王都近郊の荒涼とした演習場。
数日後に迫った「オルクス大迷宮遠征」――王国近郊にその口を開き、数多の歴戦の冒険者や王国騎士団すらも踏破を諦めたとされる、生還者皆無の人類最悪の難所への突入を控え、いつまでも王宮の保護下に甘んじるわけにはいかないと、メルド団長の監督のもと、クラスメイトたちによる「実戦形式の魔物討伐演習」が急遽行われていた。
「来るぞ……っ! ゴブリンの群れだ!」
「光輝、右翼を頼む! 俺たちが前を抑える!」
龍太郎の怒声とともに、クラスメイトたちによる初めての本格的な魔物討伐が始まる。
かつて王宮の訓練場で模擬戦を繰り返していた彼らだったが、目の前にうごめく醜悪な魔物の姿や、鼻を突くような独特の獣臭、そして血生臭い現実を前に、男子たちの顔色が一瞬で青ざめた。
「っ……! くそっ、気持ち悪ぃ……!」
「落ち着け! 逃げたら殺されるぞ!」
恐怖と緊張に足がすくむ中、それでも生き残るために武器を振るう。
光輝はかつての空虚な「正義の仮面」に逃げることなく、泥臭く誰かを守るための剣を強く握りしめ、初めて自分の手で魔物の命を奪ったその重さと恐怖に必死に立ち向かっていた。恵理もまた、自分の心と向き合えるようになったとはいえ、初めて浴びた返り血の生々しさに顔をしかめつつ、鈴と背中を預け合って必死に呪文を紡いで応戦している。
そのすぐ近くの戦線では、清水が無愛想な表情のまま、奥歯を噛み締めて冷や汗をにじませていた。
(……っ、マジかよ……。ゲームのグロ画面とかとはワケが違う……この生温かい血の匂いと獣臭、冗談抜きで胃の中のものが出そうだ……っ)
極限の嫌悪感と恐怖を、持ち前の冷めた思考で必死に押し殺しながら、清水は双眸を禍々しい紅色に染め上げるスキル――〈魔眼〉を起動する。
「……しょうがねぇ。使いたくねぇけどまとめて足止めするか」
清水は魔眼の無詠唱の魔力制御によって上級闇魔法――〈黒泥〉を瞬時に発動する。
突進してきたゴブリンたちの足元を、底なしの漆黒の沼が突如として絡め取り、身動きを完全に封じ込めた。
しかしその代償として、清水自身の視界も一瞬にして真っ赤に染まり、「っ…!痛ってぇ!、やっぱり反動がキツ過ぎだろ…」と目を押さえて片膝をつきかけた。
「っと危なっ! ……ちょい清水、 目隠しして突っ立ってないでしゃきっとしなよー!」
以前のステータス確認でそのリスクを把握していたハジメがすかさず駆け寄り、清水の足元を軽く地面を隆起させて敵の死角を作る。
「……ああ、助かった。視界が戻るまで援護頼む」
「はいはい、どーいたしましてー。にしても、その魔眼ってやっぱ連発はキツいわけ? ここぞって時じゃないと使い物なんないじゃん」
「……当たり前だ。反動で一時的に視界が死ぬスキルなんて、雑魚相手に乱用できるかよ。連続で使ったり上級魔法一発でも使えば網膜が焼き切れるような負担が残るし、実戦ではここぞという時の切り札以外に使い道はねぇよ…」
不機嫌そうに吐き捨てながらも、見えない目で手探りする清水をハジメがさりげなく庇い、周囲の仲間たちも必死に魔物と渡り合っていく。
その少し後方では、天職「治癒師」の聖女として覚醒した白崎香織が、青ざめた顔で負傷したクラスメイトの元へと駆け寄っていた。
「っ、しっかりして……! 《ヒール》!」
香織の両手から放たれた清らかな光が、ゴブリンに切り裂かれたクラスメイトの腕の傷をみるみるうちに塞いでいく。
表向きはいつもの可憐で優しいクラスのアイドルとして、負傷者をテキパキと手際よく癒やし、怯えるクラスメイトたちを凛とした声で励まし続ける香織。けれど、その聖女のような美しい微笑みの裏で、彼女の琥珀色の瞳は常に前線で無茶な立ち回りをするハジメの姿を鋭く捉えて離さなかった。
