「グォオオオオオオオオオオオオオオンッ!!」
百年間、誰一人として足を踏み入れることすら許されなかった「65階層」。
その果てしない暗闇にかかる古びた大石橋の上で、神話の巨獣――ベヒモスが地鳴りのような咆哮を轟かせていた。
「っ……!? なんだよこれ……デカすぎんだろ……ッ!?」
「こんなの、勝てるわけないじゃん……っ!」
絶望的な威圧感と凶悪な殺意に気圧され、クラスメイトたちが悲鳴を上げて腰を抜かしかける。
――だが、絶望はそれだけにとどまらなかった。
ベヒモスが立ち塞がる前方とは対照的に、クラスメイトたちの背後――階層出口付近の古びた石床に、突如として赤黒い光を放つ魔法陣が凄まじい数で一斉に展開された。
「ひっ……!? 後ろ! 後ろからもなんか出てくるーーッ!?」
小さな無数の魔法陣から、骨格だけの体に錆びた剣を携えた魔物――「トラウムソルジャー」が溢れ出るように出現した。
空洞の眼窩からは魔法陣と同じ赤黒い光が煌々と輝き、目玉のようにギョロギョロと辺りを見回している。その数は既に百体近くに上り、なおも増え続けている。
メルド団長が冷や汗を流し、青ざめた顔で絞り出した。
「まさか……ベヒモスなのか……っ!? クソッ、前後に挟み撃ちだと……!?」
正面には頭部の角から不気味な炎を纏わせた10メートル級の巨獣、背後には死者たちの軍勢。
戦線の挟み撃ちという最悪の状況に、メルド団長が矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「アラン! 生徒達を率いてトラウムソルジャーを突破しろ! カイル、イヴァン、ベイル! 全力で障壁を張れ! ヤツを食い止めるぞ! 光輝、お前達は早く階段へ向かえ!」
「待って下さい、メルドさん! 俺達もやります! あの恐竜みたいなヤツが一番ヤバイでしょう! 俺達も……」
「馬鹿野郎! あれが本当にベヒモスなら、今のお前達では無理だ! ヤツは六十五階層の魔物。かつて、“最強”と言わしめた冒険者をして歯が立たなかった化け物だ! さっさと行け! 私はお前達を死なせるわけにはいかないんだ!」
メルド団長の鬼気迫る表情に一瞬怯むも、「ですが!皆さんを見捨ててなど行けない!」と光輝が踏み止まる。
どうにか撤退させようと言葉を続けようとした瞬間、ベヒモスが凄まじい咆哮を上げながら突進を開始した。このままでは撤退中の生徒達を全員轢殺してしまう。
そうはさせないと、ハイリヒ王国最高戦力が全力の多重障壁を展開する。
「「「全ての敵意と悪意を拒絶する、神の子らに絶対の守りを、ここは聖域なりて、神敵を通さず――〝聖絶〟!!」」」
紙に描かれた魔法陣と四節の詠唱、さらに三人同時発動による一回こっきり一分だけの防御。純白に輝く半球状の障壁が、猛進するベヒモスの突進を真正面から受け止めた!
