頭をぽんぽんと叩くと、やれやれといったふうに息をつき、さらに言葉を続けた。
「そもそもそんなになるまで抱え込むなしw悩んでんならちゃんと相談しなよ? あーし……いや、あーしらはちゃんと恵理のこと見てっから!」
その真っ直ぐな言葉に、恵理はハッと息を呑んだ。
――「光輝君のことは、なんとなく気になってるんだろーなとは思ってたけどさ」「てか香織とか鈴とかにも普通にばれてっしw」
さっきハジメが告げた言葉が、頭のなかで鮮烈に蘇る。
自分はみんなの輪から一歩引いたモブのつもりで、打算の仮面で内面を隠し通しているつもりだった。光輝という「たった一人の光」だけを見て、他愛のない日常や仲間たちの存在をどこか過小評価していた。
だけど、この子は違った。ハジメは、そして香織や鈴たちも――誰もが自分の「見せたくない裏側」まで、最初からちゃんと見抜いてくれていたのだ。光輝くんだけが世界だと思い込んでいたけれど、気がつけば、こんなにも自分を温かく見てくれる居場所が、ちゃんと周囲に広がっていたじゃないか。
濡れた瞳でゆっくりと顔を上げると、ハジメの背後。そこに浮かび上がるように、夜の闇の向こうから――鈴、香織、雫、清水、そして遠藤の姿が重なって見えた。みんながこちらを心配そうに、けれど温かく見守っているような、そんな幻視だった。
(……私、もう逃げない)
光輝を想う狂おしい自分も、ハジメたちと笑い合う愛おしい自分も、どちらも否定せず、すべてを抱えて生きていく。それが本当の自分なのだと受け入れられた今、この小さなチャームに刻むべき答えは、もう恵理の胸の中でハッキリと決まっていた。
ハジメが立ち上がろうとするのを、恵理は慌ててその裾を引っ張って引き止めた。
「――ねえ、ハジメ」
「ん?」
ハジメはくるりと振り返り、耳元のピアスを揺らしながら首をかしげる。
「どうしたの、まだなんかあるわけ?」
恵理はぐっと息を吸い込むと、自分の左手首をそっと掴み、ハジメの目の前に差し出した。
「これ……まだ真っ白のままのこれにさ。……文字っていうか、マークを彫ってくれないかな」
「へえ、やっとその気になったんだ。で、何彫るの? 光輝君の名前とか? それとも自分の名前?」
「ううん、そうじゃなくて……」
恵理は小さく首を横に振る。その頬にはもう涙はなく、代わりにほんのりと穏やかな笑みが浮かんでいた。
「メビウスの輪……インフィニティのマークにしてほしいの」
「ん? メビウスの輪?なんそれ?」
ハジメが目をパチクリさせると、恵理は自分の胸にそっと手を当て、恥ずかしそうに、けれどはっきりと紡ぎ出した。
「うん。表と裏、あるいは光と闇が途切れることなく繋がっている形……。光輝君を狂おしく求める自分も、ハジメたちとバカみたいに笑って過ごして救われている自分も、どっちか片方を切り捨てる必要なんかないって……一つの輪の中で巡り合っている、その証をここに刻んでほしいの」
その言葉を聞いたハジメは、一瞬きょとんとした後、ふっと嬉しそうな、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「――そっか。表も裏もなくて、ぐるぐる繋がってっから、どっちも本当の恵理ってわけね。……マジで、恵理らしくて超イケてんじゃん、それw」
「もう、からかわないでよ……!」
顔を真っ赤にしてむくれる恵理の頭を、ハジメは「はいはい、わかったわかった」と優しくポンと叩いた。
「オッケー、任せといて。最近巷で話題の錬成師であるあーしが、世界で一番イケてるメビウスの輪にしてあげるって!」
ハジメは片目をウインクさせると、左手首のブレスレットにそっと指先を触れさせた。
パチリ、と微かな魔力の火花が散り、ハジメの指先から流し込まれた錬成の光が、冷たかった無地のチャームを優しく包み込んでいく。
数秒後、ハジメが指を離すと、眩い光がスーッと引いていく。
「はい、お待たせ! どう? 見てこれ、超イケてない?」
ひょいと手首を持ち上げて見せるハジメに促され、恵理は恐る恐る自分の左手首を月明かりにかざした。そこには、寸分の狂いもなく、なめらかで美しい無限の軌跡を描く「メビウスの輪」の彫金が刻まれていた。
「わ……すご……綺麗……」
「でしょー? あーしのセンス、まじリスペクトしていいよw」
ドヤ顔でフンッと胸を張るハジメを見て、恵理は思わず、今日一番の本当に心からの笑声を零した。
「……うん。ありがとう、ハジメ」
「どーいたしまして! ……てか寒いし風邪ひくから、そろそろ戻ろ?」
「うん……!」
夜の回廊の片隅で、新しく生まれ変わった特製ブレスレットが、二人を優しく照らし出す月明かりの下で、静かに、そして確かな輝きを放ち始めた。