(――ハジメちゃん、無理しないで……っ。みんなを護ろうってそんなに身を削って……っ。もう、私を頼ってよ、もっと私に甘えてよ……)
胸の奥底でハジメへの狂おしい愛と、彼女が傷つくことへの耐えられない焦燥がマグマのように渦巻くのを必死に抑え込みながら、香織は聖女の仮面を完璧に保ち続ける。
その一方で、当のハジメは後方で安全に高見の見物をしているような真似はしなかった。
仲間たちが初めての魔物討伐で傷つくのを嫌うように、ハジメは自ら進んで前線に立ち、培ってきた卓越した身体感覚と空間把握、そして瞬時の機転を駆使して立ち回っていた。
生々しい血の臭いや初めて直面する殺し合いの現実に、その表情はわずかに引きつり、足元も普段のマイペースさとは違う硬さが窺えた。それでもハジメはそれを表情や言葉に出さないように強がりながら、危険を顧みずに前線へと身を投じていく。
「っと危なっ! ……はいそこ、足元注意ねー!」
ガァァッと襲いかかってきたオーク級の魔物の足元を、ハジメが軽く地面を蹴り飛ばすだけで瞬間的に隆起させ、バランスを完全に崩させる。突っ込んできた別の魔物の足場をズズッと崩して転ばせれば、すかさず清水が闇の魔法を浴びせかけ、遠藤がそこに鋭く斬り込む。
さらに、戦闘の最中に荒っぽく使われて刃こぼれした仲間たちの武器が悲鳴を上げると、ハジメはサッと駆け寄り、柄や刀身に軽く触れるだけで一瞬にして再構築・修復してみせる。
「あーしが前で支えるから、アンタらは思いっきり暴れてきなよ! ほら、そこ右ガラ空きだし気をつけてよー!」
必死に恐怖を押し隠すように軽口を叩き、仲間たちを傷つけさせまいと誰よりも前線で身を張ってサポートするハジメの姿は、恐怖に染まりかけていたクラスメイトたちの緊張を不思議と和らげていた。
その中で、誰よりも異様な気迫を放っていたのが、八重樫雫だった。
――ズパァンッ!!
一閃。
凄まじい軌跡を描いた雫の剣の切っ先が、中級魔物の硬い外皮を紙細工のように両断する。
誰よりも先頭に立ち、完璧に、一分の隙もなく魔物を屠っていくその姿は、周囲の騎士団員をも唸らせるほどの美しさと圧倒的な強さを誇っていた。
けれど、その完璧な太刀筋の裏で、雫の心は音を立ててすり減っていた。
(……怖い、気持ち悪い……こんな化け物の命を、私が……っ)
実際に自分の手で命を刈り取る感触。生温かい血の匂い。
「八重樫家の跡取りとして、弱音を吐かずに人を守るための刃を振わなければならない」という重圧が、日を追うごとに彼女の精神を限界まで締め上げていた。誰にも弱音を吐けない。弱みを見せれば、自分が自分フでなくなってしまう。
(私は八重樫家の跡取りとして……こんなことで怯えてはならないの……っ!)
恐怖で震えそうな足を必死に気力だけで立たせ、雫は誰にも気づかれないように、その内側の絶望をただひたすらに押し隠し続けた。
そして、その日の夜。
王宮の一角に設けられた錬成師のための工房。
ほとんどのクラスメイトが疲労困憊で眠りにつく中、ハジメは一人、ランタンの灯りの下で静かに作業を続けていた。
手元にあるのは、日中の戦闘やメンテナンスの合間に預かったクラスメイトたちの武器たちだ。その中の一つ――昼間、雫が使っていた愛用の剣をふと手に取り、ハジメは小さく息をついた。正式になんて呼ぶのかは知らないが、いつも雫が肌身離さず持っているその剣を見つめながら、ふと以前、みんなに特製のブレスレットを配ったり武器の微調整をしてやったときのことを思い出す。
(そういえばあのときも、雫の手……めっちゃボロボロだったっけ。自分の手に全然合ってない剣を無理やり握りしめ続けたせいで、あちこち痛々しい血豆がつぶれててさ……。あんなののまま戦ってたら絶対すぐ限界くるし、だいたいあの剣、どう見ても雫の手に馴染んでなくね?)