衝突の瞬間、凄まじい衝撃波が走り、橋全体が大きく揺れる。撤退中の生徒達から悲鳴が上がり、転倒する者が相次いだ。
◇
一方、後方戦線。
トラウムソルジャーの群れを前に、クラスメイトたちはすっかりパニックに陥っていた。
その中で、園部優花が恐怖で足の感覚を失い、その場にガクッと尻もちをついてしまう。目の前に迫るソルジャーが冷酷に錆びた刃を振り下ろそうとしたその瞬間――。
「……っせぇな。チャチャ入れんなよ、雑魚が」
清水が冷徹に〈魔眼〉を起動し、下級闇魔法〈惑心〉を瞬時に重ねがけしてソルジャーの精神をハックした。操られたソルジャー同士が同士討ちを始め、群れの中心に大きな混乱が引き起こされる。
その混乱の隙を、気配を完全に絶っていた遠藤が見逃さなかった。影のようにスッと飛び出すと、混乱するトラウムソルジャーの急所を短剣で的確に一閃、瞬く間に連続撃破を決めてみせる。
「お前ホント気配ねぇな……敵どころか味方の俺でも見失うわ」
「ちゃんと認識しとけよ! ここにいるわ!!」
遠藤のキレのあるツッコミを受け止めつつ、清水はすぐさま動けずにいる園部の元へ駆け寄り、その手を力強く引っ張り起こした。
「おい、ぼさっとすんな! 死にてぇのか、しっかり立て園部!」
「あ……う、うんっ! ありがとう、清水……!」
園部を立たせた直後、混乱に乗じて安全を確保しようとしたハジメが、足元の石床に魔力を流し込み、錬成で巨大な岩壁を作ろうとした。
だがその瞬間――メリメリッ! ズズッ! と足元の石床に不気味な蜘蛛の巣状の亀裂が一気に走り始める。ここはただの地面ではなく、底なしの深淵にかかる古びた大石橋の上。無茶な錬成による構造の限界に地盤自体が悲鳴を上げたのだ。
「おい南雲! ここは普通の地上じゃねぇんだ、石橋の上で派手な錬成使ったら自滅すんぞ! 加減しろバカ!」
床の不穏な亀裂を目にした清水が、即座に激しい警告を飛ばす。
「やばっ……! 橋自体が耐えらんないってこれ……!」
焦ったハジメは瞬時に壁の出力を下げ、魔力を総動員して足元自体の強度を錬成で必死に補強した。
さらに、トラップを発動させてしまった張本人であり、恐怖で顔を真っ青にして縮こまっていた檜山たち「お調子者4人組」を見つけ、ハジメが鋭い声を浴びせかける。
「そこの4バカ! いつまでぼさっとしてんの! あんたらあーしらより体力も腕力もその辺上なんでしょ、さっさとこっち手伝いなよー!」
「「「うるせー! お前にだけはバカって言われたくねーよ!!」」」
声を裏返させながらツッコんだ檜山だったが、ハジメの容赦のない発破と煽りに、萎縮していた感情が意地と男子のプライドで一気に塗り替えられた。
「俺たちもあいつに負けてられっかー!!」
恐怖を怒りと対抗心で吹き飛ばした4人は、気勢を上げて武器を抜き、泥臭くトラウムソルジャーの迎撃へと加わっていった。
さらにハジメは、恐怖で腰を抜かし、後ろで縮こまっていた他のクラスメイトたちへも振り返り、ひらひらと手を振りながら大声を張り上げた。
「ちょっとみんなも手貸して! さすがにあーしらだけじゃ数多すぎてちょっとキツいって! ほら、ぼーっとしてないで手伝って手伝ってー!」
ハジメの相変わらず軽快でフランクな呼びかけが、パニックに陥っていたクラスメイトたちの緊張をふっとほぐす。
絶望的なパニックが、彼女のいつものノリによって「自分たちもやらなきゃ」という実践的な意識へと切り替わっていく。
「ったく、こんな状況でも相変わらずノリが軽いな南雲は……!」
「でも南雲さんたちだけに無理させるわけにはいかないぞ!」
「そうよ、私たちも手伝うわ! 後ろから魔法で援護する!」
「任せときなさいって! こっちの骨骨軍団は私たちが押し返すわよッ!」
「うおあああッ! 来るなら来いやぁ!!この骨野郎ども――ッ!!」
弱気になっていた男子生徒も女子生徒も次々と目を覚ましたように奮起し、魔法の呪文を急速詠唱し、震える手で武器を強く握り直して前衛の補佐やトラウムソルジャーの迎撃へ一斉に立ち上がっていく。後方戦線が一気に押し返すような一体感と熱気に包まれていった。
◇
前線では、ベヒモスの猛攻に対し、精鋭チームが死力を尽くして食い下がっていた。
「オラァァァッ!!」
坂上龍太郎が肉体強化術『金剛』を全開にし、骨が軋むほどの猛烈な衝撃に耐えながら、ベヒモスの前脚の叩きつけを正面から泥臭く受け止め、押し返す。
その横を、八重樫雫が疾風のごとき足さばきで駆け抜ける。
(私があの時、あの子の真心を踏みにじったのに……っ!)
