澄み渡る早朝の冷気が、王宮の門前を重く包み込んでいた。
王宮の巨大な石造りの門前には、大迷宮攻略の拠点となる宿場町ホルアドへ向けて、王国騎士団の面々とクラスメイトたちを乗せる大型の馬車が整然と並べられていた。
出発の刻を前に、見送りとして姿を現したのは、王女リリアーナと弟のランデル王子、そして王宮の重鎮たちだった。さらにその傍らには、生徒たちを引率する担任の畑山愛子も、ぐっと引き締まった表情でしっかりと並んで立っていた。
愛子の左手首には、ハジメがクラスメイト達に配った後でこっそり手渡された、小さな「四葉のクローバー」のチャームが揺れる特製ブレスレットが嵌められていた。生徒たちを温かく見守る担任としての慈愛と、不器用ながらもハジメが込めてくれたささやかな優しさが、朝の光の中でひそやかに輝いている。
「勇者様、そして異世界の皆様。どうかご無事で……王国と人々の希望のために、お気をつけて行ってまいらしてくださいませ」
リリアーナが胸の前で手を組み、切実な祈りを込めて頭を下げる。その首元にはハジメが仕立てた美しいネックレスが、手首にはあのブレスレットが朝日に反射して上品な輝きを放っていた。
「……はい。王国と、ここにいる仲間たちを護るために、行ってきます。気負いすぎず、自分たちのやるべきことを果たしてきます」
光輝は凛とした佇まいで静かに、けれどブレない眼差しでリリアーナに応えた。
「皆さん……本当に気をつけて下さいね。無理は絶対しないこと、約束ですよ!」
愛子もまた、小さな身体を精一杯まっすぐに伸ばし、泣き出しそうなのを必死にこらえながら力強く声を絞り出した。その瞳には、教師として生徒たちを絶対に守り抜くという強い決意が宿っていた。
「はい、畑山先生。俺たち、みんなでちゃんと生きて帰ってきますから」
光輝は愛子に向き直り、教師としての彼女の不安を受け止めるように、力強く真っ直ぐな言葉を返した。かつての空虚な「ヒーロー像」に逃げるのではない、己の未熟さと向き合った者だけの静かな覚悟。リリアーナや愛子もまた、光輝の瞳に宿る確かな変化を感じ取り、胸を撫で下ろすように微笑んだ。
「私も、聖女として……怪我人が一人も出ないよう、全力を尽くします」
香織も可憐に頭を下げ、旅立ちの挨拶を交わしていく。
そんな王族たちの挨拶の輪から少し離れた場所で、リュックのチャックを隙間なく固く閉ざしたハジメが、ぽつんと立っていた。
昨日、徹夜で打ち上げたピンクの特製の刀を全否定され、激しい大喧嘩の末にすれ違ってしまったショック。いつもの圧倒的なオーラはどこか影を潜め、背中に漂う雰囲気は明らかに少し元気がない。
けれど、ハジメは周囲に自分の弱音や凹んだ姿を晒すのを嫌うように、意識していつものギャルノリの仮面を取り繕うと、トコトコとランデル王子の方へと歩み寄っていった。
「おー、王子様! ネックレス、ちゃんと着けてんじゃん〜w 似合ってるし、あーしらが留守の間、息抜きしながら留守番してなよ〜☆」
ハジメがニヒヒと悪戯っぽく笑いながら、ランデルの肩をポンと軽く小突く。
ランデルの首元、王族の衣服の襟元からは、昨日ハジメから手渡されたあの銀色のひし形ネックレスがこっそりと覗いていた。
「っ……ふ、ふん! 誰がお前の作ったものなど……っ! 余はただ、王宮の品格を損なわないよう配慮して身につけているだけだ! 勘違いするな不敬者!」
ツンツンと真っ赤な顔で言い返すランデルだったが、ハジメの瞳の奥にある強がりや、どこか傷ついたような寂しげなオーラを鋭く察していた。本当ならいつものように減らず口を叩き返してやりたいのに、目の前のギャルがあまりにも痛々しく空元気を取り繕っているため、ランデルはそれ以上強く言い募ることができなかった。
「こらハジメ! 出発前に王子をからかうなとあれほど言ったろうが!」
そこへ、豪快な足音とともにメルド団長が割り込んできた。メルドはハジメの頭をガシガシと軽く乱暴に撫で回すと、すぐさま振り返って集まった隊員とクラスメイトたちへ向けて腹の底からの大声を張り上げた。
「よし諸君! 泣いても笑っても、ここからが本番だ! オルクス大迷宮攻略隊、出発するぞぉ!!」
「「「おーっ!!」」」
騎士たちの気勢が上がる中、クラスメイトたちは促されるままに大型馬車へと乗り込んでいった。
◇
ガタゴトと重い車輪の音が響く大型馬車の中は、息が詰まるほどの重苦しい静寂に支配されていた。
馬車内の左側、後ろ寄りの座席。