じっとその剣のグリップを見つめ、ハジメはふっと首を横に振った。
「やっぱこの武器、雫の手に全然合ってないよなぁ……。もっとこう、すんなり手に馴染んで、使いやすいやつがあった方が絶対ラクだしさ」
そして、頭の中にふと、以前雫がチラリと見せていた刀剣への興味や、彼女の隠れた好みを思い描く。
「……よし、やっぱ雫にはアレの方がいいっしょ!」
そう決まると、ハジメは専用の工具と錬成の光を微かに走らせて、徹夜で雫のための「特製の武器」を錬成で作り始めた。
柄の握りやすさを限界まで追求しつつ、ツバや納刀部に上品で可愛らしいピンクの意匠をあしらった、最高にイケてる特製の刀を仕上げていく。
「よし、これなら絶対気に入るっしょ! ……って、もうこんな時間じゃん」
あくびをかみ殺しながら、ハジメは完成した特製の刀を丁寧に抱え、作業を終えた。
そして迎えた翌日。
王宮の訓練場には、数日後に迫ったオルクス大迷宮への遠征に備え、訓練を続けるクラスメイトたちが再び集まっていた。
王宮の騎士団員たちに手伝ってもらい、訓練場の端にずらりと並べられたメンテナンス済みの武器の山から、ハジメはクラスメイトたちにそれぞれの武器を返却していく。
「おっ、マジか南雲! すげぇ、めちゃくちゃ手に馴染むぞ!」「助かるわー、これなら迷宮も安心だな」と、男子たちや遠藤、清水たちが次々に声を弾ませる。
その中にあって、ハジメはふと手を止め、手元の木箱の端から丁寧に一本の特製の刀を取り出した。
(徹夜で一から打ち上げた特製の刀、これなら絶対使いやすいし、ちょっとしたアクセントのピンクも超イケてて似合うっしょ! 雫もこれ持てば、昨日みたいなピリピリした緊張感も少しは和らぐって!)
周囲のクラスメイトたちがワイワイと武器を確かめ合う中、ハジメは特製の刀を片手に、少し離れた場所で一人息を整えていた雫の元へとトコトコと歩み寄っていった。
「お疲れー、雫! いやさ、昨日みんなの武器直してて思ったんだけどさ、雫の使ってる剣、自分の手に全然合ってなくて痛そうだったじゃん? だから雫に新しい武器があった方が絶対ラクかなって思って、これ一から作ってきたわけ。そしたらさ、せっかくだしちょっとアレンジ加えて、めっちゃ可愛くて使いやすい仕様にしといたんだよね! どーよ、これ?」
ハジメがニコニコと笑顔を浮かべ、周囲のクラスメイトたちも注目する中、その特製の刀を差し出した。
差し出された刀を見た瞬間。
雫の視線が、その上品で、しかし残酷なまでに「日常の乙女心」を体現したピンクの意匠に釘付けになった。
周りのクラスメイトたちからも「お,なんだそれ? ピンクじゃん」「すげぇ可愛くね?」と軽い囃し立てるような声が上がる。
命を奪う恐怖、誰にも吐き出せない重圧、完璧であらねばならない呪縛。それらすべてを押し殺してここまで耐えてきた雫の脳内で、何かがプツリと音を立ててブチギレた。
(……みんなの前で、こんな……!)
「……は?」
掠れた、けれど底冷えするような声が漏れる。
「ふざけないでよ、ハジメ……っ!」
「え……?」
ハジメはあまりの剣幕と、周囲の視線にポカンと目を丸くした。
「い、いや、ふざけてるわけじゃないって……。雫、昨日もずっと緊張してたっぽかったし、手に合わない武器で無理してボロボロになってるの知ってたから、少しでもラクに――」
「うるさい! そんなこと聞いてないわよ!!」
ガキンッ、と雫が持っていた模擬剣を地面に激しく叩きつける。
その両目は血走り、あふれ出そうな涙を必死にこらえながら、彼女は全身を激しく震わせていた。訓練場の空気が一瞬で凍りつき、クラスメイトたちのざわめきがピタリと止まる。
「私たちは明日、生きて帰れるか分からない、そんな死と隣り合わせの場所に行くのよ!? なのにアンタは……みんなの前でこんな、お遊戯みたいな、女の子ぶったおもちゃで私をからかって……!」
「おもちゃって……! あーしだって本気で雫のために――」
「謝らないでよ!! 悪気がないなら何してもいいと思ってるの!?」
雫の堰を切ったような絶叫が、訓練場の静寂を切り裂いた。
その瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。