昨夜の大喧嘩への激しい罪悪感と、「八重樫の跡取り」として弱音を吐けない重圧。二つの感情に押し潰されそうになりながらも極限の集中力を研ぎ澄まし、角が撒き散らす炎や爪の振り下ろしを紙一重で見切り、左手首の冷たい【無地】のブレスレットを揺らしながら、外皮の隙間へ鋭い一閃を撃ち込み続ける。
恵理が間髪入れずに足止めの呪術や弱体化魔法を連発して前線の負担を削り、香織が後方から寸分の狂いもなく回復魔法《ヒール》と耐性魔法を飛ばし続け、仲間たちの疲労や打傷を即座に癒やしていく。メルド団長も熟練の剣術で光輝たちの隙をカバーし、的確な指示を出しながら巨獣の猛攻を押し返していた。
巨獣が撒き散らす凄まじい威圧感に喉を乾かせ、一瞬足がすくみそうになった光輝は、ハッと背後の戦線へと視線を走らせた。
そこでは、ハジメを筆頭に、清水や遠藤、さらには檜山たちや恐怖に怯えていたはずのクラスメイト全員が、大声を張り上げて互いを鼓舞し合い、死に物狂いでトラウムソルジャーの軍勢に立ち向かっていた。自らの手で恐怖を振り払い、泥臭く泥を噛むように戦う仲間たちの姿。
(……南雲さんが、みんなを引っ張って戦っているんだ。誰も諦めてなんかいないんだ……ッ!)
視界に飛び込んできた仲間たちの泥臭い奮戦が、光輝の心にあった怯えを跡形もなく吹き飛ばした。胸の奥から激しい熱線のような衝動が湧き上がり、全身の血が昂っていく。
(曲がりなりにも勇者選ばれた俺が……ここで弱気になっていてどうする! みんなが命がけで戦っているんだ、俺だって……ッ!)
「みんなを護る……盾になるんだッ!」
恐怖に足がすくみそうになりながらも新たな覚悟を胸に抱いた天之河光輝が、『限界突破』を発動。聖剣に限界を超える圧倒的な光の魔力を収束させ、長文の全詠唱を唱え上げた。
「神意よ! 全ての邪悪を滅ぼし光をもたらしたまえ! 神の息吹よ! 全ての暗雲を吹き払い、この世を聖浄で満たしたまえ! 神の慈悲よ! この一撃を以て全ての罪科を許したまえ!――『神威』ッ!!」
眩い光の閃光がベヒモスの超硬度の外皮を穿ち、頭部の凶悪な角を一つ叩き折るほどの甚大なダメージを与える!
だが、神話級の巨獣を致命傷に至らせるには一歩及ばない。
「っ……はぁ……っ!」
技を撃ち切った光輝は、『神威』と『限界突破』の激しい反動、および過酷な魔力枯渇により、その場に膝をついて一時的に行動不能に陥った。角を折られ怒り狂ったベヒモスが、動けない光輝に向かって容赦ない殺意の追撃を振り下ろそうとする――絶体絶命の瞬間。
「『聖絶』――ッ!!」
谷口鈴が間髪入れずに結界術の呪文を大声で高速詠唱! 幾重にも重ねた光の結界『聖絶』を多重展開し、ベヒモスの致命的な一撃を真正面から遮断して全員を死力で守り抜いた。
◇
トラウムソルジャーの数の多さに、後方ではいよいよ埒が明かなくなってきた。清水が「もっと強力で広範囲を一掃できる技持ってる奴いねぇのかよ……」と額の汗を拭いながら不機嫌にぼやく。
遠藤が「無茶言うなよ! 天之河たちはあっちのバケモノの足止めで手一杯なんだからさ……! 俺の単体攻撃じゃ埒が明かないし!」と焦りを滲ませて返す。
その言葉を聞いたハジメは、背後を振り返って何かを決心した鋭い目つきに変わると、近くにいた清水に「ゴメン清水、これちょっと預かっといて」と、自分のつけている水色のシュシュをそっと手渡した。
「おい、待てよ南雲……っ! お前、まさか……!」
清水が焦って引き止めようとするのも聞かず、ハジメは光輝たちのいる前線へと走り出した。
前線では、光輝の『神威』すら耐え切ったベヒモスを前に、鈴の『聖絶』で辛うじて耐え凌ぐ膠着状態が続いていた。
メルド団長が「俺を置いて下がれ!」と殿を買って出ようとするが、膝をつく光輝は揺らぎない眼差しで告げる。
「――メルドさんを失うことの損失は計り知れません。もしあなたを失えばこの部隊はあっけなく瓦解する。それにあなたにはまだ生きてやるべき事があるはずです。自分が愛するこの国をこれからも守っていかないとダメでしょう!……『全員で生きて帰る』っていうのは、俺たち生徒だけじゃなくて、あなたたち騎士団のみなさん全員が入ってるんですから!」
メルドは光輝の確かな成長と強い信念に息を呑む。
にっちもさっちも行かない圧倒的な絶望感の中、光輝はふと脳裏に、あの金髪のギャルの顔を浮かべた。
(……南雲さんなら、こんな状況でどうするんだろう?)