ハジメは頬杖をつき、肘を窓枠に乗せたまま、無言で外の流れる風景をぼんやりと眺めていた。いつもの軽快なバカ騒ぎも、クラスメイトたちをからかう軽口も一切ない。耳元のピアスを揺らしながら無口に外を見つめるその横顔は、どこか傷ついた等身大の女の子のアンニュイな空気を纏っていた。
そんなハジメの様子を、少し離れた席から心配そうに見守っている面々がいた。香織、鈴、恵理、清水、そして遠藤の5人だ。
「……ナグモン、昨日の今日でマジで凹んでんじゃん。……こんな静かなナグモン見るの、鈴初めてかも……」
鈴が声を極限までひそめ、気まずそうに顔をしかめる。
「あいつが夜通しで特注品打って、目の前で全否定されたんだ。察してやれ……。今のあいつに下手な声かけるのも、逆に気使うわ」
清水が腕を組み、冷めたような口調の裏にハジメを気遣う優しさを滲ませて呟く。
「……南雲が喋らないだけで、この馬車の中の空気重すぎて胃に穴あきそうなんだけど……」
遠藤が青い顔で胃を押さえ、恵理が眼鏡のフレームをそっと指で押し上げながら小さく息を吐いた。
「お互いの真心と、譲れない呪縛がぶつかっちゃったからね……。ハジメの不器用な優しさも、雫の抱えてる限界も、どっちも間違ってないからこそ余計に切ないよ……」
「ハジメちゃん……」
香織は、窓の外を見つめたまま動かないハジメのすぐ隣にそっと寄り添い、何も言わずにただ静かにその温度を感じ取るように横に居続けた。
一方——馬車内の右側、前寄りの座席。
そこには、膝の上に自身の愛用の剣(木箱)を固く抱え込み、深くうつむいている八重樫雫の姿があった。
昨日、訓練場で大勢の前でドロドロとしたコンプレックスと嫉妬を爆発させて崩れ落ちた自己嫌悪。ハジメの善意を踏みにじってしまった罪悪感と、「八重樫の跡取り」として完璧であらねばならないという極限のプレッシャー。それらに押し潰された雫は、完全に自らの心を閉ざし、膝の上の木箱を爪が白くなるほど強く握りしめていた。
そんな雫の様子を、幼馴染である光輝と龍太郎が気遣わしげに見つめていた。
「……光輝。雫のやつ、完全に参ってるぞ……。昨日の今日だし、なんか声かけてやった方がいいんじゃねぇか……?」
龍太郎が我慢できなくなったように拳を握り、光輝の肩を突く。
しかし、光輝は固く唇を噛み締め、昨夜の訓練場で繰り広げられた二人の激しい衝突と、ハジメが胸に秘めていた真摯な優しさを思い返していた。
「……いや。今の俺たちに、彼女が背負っているものの深さや、昨夜の二人の領域に踏み込める言葉なんてないよ」
「なっ……光輝、見捨てるのかよ!?」
「そうじゃないよ」
光輝は低く、けれど揺らぎのない声で龍太郎の言葉を制した。
「南雲さんがどれほどの想いでアレを作ったのかも、雫がどんな呪縛に縛られて限界を迎えていたのかも……今の俺たちには軽々しく触れられない領域なんだ。下手に安易な慰めの言葉をかけるのは、ただの俺たちの自己満足だよ。今は……彼女自身が自分の足でその殻と向き合うのを、静かに見守るしかない」
光輝自身の成長ゆえの、安易に踏み込まない静観という選択。龍太郎は悔しそうに歯噛みしつつも、光輝の真剣な瞳に言葉を呑み込み、静かに下を向くのだった。
◇
夕刻。
遠征隊は大迷宮攻略の最大拠点となる「宿場町ホルアド」へと到着した。
活気あふれる冒険者や商人たちが行き交う町の賑わいとは対照的に、一行が割り当てられた宿屋の食堂には、終始重苦しい空気が立ち込めていた。わだかまりを残したままの夕食は会話も弾まず、誰もが手元の料理を泥のように咀嚼するばかりだった。
夕食を終えると、明日からの大迷宮突入に備えるという名目のもと、クラスメイトたちは逃げるようにそれぞれの割り当てられた部屋へと引き上げていった。
――そして、深夜。
静まり返った宿屋の一角で、ふと目が覚めたハジメは、ベッドからゆっくりと体を起こした。
昨日のショックや切なさ、そして明日からの大迷宮に対する漠然とした胸騒ぎから、どうしても寝つくことができない。
ハジメは右手に結んだ水色のシュシュを指先で愛おしそうに弄びながら、足音を殺して自室を抜け出し、宿泊客用の静かな共用テラスへと足を向けた。
ひんやりとした夜風が、金髪の毛先を静かに揺らす。
雲一つない夜空には、冷たい銀色の月がぽっかりと浮かび、ホルアドの町並みを静かに照らしていた。
「……ハジメちゃん、やっぱり起きてた」
背後から、衣擦れの音とともにそっと歩み寄ってくる気配があった。白崎香織だ。
香織はハジメを詰問することも、説教することもなく、ただ当たり前のようにハジメの隣へと並び、同じ冷たい月を見上げた。
しばらくの静寂の後。
ハジメは月を見上げたまま、ぽつりと、掠れた声を漏らした。