「……っ、アンタはいいわよね!! こっちに来ても自分の好きなことができて……! 周囲にチヤホヤされて、自分のやりたい服飾のセンスで好き勝手に生きられてさ……っ!!」
「ちょっ、まっ……」
「私はね……! 家族の期待を背負って、八重樫の跡取りとして、弱音ひとつ吐かずにすべてを斬り捨てる覚悟でここまで生きてきたのよ……っ! なんでアンタは、そんな風に無自覚に、私の聖域に土足で踏み込んでくるのよ……っ!!」
圧倒的な熱量と、ドロドロに淀んだコンプレックスの吐露。
訓練場にいる全員が、目の前で崩れ落ちるように泣き叫ぶ雫の姿に、完全に言葉を失っていた。
(え……? あーし、そんな怒られるようなことした……? みんなの前でそんな言い方しなくてもいいじゃん……)
悪気なんて1ミリもない。ただ、大切な親友の一人として、少しでも力になりたかっただけだ。
それなのに、こんな大勢の前でここまで言われる筋合いはない。自分がどれほど真剣に、夜通しでそれを作ったと思っているのか。
善意を踏みにじられ、理不尽に嫉妬をぶつけられた怒りと戸惑いが、ハジメの中でカチリと音を立てて沸騰した。
「はぁ!? 意味わかんないんだけど!!」
ハジメの声が、普段のマイペースなテンポから一段と鋭く跳ね上がる。
「あーしだって好き勝手遊んでるわけじゃないし! みんなや雫が少しでも動きやすいようにって、徹夜で本気で作ったんだけど!? なにその言い草、めっちゃ理不尽だしだるいんだけど!」
「なにが、だるい、よ……っ」
「もう知らん! 勝手にすればいいじゃん!」
プンプンと激しく怒りをあらわにしたハジメは、突き出された特製のピンクの刀を乱暴に自分のリュックに押し込み、その場から背中を向けて大股で歩き去っていった。
「っ……あ……」
取り残された訓練場で、雫は膝から崩れ落ちるようにその場にしゃがみ込んだ。
訓練場の隅、クラスメイトたちのざわめきから少し離れた場所。
そこには、その一部始終を見つめていた光輝の姿があった。
かつての光輝であれば、二人の間に割って入り、無理にでも仲裁しようとしたはずだ。けれど、ハジメが持つ真摯な優しさの重みと、雫が抱えている「八重樫の呪縛と限界」の双方を少しずつ理解し始めていた今の光輝には、安易に踏み込む資格などないことが分かっていた。
光輝は唇を噛み締め、悔しそうに拳を固く握りしめたまま、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。
そして、その少し離れた場所から、もう一人の少女が静かに歩み寄ってくる。
香織だ。
香織は走り去っていく雫の後ろ姿を冷ややかな、けれどどこか哀れむような瞳で見送り、それからぷんぷん怒りながら自分の工房に戻っていくハジメの後をそっと追った。
工房の隅で、ピンクの刀を乱暴にリュックに突っ込んで不貞腐れているハジメの肩に、香織はそっと優しく手を置いた。
(――あのときから。あの路地裏で必死に誰かを守ろうとしていたハジメちゃんの優しさも、八重樫の重圧に押し潰されそうになりながら必死に立ってきた雫ちゃんの苦悩も、私は一番近くで見てきたから……。どちらの気持ちも痛いほど分かるよ。だからこそ、こんなにも切ない……)
どちらの主張も痛いほど理解できるからこそ胸を痛めつつ、傷ついた親友二人を包み込むような切ない慈愛を抱いて、香織は愛おしげに微笑んだ。
「……ハジメちゃん。私にはわかるよ。ハジメちゃんが、どれだけ雫ちゃんのこと考えて、夜通しであれを作ったか」
「……っ、別にいいし! あいつがあんな言い方するから悪いんだし! もうあんな奴の面倒なんて絶対見てやんない!」
拗ねたようにぷいと顔をそむけるハジメの横顔は、いつもの余裕たっぷりなギャルとは違う、傷ついた等身大の女の子のものだった。香織は愛おしそうに目を細め、その背中をそっと包み込むように撫でた。
(……雫ちゃん。もっと素直になればいいのに。でも、その『八重樫』の殻を破れるのは、他の誰でもない、雫ちゃん自身だけだよ)
外では、冷たい夜風が吹き抜けていた。
互いの真心と、逃れられない呪縛が激しく衝突したこの小さな亀裂は、何の解決も癒やしも見出されないまま、数日間の準備期間を経て、いよいよ「オルクス大迷宮への突入」という最悪の舞台へと、彼女たちを容赦なく引きずり出していくのだった。