どんな極限でも自分の軸をブレさせず、常識に囚われない機転でみんなを驚かせてきたハジメの存在。自分にはない彼女の圧倒的な強さと柔軟さを強く思い描いたその時――。
「光輝君――ッ!」
鈴の『聖絶』が張られた極限の空間の中へ、ハジメが息を切らせながら叫んで走り込んでた。
「何してるんだ南雲さん! ここは危険だから下がってくれ!」
「いやぁ~ちょっとあっちがやばい感じでさ、手伝ってあげてくんね?」
ハジメが息を切らせながら返すと、龍太郎が声を荒らげる。
「そうしてぇけど! こっちはある程度足止めできてるけどギリギリなんだよ! それにお前の錬成ならあっちはなんとかできんじゃねぇのか?」
ハジメは、石橋の上で派手な錬成を行うと地盤ごと自滅するデメリットを説明し、「そんなの関係ない、もっと一気にドカーンってやれる技持ってる奴が切り開くしかないんだって!」と主張する。
光輝はハジメの言うことに一理あると感じつつも、目の前にベヒモスが立ち塞がっている以上、あちらへ助けに向かうこと自体が難しいと深く悩む。
「確かに南雲さんの言う通りだ……! でも、このバケモノが目の前に立ちはだかっている状況じゃ、あっちの加勢に向かうこと自体が難しい……一体どうすれば……っ!」
再びメルド団長が殿を買って出ようとするが、ハジメが「あーしに考えあっからそれ聞いて納得してよ」と強引に制止し、作戦を提示した。
作戦はシンプルだった。 後方のトラウムソルジャーは光輝たちの強力な範囲攻撃魔法で一気に吹き飛ばして突破する。その間、ハジメが一人で残り、錬成でベヒモスの動きを固めて時間を稼ぐ。全員の脱出を確認したらハジメも拘束を解いて追いかける――というものだった。
だが、伝説の巨獣と「たった一人で対峙する」というあまりにも命がけの作戦内容に、言葉を聞き終えた全員から一斉に激しい反対と拒絶の声が上がった。
「南雲さん、正気か!? 一人でこんな化け物を相手にするなんて無茶だ!」 「バカ言ってんじゃねぇ! お前一人置いて逃げられるわけねぇだろ!」 「ナグモン、ダメだよ! 一人はダメ絶対!」 「ハジメ、無茶すぎるよ……! そんなの死にに行くようなものだよ!」 「愚か者め! 生徒一人を囮にして我々が退くなど、騎士の誇りが絶対に許さん!」
口々に上がる激しい制止と反対の声。その絶望的な制止を前に、ハジメは最初は「みんなが頑張ってんのに、あーしだけ何もしないのはダサいっしょ」と強がってみせるが、その手は目に見えて激しく震えていた。
ハジメは顔を深く伏せ、前髪でその表情を隠したまま、うつむいて拳を硬く握りしめた。そして、これまで誰の前でも決して見せたことのない、涙を堪えるような必死で切実な声を絞り出した。
「それにさ……っ! ここであーしが何もできなくて……みんなが死んじゃうなんて……そんなの……そんなの絶対に嫌だッ……!!」
普段のカラッとしたギャルノリも強がりもすべて剥ぎ取られた、等身大の女の子としてのあまりにも痛々しい本音。うつむいた顔の表情は誰にも見えなかったが、激しく震える声と指先が、彼女の内に秘めた圧倒的な恐怖と、それ以上に強い「みんなを失いたくない」という切実な願いを痛いほど物語っていた。