「雫の手さ……めっちゃボロボロだったんよ」
「……え?」
「自分の手に合わない剣を無理して握りしめてさ、血豆つぶれて痛そうにしててさ……。あんなの絶対やりづらいし、危ないじゃん。だからもっと手に馴染んで、少しでもラクに使いやすいやつをって思って、徹夜で作ったのに……」
ハジメの声には、理不尽にキレられたことへの怒りなど一微塵もなかった。
そこにあったのは、自分の純粋な思いが届かなかった切なさと、大切な親友の痛々しい姿を心配していたからことの、深いショックと悲しさだった。
ハジメは自嘲気味に小さく苦笑し、ぎゅっと両手を握りしめる。
「……でもさ。あーし、自分の都合ばっかで、雫がいっぱいいっぱいになってたトコ……全然見えてなかったかも。あの子があんな限界まで追い詰められてたのに、気遣ってあげられなくて……無神経に自分の『好き』を押しつけちゃったんかな……」
自分を責め、悲しそうに伏せられるハジメの瞳。
その弱々しい姿を見つめ、香織の手がそっと伸びた。香織はハジメの少し冷たくなった両手を、包み込むように優しく両手で抱きしめた。
「ううん。ハジメちゃんは昔から、ずーっと変わってないよ」
「香織……?」
「私ね、ハジメちゃんと初めて出会った日のこと……今でも鮮明に覚えてるの」
香織は琥珀色の瞳を愛おしそうに揺らし、あの日の記憶――あの路地裏でのコロッケ事件を語り始めた。
「あの時、ハジメちゃんはチンピラさんたちを相手に、すごく強そうに、格好よく威張ってみせてたでしょ? でもね……私、見てたんだよ。相手から隠すように背中に回したハジメちゃんの右手……痛いほど強く、震えていたのを」
ハッとハジメの身体が硬直する。
「自分がどれだけ怖くても、脚がすくみそうでも……見知らぬ誰かの痛みや困ってる姿を見捨てられなくて、必死に手を差し伸べてくれる。ハジメちゃんは昔からずっと、そういう優しさを持ち続けている人なの。だからね、ハジメちゃんの真心は、絶対に間違いなんかじゃないよ」
香織の一番隠したかった(強がっていた)弱さを優しく包み込む言葉。
ハジメはぽかんと目を丸くした後、気恥ずかしそうに頬を赤らめ、参ったというようにくすりと苦笑した。
「あー……それ、バレてたかーw マジであの時、脚ガクガクでビビり散らかしてたんだけどね……w やっぱ香織には、全部お見通しだったかーw」
「ふふっ、私を誰だと思ってるの?」
自分の隠していた弱さも、不器用な優しさも、丸ごと香織に受け止められたことで、ハジメの胸の奥で強張っていた緊張の氷が、すーっとあたたかく溶けていった。
ハジメは深く息を吐き出すと、晴れやかな笑顔で再び月を見上げた。
「……ん、ありがと香織。……この大迷宮の遠征が終わったらさ。ちゃんと雫と向き合って、仲直りしないとねー」
香織は、その前向きなハジメの言葉を柔らかく受け止めるように、ふわりと優しく微笑んだ。
「うん、そうだね……。ハジメちゃんなら、きっと雫ちゃんともすぐ仲直りできるよ。だって、二人はお互いを大切に思ってるんだから」
香織は心からそう願っていた。雫のことも大切な親友だと思っているし、不器用な二人がちゃんと分かり合える日を応援したいとも思っている。
けれど——その穏やかな微笑みの裏で、香織の胸の奥底にあるハジメへの想いは、優しさだけではない狂おしいほどの熱量を帯びていていた。
もしもこの残酷な世界が、あるいは運命や神様が、またハジメちゃんを傷つけようとするなら。ハジメちゃんからその笑顔を奪うものすべてを、私は絶対に許さない。
香織はそっとハジメの手を包み込み、そして、少しだけ声を落として囁いた。
「……だからね、ハジメちゃん。その約束の日まで、ううん、その先もずっと……私はあなたの傍にいるよ」
「え?」
ハジメが小首をかしげた瞬間、香織の手が、壊れるほどの強い力でハジメの手を握り返した。
「誓うよ、ハジメちゃん。髪の毛一本、指先ひとつ分だって、誰にもハジメちゃんを傷つけさせない。たとえこの世界の魔物や神様全員を敵に回しても……ハジメちゃんの痛みも傷も、全部私がもらい受けるから。だから安心して、私だけに命を預けてね」
琥珀色の瞳の奥に宿る、聖女の皮をかぶったあまりにも苛烈で狂おしいほどの愛と独占欲。
その圧倒的な重圧に、ハジメは圧倒されつつも、どこか深く救われたようにクスッと笑った。
「何それ、愛が重すぎw でも……頼りにしてるよ、聖女様☆」
「ふふっ、任せて☆」
月明かりの下、静かに固く結ばれた二人の深い絆と、「遠征が終わったら仲直りする」という前向きな約束。
冷たい月光が、テラスに寄り添う二人の影を優しく照らし出していた。