「ゴメン……」
最後の瞬間、金髪を揺らした少女の唇が描いた小さな文字。それが、底知れぬ奈落の闇へと吸い込まれて消えたハジメの、最後の言葉。
崩落した足場から上がる土煙と地鳴りの残響すらも暗闇へと呑み込まれ、あとに残されたのは冷たく決定的な「静寂」だった。
「……え?」
光輝は、ハジメに向かって伸ばした自身の右手を固めたまま、その場に立ち尽くしていた。
頭の中が真っ白になり、目の前で起きた現象を脳が処理しきれない。いつも自分たちの少し先を軽やかに歩き、常識をひっくり返してきたあのギャルが、暗闇の底へ消えた? 嘘だろ、そんなわけがない。すぐに下から足場を錬成して飛び出してくるに決まっている――そう思い込もうとするほどに、光輝の思考は完全に停止していた。
だが、その凍りついた思考を激しく揺り動かしたのは、すぐ隣から聞こえた衣擦れの音だった。
「あ……ハジメちゃん……待って……今、行くから……っ!」
琥珀色の瞳から完全に光を消失させた香織が、うわ言のように呟きながら、フラリと一歩、崩落しかかった断崖の縁へと足を進めていた。叫ぶでもなく、泣くでもなく、まるで吸い寄せられるように一切の躊躇なく奈落へ身を投げ出そうとしている。
「――ッ!? 香織……っ!?」
香織のその異常な姿を目にした瞬間、光輝は頭を殴られたような衝動とともにハッと正気に戻った。
「ダメだ、正気に戻れ香織ぃッ!!」
光輝はなりふり構わず飛び出し、崩落しかけた崖の縁で香織の華奢な腕を掴み取った。
そのまま引き戻そうとする。だが――光輝の手に、どうしても力が入らなかった。
(っ……あ……駄目だ、力が入らない……っ!!)
香織の身体から発せられる、ハジメを失った狂気ゆえの信じがたい膂力。しかしそれ以上に、光輝の全身を縛り付けていたのは、香織の「ハジメを追いたい」という切痛な衝動に対する、恐ろしいほどの共感だった。
ハジメを失った圧倒的な虚無。自分だって今すぐにでもあの暗闇へ飛び込んでハジメを探したいという絶望。香織の胸を裂く苦しみが痛いほど理解できてしまうからこそ、彼女を力任せに拒絶し、引き戻すための「正しさ」を指先に込められない。
「放してっ……! 放してよ光輝くんっ! ハジメちゃんが……あそこにハジメちゃんがいるのっ!!」
「くそっ……! 頼むから……止まってくれ香織……っ!!」
『絶対すぐに戻る』とハジメに固く約束したのに間に合わなかった無力感。ハジメを救えなかったうえに、香織の絶望に引きずられ、彼女すら止めきれそうにない己の不甲斐なさ。光輝は一滴の涙すら流せぬまま、ただ歯が砕け散るほど強く噛み締め、血の気が引いた顔で香織の腕にしがみつくことしかできなかった。
光輝が香織の暴走に押し負けそうになったその瞬間、清水幸利が静かに踏み出してきた。右手には、ハジメから託された水色のシュシュが固く握り締められている。
「……悪ぃな白崎。お前まで落としたら、あいつに顔向けできねぇんだわ」
清水は双眸に禍々しい〈魔眼〉の光を宿し、精神干渉の闇魔法を香織の脳裏へ直接流し込んだ。ハジメを追おうと暴れていた香織の瞳が一瞬大きく見開かれ、直後、糸が切れた人形のように全身の力が失われる。
「ッ……香織!?」
「……気絶させただけだ。連れてけ……天之河」
香織の身体を受け止めた光輝に、充血した目を押さえながら短く吐き捨てる清水。
その傍らで、鈴はペタリと床にへたり込んだまま、引きつった笑みを浮かべて闇の底を見つめていた。
「あは……なに、それ……。ナグモン、何やってんの……? 冗談キツいって……すぐ下から足裏でせり上がってくるんでしょ……? ねぇ……?」
現実を脳が完全に拒絶し、今にも下から「あーしだよ☆」と飛び出してくるのではないかと、虚ろな笑顔のまま穴を覗き込み続ける。
その隣で、恵理もまた、時間が止まったかのように固まっていた。
感情の抜け落ちた声で、ぽつりと呟く。
「……うそ。こんなの……うそだよ。ハジメがいなくなるわけないじゃん……。だって……私、やっと……ハジメと、みんなと……ちゃんと笑えるようになったのに……ねぇ……?」
『どっちの恵理も恵理でしょ』と笑い、二つの自分を受け入れるきっかけをくれた大切な存在。その突然の消失が理解できない。涙すら流せぬまま、恵理はすっぽりと現実感を失った瞳で空洞を眺めていた。
「南雲ぉぉッ……! 嘘だろ、頼むから冗談だと言ってくれよッ……!!」