そのハジメの姿を目にし、声を聞いた香織は胸が引き裂かれそうになり、なりふり構わず引き止めようと息を呑むが、そこをぐっとこらえる。それが全員が生きて助かる唯一の方法であり、ハジメの揺るぎない決意だと察した香織は、周囲に向かって強い眼差しで訴えた。
「……ハジメちゃんの言う通りにしよう。ハジメちゃんを信じて、私たちは一刻も早くあっちを片付けよう!」
ハジメはうつむいたまま、香織のその言葉に力強く頷いた。
香織の言葉とハジメの強い頷きを目にし、光輝は息を呑んだまま、一拍立ち尽くした。
自分がみんなの盾となり、仲間を護らなければならないという責任感と、己の無力さへの激しい葛藤。だが、今まで一度も見せたことのないハジメの涙混じりの切実な叫びと、前髪の陰から伝わる一切の揺らぎがない覚悟を前に、ここで躊躇うことこそが彼女の意思を踏みにじることだと理解する。
光輝は血が出るほど強く唇を噛み締め、固く握りしめた拳を震わせながら、彼女の苦渋の決断を重く汲み取った。
「わかった…、南雲さん……絶対、絶対にすぐに戻ってくる! だから持ちこたえてくれ!」
「南雲……死ぬんじゃねぇぞ! 頼んだからな!」
「ナグモン、無理しちゃダメだからね! すぐ片付けて助けに来るから!」
「ハジメ、お願い……無事でいて。約束だからね!」
「ハジメ、死ぬことは許さん! 必ず生きて戻れよ!」
「……ちゃんと、帰ってきてね」
仲間たちが悔しさを押し殺して次々とハジメに言葉を投げかけ、背を向けて後方戦線へ走り出していく。香織もまた、溢れそうになる涙を必死にこらえ、後ろ髪を引かれる思いで振り返り、走り出そうとした――その瞬間。
「――香織‼」
背後から呼びかけられ、香織は弾かれたように足を止めて振り返った。
そこには、うつむいていた顔を上げ、前髪の陰から強張った、けれどどこか切ない笑みを浮かべたハジメの姿があった。
死の恐怖に震える体を必死で押し殺し、香織へ全てを託すように力強く告げる。
「皆の事……頼んだ!」
「っ……! うん、任せて……っ! 絶対、絶対にすぐ助けに来るからねッ!!」
胸を刺すような衝撃に呼吸を詰まらせながらも、香織は力強く言葉を返し、ハジメの覚悟を受け止めて後方へと駆け出していった。
仲間たちが次々とハジメに言葉を残して撤退を開始する中、八重樫雫だけがその場に立ち尽くしていた。
(私なんかが、声をかけていいはずがない……あんなに酷いことを言って、謝れてすらないのに……!)
後悔と不甲斐なさに苛まれ、左手首に巻かれた無地のブレスレットの冷たさが痛々しく胸を刺す。また自分はあの子に背中を預け、守られる側に逃げ込んでしまうのか。
「アンタも早く下がったら?香織たちの事手伝ってあげてよ」
ハジメは立ち塞がるベヒモスから一切目を逸らすことなく、前を見据えたまま、どこか素っ気なくそう言い放った。目の前で激しく逆巻く暴風と揺れる金髪の影に遮られ、その表情までは雫の位置からでは読み取ることができない。
(……っ、嫌だ……! 謝りたいのに……私、この前はあんな酷いこと言ったのに……っ!)
(また私は……あの子に背中を預けて、逃げ出すの……!?)