現実の重さに耐えかねた遠藤だけが、声を限りに叫び、喉を枯らして必死に暗闇へ向かって手を伸ばしていた。
優花はその場にペタリと膝をつき、ぽっかりと空いた暗闇を、ただ口を開けたまま見つめていた。
同じギャルっぽい見た目をしながら、勝手に劣等感を抱いていた自分。そんな自分に対し、「去る者がいたら寂しい」とあの時ふっと切なく笑ってみせたハジメの言葉が脳裏をよぎる。
だが、それが「目の前で起きたハジメの消失」とどうしても結びつかない。
「……え? なに……これ……?」
涙すら出てこない。声も掠れてまともに出ない。自分がどこにいて、何を見せられているのかすら認識できないまま、ただ自分の足がガタガタと恐怖と困惑で震えていることだけが、現実離れして感じられていた。
周りのクラスメイトたちもまた、誰一人として動くことができずにいた。
「南雲が……?」「ウソだろ……さっきまで、あんなに普通に喋ってたじゃん……」「なにかの罠だろ? 幻覚か何かだと言ってくれよ……!」
いつも軽いノリで笑い、自分たちの使いにくい武器を直しては軽口を叩いていたあの少女の消失。クラスの誰もが、自分たちがどこにいて、何が起きたのかすら認識できないまま、幽鬼のように蒼白な顔で固まっていた。
一方で、雫は石床の上に崩れ落ちたまま、ただぽっかりと空いた奈落の闇を見つめていた。
左手首には、何の刻印も彫られていない【無地】のブレスレット。伸ばした指先があと数センチ届かなかったその手首を、微かに震わせている。
「あ……ぁ……」
声にならぬ息を漏らすだけの雫を、龍太郎が歯を噛み締めながら力任せに担ぎ上げた。
「 悪ぃ雫、担ぐぞ!」
幼馴染への最低限の声掛けとともに、龍太郎は無言で雫を強引に肩へ担ぎ上げた。
背後の暗闇を一度だけ鋭く睨みつけ、込み上げる悔しさを固い拳とともに握りつぶす。
(……チクショウがッ……!)
今は振り返る余裕すらない。ただ目の前の仲間を死なせないことだけに意識を塗りつぶし、前を向いて走り出した。
そんな惨劇の中心で、檜山は自分の両手を見つめたまま、魂が抜けたように立ち尽くしていた。
手柄を立てたい、みんなに頼られたいという、ただそれだけの軽率な功名心。それが引き金となり、ハジメを奈落へ追いやることになってしまった。
悪意なんて1ミリもなかった。ただ調子に乗っていただけだった。だが、その愚かさが招いた結果の重さに、頭の中が完全に真っ白になっていた。
「あ……俺……俺のせいで……っ」
責め立てられることよりも、自分が犯してしまった取り返しのつかない過ちの重さに、息の仕方すら忘れてただ呆然と呆立ち尽くす。お調子者の仲間たちもまた、誰一人として檜山を責める言葉を持たず、血の気が引いた顔でただ彼とともに立ち尽くしていた。
「――全員、撤退だぁぁぁッ!!」
メルド団長の血反吐を吐くような怒号が大空洞に響き渡る。
「足場がまだ崩れるぞ! 立ち止まるな、走れ! ハジメが命懸けで作った退路を無駄にするなッ!!」
「騎士団、生徒たちを挟み込め! 後方の警戒を怠るなッ!」
副団長のアランが剣を抜き、荒い声を張り上げて周囲の兵士に指示を飛ばす。
「立ち上がれ! 脚を動かせッ! 下を見るな、上を目指せッ!!」
メルドは己の胸を殴りつけ、悲痛な怒号で立ち尽くす生徒たちの尻を叩いた。気絶した香織を抱える光輝、雫を担ぐ龍太郎、シュシュを握りしめる清水、現実感を失ったままの鈴と恵理、叫び続ける遠藤、膝の震えが止まらない優花、そして呆然自失の檜山たちを、騎士たちが強引に庇い立てしながら先導する。
ハジメが命と魔力を削って残してくれた退路は、どこまでも深く、永遠に続くかのように上方へと伸びていた。
感覚では既に三十階以上は上っている。魔法による身体強化をしていても限界に近い疲労が襲い、先の戦闘でのダメージが身体を打ちのめす。
「止まるな! 休憩は上についてからだ! 意地でも脚を動かせッ!!」
メルドが先頭で刃を振るい、階段の途中に蠢く魔物を切り捨てながら、声を限りに鼓舞し続けた。騎士たちも泥を啜る思いで剣を握り直し、生徒たちの左右をガチガチに固めて前進を促す。
やがて、頭上に魔法陣の描かれた巨大な壁が立ちはだかった。
「……待て! 一度止まれ!」
メルドが手を掲げて隊を制し、即座にフェアスコープを取り出して壁を精密に調べる。
(……くそッ……! なぜ俺は、あの時……ッ!!)
フェアスコープのレンズ越しに壁の式を構造解析しながら、メルドの胸の奥でドロリとした激しい悔恨が暴れ回った。
あのグランツ鉱石の部屋。綺麗だと歓声を上げる生徒たち。和気あいあいとした和やかな空気に、自分自身も毒されていたのだ。職務として、団長として、真っ先にフェアスコープを取り出して周囲の罠を精査すべきだったのに、生徒たちの明るい雰囲気に呑まれ、慢心し、確認を怠った。
そのたった一度の不覚が、油断が、ハジメという未来ある少女を奈落へと追いやったのだ。
(騎士団長面をして……何が『己の不備は死に直結する』だッ! 命を落とさせたのは、油断したこの俺じゃないかッ……!!)
歯が砕け散るほど噛み締め、血の涙を流さんばかりの自己嫌悪に苛まれながらも、メルドは必死に感情を押し殺して魔力を流し込んだ。
「よし……トラップじゃない。回転扉の制御式だ!」
ゴゴゴ……と音を立て、巨大な石壁が忍者屋敷の仕掛け扉のようにクルリと回転する。
扉を潜った先に広がっていたのは――ほんの数時間前、グランツ鉱石の輝きに歓声が上がり、ハジメが「帰ってみんなにジュエリー作ったる☆」と弾けるような笑顔を見せていた、あの20階層の大広間だった。
「よし、転移門へ走れ! 急げッ!!」
メルドの指示のもと、ハジメの手で補修された石壁の痕跡が残る大広間を無言で通り抜け、一行は転移門へと飛び込んだ。
◇
光が収まり、辿り着いた地上――そこは、すっかり夜の帳が下りた宿場町ホルアドの正面ゲートだった。
暗闇の中に揺れるかがり火と、冷たい夜風。昼間のお祭り騒ぎのような喧騒は消え去り、遠くの酒場からかすかな酒客の歌声が漏れ聞こえる程度の静寂が広場を支配していた。
その重厚な石造りの門を潜り抜けた瞬間から、クラスメイトたちの口は完全に閉ざされた。
血と泥に汚れ、異様な殺気と絶望を纏って夜の正面ゲートへ姿を現した攻略隊の異変を察し、夜間警備にあたっていた受付の職員たちが慌てて駆け寄ってくる。
「メルド団長!? 一体何が……それに、他の生徒さんたちは――」
「……下がっていろ。これ以上の問いには答えられん」
メルドだけが血の滲むような険しい表情で前に進み出で、絞り出すような悲痛な声で最低限の報告手続きを淡々とこなした。
その背後で、クラスメイトたちは誰一人として一言も喋らなかった。
篝火の光に照らし出された彼らの顔は青白く、駆け寄る職員たちの声も届いていないかのように、問われても答えず、視線すら上げない。光輝も、龍太郎も、清水も、雫も、鈴も、恵理も、優花も、遠藤も、檜山たちも。全員が幽鬼のように佇み、ただ生きた屍のようにメルドの足跡を辿って歩くだけだった。冷たい夜の静けさが、彼らの徹底した沈黙を残酷なまでに浮き彫りにする。
宿屋へと向かう静まり返った石畳の道も、到着した宿屋の暗がりでも、一切の会話は存在しなかった。
誰一人として食堂で食事をとることもなく、廊下に足音すら立てず、各自が割り当てられた自室の暗がりへと逃げ込んでいった。
清水は自室のベッドの縁に腰かけ、ハジメから託された水色のシュシュをポケットの中で痛いほど握りしめたまま、微動だにせず暗闇を見つめ続けた。
鈴は壁際で小さく丸まり、虚ろな目のまま口を閉ざす。
恵理も、遠藤も、優花も、誰一人として明かりをつけようとはしなかった。どの部屋からも、一切の会話は聞こえてこない。
清水の強力な精神干渉を受けた香織は、結局夜が明けても目を覚ますことはなかった。青白い顔で深い眠りにつき続けている。そのベッドの傍らで、光輝が一言も喋らずにじっと香織を見守っていた。
そして雫もまた、自室の床に膝を抱えて座り込み、左手首のブレスレットを見つめていた。刻印のない冷たい金属に指先を触れさせたまま、瞬きひとつせず、ただ暗闇の一箇所に意識を縛り付けられていた。
誰かが部屋のドアを叩くことも、廊下で言葉が交わされることもない。重く冷たい静寂だけが、宿屋の夜を深く塗り潰していた。
翌朝、夜が明けてもその静寂が破られることはなかった。
眠り続ける香織を横たえ、一言の会話も、誰かを気遣う声すらもなく、ただ機械的な足取りで用意された大型馬車へと乗り込んでいく。
王都で待つ愛子やリリアーナ王女、そしてランデル王子のもとへ、「南雲ハジメ戦死」という絶望を運ぶために。
ただ車輪の軋む音と馬の足音だけを響かせ、重苦しい沈黙を乗せた馬車は、静かに王都へと向けて滑り出した。