喉の奥でつかえた謝罪と、また守られる側に回ってしまう己の不甲斐なさ。激しい申し訳なさと情けなさに雫は深く深く唇を噛み締め、溢れそうになる大粒の涙を必死にこらえながら、震える足で背を向け、逃げるように走り去っていくことしかできなかった。
◇
雫たちが去った瞬間、鈴の『聖絶』の結界がパリンと音を立てて弾け飛んだ。
押し寄せる狂風と圧倒的な圧力が直接肌を打つ中、ハジメは胸に手を当て、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。そして、足元から込み上げる死の恐怖と震えを力任せに押さえつけるように、長く、深く、ひとつ息を吐き出した。
前髪を軽く払うと、その唇にいつもの強気で不敵な笑みを刻み込む。
「――さぁおいでよデカブツ、あーしが相手してやっからさ!!」
ハジメはたった一人、伝説の巨獣ベヒモスと正真正銘のタイマンで対峙していた。
威勢よく啖呵を切ってみせたものの、爪の風圧だけで皮膚が削れそうなほどの圧倒的なプレッシャーと死の恐怖に、全身から滝のように冷や汗が吹き出していた。酸素が足りず呼吸が激しく乱れ、膝がガクガクと震える。それでも軽快な体術と重心移動で、猛烈な突進や爪の振り下ろしを紙一重で回避し続ける。
「――っ、どこ見てんだしこのバカ……ッ! こっち……っ、こっち向けッ……!!」
必死に大声を張り上げて注意を引きつけ、ベヒモスが勢い余って地面に頭部を強く打ち付けた一瞬の隙を見逃さない。ハジメは冷や汗を流し、死の圧迫感に歯を喰いしばりながら、必死の形相でサッと足元に魔力を流し込んだ。
「お願い……ッ! 頼むからっ……おとなしく固まっててよッ……!!」
バンッ!と足を強く踏み鳴らし、錬成を発動。ベヒモスの頭部とぶっとい四肢を、足元の石床の素材をそのまま組み替えて急速に固め、一時的にその動きを完全に封じ込めた。
「グルアアアアアッ!?」
拘束されたベヒモスが激昂し、巨躯を狂ったように狂乱させる。固めた石がミシミシと嫌な音を立ててひび割れていく。
「……っ、嘘……!? 馬鹿力すぎるっしょ……っ! 固めたそばから割れてくるとかマジで勘弁しろし……ッ!!」
巨獣の圧倒的な怪力と抵抗に、ハジメは必死の形相で追加の錬成を両手で叩き込む。限界に近い魔力消費で視界がチカチカと明滅し、指先が痺れていく。だが、下手に広範囲の床を練り上げれば、橋全体の強度が保たずに仲間たちもろとも崩落してしまう。
「あーもうっ……! これ以上は橋が持たない……っ! 割れるなら……ッ、あーし側の足場だけにしてよ頼むからっ……!!」
ハジメは苦肉の策として、クラスメイトたちが退避した側の橋の強度をギリギリまで保護し、自分側の足場の構造だけを意図的に犠牲にしながら、ベヒモスを繋ぎ止めるための極限の密度の錬成を泥臭く継続した。
◇
一方、クラスメイトたちに合流した光輝が、聖剣を高く掲げて前に躍り出た。
「そこを退けぇぇぇーーッ!! 『天翔閃』――ッ!!」
眩い光の奔流が一直線に放たれ、トラウムソルジャーの群れをなぎ払い、広範囲の敵を一気に塵へと変えて消し去っていく!
「す、すげぇ……! 一気に吹き飛んだぞ!」「天之河が来てくれた! 行けるぞ、このまま一気に押し通せ!!」
後方戦線のクラスメイトたちの士気が一気に跳ね上がり、歓声が上がる。その光景に、清水がやれやれと額の汗を拭い、呆れたように吐き捨てた。
「……おせぇよ、天之河。待ちくたびれて目眩してきたわ」
「ホントだよ! こっち単体攻撃でちまちま削ってたんだからな!」
遠藤がキレのある声を張り上げると、光輝は息を荒らしながら苦笑いを浮かべた。
「すまない二人とも! でもここからは一気に行くぞ!」
雫は「一刻も早くあの子のところへ戻らなければ」という胸を刺すような焦燥感と罪悪感に突き動かされ、鬼神のごとき鋭い太刀筋で残ったトラウムソルジャーを次々と切り伏せていく。
(早く……! 早くここを片付けて、ハジメのもとへ戻らないと……っ!!)
「よしっ! こっちは一気に片付いたぞ!」
龍太郎の叫びを受け、光輝が聖剣を固く握り直し、振り返って全員へ力強く叫んだ。
「よし! 急いで南雲さんのところへ戻るぞ! みんな、助けるんだ——ッ!」
光輝や雫、前線でベヒモスと戦っていたメンバーが即座に向きを変え、ハジメの待つ前線へと全力で駆け戻ろうとした――まさにその瞬間。
駆け出そうとした香織と雫、そして光輝たちが、目の前の悲惨な光景に息を呑み、血の気が引いた顔でその足を凍りつかせた。
ハジメ側の橋の床面は、無数の致命的な亀裂にズタズタに引き裂かれ、完全なる崩落の危機に瀕していた。自分側の足場を限界まで削ってまで、全員を逃がすためにたった一人で耐え続けていたのだ。
「こっちはもう大丈夫だ! 戻ってきてくれ、走るんだ南雲さん――ッ!」
「ナグモン! 早く、早くこっちに来てぇーーっ!!」
「おいバカ! 何突っ立ってんだ、早く走れ南雲!!」
「南雲ーッ! こっちだ、走れぇーーッ!」
「ハジメ、走って……! お願いだから逃げてぇっ!!」
仲間たちの必死の声援を受け、ハジメはベヒモスを縛っていた錬成をパッと解除し、クラスメイトたちの待つ方角へと全力で走り出した。
「グルアアアアアッ――!!」
拘束を解かれたベヒモスが激怒の咆哮を轟かせ、背後から猛烈な足音を立ててハジメを追撃し始める!
しかし、度重なる極限の錬成による致命的な魔力消費と過度の疲労が祟り、ハジメにマインドダウンの症状が襲いかかる。足がまるで鉛のように重く、思うように前に進まない。背後からは死を運ぶ巨獣の吐息と地鳴りのような足音が迫る。
「くそっ、何やってんだ! 走れ、走れ南雲ぉぉっ!!」
龍太郎の叫びが響く中、走っている最中に目の前の石床が派手にひび割れ、ハジメはその段差に足を躓かせて盛大に転倒した。
その瞬間――!
ハジメを追いかけていたベヒモスの足元の石橋が、ハジメが意図的に構造を犠牲にしていた限界を超え、音を立てて豪快に完全崩壊した。
「グルオオオオオオオオンッ――!?」
巨躯を支える足場を失ったベヒモスは、断末魔の咆哮を轟かせながら、底なしの奈落へと落下していく。
そして、倒れ込んだハジメの目の前の床もまた、耐えがたい悲鳴を上げながら、音を立てて真っ二つに割れ始めた。
「南雲さん――ッ!」と叫ぶ光輝。思わず走り出すが、それよりも先に走り出して前に出る二つの影があった。
香織と雫だ。
駆け寄る香織と雫がなりふり構わず全力で腕を伸ばす。
「ハジメちゃん! 手を! 手を伸ばしてぇーっ!」
「ハジメーーッ!」
(嫌だ、嘘でしょ……! お願いだから届いて……っ! 手を伸ばして、ハジメーーッ!!)
しかし、香織と雫の指先が届くあと数センチのところで――ハジメの足元の足場が完全に消失した。
果てしない闇の底へ、身体が投げ出されていく瞬間。
ハジメは自分に向かって必死に腕を伸ばし、涙と悲痛な叫びを上げてくれるみんなに向かって、どこか困ったような、けれどすべてを受け入れたような優しい笑顔でふわりとはにかみ、音もなく、ただ口の動きだけで告げた。
――「ゴメン……」
その瞬間、完全に開いた奈落の暗闇へと、金髪のギャルは吸い込まれるように姿を消していった。